コンティニュー?
生方宗助は、以前にも似たような景色を体験したのを覚えていた。しかし今回は、以前のそれと比べてずっと高く、ずっと空が近く。そしてずっと怖い。
彼は今、摩天楼の一角で、コンクリートで人為的に作られた断崖絶壁の淵に立っていた。凄まじい強風に体はぐらつき、視線を下に向けると見えない地面に吸い込まれそうになる。
チカチカと、周囲にそびえ立つビルの屋上では様々な色の小さな光が一定の間隔で点滅している。
『飛べ』
『飛べ』
宗助の耳を賑わしているその声達に、頭の中で『無責任なことを言うな』と反論する。
『飛べ』
『飛べ』
『早く飛べ』
何度も何度も、底の見えない地面へと宗助を誘う声が響く。
(うるさい!)
自分の背中を押そうとする声を必死で押し返そうとするように怒鳴って返す。但し頭の中で。
(空なんか、飛べる訳がないだろ!)
それは、宗助の頭の中で響く、心の叫び。
少しだけ、人類と空の話に触れてみる。
人類が初めて空へとその第一歩を踏み出したのは、西暦一七八二年の事だ。
これは気球によるもので、当時一八○○メートルまで上昇することに成功したという。詳しく話せばいくらでも逸話は出てくるが、それはここでは割愛する。
それから飛行船やグライダーなどを経て、世界一有名な自転車屋・ライト兄弟の発明した飛行機が空を飛んだ。そしてめまぐるしい速度で、人類は次々に空へと羽ばたいていったのだ。
今では五○○人以上の人間を乗せて運ぶジャンボジェットや、ヘリコプター、マッハ三の速度を出すような飛行機まで登場し、それぞれ我が物顔で空を飛んでいる。
陸、海、空と順に制してきた人類は、今やその足を宇宙へと向けているのだが……生まれ持った自分の体一つで空を飛んだ人間は、未だにこの世に存在していない。と、一般的には思われている。
当然だ。人間は鳥ではないのだ。人間は人間であって、空を飛ばずに地上に足をつけて歩くのが人間なのだ。妙な合成写真で空を飛んでいるように見せかけて尊敬を集めようとする人間はいても、実際に空を飛べた人間は居ない。空を飛べるなんて言おうものなら、その場で笑いものにされるか、運が悪ければ変な人扱いである。
だが妙な事に、今生方宗助の周囲にとってその認識は逆で、『空を飛べない』と思う事の方が周囲から『根性なし』だとか『意気地なし』だとか思われてしまうような状況なのである。
実際には、空を飛んだ人間は存在していたのだ。宗助も実際にその記録ビデオで見させられた。スワロウ特殊部隊チーム初代隊長・天屋公助が空を翔る姿を。CGでもトリックでもない、紛れも無く人間が空を飛んでいるその映像を。
そしてその映像の中の人間と同じ能力を、宗助が持っているのだと周囲は言う。
話を元へ戻す。
気が遠くなりそうな高さから地上を見下ろしながら体を強ばらせている宗助に、絶えず飛び降りろという旨の言葉が投げかけられ続ける。その言葉たちの真意は、『空を飛べると思って飛んでみろ』という事なのだ。
「おいどうした宗助! さっさと飛べ! 何も地面に飛び降りろって言ってるんじゃないぞ。向こうのビルに飛び移れっていってんだ」
声の主の一つである不破の言葉が、ぼさっとつっ立っているだけ(不破にはそう見える)の宗助を急かす。宗助がそのまま、ゴール地点であるポイントを見る。どう見ても距離や高低差は前回の倍はある。普通の人間の飛べる距離ではないし、人間の降りる高さでもない。一応宗助は、普通の人間のレベルを少し離れ始めてしまってはいるのだが……。
「物事にはちゃんと適度なステップってものがあると思うんだ。だって、いや、おかしいよ、いきなりこの高さは、いや距離もだけど……」
宗助は呆れ果てた様子で、ぶつぶつと独り言を呟いている。すると
「生方君、さすがに助走無しは、ドライブを使ってもきついと思うわ。もっと助走をつけて思いっきり飛ばないと。そこにドライブの推進力を使って距離を上乗せして、それでいて空気の抵抗を作って柔軟に着地をこなすのよ」
秋月の冷静そうだがどこか少し楽しそうな声が聞こえてくる。簡単そうに言うが、宗助の言うとおり注文内容が風船割りから一気に飛躍し過ぎである。
「前もそうでしたけど、そもそもなんでこんな高層ビル群なんですか!? 飛び移る練習するならもっと普通に低い場所で――」
「そっちのが雰囲気出るだろ。さ、飛べ」
宗助のごもっともな抗議も華麗かつ理不尽に砕かれてしまう。宗助はつばをごくりと飲み込む。静寂に包まれた摩天楼。足を一歩動かすのでさえ躊躇いと恐怖を感じてしまう。
「ミスったら死んでしまいますって!」
「VRで死ぬわけないだろ。さ、飛べ」
そう。これも前回と同様、宗助の目の前に広がっている摩天楼はコンピューターが作り出した虚構。そこから落ちても死にはしないし、ケガもしない。
だが相変わらずそのVR空間は緻密な出来で、現実と非現実の区別が全く付かぬ程。宗助の眼下には吸い込まれてしまいそうな闇が広がるばかり。いくら凄まじい速度で成長しているとはいえ、この空間は宗助の人生において二度目の経験。VRであると割り切るのはなかなか難しかった。
だが、いつまでもだだをこねているわけにもいかない事も彼はわかっている。
「これはヴァーチャル……これはヴァーチャル……非現実だ……」
宗助は十二分に自分に言い聞かせてから唇をぐっと噛み、秋月に言われた通り助走を付けるため、一旦その淵から後退する。そして充分な助走距離を取り、一気に空気を吐き出して、吸って、もう一度吐き出す。もう一度大きく息を吸い込み足に力を込めて、全力で駆け出した。吹き荒れる風の中を突き抜けて、小刻みにステップを合わせて、いざ、闇の中へとその身を投げ出した。
「…………………………………………………あれ?」
確かに宗助はビルの屋上から思い切り助走を付けて飛んだはずだったのだが、今彼は、助走をつける前の位置に立ち尽くしていた。
「……確かに飛んだのに……」
今自らが置かれている状況に混乱しながら周囲をきょろきょろと見渡すと、どこからともなく秋月の声が聞こえてきた。
「惜しかったわねぇ、生方君。でも失敗は失敗よ。もう一回トライしてみよっか。大丈夫よ、あなたの最近のデータ上、全力を出せればギリギリ届く距離と高さにになってるから」
「失敗って……」
「だから、生方君。あなた、ギリギリ届かずに落ちたの。あんまり落ち続けるのも気持ち悪いだろうから、失敗したらスタート地点に座標を戻すようにしてるの。ほら、マリオみたいなもの」
宗助はその言葉を聞いてげんなりとしてしまう。その意味するところはつまり、もう一度飛べという事だろう。いや、一度で済めばまだいい。出来るまでやらせるつもりに違いない。宗助は直感的にそう理解した。そしてそれと同時に、小さい頃テレビで遊んでいたあのゲームの主人公は、こんなにも過酷な事をさせられていたのかと、妙な所で感心していた。
宗助は一度飛んだ事によって何かが吹っ切れてしまったのか、先程よりも幾分かリラックスした表情で再び闇の中へと駆け出していく。
「うおおおおおおおおおおおお!!」
と、今度は勇ましい雄叫び付きで宗助は再び勇猛果敢に、空へと飛び出した。
そして。
「……あれから結局全部失敗とか……」
「……まぁ、そう落ち込むなって。だいたい、なんでもかんでも一発でクリアされたらこっちの予定が追いつかん。今回少し無茶させたのは、次回への反発を期待したところも少しあるのさ。誰にだって好調不調はあるから、自信が折れかかった時にどうやって気持ちをコントロールするかってのも勉強だぞ」
宗助と不破は少しだけ休憩を挟んでいて、休憩室のベンチソファに腰をおろしてコーヒーをすすっていた。休憩が終われば次も不破と格闘訓練が待っている。ちなみに宗助はVR訓練内にて、過敏な受験生が見れば発狂しだしそうな程それはもう落ちに落ちまくり、絶賛凹み中である。そんな宗助に不破のそれらしい励ましの言葉が幾つか投げかけられるが、そんなに簡単に自信が回復するほど単純ではなかった。
VR訓練後特有の気分の悪さもあって、宗助はがっくりとうなだれたまま、両手で持っている紙コップだけは落とさぬよう地面と垂直を保っている。ぬかに釘という程ではないが、いくら励ましても良い反応が返ってこない宗助に対して、不破は困り顔でコーヒーを一口すすった。
「あ、居たっ……」
そんな二人のもとへとある人物が訪れる。
「こ、こんにちは、宗助、不破さん」
聞こえてきた幼めの女性の声に宗助は顔を上げる。そこにはリルが、朝に食堂で働いていた時の姿のままで宗助達の前に立っていた。手に何かを持っていて、なにやら少しそわそわしている。彼女がそわそわしているのは割といつものことなのだが、この時は特にそわそわと落ち着きが無い様子だった。宗助は持っていたコーヒーを脇に置いた。
「おっす、リルちゃん。食堂はいいのか?」
「あ、はい、もうお昼の人もだいたい居なくなったので、休憩していいって」
「そっか」
挨拶を返した不破とそんなやりとりをして、リルは宗助の方へちらりと視線をやる。宗助が先に彼女に声をかけた。
「じゃあ、リルも今から休憩か。お疲れ様」
「う、うん。え、えっと。そうなんだけど、そうじゃないっていうか……えっとね?」
労いの言葉に対していまいち煮え切らない返事をするリルを、宗助は不思議そうな目で見つめる。すると、彼女はいきなり、手にもっていた物を宗助の目の前に差し出した。
「こ、これ! ク、クレープ! その、今、練習で、作って……その、おいしくないかも、し、しれないけどっ、その、よかったら食べてっ……その、がんばって!」
しどろもどろな口調だったが、言いたい事は言い切れたのか、宗助に半ば無理やりクレープを渡すと、俯きながら早歩きでぱたぱたと休憩室から出ていってしまった。呆然とその姿を見送る。
「俺のは……?」
不破はぽつりと呟くが宗助は特にそれに反応せず、自分の手元にあるクレープを見つめる。ほのかに香る甘い香り。舌触りの良さそうなクレープ生地の中に、イチゴとバナナをカットしたものが生クリームと共に包まれているのが見える。至極単純な作りであったが、充分にそれは美味しそうなクレープ。宗助はクレープを一口齧る。もぐもぐと味わいつつ噛んで飲み込むと、不思議なことに宗助の心にみるみると元気が湧き上がってきた。
「んん、うまい。おっしゃ、頑張ろ!」
宗助は元気な声でそう言うともう一口、先程よりも多めに頬張った。さっきまでの落ち込んだ様子はすっかりとナリを潜めており、今の宗助には過剰な程のやる気が溢れていた。
人間という生き物はそうそう単純ではないが、男という生き物は時にとてつもなく単純な生き物になるのだ。
「なぁ宗助、俺にも一口」
「無理な相談です」
宗助は不破の申し出を一瞬で却下し、更にもう一口大きな口でクレープに齧り付いた。




