生き残る為に
一文字千咲には逃げてないと反論してみたものの、今の宗助には結局これしかないのだ。幸運は二度続かない。右足、左足、交互に踏みしめていく。病室のように狭い空間ではないし、まだ二週間だが自分が通っている学校だ、道もある程度知っている。
(この角を曲がって、しばらくまっすぐ。そして五号館を左に曲がって――!)
「はっ、はっ、はっ、はっ、くはっ! はぁっ、はぁっ」
宗助は全力で走り続ける。どれだけ足を繰り出そうと、もっと速くと、もどかしい気持ちに駆られ続ける。
(くそっ、ウチの大学こんな広かったっけか!)
毒づきながらも、ひたすら走る。何度かこけそうになったが、足さばきで阻止して、前に進んでいく。
(あそこだ! あの角を曲がった建物に、警備員がいた筈……!)
「一文字め、この辺りはしばらく大丈夫ってのはなんだったんだよ!」
ここにはいない彼女に対する文句をはきつつも、ぐんぐんと風をきって、夜の大学の校舎と校舎の間を走り抜ける。チラリと背後に目をやったが、追いかけてきている気配は無い。
(……?)
宗助は疑問に思いながらも、その守衛室への最後の角を曲がった。その瞬間だった。急ブレーキをかけて、慌てて止まる。目の前の光景に愕然とした。
「やぁ、久しぶりだな」
「……な、なんで……」
フラウアが涼しい顔で立っていた。宗助は肩で息をしながら汗をかいているというのに、彼は呼吸を乱しておらず、汗ひとつかいていない。彼は気だるそうにため息をひとつ吐くと、宗助に哀れみの目を向ける。
「やれやれ、敵前逃亡か。君にはプライドとか闘志ってもんはないのか?」
「……はぁ……はぁ……。そんなもん、命あってのものだろ。……はぁっ……。昨日の今日で、得体の知れないバケモノとやり合うのは、もう御免なんだ」
息を整えながら、再び隙を探す。
「…… あぁ。そうかもねぇ……。確かに、いい判断だった。僕と戦わないって選択は、少なくとも。君に勝てる道理は欠片も無い」
「そうだろ。さぁどいてくれよ。このまま逃げるから。ちゃんと家の布団で寝たいタイプでね」
「ははは。見苦しい奴だな。逃がすわけ無いだろう、諦めろ」
宗助の提案も、一刀両断。宗助とて、そんなお願いを聞き入れて帰してくれるとは微塵も思っていなかったが。
「……っ、何なんだよっ、突然……! 俺を回収するってなんだ! 狩るってなんだ! お前らは一体、あの機械で何をしているっ! 何が目的なんだ!!」
「うるさいな。大声でギャーギャーわめくな」
冷たい視線が宗助を射抜く。隙は何処にもない。
もう一度この男に背中を見せた瞬間、自分の人生が終わる。
そんな絶望感が、このフラウアという男にはあった。それでも、もう一度走りださなければならない。大声を張り上げて少しでも怯んでくれればいいし、その騒ぎを聞いて警備員が助けに来てくれるかもしれない。そう思って、更に大声を張り上げようと空気を吸い込み、肺をふくらませる。
「だいたい、さっきのむぐっ――」
宗助が必死に思い浮かべたありったけの啖呵は最後まで放たれる事無く終わってしまった。
一瞬にして目の前へと距離を詰めたフラウアの右掌が顎全体を正面から掴み、口を塞いでしまったのだ。顎が割れてしまいそうなほど、まるで万力で挟まれているかのような剛力で締め付けられ、頭蓋骨全体がミシミシと軋む。
「大声を出すなと言っている。いい加減みっともないぞ、生方宗助」
フラウアはそのまま宗助の頭を手前に引き、すぐ傍のコンクリートの壁に叩きつけた。ごっ、と鈍い音が夜の大学に響く。宗助の後頭部からどろりと血が流れ、首を伝い襟に赤黒いシミをつくる。
「うぐ、ああえ、おの野郎……!」
「まだいけそうだな」
フラウアは冷淡な口調で言うと、さらに二度宗助の後頭部を壁に叩きつけた後、さらに腹部に拳を撃ち込んだ。
「目的は殺しじゃない、回収だ。これくらいで充分か。ブルームに感謝するんだな。回収してからどうするかは知ったことじゃないが」
フラウアがようやく宗助の顎から右手を離すと、宗助は膝から崩れ落ちる。後頭部を強打したため彼の意識は朦朧としてしまい、地面に仰向けに倒れた。
――やばい、これはやばい。物が、三重にも四重にも、見える……。音がゆがんで聞こえる……。なんなんだ。ナンナンだコイツハ。なンデ、俺ガ、コンなメに――。
「あ……ぐ……」
――死ヌ。
――逃ゲナケレバ、シヌ、死ぬ。シヌ、死、シ―。
――…………………逃げる?
「お前の家族や友人もこの辺りに居るよな。時間も許されていることだし、せっかくだ、邪魔が入らないうちに、余興として君の目の前で殺してみようか。君も未練が無くなるだろう」
「――っ」
宗助の指が、ピクリと動いた。
――生きるために、闘う。
頭部へのダメージによって止まりかけていた思考が、回りはじめる。身体はそれ以上動かないが、思考が動く。フラウアは宗助を再度憐れむような目で見やり、ふん、と息をまたひとつ吐いた。
「ブルームが何を考えているのかは知ったことじゃあないが……簡単すぎる注文だったな。シーカーもじきに到着。まったくの予定通りで滞りは無い」
宗助に背を向けて、満足そうに夜空を眺めながら独り言をつぶやいた。
そして再び視線を下げた時、フラウアはまた一つ大きなため息を吐く事となった。
「……理解に苦しむな。大人しく眠っておけばこれ以上痛い目に合わずに済むというのに、何故立ち上がるんだ。痛めつけられて楽しむタイプなのか、それとも、単に君の頭が悪いだけなのか。あぁ、打ち所が悪かったの間違いか……」
彼の背後には……頭や肩が血にまみれてもなお、立ち上がり闘志をみなぎらせている生方宗助の姿があった。フラウアは振り返らずに呆れた様子でやれやれと首を小さく振った。
「まぁ、よく立ったな。……で? そんな身体でまだこの僕から逃げられるとでも?」
「ハァッ……ハァッ……」
宗助の足元にボタボタと血が滴り落ちる。膝が震え、意識は朦朧として視点が定まらない。その状態でも、必死で喉から声を絞り出した。
「お……お前を、と、止める……!」
いつ倒れてもおかしくない覚束無い足取りで、よろよろとフラウアに近づいていく。




