幻の侵入者 4
岬が居るとされる場所にたどり着いた瞬間、意味不明な事を言い出す岬に千咲は困惑していた。さらには彼女はすごい形相で突進してくるではないか。
「ちょっ、岬、何をっ!」
突然岬にタックルをかまされて、千咲は腹に若干の痛みを感じながら岬の頭を押しのけようとする。だが岬は千咲の予想以上の力で千咲を抑えこもうとしていて、なかなか彼女を剥がせない。
「あんた、まさか……」
先程から言動に一貫性が無く話も通じない彼女をみて、千咲はようやく彼女が深い幻に取り込まれてしまっている事を確信した。
どうやら自分は、岬に倒すべき敵だと思われていると。
だが岬自身は周囲の人間を傷つけたり殺したりする術を殆ど知らず、そもそも簡単な護身術しか教えられていない。タックルしてから次の攻撃へとなかなか移らないため、千咲は冷静になって彼女を優しく組み伏せて馬乗りになって両腕を抑えこみ、まっすぐ岬の目を見る。
その岬はというと、憎悪に満ちた視線を千咲にぶつけ、許さない、宗助を返せと口にする。
「……そんな、……そんな幻を、見せられているの……?」
千咲はそんな岬を見ている内に居たたまれなくなり、左手一本でじたばた抵抗する彼女の両腕を制しつつ、バックパックから『何か』を取り出し、それを握りしめたまま彼女の顔の目の前に拳を持ってくる。千咲が掌を開くと、ぽんっ、と音が鳴り岬の全身は一瞬固まり、そしてくたっと力が抜けてその場で気を失った。マシンヘッドの存在を秘密にする為に支給されている、数分間前からの記憶を改ざんする機械。
「これを、使いたくなかった……あんたにだけは……」
千咲は岬を安全な場所へ運ぼうと考え、状況を把握する為に無線で海嶋と連絡をとろうとした。するとその時、彼女の背後に位置する資料室の自動扉がガチャンと音を立てて一人でに開いた。
彼女の背後といっても距離は五メートルほど離れていたし、カードキーと人間の気配の二つが揃っていなければ勝手に開くことはない。千咲は岬を抱きかかえたまま器用に携帯電話のカメラをその扉に向ける。
「――っ!!」
液晶に映し出された扉の前には、マスクの男が狂った目つきでこちらを見ている姿があった。千咲の中で、恐怖と怒りが同時に最高潮に達する。少女時代のトラウマを呼び起こすその存在と、復讐を果たすべき仇敵としてのその存在と……。せめぎあったそれらは、数秒で全て怒りに染め上げられる。
怒りが頂点に達すると言葉が何も出てこなくなるのだと、千咲はこの時初めて知った。マスクの男はそんな千咲の心の内を知ってか知らずか彼女を数秒じっと見つめてから、また彼女に背を向けて資料室の中へと消えて行った。
のどからせり上がってきそうな程の黒く熱い感情をなんとか飲みほして、千咲はちらりと傍で目を瞑り横たわる岬を見る。
「……岬は、そこで寝ていて。あんたが手を汚す必要はない。何も見ないでいい。結果だけ、そっと静かに知ればいいから」
千咲は適当な紐を携帯電話のストラップ穴に通し、カメラを起動したままのそれを首にかける。そして床に置いていた刀を拾い上げて鞘からすらりと刀を抜き取る。
「今度こそ、決着をつける」
千咲は怒気を漲らせ、資料室へと足を向ける。右手に刀、左手に携帯電話を持ち、扉をくぐると、まずカメラで左右を見る。警戒を怠らぬまま、資料室の扉を閉じてロックをかけた。そして自分の眼前に携帯電話を掲げたまま、ゆっくりと室内へと進み始めた。
アーセナル資料室――。
紙媒体の資料を保存しているその場所は、基地運営における会計や管財などの諸雑務の書類、または沿革についてや事件簿など、名前の通りさまざまなアーセナルについての資料を保管している。それらは全てデータ化されており、権限さえあればコンピューター端末で大半のデータが閲覧できる為、あまり人が積極的に立ち寄ることのない場所だ。この資料室だけが他の部屋と比べてかび臭く、空気は生活感が無い故の冷たさを帯びている理由である。
背の高い棚と棚が作り出す通路を、足音を殺して歩く。
視点をカメラ映像に集中させているが、ぼんやり見えるカメラ映像の枠外では、先ほどから居る筈の無い人が見えたりしている気がした。彼女の中の怒りが集中力を鋭く研ぎ澄まさせて、ドライブ能力による精神力の高まりもあって、幻を半分克服している。振り向いてしまいたくなるような過去が、彼女の視界の端を次から次へと流れていく。
「……私に、もう幻は効かない」
自分に言い聞かせるように言った。
「千咲ちゃん」
背後からくぐもった男の声がして、千咲は慌てて振り返る。
カメラを向けると、五メートル後ろにマスクの男が立っていた。千咲は咄嗟にカメラを手放して、一瞬でその距離を詰めて刹那の躊躇の後、鋭い斬撃を放つ。人間の皮膚と肉を切る、生々しい、ざりざりとした感触が千咲の手に返ってきた。
(……殺った……! 人を、殺した……。いや、許せなかった……、許しちゃいけないっ!)
殺人を行った自分を正当化するためにそう言い聞かせた。斬り伏せた相手を見ると、そこには岬が体に大きく付けられた傷を抱きかかえて、痛みにもがき苦しみ涙を流していた。
「え……?」
「いた……い……、ちさ、き、ちゃん……なん、で……」
うつろな目を向けて、蚊の鳴くような声で岬は訴えかけてくる。
「……ちがうっ! これは幻だっ! 岬がここに居るわけ無いッ!」
千咲は慌てて携帯電話を向けるが、肉眼で見たものと同じ映像が液晶に写った。その瞬間、千咲の体中から血の気が失せた。手から刀が零れ落ちる。
「まさか……そんな、本当に、……岬なの……?」
足元にはじわじわと血だまりが出来上がる。その中心に居た岬は血の海に沈みながら、すぐに事切れた。
「嘘、でしょ……そんな筈……」
千咲は携帯電話を手放して顔を絶望に青ざめさせ跪き、床に伏した岬に触れる。流れ出ていく血と一緒に彼女の肉体から熱が失われていくのがわかった。その感触は、一つの生命が失われていく瞬間そのもの。
「あ……うああ……! 岬……! みさき……なんで……!」
震える手で、彼女の頬に触れた。その時。
「千咲ちゃん、僕はね。君のその姿がずっと見たかったんだ。岬ちゃんと千咲ちゃんが殺し合ってね、本当の悲しみと絶望の顔を見て、それから生き残った方を、僕のお嫁さんにしてあげるって。それで、この顔の火傷の事は許してあげるね」
またも、どこからともなく声が聞こえてきた。千咲はその言葉に反応を見せず岬の死体にすがりついたまま動かない。
「だけど安心して、千咲ちゃん。岬ちゃんは死んじゃったかもしれないけどさ、僕ならいつでも、岬ちゃんに会わせてあげるから。岬ちゃんだけじゃない。死んじゃった他の友達、家族、みんなにも会わせてあげる。生きているか死んでいるかなんて、些細な問題だよ。僕の力は、よぉくわかっているんだろう? 現実との境界線なんて早く捨てて、僕と一緒に生きていこう?」
「……ほんとに……? さっきみたいに、宗助や、隊長にも……」
「うん、会えるんだ。だから、僕と一緒に来ようよ。ずっと一緒に……」
方角不明だった声が、突然耳元に移動した。その声の方へと顔を向ける。声の主・マスクの男は千咲の傍に立ち、彼女に手を差し伸べていた。彼の周囲にはいつのまにか、岬や宗助、稲葉、岬の母親や父親も微笑んで立っていた。全員が千咲に手をのばす。
「さぁ、一緒に……」
男は、皆は、さらにその手を千咲に向けてぐいと伸ばした。
「……」
千咲はゆっくりと、差し伸べられた手に向けて自身の右手をおずおずと差し出す。
「嬉しいよ、千咲ちゃん。ふふ、ふふふ……、やっと一緒になれるね」
「――たとえ一〇〇回死んでもお断りするわ、このクソ野郎」
千咲は掌を思い切り握りしめ、その拳でそのマスクの男の顔面を殴りぬいた。きっちりと鼻の下の人体急所を突いた。ゴッ、と鈍い音がして、次に「ぶぎゃっ」と汚い悲鳴をあげて男が吹き飛んだ。棚に激突し、棚は倒れてドミノ倒しで部屋中の本棚が倒れていく。
そして同時に、彼女のすぐ傍にあった岬の死体も血だまりも瞬く間に消えてなくなった。
「……やっぱりね。携帯のカメラが真実を見抜くからと言って、その携帯電話を見る私の目は結局肉眼。カメラの液晶にまで幻を『貼り付けていた』。そんな細かい芸当までできるのは恐れ入ったけど……」
マスクの男は顔面を抑えて痛みに悶えている。鼻骨とあと何本か歯が折れたようで、マスクの中から折れた歯が零れ落ちていて、鼻血がマスクを真っ赤に染めていた。
「冷静になって、試しに、岬の服に私のドライブで熱を与えてみた。けど全然熱くならなかった。なるわけないか。だって、そこに存在しないんだもの」
「いだい、いだいよおっ、なんでっ、ぢざぎじゃ、うああっ」
「……そう。まだそんな風に、言葉が喋れる程度なんだ。岬が受けた痛みは、そんなものじゃない。この六年間、どれほどの痛みと苦しみがあの子を苦しめたか、お前はまだ知らない……」
千咲は床に落とした自身の得物である刀を拾った。
「思い知れ……!」
憤怒の形相でぎろりと睨みつけて、そして両手で柄を握りしめ、切っ先を男に向ける。男はあまりの痛みにドライブを使う余裕も無いようで、もだえ苦しみながら逃げようともがいている。だがそれは滑稽な動きにしかならず、ひぃひぃと息を切らしながらじたばたしているだけだ。
そんな彼に対して千咲は何をするつもりなのか、じりじりと切っ先を彼に向けている。
(なんで、なんで今更迷っているんだ、この目の前の男を、私は、私はっ……!)
先程は斬撃を与えられたのに、今更になって、千咲の理性が怒りを押し戻していた。
(許さない……私は……、この男を許さないっ! 絶対に!)
頭の中の感情を一つにするために心で叫んで、刀を振り上げ、そして振り下ろす――
……と、自身の左手首が何かに掴まれるのを感じた。そして次の瞬間その手首は凄まじい力で捻りあげられ、無理やり刀を手から零させられる。思い切り首根っこを捕まれ、ぐんと後ろに引っ張られる。そうされて初めて千咲は見えた。
「――このアホ娘が、今何をしようとしていた」
怒気を含ませた顔で自分の顔を睨む不破の顔が。
「……っ、だって、だってぇ……!」
自分のしようとした事を理解したからか、仲間の顔を見て安心したのか、千咲は目から涙を零し、子供が駄々をこねるような声で不破に話す。
「許せないんです、何をどう考えたって、どうしたって、許せない……こいつだけはっ!」
「許す許さねぇの話をしてんじゃねぇよ。俺だって、この野郎は絶対に許さねぇ」
不破は少々乱暴に千咲を後方に引っ張り込み、代わりに自身が前に出る。千咲はよろけながら、不破のその背中を見ていた。




