お母さん
次に手、そして足。宗助を拘束しているもの全て解錠する。
「よしっ、これで全部っ?」
『リル、ブルームさんが部屋に来るっ! なんとか誤魔化してみるけど、ここからは少しの間、手助け出来ないッ! 気をつけて動くんだッ!』
「え、そ、そんなっ、レオン!」
返事が無くなった。
彼の手助けでここまで何事も無く来られたが、そこから、宗助を安全な場所に隔離するという一番重要な作業が残っている。そこで彼のサポートが途切れてしまったのだ。リルは狼狽した。
まずは宗助の今の状態を知るのが先決だと思い、彼の顔に自分の顔を寄せ、小声で話しかける。
「宗助、わたしだよ。助けに来たの、聞こえる?」
「………………、ル……ぅ……」
「そうだよ、リルだよ、今から逃げるのっ……! 立てる……?」
だが宗助は立つ事も難しそうで、僅かに手足を動かすのみ。
リルがふと宗助の首元をみると、きらきらと輝くネックレスが見えた。それは宗助の誕生日プレゼントとして岬と千咲から彼に渡されたものなのだが……ドッグタグに結び付けられたそれはこれでもかと眩い光を放ち存在を主張しているように見えた。リルは無意識にその輝く石に手を伸ばしていた。軽く触れて、そして指でつまむ。切羽詰まった状況にもかかわらず、その石に心を奪われていたその時。
『その石を、離さないで。リル』
突然女性の声が耳に届いた。リルははっと息を呑む。その声は、彼女が求めていた声。
「っ……、お母さん、お母さんなの……!? どこにっ……!?」
『リル、大きくなったね。でも、話はあとに。今は、その人、生方宗助さんを安全な場所へ避難させる、それが一番するべきこと』
「……、でも、わたしひとりじゃ運べない、宗助は歩けないし……。どうしよう……! 今誰かに見つかったら……!!」
リルは周囲をきょろきょろ見回し、それでも打開策など見つからず弱音を呟く。
『リル。入り口から向かって部屋の左奥、箱型の機械があるのがわかる?』
言われた場所を凝視すると、確かに言われた通りの、縦横それぞれ一メートル、高さ二十センチ程の薄い物体が部屋の隅に佇んでいた。
『それは古い型の資材運搬機なんだけど、手動でハンドル操作もできる筈。それに生方さんを乗せて移動して』
「……やってみるっ」
リルはその掃除機械に駆け寄り、スイッチらしきものに指を触れさせた。
*
レオンの目の前のモニターが、ブルームが部屋のすぐ手前まで到達していることを報せていた。レオンは両手の指を凄まじい速度で動かし真っ平らなキーボードを叩く。部屋の出入り口扉がすっと上へとスライドして、無言でブルームが入ってきた。
「監視映像を確認する。どけ」
ブルームは命令口調でそう言うと、レオンを机からどかせ自分が椅子に腰かける。そして何やらその端末を操作し、モニターに建物内の映像を八分割で表示させた。
「…………」
ブルームは無言のまま険しい表情でモニターに映し出された映像を確認している。その様子をレオンは少し離れた位置でじっと直立不動、無表情で見ているのだが……内心は、胃の中の物を全て吐き出しそうになるほど追いつめられていた。
レオンはブルームが部屋に入る直前その監視システムを改竄操作し、全ての監視映像が一時間前の物を映し出されるようにプログラムを一時的に書きかえたのだ。だから、今ブルームが見ている監視映像のどこにもリルは映ることはない。だが、もしそれが気付かれ、そして自分に疑いの鋒が向けられた時、どう対処すれば正解なのか、全く頭が回らずその恐怖に眩暈がした。言い訳の余地は何処にも残されていない。
「レオン」
唐突に名前を呼ばれ、レオンは出来る限り自然体を装って返事をする。
「……はい」
「監視映像は見ていたか?」
「いえ、他の作業を、していて……」
「……」
ブルームはそのままモニターを凝視する。
(早く、出て行って、お願いだ……!)
レオンは人生でこれまでに無いくらい頭の中で自分の運に祈った。細工に気づかずに出て行ってくれと。無意識に握りしめた掌の中にじんわりと汗がにじみ、胸の中に鉛でも詰め込められたように呼吸が難しい。
ブルームがどれだけ画面を切り替えても、やはりというか、当然リルは映らない。すると、ブルームは映像を切り替える事を止めた。
「カメラの、映らない場所か……」
「……」
「母親の所に、行ったのか。勘が冴える子だったからな」
ブルームは小声で呟いて立ち上がり、迷いの感じられない表情と足取りでレオンの部屋を出て行った。レオンはほっと安心したが、それもつかの間で、慌てて椅子に座り急いで監視カメラの状態を最新のものに直していく。
「リルっ、今、返事できる?」
『うん。レオン、お父さんは大丈夫だったの?』
「なんとかごまかせたけど、ブルームさんは何かわかったって感じで部屋を出て行った。何か、君の行動に心当たりがあるのかも。リルは今どこ?」
映像を最新のものに切り替えても、彼女の姿はなかなか捉えられなかった。レオンが尋ねる。
『わからないけど、お母さんの声が聞こえたの』
「声?」
『うん。今から宗助と一緒に、お母さんに会いに行く。お母さん、宗助の身体を治せるって!』
「ちょ……ちょっと何言ってるのか、わからない、じゃあそのお母さんはどの部屋に居るの?」
『わからない、けど……このまま進めば行けそう!』
「えぇ……」
リルとの、成り立っていそうで全く成り立っていない会話にレオンが困惑していると、『着いたみたい』という言葉が聞こえてきた。
「リル……? 大丈夫?」
レオンが名前を呼んでも、それから少しの間、リルからの返事は無かった。
*
リルは母親の声に導かれるままにとある部屋の前までたどり着いていた。扉を開くと中は暗く、ぼんやりと青い光がところどころに点灯しているくらいで後は何も見えなかった。リルは宗助を乗せたロボット掃除機をまるで手押し車のごとくカラカラと押して、恐る恐る部屋の中へ入る。宗助のネックレスの石をまるでお守りのように強く握った。
「お母さん、来たよ……?」
暗闇に向かって囁くように喋る。
『リル。驚かないで、その石を握っていて』
静寂の中、そんな母親の前置きがあって、そしてそれは続く。
『もう小さく五歩、そのまま前に来て』
「わかった。一……二、……三……四……五」
『手を、前に出して』
言われるままに手を出すと、指先が何かひんやりと冷たい滑らかな円柱に触れた。その瞬間目の前にぼんやりと優しい光が灯り、周囲の暗闇が僅かに晴れはじめた。
「……なに、これは……?」
そしてそれにより、リルが今触れた物の正体が判明した。
それは直径三メートルほどの円柱形の水槽で、床と天井を結んでおり、そしてその水槽の中には、彼女の母――アルセラ・クロムシルバーが、眠っているような穏やかな表情を浮かべながら、水の中でゆらゆらと浮かんでいた。
「おかあ、さん……?」
『リル。話は後で。今は生方さんを一刻も早く治さないと』
水槽の中の母親の口は全く動いていないのに、声だけが頭の中で響き、聞こえる。
『そこの、空の水槽の中に、生方さんを入れて』
「わ、わかった……!」
母親が入った水槽の横に、扉が開かれっぱなしの水槽がある。言われた通りに宗助を運び、目いっぱいの力で宗助を担ぎ上げて水槽に入れる。
「ふぅ、これでいいの?」
『うん。そうしたら、扉を閉めてロックをかけて、手元のパネルの右上の大きなスイッチを押して』
「うん」
リルが言われた通りのボタンを押すと、宗助を収容したそのカプセルは殆ど音もなく静かに起動し、その水槽の底部分から、さらさらと水が湧き始める。
「えっ、えっ……?」
このままでは宗助が溺れてしまうと焦りあたふたとしてしまう。輝く石がつけられたネックレスは宗助がつけたままで、母親の声はもう聞こえない。だが。
「……大丈夫、なんだよね。宗助は、これで助かるんだよね……?」
隣の水槽内での穏やかな母の表情を見て、どういう理屈で声が聴こえていたのかは全くわからないが、その母の言葉を信じて目の前の出来事を見守ろうと決心した。
「お願い、お母さん……」
わたしの大事な友達を助けてくださいと、祈りを捧げた。
*
黒。
という色なのか、無の結果が黒なのか。
宗助が目を開くと、辺り一面はとにかく真っ黒だった。自分が今、目を開いているのか閉じているのか、それすら分からなくなる程の黒に包まれた暗闇。何も見えない。手で周囲を探っても何も触れない。
「なんだ、ここは……俺は一体……」
夢か何かを見ているのだろうかと思いつつ、声を出して自分の存在を周囲に伝えようとした。
「誰かー、……っ!?」
辛うじて感じる地面を踏みしめている感覚に異常が生じる。間違いなく体がずるずると下方へ沈んでいる。地面に吸い込まれているのだ。
「……くっ」
本能的に、「このまま吸い込まれてはまずい」と感じてもがき抜け出そうとするが、アリジゴクの巣のように、動けば動くほど沈んでいく。膝まで浸かり、腰まで落ち込んで、そして胸の位置まで沈んだところで、とにかく何かに掴まりたくて必死に伸ばした手を、逆に誰かがそっと掴んだ。
「え?」
その瞬間、黒一面だった視界が一瞬で真っ白に染まる。宗助を飲み込もうとする暗闇はもう存在しなかった。突然の眩い白の世界に目を細めながら、自分の手を引いた人物を見る。輪郭がぼやけ、はっきりと確認することが出来ない。徐々に白に目が慣れて少しずつ見え始めたその姿は、ある人を宗助の心に思い起こさせた。
「……リ、ル……?」
「……」
「いや……あなたは……」
視覚がほぼ正常を取り戻し、その人物の顔の輪郭や目鼻立ちがはっきりと浮かび上がる。
そこには、まるでリルが順調に成長し、大人の女性になればこうなるのであろう、と宗助が想像したままの女性が現実のものとして立っていた。
「……あなたは、まさか」
「……はじめまして。私の名前は、アルセラ。アルセラ・クロムシルバー」
「ということ、は……」
「私は、あなた……いえ、あなた方の仇敵であるブルームの妻です」
あまりに理解不能な状況と唐突な邂逅に宗助は言葉を失った。二の句が告げずにいる宗助の手を握る手に力が込められる。
「こうしてお会いできる日を、ずっと、ずっとお待ちしていました。生方宗助さん」




