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machine head  作者: 伊勢 周
14章 二つの指輪
157/286

忘れないよ

・・・


――


『ごめんね、そんなにややこしい話じゃないんだけど……その……』


 暮れかけのオレンジの空。目の前には緊張した面持ちの、学ランを着た不破君。

 あぁ、これは夢だ。

 私たちが高校生だった頃の夢。今頃、こんな夢を見るなんて。


『いや、話があったのは、俺もだからいいんだ。……で、話って……?』


 この頃は、こんなにも景色が明るく見えていたんだ。今は……年齢のせいか、気持ちの持ちようか。

 ……気持ち。

 この時私は、不破くんにとあるお願いをするために、放課後校舎裏に呼び出したんだ。


『あ、じゃあ、先に言わせてもらうね。うん、あの……変に茶化したりしないで聴いて欲しいんだけど……単刀直入に言うと。………………私、二神君の事が好きなの!』

『…………へ? …………………あっ』


 不破くんは、私のその告白によほど驚いたのか、口をぽかんと開けてしばらく固まっていた。しばらくして私は落ち着いてきたから、そのまま構わず続きを言った。

 不破くんの様子を気にかけるほど余裕も無かった。


『だから、二神くんと仲がいい不破くんに、その、仲を取り持ってくれないかなって……、あ、その……嫌だったら正直に言ってね。その、わがままっていうか、……ちょっと卑怯なこと言ってるなぁっていうのは、自分でもわかってるつもりだから……』


 保険をかけるような言い方。ミスターいい人の不破くんがこんなこと言われたら、ああ言うに決まっていたのに。あの時の私は、それを心の何処かでわかっていて、それでもこういう言い方をしたのだ。

 彼のお人好し加減に甘えていた卑怯者だ。


「…………あ、ああ、そうきたか! 任せろ! そうだよな! 大祐はいいやつだからな、お前のその選択は大正解だ!」


 不破くんはちょっとよくわからないことを口走ってから、快く私のお願いを承諾してくれたのだ。

 高校二年生の春の日。忘れるはずもなく、覚えている。きっかけだった。

 これは、十六歳の春の日。


 場面転換。


 夜の十時。自分の部屋。ベッドの上で丸くなる私。握りしめた二つの結婚指輪。携帯電話が震えた。

 ディスプレイには、『不破くん』という文字。

 これは……。大祐くんが居なくなってから、ちょうど一ヶ月が経った頃だ。

 まだ、この夢は続くの? ここから先は、見たくない。

 恐る恐る、通話ボタンを押す私。


「……はい……」

『不破だ。……美雪。今から俺が言うことを、落ち着いて聴いて欲しい』

「……?」

『あのな……大祐の奴なんだが……』

「見つかったの!?」

『………。…………あぁ』

「っ、大丈夫なの!? 怪我は無いの!? 代われるなら、電話を代わって欲しい! いや、私もすぐ、そっちに行くから!!」

『……美雪』

「教えて、不破くん、今、何処に居るの!?」

『美雪!』

「……っ!」


 珍しく、強い口調で私の名前を叫ぶものだから、言葉を失くしてしまったのを覚えている。

 そして、『見つかった』というのに余りにも暗い口調で喋る不破くんの、どうしようもない落胆が電話越しにさえ伝わってきて、私はその先を聴くことがとても怖くなった。

 今でも、覚えている。

 これは、ニ十二歳の秋の日。


 場面転換。


 街が見渡せる、山の上の病院の屋上。確か十三階だった。

 鉄のフェンスを乗り越えた。ほんの数十センチ先へと足を踏み出せば、十三階の高さから真っ逆さま。そうすれば、悲しみも苦しみもないところへ。

 本気でそう思っていた。本気で、彼のところへ行けると思っていた。だから、最後の一歩を踏み出そうとしたのに……突然、目の前に壁が現れた。床から壁がせり上がってきた。


「そっちは行き止まりだぜ」


 声がした方に私が振り向くと、不破くんが居た。目の前に突然現れた私の『逝く手』を阻む壁は、不破くんが彼の能力を使って作ったもの。彼はコンクリートブロックの上にゆっくりと腰掛けるとため息を一つ吐いて、低い声で私に尋ねる。


「美雪、お前今、何をしようとしてた」

「ここから、飛び降りようと」

「死ぬぞ」

「知ってる」

「バカな真似は今後もうするな」

「……だって、もう、……生きていたら、辛くて」


 不破くんはそれを聴くと、「あのな……」と言って。


「大祐に死なれて、その上お前にも死なれたら、…………俺は。どうしよう、想像もしたくない。言葉が見つからない」


 不破くんの、あの時の寂しそうな目は、すごく印象的だった。彼に、「お願いだから生きて欲しい」と言われた。気づけばまた、私は泣いていた。

 これは夢だ。わかっている。

 ただの、昔の夢。

 そんな昔の夢を見ている私も、眠りながら泣いていた。


――


・・・


 美雪は、例のスワロウ管轄の病院の一室で目を覚ました。

 美幸は、どれくらい寝ていたのだろうか、と部屋に掛けてある時計を探し見ると、時刻は朝の七時だった。目元を指先でそっと触れると、涙を掬った。上半身を起こし周囲を見る。台の上には一輪の花。加湿器が静かな起動音を鳴らしている。締め切られた窓と、それを覆うカーテン。僅かにセミの鳴き声が聞こえてくる。


(……そっか…………終わったんだ……)


 美雪は思い出した。四年間自分が追い続けていた敵の最期を。自分の復讐の終着点を。


(……私はこれから、どうすれば良いんだろう……)


 一つ息を吐く。自然に呼吸ができることが少し心地良くて、今度は大きく息を吸い込んで、そしてゆっくりと時間をかけて肺の中の空気を外へと追いだした。

 美雪は自分の右肩の上にぶら下がっているナースコールのボタンに気づき、それを押した。すると一分も経たないうちに看護師が部屋に訪れて、追って医師がやってきた。


 ガニエのガスによる体のしびれは完全にとれていて、診察でも特に異常も見つからなかったので、退院の許可が出た。美雪はアーセナルにおいたままの荷物を取りに行こうと考えたが、すぐに基地へと行く手段が無いことに気づく。それどころか財布も携帯電話も無い。どうするべきかと考えていると、部屋の扉がノックされる。


「……どうぞ」


 返事をすると、見慣れた人間が部屋に入ってきた。


「……不破くん」


 私服姿の不破だった。美雪の目の前まで来て、そして立ち止まる。


「よぉ、美雪。顔色も良いし、もう大丈夫そうだな」

「ええ、おかげさまで。それで、不破くんはなんでここに?」

「友人の病室を訪ねちゃいけないのかよ」


 不破は少し眉を顰め、親指を立てて後方を指さした。


「墓参りだよ。一緒に行くだろ?」


 すぐに表情を小さい笑顔に変えて、そう言った。



          *



 不破が美雪を連れ出して病院を車で出発し、運転し続けること三十分。二人は、とある霊園に到着していた。山の上に有る巨大な霊園で、目的はもちろん二神大祐の墓参り。車を駐車スペースに停めて、不破はお香やろうそくなどの小物が入ったカバンを、美雪は途中で買った花と供え物を持って車を下りる。

 街に比べると、空気が軽く涼しい。周囲に木々が生い茂り、風のとおり道が幾つもあるからだろうか。霊園の入り口にある水汲み場で不破はしゃがみ、無言で二つのバケツに水を入れ始めた。そんな彼の背中に美雪は声をかける。


「…………そういえば、今日は訓練は無いの?」

「今更だな。非番だよ。もともと全体演習は無い日だし」

「そっか」

「ガニエを見殺しにしちまったから、始末書は書かされてるがな」

「……そう」


 ちょうどバケツ二つに水が溜まりきったので、両手でそれぞれを持って立ち上がり右向け右。歩き始めるが……。


「……不破くん、お墓はこっちよ」

「っとと」


 言われてすぐ立ち止まる。バケツの水が揺れて、少し溢れる。すぐに方向転換して、正しい道を歩く美雪を早歩きで追いかける。砂利を踏む二つの足音が霊園にやけに大きく響く。


「……自分から行こうって言っておいて、お墓の位置を覚えてないなんて」

「なんせ、墓参りに来るのもう三年ぶりなんだ。見逃してくれ」


「…………三年ぶりって、納骨からずっと来てないの?」


 美雪が少し驚いた様子で尋ねる。


「ああ。いろいろ理由はあるが……っと、ここか」


 『二神家之墓』と彫られた立派な墓の前で立ち止まり、両手のバケツを地面に置いた。つい最近遺族が来たのだろうか、雑草なども無く、墓は綺麗な状態に保たれていた。花立てに供えられていた花は殆ど枯れてしまっていたが。


「大祐の事は任せろって、あの時言ったけどさ。あれは、あいつの仇を討つ意味で言ったんじゃない。……大祐は前に、俺に誓ってくれたんだ。『生涯かけて美雪を守る、絶対に幸せにする』って」


 「お前よりも」という言葉は抜いた。


「だから俺もあいつに誓った。どんな時だろうと絶対に、一生お前たちの味方をすると」


 不破は美雪の手元から半ば強引に花と供え物を貰い受けて、墓のスペースに入った。敷石の上を歩き、石碑の前に立つ。黙々と枯れた花を花立てから抜き取りゴミ袋に入れて、新しい花を供える。水の入ったバケツを持ち上げ柄杓で水を汲み、花立てに流しこむ。

 両サイドに花を供え終わると、


「あいつは死んで、お前は生きてる。もちろん俺もだ」


 不破は美雪に背を向けたまま、一層強くその言葉を発音した。そして石碑の前にろうそくを立てて火を灯した。


「あいつが守りたかった、幸せにしたかったお前が……死んだあいつを追いかけるように、身の危険も顧みず無茶して。ピクリとも笑いもしないで、暗い顔で。周りを怖い目で睨んでばかりでさ。本当に、申し訳なかったよ。俺は、口だけ野郎だなって」

「……そんなこと、ない」

「…………ありがとよ」


 蚊の鳴くような声で美雪が言うと、不破はカバンから線香を取り出す手を一瞬だけ止めて、礼を言う。


「でも一段落したから、ようやくこうして、堂々とここに来られたって訳さ。少しはあいつを安心させてやれたと思う。去年や一昨年にここに来てみろ。『俺のことは良いから、お願いだから美雪を何とかしてくれ』って、……そう言う筈だ」


 線香を取り出して、半分に折り、ろうそくの炎で炙って火をつける。周囲に漂う、どこか物哀しい線香の香り。不破は香炉に線香を置くと石碑に向き合い掌を合わせ、目を閉じた。

 数十秒して立ち上がると振り返る。美雪に目線で促すと彼女は不破と入れ違いで墓に入り、少しの間無言で石碑の前に立つ。そして、頭を下げ会釈をした。故人に気持ちが届くようにと。



――……大祐くん。心配をかけて、ごめんなさい。あなたの為だと、命を懸けて犯人を探していたけど……不破くんの言う通り。



 美雪はつらそうに唇を噛み、俯いた。



――思い返せば、全部、自分の為だった。



 左手の薬指にはめた二つの指輪を石碑にかざすと、右手の人差指と中指と親指でそれぞれを丁寧に摘まみ、ゆっくりと抜き取り始める。少しずつ、少しずつ……まるでその動きに痛みを伴っているかのように。そして二つの指輪は、彼女の指から離れた。一つ息を吐く。



――人間は、忘れる生き物だから、仕方ないってわかっているのに。あなたと過ごした時間……楽しかった事、腹が立ったこと、呆れたこと、……うれしかった事。思い出が少しずつ薄れていって……。それが嫌で、一つも零さないように必死でしがみ付いて、後ろで立ち止まってしまったあなたの方ばかり見ていた。


 

 左掌にその二つの指輪をのせると、それを右の掌で優しく包む。



――たった今、やっと気づくことができた。私がずっと、あなたが居る後ろだけを見て泣いてばかりいるとき、不破君は、私のそんな情けない背中を守ってくれていたんだ。そして、今もこうして、私を待っていてくれている。



 少ししてその手を解くと、そこには、小さく氷漬けになった二つの指輪があった。その氷漬けの二つの指輪を、墓前にそっと、音を立てずに置く。



――私は生きている。思い出の中ではなくて、今を生きているから。寂しくて、不安だけど。……あなたにも、不破くんにも、これ以上心配をかける訳にはいかない。



「これからは……。ちゃんと、前へと進まないといけないよね……!」


 つぶやき、掌を合わせ、目をぎゅっと瞑る。目蓋に収まりきらなかった涙が、目尻からこぼれた。いくつもいくつも、涙は次から次へと溢れだす。


「だから、この指輪はお返しします」


 震える声できっぱりと言い切った。

 そして美雪は、涙が止まるまで祈り続けた。

 不破が見たその後ろ姿は、縋るような祈りではなく……。


――忘れないよ。忘れない。……けれど。


――あなたの事で涙を流すのは、これで最後。



          *



 翌日、早朝。

 宗助が正門玄関口に行くと、千咲と岬が外から入ってくるところに鉢合わせた。


「おー。おはよ」

「おはよう宗助君」

「おはよう」


 それぞれ朝の挨拶を済ませると、宗助はすぐに二人に質問する。


「どうしたんだ、こんな朝っぱらから。まさか朝帰りか?」

「違う。お見送りしてたの」

「お見送り?誰の」

「美雪さん。今日帰るんだって。実家の方に」

「へぇ。そうなんだ。こんな朝っぱらから」


 「結局美雪さんとは殆ど会話しなかったなぁ」と宗助が独り言を言っていると、岬がうきうきとした様子で宗助にこう言った。


「不破さんが、『俺が駅まで送るよ』って言って車出したんだよ! 見てて思ったんだけど、やっぱり、不破さん美雪さんの事絶対好きだよね!」

「…………えぇ? こないだ話した時は、『とっくの昔に諦めた』って言ってたけど」


 宗助が言うと千咲は、はぁーと大きくため息を吐いた。


「あれでよくもまぁ、諦めたなんて言えるもんねぇ……十秒見てりゃもうわかるって」

「……そうなのか……?」


 宗助からすると、不破と美雪が話をしている所自体あまり見ていないのでなんとも言いようが無いのだが、目の前の千咲があまりに得意げなので変に刺激しないよう口をつぐんだ。


「不破さん、ちゃんと告白出来るかなぁ……?」


 相変わらずのうきうき顔で勝手な妄想の世界へと浸りかけている岬と、「でも、そうなっても、二神さんのこともあるし、美雪さんは断りそうな気もするけどなぁ」と予想を述べる千咲。それに対して岬がさらに「ちゃんと伝えることが大事なんだよ!」と力説する。

 『こういう話で盛り上がっているところを見ると、二人共年頃の女の子なんだなぁ』、なんてどうでもいい事を考えながら、宗助は暫くの間、愛想笑いで二人の言葉に相槌を打っていた。



          *



 アーセナルから南へ下りた、山のふもとの駅。

 早朝でも人の姿はそれなりに多く、会社に出勤中なのであろうワイシャツ姿の男性や、学校の部活の朝練習に参加するのだろうか、大きなエナメルバッグをたすきがけにして慌てて改札を通る少年少女の姿が見られた。

 美雪と不破の二人は改札を抜けて、駅のホームの一番端で、横に並んでぼんやりと電車がやってくるのを待っていた。

 目的の電車が来るまで、時間は十分弱。


「……美雪」

「なに?」

「実家に帰るって言うが、それから、どうするつもりなんだ?」

「わからない。こないだも言ったけど、先の事なんてどうだっていいと思っていたから」

「やれやれ」

「……どうしたらいいと思う?」

「自分で決めろ」

「冷たい」

「お前ほどじゃないさ」

「隊に勧誘しないんだ」

「お前だけは絶対にしない」


 不破はきっぱりと言う。


「話を逸らす訳じゃないけど。不破くんは、向いていると思う。そういう仕事」

「スワロウの隊員が、か?」

「うん。……昔から、困ってると突然現れるから。特撮のヒーローみたい。お母さんの時もそうだったし、私も何度も助けてもらった」

「たまたまさ」

「でも、本当はね。四年前……」

「ん?」

「『なんで不破君は平気で居られるんだろう』って思ってた。それで、『なんで私のことを理解してくれないんだろう』って。そして、心の何処かで……『なんで不破くんは、大祐君を守ってくれなかったんだろう』って、すごく勝手なことを考えてた。『いつも守ってくれていたのに』って。非道い話よね」

「……そんなこと無いって」


 少しの間、沈黙が流れる。

 不破がチラリと横目で美雪の横顔を盗み見ると、彼女は相変わらず表情が無くて、ただじっと、真面目な顔で正面を見据えていた。

 思えば不破が初めて彼女を見た時も、その横顔だった。

 そしてその横顔に一目惚れをした。

 不破にとって、……彼女と見つめ合うよりかは、その横顔を見ている時間のほうが長かった。比べるのが馬鹿らしくなるくらい、ずっとずっと長かった。彼女の視線の先には、いつも親友の姿があったから。

 丁度頭一つ分小さい美雪の横顔を見ていると、彼女は突然不破の方へ顔を向けた。

 目と目が合う。


「不破くん」

「……なんだ」


 目が合って名前を呼ばれて、明らかに動揺したが努めて平静に返す。


「昨日ね、夢を見たの。昔の夢」

「おう」

「私が、大祐くんとの仲を取り持って、ってお願いした時の」

「……ああ、あの時の……」

「あの時、もともとは不破くんも、『話がある』って、私を呼び出してたんだよね。ずっと気になってたの」

「………………何が?」


「あの時の不破くんの話って、なんの話だったのかなって」


 美雪が不破の顔をじっと見つめる。不破は、思わず視線を逸らした。


「あの……時……」


 美雪に尋ねられると、不破の頭の中で様々な想いが一気に駆け巡る。

 高校。親友。一目惚れ。告白。美雪。大祐。トランペット。放課後。校庭。

 呼び出そうとしたメールに、呼び出されたメール。

 十年前。どうしても伝えられなかった想い。


「俺は……。俺は、あの時――」


 不破が何かを言おうとした瞬間。彼らの背後の線路に、貨物列車が大きな音を立てて進入してきた。不破の言葉の続きは、電車の走行音でかき消されてしまう。貨物列車は全長が長く、ゆっくりゆっくり、時間をかけて彼らの背後を走っていく。ガタンガタンと大きな音を立てながら。

 再び、美雪の方へと顔を向ける。不思議そうに見つめ返してくる彼女の瞳。一分ほどして、貨物列車は通り過ぎていき、ホームが再び静寂を取り戻す。


「…………あぁ」


 不破は意を決して口を開く。


「あの時の事は、さ」

「うん」

「忘れちまったよ、そんな昔のこと」


 言った後、不破は前を向き、自嘲気味に笑う。


「そんで、もう二度と、思い出す事も無さそうだ」


 そう付け加えると、美雪も前を向いて「そう」と呟いた。「忘れちゃったのなら、仕方ないね」と付け加えて。


[まもなく、ニ番のりばに電車がまいります。黄色い線の内側に――]


 二人の立つホームに、電車の到着を告げるアナウンスが流れた。それは、美雪の乗る予定の電車だ。

 電車が風を巻き起こしながらホームへと進入して、徐々に減速し、そして停まる。ぷしゅう、と空気を吐き出す音がホーム中に響いて、扉が開いた。


「それじゃあ、これに乗るから」

「あぁ」


 美雪はゆっくりと列車の扉へと進んでいく。不破は静かにその背中を見送る。

 と、美雪が車両の出入口に足をかける寸前で立ち止まった。

 そして長い髪を翻しながら振り返ると、


「またね。不破くん」


 そう言って、彼女は微笑んだ。

 四年ぶりに目にしたその微笑みに不破は一瞬心を奪われ我を忘れたが、すぐに笑顔を作り


「あぁ、またな」


 と返した。

 美雪は微笑んだまま向き直り、そして電車の中へと踏み込んだ。ドアの閉まる笛の音が鳴り響き、列車の扉は一斉に閉じる。彼女を乗せた列車はゆっくりと進み始め、気付いた頃にはもう姿を消していた。

 不破はぐっと伸びをして、ひとつ深呼吸。


「よっしゃ、帰るか!」


 そう言って、改札へと歩き始める。




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