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森に足を踏み入れてから随分経ったような気がしないでもない。否、随分な時間は経っているのだろう。
日が暮れるまではいっていないが、少なくとも数時間は歩いている。一応目的地はあっても目的地が何処なのかまで理解していないことこそが一番救いようがない。これではどうやれば行けるのか、その道程がわからないからだ。
日常的に数時間も歩き続けることなんてない。疲れてきたし、もういっそと断念しそうになった時に特徴的な生物を目にした。
豚である。
人間のように服を着た二足歩行の豚だ。その豚は武器を持っていて、人間だったと思わしき肉塊を引き摺っている。
私は思わず唾を飲み込んだ。
グロイの一言に尽きる。
私も職業上歯茎を裂いての顎の骨や血液なんかは見慣れているが、目にしている部分が普段のものとはまるで違っているからこそ耐性なんてまるでない。漫画や小説のワンシーンとして目にしたことはあるが、それはあくまでフィクションである。実際に目にするものとは全然違う。
だからこそ、私は例え偽物であったとしてもテレビで医療系のものを見るのは苦手だ。何せ、内臓やら何やらが丸見えなのである。それなのにあんなものを現実として目にして耐えられるわけがない。
流石に吐いたり、叫んだりはしなかったが瞬きさえもできなかった。かといって、目を逸らすこともできなかった。
「オークですね」
「あれが……」
それは私達が今回目標としていたものである。それが目の前に居るのだ。それも、あんなに近寄りがたいものを引っ提げて。
「本音を言うと、ここまで何の生き物とも遭遇しなかったことこそがある意味奇跡なのですよ。貴女の非遭遇能力がカンストしているのではありませんか?」
それは嫌味なのだろうか。私としては有難いが、遠回しに動物(?)に好かれていないということを指摘しているのだろうか。
「一応、厭味です。感心しているわけではありません」
「どうして?」
「それだけ時間がかかってしまった上に、他のモンスターと遭遇しなかったことによって実戦が経験できなかったじゃないですか」
「成程」
確かに一理ある。どうせ戦わなくてはならないにせよ、ぶっつけ本番でいくのかその前に何かをしておくのではまるで違う。戦うのが厭だ嫌だとばかり思っていたが、そういう考えもあるのかと納得した。
「それで、どうするのですか?」
「どうって……」
考えられる手は二つある。今あれを倒すか、それとも後にするかだ。それだったら、私は後者であると即答できる。
「あれの後をつけることにする」
どうせ数を倒さなくてはならないのだ。それだったら、後をつけて奴らのアジトで倒した方が効率は良い。その分多勢に無勢になるということもあるが、それでも私の生き物との遭遇率を考えると、後後奴らを探し回るよりは随分と楽であろう。
「わたくしも、その方がよろしいと思います」
二人の意見も合致したことにより、方針が決まった。取り敢えずは、気配を殺してあいつを追いかけることになった。
暫くして、オークは洞穴へと入って行った。どうやらあれが巣のようだ。
「では、これから奴らの根城に乗り込みます。一応、注意事項と目的を確認しておきましょう」
「それって、必要なの?」
注意事項ならまだしも、目的はやつらを十体倒してマゴンドラの五株採取することに決まっている。
「そう、それだけで良いのです」
「何が言いたいわけ?」
「この先は巣ですから、沢山のオーガが住んでいます。一体倒せばわたくし達を敵とみなし、次から次へと襲い掛かってくることでしょう。しかし、あくまでも十体倒せば良いのです。多くを倒す必要はありません。そして、マゴンドラを採取してとっとととんずらするのが今回の依頼です」
「うん、まぁ、そんな感じだよね」
言い回しの所為か微妙に違うことを言っているようにも聞こえるが、最終目的は同じである。それなのに何故わざわざ確認をしたのだろうか。何というか、念押ししているように聞こえる。
「巣である以上、先程も見たように彼らの餌が常備されていることになります。つまりは、まだ生きている人間が捕まっている可能性があります」
その言葉にはっとした。奴らも奴らなりにコミュニティがあって生活をしているのだから、人間が豚を飼育するように、奴らが人間を飼育しているということだって十分に考えられるのだ。そう考え、ぞくりと肌が泡立った。
「しかし、それを助けられる余裕が今の貴女にはないということをきちんと理解してください」
「どうして?」
「それはわたくしが聞きたいですよ。どうして見ず知らずの人間を助けなくてはいけないのですか。それに、いくら貴女の装備が優れていようとも貴女がその方々を助けられる力があると思うのですか?」
冷たく突き放したような言い方ではあるが、事実である。道徳とかそういうものを説くとするのなら、見ず知らずの人間であろうとも人を助けないのは人として失格であるだろう。しかし、彼は人間ではなくて悪魔なのだ。彼からすると、人間が自分の得にもならない、寧ろ窮地へと追いやると知ってまで人間を助けるのは異常であり、イレギュラーなのだ。
現に、人間に飼いならされた動物は人間を助けようとすることもあるが、それが他人になれば見捨てるだろう。つまりは、そういうことなのだ。そんなことをする義理がないということなのだろう。しかし、それをやろうとするのが人間なのである。
「確かに私じゃあ無理かもしれないけれど、できることをするのはいけないことではないでしょう?」
「そうですね。あくまでご自分でできる範囲であるのならば、ですけれど」
その探る様な目に、「わかっている」と私は頷いた。
「何もできないということくらい、自分が一番よく解っている。自分が聖人でもなければ超人でもないことも、ましてやチートな能力だってないということは解っているよ。だから、あくまで自分の能力を超えない範囲でどうにかできるようだったらするつもり。誰だって自分の命は惜しいもの」
私は多分死んでこっちの世界に来たのだろう。だが、死にたいと思ったことはあってもそれを実行しようとしたことはない。それはつまり、私の中の生存本能がまだ死にたくないと訴えかけているからだろう。だから、どうしようもないことにならない限り自分の死を覚悟することなんてできやしない。これから生きている者を殺しに行こうとしている、というのにも関わらずだ。
それは、相変わらず心の何処かで自分は死なないだろうと高を括っているからに他ならない。それは過信であり、この世界では本当に思い上がりでしかないのだろう。しかし、それでも私はそれで良いと思っている。武士のように崇高な精神も持っていないし、現代人にありきたりな楽観的な思考で自分に甘い。それ故に、惨めにでも生きてやろうと思うのだ。
何せ、ボーナスステージで生きながらえているような命なのだ。ボーナスであるのなら、誰に何と言われようとも生き永らえようとしたとしても文句は言われない筈だ。それが、この世界で生きていく方法であろうものだとしたらそうするより他はないのである。
「まぁ、好きになさってよろしいですよ。もしもの時は、わたくしは貴女以外の方々を見捨てるだけですから。良いですか、貴女に何と言われようとも、どんな恨み言を言われようとも、ですよ」
「うん、わかっている」
私は頷いた。
「レティにしたら何の得も義理もないことに付きあわせているのだし、それにそもそも私が勝手にやりたいと思っただけだもの。貴方に強要するようなことじゃないわ。だから、私の手に負えないことだったら諦めることにする」
「随分と聞き分けが良いですね」
「私だって死にたくはないもの。戦闘狂とか何らかの信念を持っているというわけでもなければ、慈悲の精神だって持ち合わせちゃいない。例えば周りに飢えた人がいたとしても、自分の手元に食べ物があれば「あぁ、可哀想ね」とか言いながらそれを食べられるような人間なんだよ」
日本は豊かな国だ。だから、テレビとかで他国で戦争があったりとか、飢餓があったりしてもそれを他人事として捉えている節がある。それが大多数というわけではないが、少なくとも私はそうだ。私は私の暮らしが良ければいいというようなタイプである。
つまりは、平等なんて嘘だと思っているような人間なのである。そんな神も何も信じていない女が自分の命と天秤にかけ、縁もゆかりもない人間を助けるなんてことはしないと断言できる。酷い性格だろうが、これが事実だ。
「いえ、それが生き物の業ですよ」
レティは目を細めた。
「わかりました。では、参りましょうか」
その言葉に頷き、薄暗い洞窟の中に足を踏み入れた。