二つの指輪
――二神大祐が消えた日。
「遅い」
頼んだホットコーヒーはとっくの昔に冷めている。二人が、「結婚指輪を受け取りに行くからその後になるが、是非改めて報告がしたい」と言うものだから、スワロウの訓練や任務で埋まりに埋まった予定の隙間を縫って会いに来たというのに、待ち合わせのこの喫茶店に二人はやって来ない。連絡も来ない。不破と彼らは十年近くの付き合いになるが、遅刻なんて殆どしなかったし、もし遅刻したとしても必ず連絡があったのに、こうして一時間近く遅れても連絡がない。
「ったく……」
ため息を一つ吐いて、ちびちびと飲んでいたコーヒーを一気に飲み干した。と、それと同時に不破の携帯が震える。慌てて携帯を持ち上げて画面を見ると、着信で中川美雪の表示。一言文句でも言ってやろうと意気込んで通話を繋げる。
「もしもし、お前今どこに――」
「不破くん!」
電話の向こうの彼女はえらく切羽詰まった声で自分を呼んだ。
「……何かあったのか」
「大祐くんが、大祐くんが……居なくなったの、どこにも居ないの! トイレに行ってくるって言って、ずっと帰ってこなくて、見に行ったら、買い物袋だけが落ちてて……! 電話も出なくて……! どうしよう、何か、事件とかに巻き込まれたのかな……!?」
泣きそうな彼女の声を聴きながら、不破は、自らが現在進行形で携わっている最悪の事件が、まっさきに脳裏をよぎる。
(まさか、こんな真昼間から……?)
そうでないという、確証が欲しい。マシンヘッドの仕業でも、人目の多い昼の町中でそう簡単に事件は起こせない筈だと前向きに考える。
(きっと、もっと日常的な何か――例えば、ひったくりに遭遇して慌てて駆けていったとか――)
「美雪、落ち着け、俺もそっちに行く。今何処だ」
彼女の状況と居場所を聞き終えると、自分のカバンとコーヒーの伝票と、あと二人のお祝いにと思って買ったフライパンが入った紙袋を持って不破は立ち上がる。
*
時は現在に戻る。
生方宗助は薄暗い階段を一人で登っていた。
(ほんとにここに居るのかな……)
一連の出来事を伝えられて、そこに居るはずだから、男同士だし不破を慰めて欲しいと千咲と岬から変なお願いをされた宗助は、目の前の分厚い緑の鉄の扉のノブを右に回し、ゆっくりと押しこむ。
蝶番が少し錆びていて、ぎぎぎ……と鈍い音を立てながら開き少しずつその先に夜空がひらけていく。
扉を開けきると、夏の夜の湿度の高いあたたかな空気が顔面いっぱいにのしかかってきた。風もなく、雲もない、快晴の夜空。
それは屋上に続く扉だったのだ。外縁には落下防止の鉄網が貼られていて、それに沿うように幾つもベンチが設置されている。
宗助が屋上へと足を踏み出し周囲をキョロキョロと伺うと、千咲の言う通り不破は屋上のベンチの一つに腰掛けてぼんやりと座っていた。ゆっくりとその背中に向かって歩み寄る。
「不破さん」
「……お、宗助か。どうした」
扉の蝶番の音がなかなか大きかったにもかかわらず不破は宗助の接近に気が付かなかったらしく、すぐ背後で声をかけられて振り返り呑気にそう言った。
「……聞きましたよ、二神さんと美雪さんの事」
「……誰に」
「一文字と秋月さんに」
「ったく、おしゃべり女どもめ……」
不破が苦笑いを浮かべつつ呟いた。
「そんで、それを聞いたからどうしたんだよ。わざわざこんなとこに来て」
不破は振り返って、投げやりな態度で尋ねる。宗助は一瞬何と言おうものかと悩んだが、不破のようなタイプの人間には回りくどいことを言うとかえって逆効果であると思い、
「不破さんが、色々抱え込んでそうだったから、話し相手にでもなれたらと思いまして」
と、ほぼ素直にそう答えた。
「お前にそんな風に心配される程、俺はヤバそうに見えてるのか。それともあいつらの差し金か?」
「あっ、……ははは、そういう訳じゃないですよ。ただ、あかねの時に不破さんに話を聴いてもらって……、あれのお陰で踏ん切りがついたというか、とても助かったので、少しでも恩返しができればなぁと」
半分ウソで、半分本当の事を言う。
実際、千咲と岬にお願いされたからというだけではなくて、自発的にこの上官の助けになりたいと感じているのも事実ではある。不破はその宗助の台詞をどう思ったのか、髪の毛をがしがしと右手で掻いて「なるほどねぇ……」と呟いた。
しばらく沈黙。
宗助は不破の座っているベンチの一つ隣のベンチの端に腰掛けた。金網越しに見える景色を、特に目標も定めずぼんやりと見回した。何から話すべきかと考えたが、自分が相談しに来たわけではないので、不破の言葉を待つしか無いのだ。
しばらくして、不破が口をゆっくりと開いた。
「言ってみれば、大祐は俺にとって恩人だったんだ」
「え……」
「高校に入ってすぐ、一番に仲良くなったのがあいつだったんだよ。ほら、入学したてとかって、あれだろ。名前順で座るだろ? 俺は ふわ で、あいつは ふたがみ。ちょうど前の席があいつだった」
「あぁ、確かに、出席番号で座りますね」
「入学初日からバンバン話しかけてきてよ。しかも話がめちゃくちゃ上手で、どれだけ話の引き出しがあるんだこいつって思ったな。その日は俺の友達とかと一緒に帰ってさ」
不破の目は、見えているどの景色よりもずっと遠くを見つめていて。
「帰り道の関係で結局二人になったんだが、その日初めて会ったのに、ノリで駅前の喫茶店に入って、なんとなく子供だって思われたくなくてさ、背伸びして、普段飲まないブラックコーヒーなんか注文して……。それで、ずっと喋ってた。日が暮れるまで……」
思い出を噛み締めるように、一つ一つの言葉を紡いでいく。
*
「俺が、美雪の大事なトランペットを、ぐにゃぐにゃと曲げちまったんだ。原型とどめてなかったな。悪気もなかった。あの時は、ドライブの扱い方がよくわからなくなったんだ。勝手にそうなっちまった」
「あ、それもちらっと聞きました。周りの物なんでもかんでも滅茶苦茶にしたって」
「滅茶苦茶って……まぁいい。そんで、まぁ、……なんつうか、居た堪れなくなったというか……」
「それでグレたと」
「……ああ。フラフラしてた、家にも帰らず学校にも行かずに」
「そんな理由でそこまでグレなくても……」
「優等生君にはわかんねーんだよ」
呆れ気味に言う宗助に不破が笑み混じりで言い返す。
「そん時に、アイツが随分と俺に気をかけてくれたんだ。家も駅から反対方向なのにしょっちゅうウチに来て様子見に来たり、学校のプリントとか持ってきたり。俺家にいねぇのにな」
そして、後から聞いたんだが、と付け加えつつ続きを語る。
「美雪にもしょっちゅう弁解してくれてたみたいなんだ。不破のことは許さないって怒る美雪に、いかに不破要が良い奴かずっと説教し続けてたんだってよ。美雪だけじゃなくて、俺に対して良くないイメージをなんとか無くそうと、色々と走り回ってくれてたそうだ」
「へぇ……なんか、すごい人ですね」
「ああ。良い奴だった。こんな奴が居るのかって、こんな奴になりたいって、正直、憧れてたよ」
宗助は言われて、自分の幼馴染である木原を思い浮かべる。スポーツ万能成績優秀で容姿端麗の、すごい男。茜にフラれた時は、そういえばずっと話し相手になってくれてたっけ、と、ありがたさを今更ながら認識した。
夏の夜の蒸し暑さに、無意識にえり口を掴んでパタパタと扇いで、新鮮な空気を服の内部に送り込む。またしても沈黙。不破も宗助も、景色を見る。遠くの方で、飛行機がチカチカと光を点滅させて飛んでいた。
「……なぁ宗助」
「はい?」
景色から、不破の方へと顔を向ける。
「死んだ奴の為に出来る事って、何があると思う?」
不破は金網の方へ顔を向けたまま、突然そんな事を尋ねた。
「死んだ人の為に……なんでしょう。……難しいですね」
「俺は……せいぜい、忘れない事くらいしかないんじゃないかって思うんだ。復讐しなければ死んだ奴の魂が浮かばれないなんて言うが結局は、そういうのは自分の為だ。まだ、死んだ奴と別れる決心がつかないんだろうな」
「……美雪さんのことですか?」
「お前、あいつの左手の指見たか?」
「……薬指に二つの指輪がありました」
「そうだ」
言われて思い出す。初めて美雪とすれ違った際、彼女の左手薬指には二つの指輪が付けられていた。サイズがピッタリの指輪と、それに蓋をされるようにぐらぐらと薬指の根本で遊んでいる少しだけ大きめの指輪。
「あれは、あいつらの結婚指輪だったものだ。ぶかぶかなのが大佑の指輪で、それを閉じ込めるように付けてるサイズがぴったりのやつが美雪の。ちょうどワンサイズ違うから」
「へぇ……」
「美雪は、大祐を殺した奴に償いをさせるまでずっと指輪を付け続けると言っていた。悲しみと悔しさを忘れないように、って。……だがな。死んだ奴を忘れない事と、いつまでもすがり続けるのは違う。あの指輪は、それなんだよ。忘れないんじゃなくて、すがっている。美雪の時間は、あの時から止まったままだ」
生ぬるい風が吹いた。
「……大祐を殺った奴は絶対に許さねぇ」
不破は力を込めてそう言うと、辛そうに両拳をぎゅっと握る。
「だけどな、死んじまったものは仕方ないんだ。俺達は生きてるんだから、やらなきゃならない事が山ほどある。やりたいことだってたくさんある。……俺は単純だから、そう思えるのかもしれないな。こういう環境のせいかもしれない。でも美雪は、それができないんだ。復讐でしか心を一区切りできないって奴も居るんだろう。それでも……美雪をいつまでもいつまでも、こんなことに縛り付けてしまっているのが嫌なんだ。ここ三年以上、ああやって、周りに目もくれず、自分のためとか楽しいこととか何もしないで、ただただ目をぎらつかせて、ひたすらあちこち彷徨って犯人を捜している」
それがあの凍えそうな目つきか、と宗助は思い出して納得した。
「……俺は、あいつにもっと前向きに生きて欲しいんだろうな」
言っていて少し照れがあったのか、不破はぼかした言い方で締めくくった。それを受けた宗助はというと、少し頭のなかで色々と考えを巡らせた後こう言った。
「不破さんは、美雪さんのことが好きなんですね」
「ぶっ」
不破が思わず吹き出した。つばが気管に入ったのかごほごほ咳き込んで、自らの胸を何度も叩いている。そんな不破を、宗助が少し不思議そうな顔で見て「あれ? 違いました?」と尋ねた。
「ゴホッ、ゴホッ……そんなもん、お前…………」
「?」
「……………………………………高校の時の話だ。とっくの昔に諦めたよ」
言うのを数秒躊躇った後、何かを諦めた風にそう白状した。
「諦めたって、なんで」
「……なんか今日は珍しくぐいぐい来るな、お前」
「折角なんで、たまにはこういうのも良いなと。で、なんでですか? 好きになった時には既に二神さんと付き合ってたとか?」
「…………あれはなぁ……うーん、そういう訳じゃないが、半分当たりっつうか」
苦笑いを浮かべて、それでも不破はしっかりと当時の事を宗助に語りはじめた。




