第一章 二つの鈴
昼休みのチャイムが鳴ると、授業中に出せなかった分の声を出すかのように一気に教室が騒がしくなってきた。
中には購買に昼飯を買いに行く者からくだらない話をする者、持参の弁当を一人机に広げる者からと様々だ。
そんな中、前の授業の時に机に突っ伏して眠りに入っていた黒鈴 勇気はその騒がしさに叩き起こされた。
中途半端な眠りでたたき起こされ、最高に気分が悪い。
いっそ全人類死にやがれ、と思う始末である。 ・・・・・・まあ、常日頃そう思っているから何も変わらないのだが。
(飯でも食うか)
寝ていても腹が減るのは、理不尽だと毎日のように思う。
勇気は鞄の中から弁当をあさりだし、うるさい教室から足を出す。
目的地は静かな屋上だ。
屋上へ向かう廊下では、昼の餌を求めて購買に向かうであろう生徒と何度かすれ違ったが、顔見知りは誰一人としていない。
誰に話しかけられることもなく屋上に出た勇気は、自然と息を吐いていた。
人のいる空間が嫌いというわけではないが、やはり一人の空間というのは落ち着ける。
まだ春の少し冷たい風を体全体で浴び、勇気は自分の通っている天乃高校の屋上を見渡す。
「なんだこれ?」
一人だと思っていた屋上には、既に先客が一人いた。
身長が小柄なところを見ると、勇気と同じ一年生だろうか。身に着けているセーラー服は、まだ冷える春だからか長袖だ。少しブカブカで手のひらの半分が隠れているところを見ると、これから身長がでかくなることを期待して少し大きめのものを注文したのだろう。
髪の毛は校則違反の赤色。短めに切っているショートカットヘアだ。
最初のころは教師もうるさく言っていたが、最近では髪の毛を染めている生徒の数が増えてきているせいか黙認状態だ。
校則違反と言えば、この少女のスカート丈の短さもそうだ。本来なら膝丈のはずだが、それよりも短い。
顔は可愛いのかどうかわからない。
というのも、この少女は堅いコンクリートでできた屋上でうつぶせに倒れているのだ。
当然顔が見えるわけもなく、背中だけが見える。
「・・・・・・」
勇気は少女の方に足を運び、
「・・・・・・」
そのまま横を通り過ぎた。
よいせっ、とフェンスに背中を預けるように腰を下ろす。
何か見た気がしたが、気にしないことにした。
弁当箱のふたを開けると、美味しそうないい匂いが漂う。
―――ぐぎゅるるるるる
鳴り響いた盛大なお腹のなる音。
勇気は顔をあげ、腹の音の持ち主を見る。
もちろん、なぜか倒れている少女をだ。
「おなか、すいた」
顔を横に向け、少女は呻くようにそうつぶやいた。そのまま顔をあげ、少女は勇気をではなく弁当に目を向ける。
「・・・・・・おいしそう」
おそらくその角度からでは、弁当箱の中身は見えていないだろう。
勇気は自分の手の中にある弁当を欲しそうな目で見ている少女の顔を見て、思わず息を飲み込んだ。
美少女だ。
とにかく、素直に可愛いと思える。
まだこの学校の生徒の顔はほとんど覚えていない勇気だが、幼さが残る少女の顔は、一、二を争うぐらいは可愛いんじゃないかと思ってしまう。
なぜか涙で潤んでいる目は、髪の毛と同じく赤色。
「俺の飯だ。やらねえからな」
「うう。ケチ」
「自分の飯を食え。ないなら買いに行け」
そういうと勇気は綺麗にできている卵焼きを口に放り込んだ。
「今日の朝、寝坊したから朝食べてない」
「それは残念だな」
「慌ててたから財布も忘れちゃった」
「帰るまでの辛抱だ」
「君、ひどいよ」
少女はひどく残念そうにそうつぶやくと、力尽きたかのようにまた倒れてしまった。
―――ぐぎゅるるるるる
鳴り響くお腹の音は、なんだかさっきよりも大きく聞こえる。
ため息をつき、勇気は弁当を手に持って少女の近くによる。
「ほれ」
「?」
近づいてきた勇気に、少女はキョトンとした表情で顔をあげる。
勇気は唐揚げを箸でつかみ、少女に向けて唐揚げを近づけた。周りから見れば、餌付けをしているようにも見える。
それを少女は唐揚げと勇気の顔を交互に見比べ、次第にその表情に笑顔が咲いていく。
(・・・・・・まあ、悪くはないな)
元から可愛かった少女が笑い、さらに可愛く見えてきた。
唐揚げひとつでこんな笑顔を見られたならば、もう少し早くあげればよかったかな、とわずかに後悔をする。
「あ、ありがと」
嬉しそうに笑いながらも、少し恥ずかしそうに頬を赤らめる。
「か、間接・・・・・・キス、だよね。これ」
「俺は別に気にしないけどな。間接キスぐらい」
「あ、あたしは気にするの!」
寝転がった姿勢のままそういわれても、子供が声を大きくしているようにしか聞こえない。
さっき勇気は気にしないと言ったが、正直に言えば少し嘘になる。
こんなに可愛い女の子となら、間接キスだろうと少しは嬉しい気分にはなれるだろう。それに、少しは恥ずかしくもある。
この際弁当をすべてあげて、キスでも迫ってみようか、と言っている悪魔の囁きは無視する。そうしたいのはやまやまだが、さすがにそれはかわいそうだ。
「食うのか? 食わないのなら俺が全部食うぞ」
「た・・・・・・食べるっ!」
間接キスが恥ずかしいだとか、食欲の前では少女にとってはかろうじて抑え込むことができる問題だった。
それでもまだ恥ずかしいのか、その顔にはためらいが見える。
「い、いただきます!」
少しやけくそ気味に少女は寝転がっている体を前に出して唐揚げに食らいついた。
・・・・・・はずだった。
「あ、れ?」
ちゃんと唐揚げがあった場所に噛みついたはずなのに、唐揚げはまだ目の前にあった。
もう一度同じように噛みついても、伝わってくるのは歯と歯が合わさる感触。
答えは簡単だ。
少女の柔らかそうな唇が唐揚げに触れる寸前に、勇気が唐揚げをひっこめる。
それをするだけで、少女の口の中には唐揚げは絶対に入らない。
悪戯とかでやっているわけではなく、勇気は元から食べさせる気はない。
「なんで笑ってるの?」
「いや。まさか引っかかるとは思わなくてな、つい」
ついに笑いがこらえきれなくなり、勇気は声をあげて笑う。
むくっと頬を膨らませて明らかに不機嫌そうにしている少女には悪いが、あれは正直かなりおもしろかった。
「ほれ。食わないのか? くくっ」
抑えようと思ったが、思い出しただけで笑いがこみあげてくる。
「君なんて大嫌い!」
いきなり名前も知らない可愛い少女に大嫌いと言われた。
まあ、確かに今のは自分も悪いところがあったな、とほんの少しだけ勇気は反省する。
「うまいな」
唐揚げを口に放り込み、勇気は素直な感想を口にする。
「・・・・・・もういや」
「おい?」
大きなおなかの音を鳴らしながら完全に倒れた少女に、わずかに戸惑いを見せる。
しばらく待ってみたが、少女からは一言も言葉が発せられる気配がない。
試しに箸でほっぺたをつついてみたが、わずかに肩が揺れるだけだった。
ため息をつき、勇気は屋上から足を出す。
さすがに、誰かが倒れている場所で飯を食う気にはなれない。
「あ、弁当忘れてきたな」
手に何も持っていないことに気づき、勇気は教室へ向かっていた足を購買へと向かわせる。
本当なら購買よりも、屋上に弁当を取りに行った方が早いのだが、どうせ今から行ったところで無駄だろう。
あの腹減り少女の腹に収まってるきしかしない。
下駄箱で靴を履着替えながら、勇気は憂鬱な気分になっていた。
どう言い訳すればいいのだろう。
問題は弁当箱だ。
今日の授業がすべて終わり、屋上に向かってみればあの腹減り少女もいなければ、弁当箱も置かれていなかった。
代わりに置かれていたものは、
『ありがと。お弁当、美味しかったよ』
と書かれた女の子らしい丸っこい文字で書かれたメモ。
それを見た瞬間破り捨てようかと考えたが、あいにくとしわもついていない状態でポケットの中に入っている。
あの弁当がうまいのは、毎日食べている勇気が一番よく知っている。
けど、まさか弁当箱まで食べるとは、さすがに予想できなかった。
「どうすっかな」
靴に履き替え、校門から学校を後にする。
勇気の家には一人の妹がいる。両親は居ることになっているが、もう長いこと帰ってきていない。実質、妹との二人暮らしだ。
問題はその妹だ。
名前は黒鈴 優。
勇気の食べている弁当はいつも優に作ってもらっている。
(なくしたって言ったら、あいつ怒るだろうな)
別に怒られるのが怖いとかではない。
とにかく面倒だ。
いつもすぐに済むし、そのあとも普段通りに戻るのだが、怒られるという状況はとにかく面倒くさい。
こんなことなら、弁当箱は食うな、と言うべきだった。
勇気はため息をつき、ブルブルとなり始めた携帯を耳に当てて通話ボタンを親指の腹で押し込む。
『私だ』
「画面見たんだから、それぐらいわかる」
『それもそうか』
「それよりいいのか? 携帯に電話なんかしてきて。盗聴されることもあるぞ」
『なに。そこら辺は何とかしているさ』
ここまではいつものやり取りだ。
少し話は変わるが、高校生がこれから選ぶ道はおおざっぱに見て、就職か進学かのどちらかだろう。
三年生の先輩たちは今頃自分の将来を親に、教師に決めるように言われている時期のはずだ。
就職を希望する者は求人票の中から自分のやりたいもの、見合うものを選び、進学をするものは学校を決め、試験のある学校ならば勉強をし始める。
だが、おそらく勇気はそのどちらにも属することはない。
『早速だが、仕事だ』
そう。勇気は既に、誰にも言えない仕事をしている。
本来ならば高校に来る必要はないのだが、これも怪しまれないようにするために必要なことなのだ。
「今回のはどれだ?」
『ASだ』
その単語にまたか、と思わずため息をついてしまう。
これでこの単語を聞くのは何度目だろうか。
AS。
初めてその言葉の意味を聞き、命令されたときにはかなりの抵抗を覚えたものだ。
それが、今では抵抗がほとんどなくなってしまっている。
言葉の意味は『暗殺』。
単純な言葉遊びみたいなものだが、直接電話越しで伝えるには、こっちの方が何かと都合がいい。
もし誰かに聞かれたとしても、すぐにばれる可能性が少しでも減るのだから。
「ターゲットは?」
『例の場所で話す。至急来たまえ』
その言葉を最後に、ツーツーという通話が切れた音が耳に聞こえてきた。
勇気が携帯をポケットにしまおうとしたとき、
ドンッ
「きゃっ!」
「うおっ!」
突然背中を押され、前のめりに倒れてしまう。
地面に激突はしないように反動を受け流しつつ受け身をとり、いつもの癖ですぐに立ち直る。
「ご、ごめん」
謝ってきたのは昼間の腹減り少女だった。
その手には携帯を持っていて、見えた画面からは誰かと通話しているのが分かる。
どうやらぶつかった拍子に倒れてしまったらしく、しりもちをついている。
「おまえ、ミニスカはやめとけ」
「へ? ・・・・・・きゃっ!」
短いスカートがまくれ上がっていることに気づき、少女は赤面しながら慌ててスカートを正す。
座ったまま少女は勇気を涙目でにらみ、
「み、見た?」
「見てない。それより、電話はいいのか?」
「っ! い、急ぐから、じゃあねっ! また明日っ!」
赤かった顔から血の気が引いたかと思うと、突然走り出していった。
携帯を耳に当てると、相手側から大声を出されたのか耳から放している。
見てないと言ったが、本当はバッチリとみていた。
柄を思い出そうとしたが、さすがに可哀想だと思い、記憶の片隅に封印する。
それにしても、『また明日っ!』とはどういうことだろう。
少し考えてみたが、全く分からなかった。
「つうか、なんでぶつかってきたんだ?」
ここは別に細い道でもないし、視界も悪くない。
よほど目が悪いのか、それとも通話に集中していて周りを見ることでも忘れていたのだろうか。
どっちにしても間抜けだ。
「俺も急ぐか」
弁当箱のことを聞くのを忘れたが、どうせ同じ学校の生徒だ。
明日にでも見つけ出して、本当に弁当箱まで食べていたならば、弁償させてやらねばならない。
もし持っていたならば即座に取り返し、無いなら無断で家にでも侵入すればいいだろう。
勇気はまだ手に持っていた携帯に傷が入っていないのを確かめると、ポケットの中に滑らせる。
わずか数十秒のロス。
このロスは、勇気が思っていた以上に重たいものだった。
今現在、勇気の目の前にはネットカフェ、略称ネカフェがそびえ立っていた。
看板には、『ガンマンガ』という何ともダサい店の名前が記されている。
勇気がここに来たのは別に漫画が読みたいわけでもないし、ネットを使いたいわけでもない。
むしろ、少し急いでいるこの状況では使いたくても使えない。
ならばなぜこんな場所に来ているのか。
ここが目的地だからだ。
勇気が店内に入ると、受付の人は書類に見た目は客として書き、すぐに一番奥の個室に案内した。
手渡された紙は表面上のものだけで、破り捨てたとしても一切問題ない。
パソコンのディスプレイを脇にどけ、その奥にある壁に軽くノックをする。
すると床が音もなくゆっくりと開かれ、そこには下へと降りる階段が出現した。
初めて見たときはわずかに興奮したものだが、最近では一連の作業として認識している。
階段を降り切り、しばらく長ったらしい廊下を歩かされると、コーヒーの独特なにおいが漂って来た。
「やあ。まっていたよ」
廊下を抜け、無駄に広い部屋に出ると、コーヒーカップを片手に持った男が椅子の上から手招きしてくる。
部屋を見渡してもその男一人しかおらず、勇気は仕方なくその男に誘われるように近くによる。
「君も飲むかい?」
「あいにくと苦いものは苦手なんだ。一人で飲んでてくれ」
男は愉快そうに笑い、途端に真剣な表情になると、パソコンの画面を操作し始めた。
「さっそく仕事の話だ」
その言葉に、思わず勇気も緊張する。
やはりこの瞬間はいまだになれない。
「今回の暗殺は数年ほど前から営業を開始しているカジノのオーナーだ。名前は必要か?」
「いや、名前はいらない」
いつものように勇気は首を振る。
「名前を聞いても、殺すんだからいらない」
「そうか」
その男の表情には、わずかに残念そうな表情が浮かんでいた。
村雨 菊次郎
それがこの男の名前だ。
歳は三十程度。ちらほらと黒髪の中に白髪が混ざり始めているが、その体躯は勇気に比べて一回りも二回りも大きい。
昔は軍人に属していたらしいが、数年ほど前からここで勇気のサポートを務めている。
「顔はよく覚えておけ。別人を殺しでもいたら、後始末が面倒だからな」
「わかってるって」
画面に表示された男の画像を見ながらそうぼやく。
いかにも、といった悪党顔。
歯は金歯で埋め尽くされ、両手には大量の宝石が付いた指輪。
菊次郎とは違う意味で体が大きく、横に太っている。
「ずいぶん贅沢だな」
「ああ。詳細によると、違法な手段で金を荒稼ぎしているようだ」
「違法な手段?」
よくあることなのだが、思わず聞き返してしまう。
「不正に結果を操り、負けて破産した人間を自分の餌にしている、と書いているな。主に男ならば臓器を売り払い、女なら奴隷として売るなどだ」
「ようするに、人間を動物扱いしてるってことだろ?」
「そういうことだ。引き受けるかい?」
勇気の返事はすでに決まっている。
「ああ」
頷いた。
その口元は悪魔のように歪み、真っ黒だった瞳は、血を連想するかのように真っ赤に染まっていた。
勇気は画面から目をはなし、菊次郎に背中を向けて隣の部屋へと移動する。
その背中を菊次郎は目で追いながら、重いため息をついた。
「あまり能力をむやみに解放しないでくれ。ばれれば処理が大変のだぞ」
当然その声は勇気の耳には届かず、返事は帰ってこなかった。
金属質な感触が手には伝わり、その冷たさは死を連想させる。
今はもう勇気の目は赤色から黒色に戻り、その手の中には一丁の銃が握られていた。
見たところはスナイパーライフルに当たりそうなのだが、どこの軍人が使用している物とは、全くの別物だ。
形状はほとんど同じなのだが、遠距離を見るためのスコープが付いていない。
それに弾を詰める個所もなく、あたりには銃弾の一つも見当たらない。
これでは、普通の人間からしてみればただの飾りにしかならない。
その銃を簡単に分解し、少し大きい鞄の中に丁寧に詰め込んでいく。
本当はケースに入れたいところなのだが、前回の任務で破壊してしまっていて修理に出しているところだ。
銃弾もスコープも、勇気にはいらない。
そんなもの、今回の任務には不要だ。
鞄に銃をしまい終え、最後に顔を覆い隠せる道化師のような仮面を銃の上に載せるように鞄に詰め込んだ。
チャックを閉め、肩から背負うと、ずっしりとした重さが鞄から伝わってくる。
そのあとまだ着替えていないことを思いだし、制服を脱ぐと普段着へと着替える。
何か特殊なスーツとかを着ればカッコいいのかもしれないが、目立つような服装は危険だ。
部屋から出ると、菊次郎に目的地の記された地図を手渡された。
その地図を一瞥し、裏を見ると名も知らないターゲットの居る建物の写真が全方位から撮影されていた。
その最上階には、偉そうに豪華そうな椅子に座り、複数の女に囲まれてタバコを吸っているターゲット。
右下の方を見ると、そこにはほんの数分前の時間が記されていた。
つまりは、今ここにターゲットがいるということだ。
「ここからだと十分ぐらいか」
もちろん徒歩で行くわけではない。
長い廊下を再び抜け、ネカフェの受付に紙と代金を手渡す。
そのままネカフェから出ると、その裏手にある駐車場へと足を運び、目当てのものを見つけると勇気はそちらに足を運ぶ。
その目線の先にあるのは一台のバイクだ。
鞄を肩にかけたままバイクにまたがり、ヘルメットを着用する。
ポケットから鍵を取り出し、エンジンをかけると、一瞬だけ耳障りな音がしたが、すぐに静かに音が消えていった。
ターゲットの居る場所は最近この東京にできた金才羽ビル、というところだ。このネカフェ、マンガンマからはさっき言ったように、バイクで行くと約十分の位置だ。
だが、勇気の行く先はそこではない。
ターゲットの居るビルに直接乗り込めば目立ってしまうし、スナイパーライフルという遠距離武器を持っていく意味がない。
勇気はポケットからさきほど渡された地図を取り出し、狙撃ポイントを一瞬のうちで決める。
場所は450メートルほど離れたところにある、ターゲットの居る階層とほとんど同じ高度にあるビルの屋上。
そのビルをナビに登録し、勇気はバイクを走らせる。
高校生の身である勇気にとって、バイクに乗るという行為は当然校則違反だ。
だから、たとえば隣で走っていた車に教師が乗っていればどうなるだろうか。
そのまま車で「まて!」と言われながら車で追いかけまわされ、巻き終えたころにはだいぶ時間をロスにしてしまっていた。
このままでは明日学校に行けば、確実に呼び出しを受けてしまう。
(あいつにまかせて、口止めでもさせるか)
あいつというのは菊次郎のことだ。
口止めは何をしているのかは知らないが、生きているのならば何も問題はないだろう。
バイクを駐車場に止め、ビルの中に入るとエレベーターで昇る。
監視カメラがないことを確認すると、勇気は鞄を少し開き、その中から仮面を顔に付ける。
これで誰かとすれ違ったとしても、顔立ちを見られることはない。
ポーンという音が鳴ると、スーとドアが開き、勇気の顔に風が吹き付けられる。
屋上に吹き荒れる風は思ったよりも強く、服がパタパタと揺れる。
勇気は即座にターゲットの金才羽ビルを見つけ出し、鞄の中の銃を組み立てていく。
完成した銃身はやはりどこの軍が使っている物とも形状が異なり、スコープが付いていない。
準備していた時と同じように、鞄の中にはスコープがなければ銃弾も入っていない。
勇気は片膝をつき、完成したライフルを金才羽ビルに向けて構える。
当然のようにどの部屋に誰がいるかなどわかるわけなく、そこに部屋があるということしかわからない。
「やるか」
その一言で、勇気の闇のように黒かった瞳が血のように真っ赤に染まりだした。
同時に視界が広がり、さっきまで見えなかった金才羽ビルの一つ一つの部屋までが、くっきりと映る。
「居た」
ターゲットは相変わらず豪華そうな椅子に腰かけていた。
さっきとは違う点は女どもに囲まれていないことか。
だが、それの方が騒がられる心配もなくていい。
銃口をターゲットの頭に向けながら、勇気は重大なミスに気が付いた。
「わかんねえ」
勇気の人生の中で450メートルという距離からの狙撃は今回が初めてだった。
そして、その距離を勇気は少し甘く見ていた。
今の勇気にとって、この450メートルという距離は何の障害もなくはっきりと見える状態だ。
だがしかし、見えるだけであの頭を撃ち抜けるというわけではない。
では何が問題か。
着弾点が分からない、だ。
よくある300メートルならばこれで問題なく、500メートル以上ならばスコープを使っていた。
スコープならば、レンズに着弾点の目標線があるのだが、今は全くそういったものがない。
300メートル以内の距離はそれがなくても目測でほとんど正確に測れ、前にやった400メートルも少しはズレたが、問題はなかった。
スコープが元からついていない銃には、オープンサイトという銃の前方と後方にある凹凸を使った照準を合わせる方法があるのだが、本来はスコープを使ってターゲットを探すスナイパーライフルのような銃器には付いていない。
これからは念のためにスコープも常に持っていくか、と思いながらライフルを構え治す。
(・・・・・・適当に撃つか)
少しぐらいのズレならば、当たる寸前に軌道を修正すればいい。
もし大きくそれれば・・・・・・まあ、その時はその時だ。
だが、スコープに対しての問題を除いたとしても、客観的に見ればまだ大きな問題がある。
なにしろ、そのライフルには銃弾が込められていないのだ。
そもそも、このライフルには銃弾を込める個所など元から存在しない。
勇気はその指を引き金に掛ける。
(銃弾はいらない。あんなもの、俺たちにしてみたら邪魔なだけだ)
その赤い双眼が怪しく光り、頭の中に無数の計算式が導かれる。
風向き、風力、対象との距離、角度・・・・・・それらすべてが一瞬のうちに答えとして出され、ライフルの角度を調整する。
これであとは引き金を引くだけだ。
これでちゃんと当たるのか少し不安だが、400メートルができたのだから、今回もできると自分に言い聞かせる。
勇気は銃身を揺らすことなく息を吸い、引き金をひ・・・・・・
―――く寸前異変が起こった。
突然ターゲットの頭から鮮血が噴き出したのだ。
勇気はまだ引き金を引ききっていない。
それはつまり、まだ勇気は何もしていないということだ。
(誰だ!?)
心中でそう叫び、おそらくターゲットに銃弾が飛んでいったであろう場所に銃口と一緒に体ごと振り向く。
「・・・・・・」
確かにそこにはいた。
顔は勇気と同じように道化師のような仮面で覆い隠されてはいるが、赤い髪の毛までは隠しきれていない。
服装はよくある普段着で、ズボンの代わりに膝丈もないスカートをはいている。
その服、髪の毛は風で靡き、スカートの方は風にさらされていてもおかしくはないはずなのに、その周囲だけ風がないかのように静かに重力に従っている。
その距離わずか二百メートル。
三つほど隣のビルの屋上に、その狙撃者は勇気と同じように片膝をついている。
そして、やはりそのスナイパーライフルはどこの軍が所持しているものとも形状が異なり、スコープが付いていない。当然オープンサイトも付いていない。
(まじか。あそこから一発で当てたのかよ)
おそらくあの場所から金才羽ビルまでは600メートルほどはあるはずだ。
ふつうあれほどの距離が離れれば、よほどの自信家ぐらいしかスコープなしで狙撃などおこなわない。
だが、彼女の表情は読めなくてもこれだけはわかる。
(あいつ、絶対に当てれるってわかってたんだな)
自信家ではなく、それだけの実力を持っているのだろう。
同時に勇気は、あいつは危険だと直感がそう告げているのが分かった。
だからこそ、わずかにためらいこそあったが、引き金を引いた。
その瞬間、銃弾の込められていないライフルから、一発の銃弾が音速をはるかに超えて飛び去って行った。
狙いは彼女の脳。
この距離ならば一秒のラグもなく、彼女の頭はさっき彼女がやって見せた男のように鮮血を吹き出すことだろう。
しかし、彼女は目にもとまらぬ速さで体を捻り、勇気の放った不可思議な銃弾を撃ち落した。
そしておまけとばかりにもう一発の弾丸が、彼女のライフルから放たれた。
合計二発の弾丸を、わずか一秒足らずの間で連続打ち出すなど、規格外もいいところだ。
あり得ない反応速度だ。
明らかに、人間の反応速度を超えている。
だが焦る必要など一つもない。
勇気は自分の眉間に飛来してきている音速を超える弾丸を、正確に撃ち落した。
続けざまに飛来してきた弾をすべて撃ち落していく。
時には相手の命を狩るために彼女の脳に銃口を向け、そうでなければ飛来してくる弾丸から自分の身を守るために弾丸を打ち消す。
その交戦もわずか数秒のうちに終わり、少女は唐突に建物の陰に身を隠し始めた。
勇気もすぐ様陰に身をひそめ、額に浮かんでいた汗を拭き、たまっていた息を吐き出す。
今の打ち合い、徐々にだが勇気は押され始めていた。
連射速度、弾丸の速度、正確さ、それらすべてがあの少女の方が上だ。
このまま打ち合いを続ければ、おそらく勇気は負けてしまうだろう。
それの意味するところは、確実な死。
勇気はエレベーターに目を向ける。
ここからエレベーターに走れば、一瞬だが彼女の前に無防備な身をさらすことになる。
だが、これ以上ここにとどまることの方が危険だ。
相手の武装に何があるのかわからない以上、爆破系の物が相手の手元にあると考えた方がいい。
今相手が身を隠しているのも、それを準備しているだけなのかもしれない。
(かけだな)
勇気が身を出せば、彼女は確実に仕留めるために発砲するだろう。
ここからエレベーターまで全力で走れば、おそらく彼女は一発しか発砲できないはず。
その一発だけしのぎ切りさえすれば問題はない。
勇気はライフルを構え、エレベーターのボタンに向けて発射した。
その弾丸はボタンに当たっても貫くことはなく、その場で跳ね返ったりもせずに文字通り消滅した。
まだ誰もエレベーターを利用していなかったのか、エレベーターのドアはスーと開く。
その瞬間勇気はアスフェルトにひびが入るほどの勢いで地をかける。
視界の端で見えたマズルフラッシュを確認すると同時に勇気もライフルを構え、それをわずか1メートルほど手前で打ち消した。
次の弾が飛んでくる前に勇気はエレベーターに転がり込み、一瞬のラグも許さずに閉めるのボタンを力一杯に押し込む。
勇気はいつの間にか詰まっていた息を吐き出し、ライフルの先端で拾い上げた鞄とライフルを壁に立てかける。
「ッ!」
エレベーターが閉まり切る寸前、勇気は大変重大なミスに気が付いた。
ここからでは、あの少女からは丸見えだ。
壁際に寄ろうとした勇気だったが、そこで彼女の異変に気が付いた。
少女はライフルの構えを解き、勇気を血のように赤い瞳で見つめていた。
仮面で顔は見えないが、勇気にはため息をついているように思えた。
バイクを止め、勇気がガンマンガに入ると、さっきと同じ個室に案内された。
同じように長い廊下を抜けると、菊次郎のほかに一人生きている人間が増えていた。
生きているとあらわしたのは、たまに死体も運ばれているからだ。
「誰だそいつ」
「紹介しよう。新しい仲間だ」
その少女は菊次郎に背中を叩かれ、勇気の前に押し出される。
「あわわ。え、えと。桐谷 彩です」
頭を下げ、彩ははにかむ様に笑顔を作った。
スラッと腰の長さまで伸びている髪の毛は、何色にも染められていない黒。
整った顔立ちは白い。
そして美人だ。
しばらく綾の顔を見つめていると、徐々に赤みを帯び始め、恥ずかしそうに顔をそらされた。
「あ、あの。そんなに見られたら、ちょっと恥ずかしいです」
「ほお。もしかして一目惚れ、というやつか?」
「ひ、一目惚れ!?」
菊次郎の冗談交じりのたわごとに、彩は本気にしたのかあわわと手をさまよわせる。
「なわけあるか」
「そ、そうですよね」
勇気に一言に冷静さを取り戻した彩は、勘違いした恥ずかしさに、顔を手で覆い隠してその場でうずくまってしまった。
「で、誰なんだこいつ」
「ひどいです! さっき名乗ったばかりです!」
ガバッと起き上がった彩の目には、さっきまでとは違う意味で涙が浮かんでいた。
「何者なんだ? って意味の質問だ。ここにいるんだったら、それぐらいわかれ。アホ」
「・・・・・・この人なんかムカつきます」
「奇遇だな。俺もだ」
勇気と彩はにらみ合い、見えない火花が散る。
その様子を菊次郎はため息をつき、間に入って二人を押しのけた。
「君らはもうちょっと仲良くしたまえ。クラスは違うようだが、一応は同じ学校の生徒なのだぞ?」
菊次郎にそう指摘され、勇気は初めて気が付いた。
彩の身に着けている制服は、勇気の通っている天乃高校のセーラー服だった。
校則はきちんと守るタイプなのか、スカートはちゃんと膝丈で、切られている様子はない。
少し視線をあげた先にある胸部は、ずいぶんと豊かだ。
「いやらしい目で見ないでください。変態さん」
「誰が変態だ。誰が」
「あなたしかいません」
再びにらみ合う二人に、菊次郎はため息をついた。
「というより、変態さんこそ誰なのですか?」
ため息をつき、彩はそう聞く。
「変態はやめろ。俺には黒鈴 勇気って名前があるんだ」
「黒鈴さんですか。鈴が腹で漢字の位置が逆だったら『腹黒さん』って呼べたのに、残念です」
「そう言うお前は、やがゆだったら『鮎』だったのにな」
「ぐぬぬ。なぜ小学校の頃の私のあだ名を知っているのですか。さすが変態さんですね。死ねばいいのに」
フンッと顔をそらした彩に、勇気は無性に殴りたい衝動にかられた。
だが相手は、生物学上は一応女に入る。
なんとなく今回は見逃そうと思い、拳を握りかけていた右手から力を抜く。
「そろそろ説明しろ。こいつがここにいる理由を」
これ以上この女の相手をするのは時間の無駄だと思い、勇気は話しを切り替えることにした。
それに、ここにいるということ自体に、わずかに興味も持ってしまっていた。
なんとなく予想はついているが、やはりちゃんと聞いておきたい。
「うすうす気づいていたとは思うが、この子は『適合者だ』」
やっぱりな、と勇気は小さくつぶやいた。
同時にその言葉が深く突き刺さり、自分の特異性に改めて気づかされる。
「あまり気にするでない。君の場合、元が特殊なだけだったのだよ」
「わかってるっての」
「?」
二人の会話に、全く内容が理解できなかった彩はわずかに首を傾げた。
それを勇気は無視する。
「ってことは、こいつは一度死にかけたってことだな?」
「昨日の夜のことだ」
それを聞き、勇気は昨日の夜に見たニュースを思い出した。
別にどこにでもある交通事故。
それが記憶残っていたのは、車に引かれたはずの被害者が姿を消していた、ということだ。
最初は単に帰っただけだろ、と思ったが、その場に残された血痕の量からして自力で歩くことは困難だろうし、第一血の跡が広まっていなかったそうだ。
「じゃあ、あんたらがこいつをその場から拉致って来たってことだな」
「言い方は悪いが、間違ってもいないか」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「なんだ? 死にぞこない」
「死にぞこないじゃありません! 第一、私の体には傷なんてどこにもありませんよ! もし昨日に交通事故とかに会っていたとしても、傷がないなんておかしいじゃないですか!」
その彩の言葉に、勇気はわずかな違和感を覚えた。
何か言い方が引っ掛かる。
「本当にないのか?」
「あるわけないじゃないですか。だって、私はさっきこの制服に着替え直したばかりなんですよ? 朝学校行こうと思って目を覚ましたらここにいたからびっくりしましたけど」
「じゃあ、昨日の夜お前は何してた?」
なんとなく刑事っぽいセリフになったがどうでもいい。
「そんなの・・・・・・そんなの・・・・・・・・・・・・あの、私事故になんてあってませんよね?」
菊次郎に向けられた彩の目には、わずかに涙が浮かんでいた。
それは何かにすがるような、同時に恐怖も含んだものに酷似していた。
だが、なぜ自分自身のことをわざわざ他人に聞く必要があるのだろうか。
「残念ながら、君は昨夜車にひかれ、致命傷だった。幸い脳に損傷はなかったがね」
「で、でも! それだったら何どこにも怪我が」
へなへなとその場に座り込み、顔をくしゃくしゃと歪め、今にも泣きそうになる。
「なあ、まだ『適合者』の説明してないのか?」
「しようと思ったところで君が帰ってきたのだよ」
困ったよ、と言いたげに菊次郎は両手をあげて首を振った。
殴りたい衝動に駆られたが、かろうじて我慢する。
「というわけで、君からこの子に説明してやってくれたまえ。私は少しやることがあるのでね」
「おい待てこら!」
勇気に背中を向け、菊次郎は振り返ることなくドアの奥へと消えて行ってしまった。
だが、菊次郎がここまで人の言うことも聞かずにどこかに行くのは珍しい。
残された勇気は盛大にため息をつき、まだ座り込んでいる彩に視線を向ける。
しばらくそのままでいた彩だったが、勇気の視線に気づきゆっくりと唇を開いた。
「あ、あの」
「なんだ?」
「あなたに何か頼みごとをするのはとても屈辱なのですが、ぜ、ぜひ教えてください。私、自分の身に何が起きたのか、全部知りたいです!」
その言葉には強い意志が込められており、泣きそうだった顔は引き締まっている。
恥ずかしがったり、怒ったり、泣きそうになったりと大変忙しい顔だ。
だが、そういう人間らしいところは案外嫌いではない。
「俺も詳しくは知らないが、あいつが言ってたことは事実だろうな。お前は多分、事故にあってる。で、死にかけた」
「その証拠、はありますか?」
どうやら自分が事故にあったということを、簡単には信じたくはないらしい。
それも当然か、と勇気は思い出した。
「さっきあいつが『適合者』って言ってたこと覚えてるか?」
「はい。それはいったい何なのですか?」
勇気は一度目をつぶり、十年ほど前の自分を思い出した。
確かあの時、菊次郎に同じ質問をしていたはずだ。
なぜかそれがおかしく、つい口元が緩んでしまった。
「な、何かおかしいことでも言いましたか?」
「いや、ちょっとした思い出し笑いだ」
へんなの、と彩は首を傾げた。
それで少し緊張がほぐれたのか、険しかった表情が緩んだ。
「まず言うのは、『適合者』ってのは、死にかけた人間にしかなれないってことだ。例外もたまにあるけどな」
「・・・・・・」
「だからお前が一度死にかけたってことは、否定しようが本当にあったことだ。つうか、なんで覚えてないんだ?」
事故の時のショックで記憶がないという場合もあるが、なんとなく聞いてみた。
彩は口元をきつく結び、逃げるように視線を床に向ける。
「覚えてないんです、全部」
「記憶喪失か?」
「い、いえ、そうじゃなくて。なんだか何かを思い出そうとしたら、靄がかかったみたいになってぼんやりとは思い出せるんですが、それが自分のものだって認識できなかったり、こんなバカなことあるわけないとか、頭の中がグチャグチャしてるんです」
「ああ、それか」
「わかるんですか!?」
「ああ。多分もうじき死ぬんだろうな」
本気度はゼロ。からかい百パーセントの嘘だ。
そんなことを知らない彩はクシャクシャとしわくちゃの紙みたいに顔を歪め、今にも泣きそうなほど目を涙で潤す。
ここでもっとたちの悪い冗談を言えば本気で泣かせそうだったが、さすがにそれはかわいそうだと踏みとどまる。
「冗談だ」
「ほ、本当ですか?」
「俺としては残念だが、お前はまだ死ぬことはないだろうな。ついでに言うと、事故の後遺症もないとは思うぞ・・・・・・泣くな」
「だ、だって。あなたに変なウソ言われて、ヒック怖かったエグッで、安心したら・・・・・・」
涙を拭き取っているが、その目からは決壊したダムのように涙が止まる様子はない。
勇気はため息をつき、ハンカチを差し出すと隣室に移動した。
自分で泣かせたとはいえ、やはり女の子が泣いている姿を見るのは嫌いだ。
しばらくすると、目頭を赤くした彩が胸元にハンカチを握った手を当てて部屋に入ってきた。
「黒鈴さんは最低な人ですね」
「・・・・・・」
「ですが、ハンカチを貸してくれたのと、一人にしてくれたのはちょっとだけ嬉しかったです。少しは気が利くんですね」
「それは馬鹿にしてるのか? 褒めてるのか?」
「褒めてますよ?」
口元に手を当て、クスッと彩は笑みをこぼした。
その表情が可愛くて、思わずドキッとしてしまう。
「と、とりあえず続きを聞くか?」
一瞬声が裏返ってしまったが、何事もなかったかのようにそう彩に問いかける。
「お願いします。でも、もうあんなたちの悪い冗談は言わないでくださいね? 私、ああいうのは結構信じるタイプなので」
「そうかよ」
「そこは謝るべきだと思うのですが・・・・・・まあいいでしょう」
「とりあえず、お前の場合は単純に、体の変化に脳がついて行っていないだけだと思うぞ」
「体の変化?」
彩は自分の体をペタペタと触り何かを探すようにしているが、何か変化をつかむことなどできるわけがない。
なにしろ、外見には変化がないのだ。
もしレントゲンなどで撮ったとしても、変化が分かるのはおそらく心臓付近のみのはずだ。
おそらくそれは癌などと誤審を受けることだろう。
まあ、二度と普通の病院でレントゲンを撮ることなどないのだから、そんな誤審を受けることもないのだが。
「少し話は戻るようだけど、お前は死にかけた」
「もう聞きたくないセリフです」
勇気はそれを無視する。
「で、そのままだとどんな医者の所に行ったとしても、助からない重症だった」
「それは初耳です」
彩は自分の両肩を抱き、ブルッと体を震わせた。
改めて自分の状況を聞かされると、どこか怖いところがあるのだろう。
「あの、」
「信じれないか?」
「いえ、そうじゃなくて」
彩は戸惑うように首を振った。
「だったら、なんで私は生きてるんですか? やっぱり、『適合者』とかというやつが関係を?」
「そう言うことだ。まあ、順を追って説明したら、まずお前は何らかの事故にあって死にかけた。わかるな?」
人差し指を立てて、勇気は確認するように彩に促す。
うなずくのを確認すると、話を進める。
「で、そんなお前に多分あいつが目を付けたんだろうな」
「あいつというのは村雨さんですか?」
「そうだな」
肯定するようにうなずくと、彩は怒った風に頬を膨らませて指を勇気に突き付ける。
「年上にあいつというのは失礼ですよ。黒鈴さんも高校生なのですから、それぐらいは考えてください! いいですね!?」
勇気は心中でため息をつき、彩の手を振り払った。
「はいはい」
もちろん、これからもあいつと呼ぶつもりである。
それを言ってもどうせまたグダグダ言われるだけだろし、ここは適当に返事をするのがいい判断だろう。
「とにかくだ。お前はその時にここに運ばれ、『血』を輸血された」
「『血』、ですか?」
彩はキョトンと首を傾げた。
さっき勇気は『どんな医者でも直せない』と言ったばかりなのだ。そんな状態の人間に対して輸血をしたところで、意味はなさないだろう。
彩もそれを理解しているのか、勇気をにらむように見つめている。
「つっても、人間の血じゃないけどな」
「・・・・・・あの、まじめに話してください。本気で怒りますよ?」
「嘘はついていない」
しばらくジッと勇気の目を真っすぐとらえていた彩だったが、すぐに根負けしたかのように肩を落とした。
「嘘じゃないんですね・・・・・・ちょっと泣きたい気分です。で、何の『血』を入れられたんですか?」
その言葉を待っていた、と言いたげに勇気は口元を歪め、いたずらっぽく言う。
―――吸血鬼だ
その瞬間、彩の怒りが爆発した。
「ふざけているんですか!? そんなもの、いるわけないでしょう!」
「やっぱりな」
「やっぱりって何ですか。ふざけないでください」
予想どうりの反応だ、と勇気は心中で苦笑する。
「さっき言ったろ? お前の脳が体の変化についていけてないって」
「・・・・・・私の記憶に誤差があると?」
「そういうことだ・・・・・・ま、時間がたてば元に戻るだろうけどな」
泣きそうになった彩に、勇気は慌ててフォローに回る。
実際嘘を言っていないし、勇気自身も経験した道なので間違いはない。
だが、こんなに心が弱いやつがこの先やっていけるのか、かなり心配でもある。
彩は目元に浮かんでいた涙をハンカチで拭き取り、恥ずかしそうにうつむく。
「気を遣わせてしまいましたね。ごめんなさい」
「・・・・・・続けるぞ」
こういう風に謝れたのはなんだか初めてで、少し戸惑ってしまった。
「確認だが、今のお前は『吸血鬼』が実在しないもの、って認識してるんだな?」
「はい」
ここまでは予想通りの反応だ。
だがしかし、彩の認識には大きな誤差がある。
「吸血鬼は、存在する」
「架空の物語とかではなく、この現実にですか?」
「ああ。つっても、出現したのは今から百年前のことだ」
吸血鬼の存在は、既に百年前から証明されている。
いつどこで誕生したのか、どういった経由で現れたのかは一切不明。
わかっていることと言えば、強靭な肉体を持ち、人類の敵だったということ。
今から百年前、吸血鬼が突如出現したとき、人類は半分にまで減少した。
原因は吸血鬼による大量虐殺。
人間の首に噛みつき、血を一滴残さずに吸い尽くしては新しい獲物を探す吸血鬼の殺人的なまでの行動に、人類はなすすべを持たなかった。
まず問題点として、目が赤い点を除いて姿が人間と全く同じなのだ。
次に、同じ生命体とは思えないほどの強靭な肉体。
銃などが当たれば致命傷を負わせることはできるのだが、当たらないのだ。
動体視力、反射速度、運動能力、それらすべてが規格外。
そして最後に、強大な再生能力。
たとえ鉛玉が足を貫こうが、しばらくすればその傷は完全に塞がってしまう。
目をつけられた瞬間に首を噛まれるのだから、逃げることさえ不可能。
吸血鬼が原因で、時代の進歩が急激に遅れ、復旧などに時間を使った結果、未だに一部を除いて百年前と同じ技術のままだ。
だが、今ではそんな吸血鬼も普通に社会に混じり、人間と同じように生活をしている。
力仕事などでは、必要不可欠なまでの存在にもなりつつある。
それも、誰一人殺すこともなく。
なら、どうして人類を半分にまで減少させた吸血鬼は、誰かの血を吸いつくして殺すことがなくなったのだろうか。
理由は簡単だ。
人類が対抗手段を見つけたのだ。
しかしその手段は表には公開されておらず、どのようにして吸血鬼を沈めたのかを知るものはごくわずかだ。
それと、一番に吸血鬼自身が理性を保ち始めたのも大きい。
話によると、百年前の吸血鬼は本能のままにしか動けず、人間はただの餌としてしか認識できなかったらしい。
その考えを吸血鬼たちは改め、少しづつにだが今の形に落ち着き始め、多少は憎まれながらも人間社会に暮らし始めたのだ。
「すっごいファンタジーなお話ですね」
「けどこれは事実だ。まあ、中にはまだ暴走するやつもいるけどな」
結局は数日のうちにそいつも殺されるのだが、それはあえて言わないことにした。
「でも、『吸血鬼』ですか・・・・・・」
「嫌か?」
「ちょっと怖いですよ。だって、私は『吸血鬼』の『血』を入れられてるんですよね」
「どうせ誰かを殺すんじゃないかって悩んでるんだろ?」
「わかっちゃいました?」
ここに来たやつは最初にそれで悩んでいるから、なんとなく予想がつく。
勇気は頷くだけで、それは言わないでおいた。
「安心しろ。お前のような泣き虫には、誰かの血をちょっと吸うだけでも精一杯だ」
「はぁ。そうですか」
「他人事みたいに言ってるけど、お前も誰かの血を吸う必要があるんだぞ?」
その言葉に彩は一瞬固まり、自分の首筋に手のひらを押し当てた。
「な」
「なんで? ってか? ちょっと考えたらわかることだぞ、鮎」
「疑問に思ったのは確かです。あと、鮎じゃありません! 彩です!」
ぷくっと頬を膨らませ、彩は訂正するように怒る。
それを勇気は無視する。
「『適合者』に入れられたのは『吸血鬼』の血だ。そして、『吸血鬼』の血を入れられた人間は」
勇気はそこで一度言葉を切り、真剣なまなざしになる。
今から言うことは一番大事なことで、決して忘れてはいけないこと。
そして、表の人間が決して知ることができないことだ。
「吸血鬼になる」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
訪れる沈黙。
真剣な声色で言った以上、この沈黙は勇気にとって案外つらい。
かといって、ここで自分から先に口を開けば負けた気分になってなんだか癪だ。
けど、よく思い出してみれば、勇気も初めてこの話を聞いたときは何を馬鹿な、と五歳の子供にしては冷静なことを口走っていたものだ。
それが相手は今高校生。どう思っているのか、容易に想像できる。
「あは」
突然彩はお腹に手を当て、
「あははははははっ! な、何ですかそれ。ぷっ。だ、ダメ。お、お腹痛い」
よほど面白かったのか、体をクの字に曲げて目に涙を浮かべている。
たいして勇気は、
「・・・・・・」
言葉を失って呆然としていた。
いったい何なのだ、これは。
さっきまでの彩の態度からすれば、ここは怒るなり泣くなり固まるなりしてもおかしくはないはず。
つまりこれは、
(ついに壊れたか)
勇気は諦めたかのようにため息をつき、もう帰ろうかと思い立ち上がる。
「あれ? 帰っちゃうんですか?」
ようやく笑いが収まり、彩は目元の涙を拭いながらそう問う。
「ぶっ壊れたやつの相手するのは面倒だからな。まあ安心しろ。明日にでも生ごみとして捨てといてやるから」
「安心できませんよ!? 壊れてませんしひどいです!」
「アホか。急にばかみたいに笑いだしたら、誰だって壊れたって思うぞ」
「そんなこと・・・・・・ありません」
自分でも多少は思うところがあったのか、後半は力弱かった。
勇気はあげていた腰を下げ、面倒くさそうに彩に向き直る。
「つうわけで、お前は『吸血鬼』になったってわけだ。わかったか?」
「な、なんか釈然としませんが、理解は一応できました・・・・・・たぶん」
何とも不安な物言いだが、もう一度同じことを言わなくても済むのは楽でいい。
いっそのこと全部放り出して一人で帰ってしまいたいのだが、それはさすがに可哀想だ。
だけど正直、『適合者』のことを全部教えるとなると、少し道具を用意する必要がある。
探せば見つかるのだろうが、明日までに菊次郎あたりに用意させた方が楽で手っ取り早いのは確実だ。
勇気はポケットから携帯を取り出し時間を確認すると、
「お前門限とかはないのか? もうじき六時だ」
「あ、私一人暮らしなのでそれは大丈夫です。えと、黒鈴さんは大丈夫なのですか?」
「まあ・・・・・・大丈夫か」
言葉に詰まったのは他でもない、あまり遅くなるのはまずいからだ。
あまり遅くに帰ると、妹である優にこっぴどく怒られてしまう。
(ちょっとぐらい怒られても・・・・・・まてよ? 弁当もなくしたって言わないといけないし、かなり面倒になりそうだな)
たとえ言い訳をしたところで、無いものはないし、遅くなることは事実だ。
いっそのこと無視するという方法もあるが、それは命にかかわるから駄目だ。
何の比喩でもなく、優の機嫌を損ねると、本当に死ぬかもしれない。
こうなればさっさと重要事項だけ伝えて、できるだけ早く帰るしか方法はない。
「言い忘れてたが、さっきまで言ったこと全部覚えてるよな?」
「こんなファンタジーなこと、忘れたくても忘れられませんよ」
「そいつは良かった。もし忘れてても俺は教えなかったからな」
「面倒だからですか?」
「そうだ」
それ以外に何かあるか? とも付け足す。
そんな勇気に彩は「いえ」、と首を振った。
「それと、今言ったことは絶対に誰にも言うな。もし誰かに言えば、そいつの命が危ないからな」
「・・・・・・命が危ないって、殺すってことですか?」
「可能性はあるな。一応付け足しておくが、家族にもだ。ま、そいつが死んでもいいなら構わないけど」
「わかりました。誰にも教えなければいいんですね?」
勇気は頷いた。
理解が早ければその分面倒が減って仕事が減るから楽なのだ。
「それと、力も使うな・・・・・・つっても、まだ使い方も教えてないから使えないか」
「力?」
首を傾げた彩に、勇気はため息をつく。
「『適合者』としての力だ。いくらお前が『吸血鬼』の血をその体に持ってたとしても、半分は人間の血なんだ。だから純粋な『吸血鬼』に比べたら力も弱いし、普段は一般人と同じ程度の力しかない」
「つまり、私は普段通り暮らしても大丈夫ってことですね?」
「そう言うことだ。けど、血を見たときは注意しろ。今のお前なら、力を暴走させる可能性があるからな」
過去に何人もの新人が怪我をした誰かの血を見て暴走し、殺された例がある。
別に目の前の女が殺されようが不都合はないのだが、教えたばかりのやつに死なれるのはなんとなく不愉快だ。
彩は両肩を抱いてブルッと体を震わせる。
「が、頑張ります」
こぶしを握り、彩はそう言った。
「それと、定期的にここには血を吸いに来い。家族が知ってる場合はそいつらに吸わせてもらったらいいんだが、どうせ知らないだろ。つうか、知ってたら死ぬんだけどな」
勇気は一瞬自分の妹である優の顔を思い出したが、すぐに頭の外に放り出した。
「血・・・・・・吸わないと死んでしまうんですよね」
「そうだ」
「なんか、知らないうちに私の体結構大変なことになってますね」
「安心しろ。慣れてくれば血もうまく感じてくる・・・・・・らしいぞ」
「それはちょっと嫌です」
彩は苦笑する。
どうやら勇気が言葉を濁したことに対しては何も疑問に思わなかった様だ。
実のところ、勇気はいまだに血の味には慣れていない。
どうしても、血を吸うときにはわずかな罪悪感に悩まされるのだ。
「さて、何か質問はあるか?」
「えーと。その前にちょっとまとめてもいいですか?」
勇気は言葉で返す代わりに頷いた。
彩はうーん、と唇に指を当てて唸り始める。
「まず、私は事故にあって死にかけた。で、『吸血鬼』の血を入れられて『吸血鬼』に。力は人間よりも強いらしいですけど、『吸血鬼』より弱い。けど、普段は人間と同じ程度で、まだ私は何もできない・・・・・・ということですか?」
「あとは定期的に血を吸う必要があるのと、誰にも言ってはならない、だ。他にもいろいろあるけど、今は教えれないからまた今度だ」
勇気はこれで全部話し終えた、とばかりに腰を上げる。
彩もそれにならうように立ち上がり、一歩後ろをついて歩く。
勇気はそれを振り払うように足を速く動かすが、彩もそれと同じように足を速く動かす。
「なんかようか?」
「あ、えと・・・・・・」
少し言いにくそうにもじもじと指を胸の前でもてあそび始め、彩はうつむき始めた。
勇気がそれを待ち、しばらくすると決心したのか彩は顔をあげた。
「あ、あの。携帯のアドレス教えてもらえませんか? 私まだ知らないこと多いので、もしかしたら困るかもしれないので、念のために」
「そんぐらいだったら別にいいけど。けど、あんまかけてくんなよ」
「あ、ありがとうございます」
嬉しそうに笑う彩を無視し、勇気は自分のメールアドレスを読み上げる。
しばらくするとピロリンと携帯がメールの着信音を鳴らし、差出人に『あや』と書かれたメールがやってきた。
「消すか」
「はい・・・・・・って! なんで消すんですか!」
あとワンタップでメールを消去しようとしていた勇気の携帯を彩は奪い、キャンセルをタップする。そのあとまだ未読だったメールを開き、勇気に携帯を返す。
勇気はそれを見ずにまた消そうとしたが、彩に睨まれ仕方なく本文を読むことにした。
『これから何かとよろしくお願いします』
少しの空欄があり、PSの文字のあとに、
『あと、黒鈴さんは人を馬鹿にしすぎです。そんなんじゃ、友達できませんよ』
「うっせ」
おせっかいな女だ。
このまま消去してやろうかと思ったが、気まぐれで残しておくことにした。
久しぶりにもらった同級生からのメールが嬉しかった、とかではないと、勇気は自分にそう言い聞かせた。
そうでもしないと、これまで積んできた何かが一気に崩壊してしまいそうだった。
「・・・・・・」
ふと思い、勇気は返信ボタンをタップする。
「?」
自分の携帯にメールが来たことに彩は不思議がりながらもすぐに開いた。
タイトルも差出人も書かれていないメールだが、メールアドレスが勇気のものと一致している。
フフッと彩は笑い、本文に目を通す。
「・・・・・・」
明らかに固まっている彩を訝しげに勇気は横目に見ながら、送信ボックスに入っているメールを確認する。
『ようこそ。我らの組織、ネサリスへ』
よく新人に対して言う言葉だ。
今の今まで言うのを忘れていたが、こうして伝えたのだから何も問題はない、と勇気は決める。
しばらくすると彩の硬直も解け、同時にはぁというため息。
そして呆れ顔で、
「なんですか? これ」
「俺らの組織の名前だ。ついでに言うと、俺のコードネームは『ブラックベル』だ」
勇気はそういうと、携帯をポケットに滑らせてさっさと歩きだした。
いったい組織とは何なのか、そのダサいコードネームは何なのか。
新たな疑問が彩の頭には浮かんだが、
「お、置いて行かないでください」
聞くのはまた今度にした。
今はもう、これ以上は何も聞きたくなかった。
ガンマンガから一キロほど離れたホテルの一室に、赤髪の少女は居た。
そこには彼女以外誰一人としておらず、一人でいると寂しいぐらいに広い部屋だ。
だが、別にここに泊まることが目的ではない。
ただ、誰にも見つからないような場所が必要だっただけだ。
少女は携帯を取り出すと、顔には仮面をつけたまま操作する。
道化師の仮面に正直嫌気が差し、動物とか可愛いものに変えたいと常日頃願っているのだが、かたくなに拒否されっぱなしだ。
この仮面をつける理由が暗殺をするときに正体がばれないようにするために付けているのだから、わからなくもない。
『完了したか』
「はい」
通話に出た相手は、機械か何かでボイスチェンジをしているのだろう。
どうせこの通話自体、独自の回線を使っているのだから、盗聴されることはないというのに心配性なことだ。
途中で仮面をつけた男に狙撃されたことは、なんとなく伏せておくことにした。
特に理由があったわけではなく、ただの気まぐれだ。
それに、もし次同じようなことがあったとしても、技術では上回っていたのだから勝つ以外にはありえない。
『そうか。では、物をいつもの場所に保管し、次の任務の時を待て』
「はい」
冷たい声の電話越しの相手と同じように、少女の声もまた、冷たい。
それは嫌なやつを相手にするような、そんな感じだ。
だから本当は電話などしたくはないのだが、任務の報告を行わないと友達の命が、自分の命が危ない。
『それと、今後も我ら「ウロボロス」のことは口にするな。もししたときはどうなるかわかっているな?』
しばらくの沈黙。
何を言いたいのか、痛いほどにわかる。
過去にうっかり口を滑らせ、聞いてくれた友達はすでにこの世にはいない。
殺されたのだ。
彼女が所属させられている組織の手によって、うっかり口を滑らせたぐらいで、友達を殺されてしまったのだ。
それを思い出して心の奥底からマグマのように煮えたぎるような怒りが沸き起こってくる。
復習したいのはやまやまなのだが、相手の居場所がわからない以上、こちらからは何もできない。
同じ組織に属していると言っても、たった一人の腐った人間以外の顔はおろか、本当の声すらも聞いたことがない。
「・・・・・・わかっています」
『ならばいい。では、今後の成果にも期待しているぞ。我らの「レッドベル」。きさまの命は、我々のものだ』
ツーツーと通話が切れる音が携帯から鳴り響く。
ギリギリッと奥歯がきしむ音が耳に痛い。
今の通話の相手は、組織の中でもかなり嫌いな相手だ。といっても、会話のほとんどがこの相手なのだが。
「あたしをなんだと思ってるのっ!?」
携帯を布団に投げつけ、怒りをぶつけるように拳を壁に叩き付ける。
力を抑えたとはいえ、『適合者』であるレッドベルに殴られた壁は僅かにきしむ。
うっとおしくなった仮面を外すと、そこにはまだ幼さの残る可愛らしい顔が現れた。
目は髪の毛と同じような赤色。人によっては、赤いバラを、血を、様々な赤を連想させそうな色だ。
「・・・・・・あ」
鏡に映った自分の顔を見た少女は、「またやっちゃった」とつぶやきながら、自然と肩にたまっていた力を、息を吐き出しながら抜いていく。
それと同時に、赤かった目がだんだんと黒へと変わっていく。
だが、その瞳は完全な黒にはならず、よく観察すれば黒に赤が混じったような色。
つい先ほどの赤色の瞳も十分綺麗だったのだが、今のこの色も十分に綺麗な色だ。
しかしながら彼女は、自分の瞳の色が嫌いだった。
この色は、ただの副作用でしかない。
それを言えば髪の毛が赤いのも副作用だし、『吸血鬼』の力を完全に抑えることができないのも副作用だ。
彼女は、その小さな体にいくつもの『副作用』を抱えている。
「・・・・・・こんな体、いやだよ」
彼女は自分の両肩を抱き、その場に膝を折りうずくまる。
(なんで、あたしだけがこんなことに。あたしは、普通の女の子らしく過ごしたいのに)
自分の手を眺めると、途端に途方もない吐き気がこみ上げてきた。
一体、この手で何人の命をゴミ屑のように消し去ったことだろう。
数えようと思わなかったし、もし数えようとしてもおそらく正確な数は答えられない。
彼女はすでに、両手の指では足りないぐらいの命を刈り取ってきた。
たとえそれを彼女がどれだけ否定しようと、永遠に変わることはない。
そして、いくら嫌だと願っても彼女は組織に命令されれば無視することはできない。
それが彼女の宿命であり定め。
突然携帯電話の振動がポケットから伝わりドキッとしたが、ベッドの上には既に携帯が投げ出されている。
「由美!」
さっきまで険しかった彼女の顔には、満面の笑みが浮かんでいた。
彼女は常に携帯は二つ持ち歩き、片方は憎たらしい組織のための物、そして、もう一つが完全私用の物だ。
電話帳に登録されているアドレスが一つと少し寂しいが、この一つでさえ彼女にとっては何よりも大切な存在だ。
『お。またバイト先で怒られたなー』
「も、もー。由美いっつもそれ言ってるよ」
『あっはっは。だって、鈴っていつもバイトってなるとつらそうな顔してるからね。今日もそうだったから、お友達の私としては心配なのですよ。これが』
「・・・・・・うん。ありがと」
お友達。
その言葉が由美の口から言ってもらえたのは、とてもうれしい。口元が自然とにやけ、照れくささで頬にわずかに朱がさす。
『そだ。鈴今日お昼ちゃんと食べた?』
「う、うん」
『そっか。でも、どうやって食べた? 今日財布も忘れたんだよね』
「ええと」
鈴は今日の昼休憩の時のことを思いだし戸惑う。
あの時あの人は弁当箱を目の前に置いて行ったが、どういう意図があったのかは、いまだに理解できていない。
(ま、まあ。勝手に食べちゃったし)
もしかしたら親切心からくれたのかも、と思ってみたが、あんな意地悪する人が弁当をくれるわけがないと首を振る。
「親切な人がくれた・・・・・・のかな?」
『何それ。ま、なんでもいっか』
「いいんだ」
結局は適当に答えるしかなかった。
友達に嘘をつくのは良心が痛んだが、それ以上言うのはなんとなく面倒になりそうだったからやめた。
それに、
(あ、あんなこと・・・・・・人に言えないもんね)
寝転がり、食べ物に食らいつこうとしていた自分を思いだし、恥ずかしさで顔が赤くなる。
いくらお腹が空いていたからって、いくらなんでもあれはない。
しかも相手は男だし、遊ばれるし。
『うーんと、じゃあ切るね。一応お昼食べたか確認しておきたかっただけだから』
「うん」
言葉と一緒に頷く。
けど、せっかくかけてきてくれた電話なのだから、もうちょっとだけお話ししたいという欲求がわいてきた。
「そ、そういえば、クラブの方は最近どう? 陸上部だっけ」
とっさに思いついた話題にしてはいい方ではないだろうか、と鈴は自分一人でそう思った。
しかし、
『順調順調。でも、終わるの遅いから大変なんだよ』
「そうなの?」
あまり由美と部活の話をしていないから、それは初耳だ。
たしか陸上部のクラブ紹介の集会の時は、
―――早く終わります
と言っていたような記憶がある。
単純に、あまりの退屈さに寝ていたから、間違えて覚えているだけなのかもしれない。
そういえばあのあと教室に戻った時、担任教師に睨まれたのだが、何だったのだろうか。
『うん。ほんとを言うとね・・・・・・』
そこで言葉を切り、由美は申し訳なさそうに言葉をつづける。
『今部活の休憩中なんだ。あと五分ぐらいで終わる』
「あ、そっか・・・・・・って。もう六時なのにまだやるんだ」
終わるのが遅いとさっき由美は言ってたが、まさかまだやるとは思っていなかった。
と同時に、貴重な休憩時間中に昼を食べたのか確認の電話をくれた由美に、感謝の気持ちがこみ上げてきた。
「ありがとね」
『? なんかしたっけ』
「ううん。あんまり気にしないで?」
『まいっか。じゃね』
「うん。がんばってね」
ツーツーという音を聞きながら、鈴ははぁとため息をつく。
本当なら由美と同じ陸上部に入って、もっと一緒に居たい。
けど、任務がいつ来るかわからない以上、むやみに部活に入ることもできない。
高校に入る時も組織の一部の連中には否定されたが、なんとか了承を得ることはできた。
その代り早退や欠席が多いが、今のペースでいけば出席日数は問題なく稼げるだろう。
鈴はもう一度ため息をつき、二つの携帯をポケットに入れると仮面と壁に立てていたやはりスコープのないスナイパーライフルを肩に担いで、その部屋を後にした。
(やっぱり、スコープあった方がかっこいいかな)
その目は血のような赤に染まり、ライフルを肩に担いでいる鈴を見ても、誰も動揺した様子を見せることはなかった。




