13
「いい加減、そろそろ移動しませんか」
レティのその言葉で、私達が今いるのは談笑に向いている場所ではないということを再認識した。
何せ、血の海の中なのだ。所どころ原型を留めていない肉塊や、曝け出された臓器が転がっているのである。ここで話し込んでいたとは、私の感覚もいよいよ麻痺してきたというものだ。
麻痺で言うのなら、私の鼻はとっくに機能していない。この場の臭いですっかりとやられてしまっているのである。
「取り敢えず、奥に進みましょう。マゴンドラを入手しなくては」
それもそうだと思い、足を進めることにする。
ここに入る前にカードに情報が記入されるとレティが言っていたが、見れば成程。確かに記入されているようである。
『現在の討伐状況
ハイオーク×1
オーク×87
受注クエスト:オーガ討伐完了』
こんな風にちゃんとカウントされているのだから、下手なコンピューターなんかよりも余程性能が良いだろう。この世界、私が元に居た世界に比べ、何が発展していて何が発展していないのか微妙な所である。
「この洞窟の中って、もうオーガはいないのかな?」
ここにあるものは数字でしかないから、私がどれだけを殺したかなんて実感が薄い。確かに私がしでかしたことではあるが、妙に遠くから見下ろしているような気分であった。
『いえ、まだ生存反応があります。駆逐しますか?』
坦々と返された言葉に、私は首を振った。
「良いよ。だって、ノルマは余裕で達成しているのだから」
無闇な殺生はしないなんて所詮は綺麗ごとで戯言だ。それを言うのなら、先の私がしたことはそれに当てはまるからである。
ただ、一つ言えることがあるのだとすると、「暫く豚肉は食べたくない」ということだ。何となくそう思った。いや、必要に駆られたり、それしか食べるものがないのなら遠慮なく食べるだろうけれど。人間なんてそんな生き物なのだ。余程自分の信念がない限り、あっさりと何かをしてしまうものである。
「ちなみに、マゴンドラの場所は解るの?」
「えぇ、それでしたら簡単です。よく耳を澄ませてください」
言われた通りに集中してみると、何かの音が聞こえてくる。音というよりは、声のようであった。
「これがマゴンドラの声です」
……って、今、マゴンドラの声って言った?
「ちょっと、大丈夫なわけ? これって死なないの? 死亡フラグは立っていない? ねぇ?」
「何を言っているのですか? 貴女は生きているじゃないですか」
「その台詞、微妙に格好良い。けど、そんなことを言っている場合じゃない。本当に大丈夫なわけ?」
「くどいですよ」
良い笑顔である。その笑顔を前に、私は反射的に「はい」と姿勢を正した。
時折りこんな風に威圧感を混ぜるのは止めて欲しい。あと、横からシアが「黙らせますか?」とか言って何かを煌めかせるのも止めて欲しい。
私の心臓はそんなに丈夫にできていないのだ。こんな二人に板挟みされたら寧ろ、心臓よりも先に胃がやられそうである。胃痛できりきりしてきた。あぁ、いたたっ。
「胃が悪いのですか?」
「そうよ」
誰の所為だ、誰の。
「それでしたら、良い物があります」
そう言ってレティが取り出したのは奇妙な液体であった。試験管の中でドドメキ色とでも言うか、カオスな色をしたどろどろと粘着性のありそうなものが揺れている。
「何、それ」
聞くのは物凄く恐ろしい。だが、聞かずにはいられないというのが心情だ。
「魔界に存在するとある植物の粘液と、グロイと評判の生物の体液とその他諸々を混ぜたものです」
聞くんじゃなかった。何故にそんなエグイ物を持っているんだ、こいつは。
「決まっているではありませんか。貴女に飲んで頂く為ですよ」
「いや、飲まないよ!」
断固拒否である。そんなわけの解らない物を飲みたくなどない。体内に入れることだってお断りだ。例え美容に良いとか、不老不死になるとか、身体の悪い所が全部治るとか、どんな奇跡的な効果があろうとも嫌なものは厭なのだ。
「そうですか? けど、貴女はこちらにいらっしゃる前からの胃痛もちなのでしょう? それでしたらこの薬は効果的面ですよ」
「そうだったとしても、そんな物を飲むわけがないじゃない。大体どんな味がするのさ。そんな得体の知れない物を飲もうだなんて勇者がこの世の何処に存在すると思うの」
「いえ、魔界にいらっしゃいますよ。効果は実証済みです」
「凄いな、その勇者は」
そういう薬があるのだから、確かに試した者は居るのだろう。だが、そいつはどれだけ切羽詰まっていたのだろうか。ナマコを初めて口にした人間並みに凄いというか、そもそもそれらを混ぜようだなんて発想が信じられない。これはあれか? 拷問とか嫌がらせとかで飲ませ、偶然生まれた産物とかそういうわけ?
「いえ、普通にそういうゲテモノ好きの方が開発いたしました。その方の薬の効力は凄まじいのですが、薬の材料がやはりゲテモノで、そういう物にも寛容というか、余程具合が悪くない限りはわたくし達の世界でも滅多に口にされる方はいませんね」
「じゃあ、尚更そんな物は要らないから。そんな物を飲むくらいだったら、胃痛もちで居る方がまだマシ」
「そうですか、それは残念です。因みに、この薬を飲むと一か月の間は味覚及び嗅覚が完全に使い物にならないようですよ」
「そんな物には絶対に用はないから」
フィンランドの某鰊の缶詰よりも酷い有様だ。あれはあちらの方々が好んでいるのだから需要はある意味あるのだが、それよりも強力とかもう封を切ること自体が厭だ。ある種の兵器であり、凶器だ。
残念ですと言いながらレティは薬を仕舞ったが、その顔が残念とは言っていない。私が口にしないということは想像できていただろうが、それでも飲む所を見てみたかったというのが本音であろう。
心持ち、レティと離れて歩いていると、シアに袖を引かれた。『生存反応あり』と、洞穴を指差した。
「えっ、何? まだオーガが居るってこと?」
『いえ、豚畜生ではありません。まぁ、家畜と呼ぶのでしたらそうですけれど』
微妙な言い回しである。オーガではないということは解った。だが、何故敢えて家畜と言ったのだろうか?
「ご覧になった方が早いですよ」
レティはそう言ったが、その顔には嫌悪が浮かんでいる。侮蔑と言っても良いだろう。
「いえね、ご覧になっても気持ちの良いものではありません。しかし、貴女は一度ご覧になるべきだ」
背中を押されて横穴を覗き込み、私は吐き気に耐えて口を押さえた。
そこに居たのは確かに家畜である。正にその表現が相応しい。
女だ。
人間にも限らず、私が知るエルフの特徴を備えた者に、獣人など様々な女がそこに押し込められていた。だが、縛られているとかそういうわけではない。そこに放置されている、という言葉が相応しいだろう。
そこにいる女たちは襤褸布を纏い、一様に生気のない顔でぶつぶつと何かを呟いていた。
思わず後に下がったが、レティが私の肩を押さえこんで動けなくした。
「よくご覧になってください。ここに入り込む前にお話ししたでしょう? これが、畜生に捕まった女の末路ですよ」
「酷い」
「えぇ、確かに酷い。でも、それは彼らにとっても同じですよ。何せ、彼女たちは冒険者。自分達を殺しに来た殺戮者なのですから。そう、貴女のように」
そのじわじわとした言葉が、私を責め立てる。私ももう殺戮者の仲間入りなのだ。前の所では生き物を殺さなかった(何せ、幼稚園に通いだした年頃に蛙を引き千切り、それを大量に下水道に詰め込んだこともある。その上、その日の夕飯に「ねぇ、蛙の血の色って緑なんだよ」と言った過去を持っている。いや、自分の記憶には全くないけれど。それに、今更やれと強要されたとしてもできないけれど。本当、幼児というものは残忍で残虐である)とは言わないが、少なくとも人語を理解してコミュニティを築いているようなものを大量に殺すことなんてしたことがなかった。だが、私はそれをここで行ったのだ。
「同情なんてしてはいけませんよ。彼女達だって、危険は理解で足を踏み入れたのですから。この世界は弱肉強食。男は肉塊にされて食卓に並び、女は子供を産む為の道具へとされる。そうして様々な血を混ぜることによって、彼らは畜生でありながらも知能を持つまで成長した生き物へと進化したのですから」
そして、「確かに嫌悪はします。しかし、自分を殺しに来た者に情けをかけてくれる程、この世界は甘くありませんよ」とレティは続けた。
「それじゃあ、この人達はどうなるの?」
「どうにもなりません。雄豚が亡くなった今、このまま放置されて死ぬか、雌と子の餌にされるかどちらかですね。あぁ、他にも性別が雄の子供もいるでしょうし、彼らに宛がって数を増やすということもあり得るでしょうね。何せ、彼らの成長速度は人間よりも遥かに早いのですから。けど、可能性として一番高いのは、餌にするということでしょうね。今にも死んでしまいそうなくらい憔悴し、弱り切っているのです。このまま栄養価の高い餌を放置するなんてありえません」
「そんな……」
「貴女がこの巣に居るオーガを根絶やしにするのですから別かもしれませんが、かといって、それで彼女達の精神が元に戻るわけではありません。心の傷というものは、簡単には治るものではないのですから」
それはそうだ。だから、精神科というものがあり、心を病んだ者は自身を守る為に深い所で心に殻を作る。それを赤の他人である私がどうこうできるわけではない。
『殺して』
不意にシアがそう呟いた。
「えっ?」
驚いて聞き返すと、シアは女を指差した。人を指差しちゃいけませんとか、そういう基本的な突っ込みはなしである。
『彼女達が言っている言葉……』
よくよく聞いてみると、「死にたい」「殺して」と彼女達は呟いている。それを聞いた瞬間、私は背筋がぞっとした。
呪いの言葉である。
聞いている者が引きずられそうな毒のような言葉であった。
気持ちが解るとは言えない。何せ、私は彼女達のような立場に遭ったことがないのだ。確かに精神的には苦痛を与えられることは多々あった。だが、実際に誰かから物理的に乱暴されたとかそういうことは無かった。だから彼女達の気持ちは解らない。だが、言葉の意味は重たい程に理解できた。
レティとシアを見る。二人ともの目に情などない。ただ、道端に転がっている塵でも見ているかのような無感動で無表情で、坦々とそれを視界に収めているだけであった。
あぁ、そうか。彼らにとってこれは取るに足らない事実でしかないのだ。そういうことが私の中にストンと入り込んだ。
彼らが冷たいとかそういう訳ではない。何せ、ある種の思惑があるとはいえ、初対面の私にも良くしてくれたのだ。つまり、私は彼らのお眼鏡に適っただけに過ぎない。もしもそうでなかったら、私も彼女達と同じ道を辿っていたのだ。だから、ただ単に興味がないというだけなのだろう。
愛の反対は無関心というが、実に的を射た言葉だ。私のように平和惚けした人間じゃなかったら、誰だって理解していることなのだ。次は我が身であるということくらい。
ここに入る前にレティが言ったように、彼は彼女達をどうこうしようというつもりはないのだろう。私だって言ったように、自分の身の丈以上のことなんてできやしない。
だが、たった一つだけできることがあった。それが正しいことなんて思わない。というか、思ってはいけないのだろう。しかし、それでも私にできることなんてこれしかないのだろう。
私は抜刀すると、一息に彼女達の首を薙いだ。
血飛沫が上がり、首が転がった。
これ程の力を手に入れて、私は無力感という意味を初めて味わった。そして、人間を殺したという言いようのない重責が胸を締め付けた。
「気に病むことはありませんよ」
レティはそう言ったが、そうなることはない。だって、罪悪感も何も無ければ私は人間ですら無くなってしまうだろう。
「彼女達がもう精神的に死んでいて、ただの餌でしかなかったとしても?」
「うん、それでもだよ」
そう、それでもなのだ。もしかしたら何か別の方法があったのではなかったのかと思わずにはいられないのだ。これが人を殺したとう代償なのだ。この先、私はずっとこの感覚を忘れることなんてできやしないのだろう。
「本当に人間というのはおかしな生き物ですね。頭は良くても合理的ではありません。しかし、だからこそ悪魔は人間が好きなのですよ。天使や神なんかよりもずっと。けれども、まさか貴女が彼女達を殺すとは思ませんでした。殺すということに対して嫌悪を抱いているようでしたから」
何も言い返すことなんてできない。
私は口を噤んで、唇を噛んだ。強く噛んで血が出たが、そんな些細なことなど気にもならなかった。
「だったら、貴女が変えてしまえば良いのですよ。この腐った世界を全部」
面白がった響きを含み、レティは言った。
「どういうこと? 何が言いたいの?」
私はのろのろと顔を上げた。矢張り、レティの顔は面白がっていた。
「いえね、貴女には幸い力を得る手段もあれば既にそれなりの力を持っている。つまり、ですね、「野望を抱いてしまえ」と言っているのですよ」
その言葉に私は首を傾げた。今のまともじゃない思考状態では彼が何を言っているのか理解できなかった。
「貴女が理想の国を作れば良いのですよ。貴女が想う世界を作れば良いのです。力を揮い、そして手にいれなさい。貴女が元に居た所で過ごしたように、貴女が平和で安全だと思った場所を作ってしまえば良いのですよ」
「そんなことができるの?」
「えぇ、貴女次第で。どうせ、この世界は神の力によってそう遠くない内に消滅するのですよ。それでしたら、貴女の力でどうにかしてしまえば良い。貴女の剣「神殺しの剣」はそれを実現できる力を持ち、幸いこの世界は力がある者が新たに国を作るなんてざらにあること」
その声と言葉は麻薬のようであった。私の心と脳にすんなりと入り込み、刷り込まれていった。
「貴女は神を殺して世界を救い、その上で自分の望む世界を作れば良い。ほら、一石二鳥。素晴らしい世界だ。そこで、誰もが平和に暮らせるようにすれば良い。例えば、畜生なんてものを完璧に排除したところでそれは世界の滅亡から比べると些細なこと、違いますか?」
違わないと言えないところが恐ろしい。だが、元私が居た世界でもかつてそうやって人間は危険な生き物を排除して生きてきたのだ。根絶やしにするまではいかないにしても、人間の幸せの為にある程度間引かれても仕方のないことだろう。
どうせ、私はこの世界で生きていくしかないのだ。それだったら、私は私のやりたいようにやってみせようじゃないの。
私は息を吐くと不敵に笑ってみせよ。
「そうね。だったら、やってみようじゃないの。どうせだから、野望を抱いてみせようじゃないの」