冬の朝(あるいは不要な背景)
寒い朝、怜子は、きりっとした空気の流れを感じて目が覚める。冬独特の乾いた空気を押しのけて、キッチンへ向かう。怜子の部屋からは、裏庭に出る扉の前を通らないとキッチンへとたどり着かない。おんぼろのこの家には床暖房なんてないから、廊下はどうしたって寒くなる。こんな薄い木の扉一枚では、朝になる頃には内外の気温差はほとんどなくなってしまうのではないだろうか。
「寒いわね、、、って扉ちょっと開いてるじゃない」
昨晩遅く帰ってきたであろう、大学院生の弟が閉め忘れたのだろう。扉は完全にはしまっておらず、したがって、内外の気温差はゼロだった。怜子は、私が感じた空気の流れは、夢ではなかったわけだ、と納得する。
凍てついたドアノブを、伸ばした袖の先で急いで回し、キッチンへ急ぐ。このわずかな距離が、呆れるくらいに遠く感じられるのも、この家の冬の特徴だし、もう2年も住んでいるのだ、布団から出ることを決意するまでにかかる時間で、その日の気温だってだいたいわかる。今朝はマイナス2度だ。
「姉さん、そんなに精度ないでしょ。コーヒー入ってるよ、飲む?」
「ん、さんきゅ。あんた、扉開けっ放し」
「そうだった?ごめんね」
「まあ、コーヒー淹れてくれたからいいけどさ。パンももらうね」
怜子は、扉の犯人がはたして弟の洋であったことを確認すると、熱いブラックコーヒーとクロアッサンを確保する。苦い色水が喉を通ると、管壁が熱され、その熱が体の隅々まで伝播していく。頭が少しずつクリアになってくる。
「洋、論文はどう」
「ぼちぼち。週末には第1稿をみんなに流せると思う。もちろん、姉さんにも」
「そう。まあ、無理しないで。どこだっけ」
「イギリスの雑誌、このまえ姉さんが載せたとこ」
怜子と洋は、H大学の学生だ。怜子がドクタ2年、洋が1年。同じ環境工学分野の研究室に所属している。いま、洋はこの分野では定評のある、さる学術誌に投稿する論文を書いている。半年前、怜子がシミュレーションで予測した内容が、実験的に確かめられたという報告だ。重要なテーマだし、たぶん、掲載まで持っていけるだろう、と怜子は踏んでいた。むしろ、お互い口には出さないが、英語が苦手な怜子や洋にとってみれば、内容よりも作文の問題の方が大きそうであった。
「姉さん、就活は、どう?」
洋が問いかける。怜子は卒業をあと1年と少しの後に控えている。目下、研究と並行して、就活中であった。
「なかなかね、、、ドクタ持ちの年増をとってくれる会社って少ないのよね」
「大学は?」
「んー、、、いや、そろそろ東京帰りたいしね。なかなか」
「難しいなあ。まあ、お互い頑張ろう」
2人が一緒に住み始めてから1年。毎朝のように交わされる、ちょっとした、閉塞感が漂う、おなじみの会話。
けれど。
閉塞感を打破する出来事は、突然やってくる。
牛乳をとりに立ち上がった瞬間、怜子は、世界が回るような錯覚に陥った。立ちくらみだ、と怜子の脳は判断するものの、体は思うように反応しない。驚いて駆け寄って来た洋の足にすがるようにして、怜子は倒れこんだ。洋も、あたかもタックルを食らったかのような格好になり、一緒になって倒れる。
暫くして、2人は体を起こす。そして、異変に気づく。
「姉さん、コーヒー、どこやった」
「いや、そもそも、ここ私たちの家じゃないよね。壁の色、違うし」
「あれかな、瞬間移動かな」
「あんたね、大人なんだからしっかりしてよ」
そういいつつ、怜子は考えを巡らし、むしろ弟の突拍子もない発言が確からしいという結論に至る。人間、歳を重ねると意外と冷静でいられるものだ、と感心しながら、ここはどこなのだろう、と考える。
「姉さん、だめだ」
「なにがよ」
「ここ、現代じゃない。窓の外、馬車が走ってる、、、」
確かに、外の景色は明らかに前近代の、教科書の挿絵そのままだ。しかし、ふと疑問がよぎる。建物がいやに洋風だ。殆どがレンガ作りの建物だ。
「でも、どこなのかしら」
「、、、たぶん、わかった」
「え、なんで?外の人の様子だと、白人ばっかりみたいだけど、、、」
「あの建物、見たことある。もちろん、きっと何十年、何百年後の話なんだろうけど」
「どの建物?」
「あれ、、、こんど論文投稿する、雑誌の出版社だ」
ああ、怜子の口からため息が出る。
「英語、苦手なのよね」
少し年を食った2人の姉弟。働かないで、好きな勉強をして来ました。次回から、そんな彼らに何ができるのか、挑戦が始まります。