開戦のゴング
闇夜を縦に切り裂くように、稲葉の身体はぐんぐんと急降下していく。目的落下地点は、ブラック・ボックスの甲板上。
風や空気抵抗に乱されること無く、まっすぐ綺麗な姿勢で頭から落ちていく。ものの十秒もしないうちに、稲葉とブラック・ボックスの距離はゼロになる。
常人ならそんな高さから落ちれば即死だが、稲葉の両手にはドライブが備わっている。彼の手に触れた物は運動を止める。そして発揮されるはずだったエネルギーは全て稲葉の肉体が吸収し、彼の意のままに操れるのだ。
世にも珍しい両手からの着地で着地時の衝撃を全て吸収し、見事ブラック・ボックスへの静かな着地を成功させた稲葉は、ゴーグルを外すとヘリが微妙に方向転換して次の行動に備えているのを確認して、そして自分が一番に単独で降りた理由である、蜘蛛型マシンヘッドの引きつけ・破壊へと思考を切り替えた。
「こちら稲葉。無事着地に成功した。これよりマシンヘッドの排除を行う」
『了解した。こちらもいつでも降りられるよう準備をしておく』
「よろしく頼む。……さて、さっさと姿を現してくれるとありがたいんだが……」
そこは真夜中の太平洋のど真ん中。真っ黒な船の上。僅かな月灯りの下、視覚は殆ど頼りにならず、聴覚と触覚と第六感が稲葉の世界の全てだった。
波が船体を打ち付ける音が鳴り続ける中、僅かな、本当に微かな金属が擦れる音が混じる。
注意深く耳をすませば、少し遠い場所でその金属音が鳴っていることがわかった。当然といえば当然だが、その音の出所を正確に把握することは出来ず、どちらの方向から音が流れてきているか、それだけを突き止める。
こんな時宗助なら簡単に音の出所を掴んでしまうのだろうか、などと期待の新人が自分より秀でているだろう部分を想像しつつ、蜘蛛型マシンヘッドを探しにかかる。
聴覚を頼りに素早く移動を始めると、どうやら方角に間違いは無かったようで、金属音は徐々に大きくなる。そして、少し遠くに微かに動く影を見た。探査機がやられた時と同じだ。その影には何本もの足がついており、凄まじい速度で移動し始めた。『蜘蛛型』の圏内に入ってしまったらしい。稲葉の動きを伺い、まっすぐ突っ込んでくることはなく、渦巻きを描くように、徐々に獲物を仕留めようと近づいてくる。機械仕掛けの癖して、その動きはさながら野生の肉食獣のようだった。
その鋭い足がブラック・ボックスの船体を引っかく音が、カンカン、カンカンと徐々に大きくなっていく。
外敵を狩らんとして自分の周囲を素早く動くマシンヘッドを目で捉えながら稲葉は呟く。
「ガラクタ機械には、 どちらが狩られる側か理解できないらしいな」
暗闇の中、不愉快な金属音が三六○度ぐるぐると鳴り響く。だが稲葉は狼狽えも身構えもせず、力を適度に抜いた自然体で立ち尽くしている。
渦巻きを描きながら徐々に近づいてきていたマシンヘッドの足音は、突如ぷつりと途切れた。飛んだのだ。つまり機械が『仕留められる』距離内まで近づいたと判断し、攻撃に移った。
だが、稲葉は迷いなく一方向を振り返る。
その先には、まるで闇の世界から飛び出してきた、暗い宙を舞う巨大な蜘蛛が居た。それで視力を確保しているのだろうか、赤い半球のレンズと目が合った。
蜘蛛はそのまま、八本足の中の前足一本を素早く突き刺すように繰り出す。剣のように研ぎ澄まされたその足先を、稲葉は凄まじい反応速度で受け止めた。
武器だとか盾で受け止めたのではない。受け止めたのは彼のその右の掌だ。その足先は稲葉の掌に突き刺さること無く、だが離れることもなく、ただくっついているようであった。
突き刺さっていないにも関わらず、マシンヘッドはそこから進むでもなく動くでもなく、重力に従って地面に落ちる事さえもしなかった。
ぴったりと、稲葉が差し出した掌に接着し微動だにしない。稲葉は表情を変えず左手で鉄足を掴むと自らの方へと引き寄せる。そして、コアがあると思われる、蜘蛛で言う頭部に静かに右手を添えた。
次の瞬間、沖に凄まじい轟音が響く。
硬質な鉄の身体を目いっぱい震わせて、――例えるなら、新幹線同士が最高速度で正面衝突したかのような、未だに空高くに滞空しているヘリコプターの中にまで届きそうな激しい金属への打撃音。
蜘蛛はぐちゃぐちゃにひしゃげて、目に留まるどころか常人の目には見えぬ速度で吹き飛び、ブラック・ボックスの壁に激突。
その時には既に、壊れて街角に捨てられたビニール傘のような、哀れな姿になり果てていた。
「……くず鉄でも、ゴング代わりくらいにはなったか」
稲葉は大きく息を吐いた。
「さて、嫌な前例もある。徹底的にぶっ壊しておくか」
稲葉は大破したマシンヘッドに近づくと、再度右手で触れて衝撃波を浴びせる。再度派手に甲高い音が鳴り響き、八本の鉄足は、完全にバラバラにはじけ飛んだ。
細かい部品が飛散し辺りに落下して、小さな金属音がカチカチと鳴り響く。
「宍戸。例の蜘蛛型マシンヘッドは破壊した。そっちも進めてくれ」
「了解。既に降りられる高度まで達している。これより降下に入る」
宍戸は稲葉と連絡を取り合いながら、開いた扉からブラック・ボックスを見下ろしていた。真っ暗な上真っ黒でどうにも奥行きが感じにくいが、稲葉の飛んだ高さほどではないが、未だに高度は二十メートル程ある。
「もう少し高度を下げましょうか?」
「いや、俺達もこのあたりで充分だ」
「え……」
「さっきの稲葉のでわかってるだろう。いちいち反論してくれるな」
宍戸がにらみを利かせて操縦士に言うと、操縦士もそのまま押し黙ってしまった。
「さあ、行くぞ」
「いっ……」
まだ充分に高さはあるが、宍戸は真顔で行くという。その後に起こりそうな未来を想像して一抹の不安を感じ、宗助は妙な声を出してしまう。すると宍戸が眉間にシワを寄せて宗助の方を睨んだ。
「ブリーフィングで言っただろう。俺の能力は触れたものを自在に操る。動かす物の質量や重量で動かせる速度・時間は変化するが……。それを加味して、お前ら全員を安全に運べる距離まで近づいたって事だ……聴いてなかったのか?」
「いえ! 聴いてました!」
「ならいちいち妙な反応をするな。さっさと行くぞ、稲葉が下で待っている」
「は、はい!」
宍戸は掌サイズの鉄輪を全員に渡して、「いいか、しっかり掴まっておけ」と言った。続いて登山などで使われる金具・カラビナを輪にひっかけて、自身の腰のベルトにもカラビナを装着し、それぞれをきつく紐で結ぶ。
「よし、出動だ」
宍戸のその声と同時に、全員が手の中の輪に凄まじい速度で引っ張られる、ヘリコプターの外へ飛び出した。
宗助もある程度の衝撃は覚悟はしていたが、想像以上で、空を飛ぶ手の中の輪を離すまいと必死に掴まっていた。まるで暴れ鳥にしがみついているようだ。必死過ぎて声もでなかった。
そして――。
数秒で、全員がブラックボックスに無事着地。宗助は少し顔色が青くなって片膝をついていたが、他の四人は何食わぬ顔でバックパックに輪をしまっていた。
「聞こえているか。全員無事着地した」
『了解! こちらは近くの島の中継基地にて待機する! 任務の成功と幸運を祈る!』
「ああ。朝までにはまた会うことになるだろうよ」
ヘリはすぐに方向転換し、進んできた方向とは九○度の方角へと飛んでいった。
「……さて、中央に着地はしたが、白神。どこが入り口かわかるか?」
「……幾つかありますが、いずれも、開くにはなんらかの生体認証が必要なようです。その付近を無理矢理侵入すると、少し厄介な事になるかもしれません」
「厄介な事?」
宍戸が尋ねる。
「ええ。中は、思っている以上に多重構造な上、階層それぞれの構造も複雑のようです。通路を遮断さるれるだとか、何らかの先手を打たれるかも」
「セキュリティか」
不破が白神に問うと、白神は頭を一度縦に振る。
「なんだ。招待する、とか言っておいて、ケチな奴だな」
「俺達は招待されていないからな」
宍戸がつまらなさそうに言う。
「まぁでも、不破さんが入り口をこじ開けるって話でしたけど……」
「あぁ、まかせとけ」
千咲が作戦の確認をすると、不破が自信に溢れた表情で親指で自分を指し示した。
「それじゃあ白神、出入り口を探すのは止めだな。出入り口に出来そうな部分を探してくれ」
「了解」
宗助が四人の会話に置いてけぼりをくらっていると、稲葉が駆け足で合流した。
「すまない、待たせた」
「こっちのセリフだ。今から白神と不破で入口を作る」
短いやりとりを済ませると、白神が全員を先導し走り始めた。
*
薄暗い、ブラック・ボックス内部にある部屋の内の一つ。
フラウアはそこで、機械と化した自らの手、を不慣れな様子で動かしていた。
動かす度にモーター駆動音が小さく鳴る。触覚があるような無いような、不快な感覚。フラウアは、すぐ側にあるテーブル上の水が注がれたガラスのコップに機械の手を伸ばす。丁寧さを心がけている様子で、慎重にコップを機械の手で包んでいく。ゆっくり、ゆっくり、小指から順に。指を一本ずつかけていき、そして五本の指がコップにかけられた。だが、フラウアが持ちあげようとした瞬間に、コップは破裂音と共に粉々に砕け散ってしまった。
「未だに加減がわからないな、この腕は」
フラウアはため息を吐きながらコップを握りつぶしてしまった手を開くと。砂粒のように細かくなったガラス片がパラパラと床にこぼれ落ちた。部屋の中をよく見るとあちこちに破壊された形跡があり、そのすべての箇所が生活において自然と触れなければならない場所だった。フラウアは忌々しげに右手を見て、再度強く握り締める。とその時。彼の居る部屋の扉がノックされた。
「フラウア」
そして扉の向こうから聞こえてきたのはシリングの声だった。
「入れ」
フラウアは短く言うと、近くのイスに乱暴に座る。そのイスの手すりの部分も握りつぶされていた。扉が開き、シリングが姿を見せる。
「……来たか」
シリングが部屋を訪れその顔を見せただけで、フラウアは全てを察していたらしく、左手を軽く前に出して『続きは聞くまでもない』という風なジェスチャーを見せる。
「で、生方宗助単独って訳じゃないだろう?」
「ええ、そのようで。他にも数人付いてきているようです」
「一人で来いとは言っていないからな。構わないさ。初めからそのつもりだ」
フラウアはそれらの情報に対して特に気にするような素振りは見せず淡々とそう言った。
「それでは、こちらはどう動きますか?」
「団体で来ているというなら、分散させる。当たり前の事を当たり前にやる。……シリング、僕はお前の能力を高く買っている。今のお前と戦うのは少々、面倒だ、と正直に心から思うほどさ。だがいくらお前でも、あのツバメ共をまとめて一度に相手にするのは難しいだろう」
「……」
「シーカーは好きに使って構わない。どうせブルームのものだ。生方宗助以外は、殺せ。何かしらの邪魔をしてくるだろうからな」
「わかりました……。しかし、ブルームがこちらの独断行動に気づいた時は……? 勝手に船とシーカーを持ちだした事を把握すれば、ブルームは何かしらの妨害をしてくるかもしれません。ブルームが興味を持っている生方宗助を殺そうとすれば、尚更に――」
最後の部分は、シリングも恐る恐る、という様子で尋ねる。だがフラウアは特に大きな反応を見せることはなく、無表情で数秒沈黙する。
「……っ?」
そして次に、仲間であるはずのシリングが戦慄を覚えるほどの邪悪な笑みを見せて、こう言った。
「『それ』のどこに問題が?」
シリングは恐怖を覚えた。
怒りと復讐で冷たく燃えるその瞳が、餓えた猛獣のように鋭く恐ろしい。返す言葉を失っていると、フラウアは再び立ち上がり歩き始め、シリングの横を通り過ぎて扉に向かう。
「行くぞ。そろそろ、この船の中にコソコソとドブネズミのように潜り込んでいる頃だろう。……奴らにツバメの名は勿体無いな」
そう言って鼻で笑ってから、フラウアは部屋を後にする。シリングは後に続く。
(もう、どこへも引き返すことはできない)
シリングはフラウアの背中を見て思う。
(だがそれは、ブルームと出会ったあの時から、既にわかっていた事――)
感情に流され、狂い、盲目になっている。そんな彼とはまた別に、シリングにはこの闘いの先が見えずにいた。




