2-7 誰にも俺は理解できない
「ありがとう」
アイスコーヒーを持って来てもらった修太郎はお礼を言うと、素早く飲み干した。
「えぇ?何それ?」
「いや、気分で」
渚は自分の労力の結果が一瞬で飲み干されたので、唖然とした表情を浮かべる。
もう少しゆっくり飲めばいいのにと、自分の紙コップに口を付けた瞬間、
「漆原さんはさ」
修太郎が話しかける。終始ペースを握りっぱなしである。
渚は一口だけ飲むと、
「何?」
やや不機嫌そうに応答する。
「涼のことはどう思ってたの?」
「甲斐谷君?」
二人は一年生の頃、約半年間付き合っていたと修太郎は聞いていた。
「そうね。身長が高くてスタイルがいい。顔もカッコいい」
「おお、高評価」
「でも、それだけの男だったわ」
二人を取り巻く空気が固まる。それに伴って修太郎の表情も固まってしまった。
「それだけ?」
「うん。それだけ」
修太郎には、二十個は涼の長所を列挙できる自信があった。だが、彼と半年も付き合っていたはずの目の前の女性は、たったの二つしか挙げられなかった。
修太郎は、苦笑いを浮かべる。
「悪い部分なら五倍は言えるわ。聞きたい?」
「いや、もういいよ」
修太郎は手を顎に当てて、擦るような動作を見せる。
「嫌いだったの?涼の事」
「まあ、ね。基本的に私の事はほったらかしで、別の男友達と遊ぶ方が多かったし」
「嫌いだったんだ。殺したいほどに?」
今度は渚の表情が固まる。
「私が?甲斐谷君を?」
「事実は別として、さ」
質問している目の前の男は、普段の修太郎とは雰囲気が違う。渚はゴクリ、と唾を飲み込む。
「そこまでじゃないわよ、いくらなんでも」
「だよね~」
間抜けな声が無理やり雰囲気を和ませる。
「ところでさ」
渚は修太郎の声が少し低くなったような気がした。
「真守って、どう思う?」
「え、四之原君?」
何故、そんなことを聞くのか。余りにも時間を持て余し過ぎて、話題が尽きたのだろうか。まだしりとりもしてないのに。
「別に、普通だけど」
「普通って?」
「恋愛対象とは考えてないけど、背もそれなりに高いし、顔もそこそこいいと思う」
「じゃあ涼と一緒ってこと?」
「いや、あいつほどじゃないと思うけど」
「ふ~ん」
さっきから、修太郎が一方的に質問して、一方的に打ち切る形式になっている。渚としては面白くない。
なので今度は自分から仕掛けることにした。
「七里君はさ」
「ん~?」
「気になる女の子はいるの?」
「鳴」
即答だった。出ばなをくじかれ続けている渚は、舌打ちの一つでもしたい気分だったが、我慢した。
「でも、蓬生さんとは付き合えないんでしょ?」
「そうだよ」
「じゃあ、他の娘とだったらいいの?」
「う~ん?」
「どうなの?」
修太郎はまた顎をさすりながら、適当な言葉を探し当てた。
「その場合は、自己責任ってとこかな」
「自己責任?」
「そ。それだけリスクがデカいってこと」
渚は修太郎が謙遜しているのか、と考えた。自虐トークというやつだろうか?
「間違いなく、後悔するね。その娘は」
「リスクがデカいって、何で?」
「変態だから。俺」
また、適当にはぐらかそうとしているのだろうか。
「またおっぱいとか触るってこと?」
「うん」
「別に付き合うって事になったら、誰だってそれぐらいするし、彼女も許すと思うよ」
「そういうもん?」
「そういうもん」
「ふ~ん」
「だから、私は後悔しない」
「えっ?」
「……あっ」
渚は言ってしまった。事実上の告白である。だが、攻勢に出た結果である。悔いはないし、自信もある。
「……」
渚は修太郎の目を見続ける。
「……」
修太郎は目の前の壁を、約三十秒眺めつづけた。そして、口を開く。渚にとっては運命の瞬間である。
「するね。百パーセント、漆原さんは後悔するよ」
その選択は間違いだと、言い切る修太郎。だが、まだノーと言われたわけではない。
「しない。絶対しない」
「するする。絶対する」
「しないったら!」
「す~る」
「何よ!私の何も知らないくせに!」
二階にも聞こえるぐらいの大声を張り上げる渚。
すると、目の前のドアがゆっくりと開いた。
「キャッ!?」
渚は驚いて壁際に下がる。一方、修太郎は微動だにしない。哲也が、ドアの隙間から顔を覗かせていた。
「あの、もうちょっと静かに見張って貰えないかな」
「えっ」
「それが出来ないなら、解放して欲しいんだけど」
監禁が始まってまだ二時間程度だというのに、哲也のイライラはピークに達しようとしていた。
「な、何よ!容疑者が偉そうに!」
「だったらお前が代わりにぶち込まれるか!?どんだけ精神的にクるか分かってんのかよ!」
「ちょっ、大きな声出さないでよ!」
普段おとなしいはずの哲也が、自分をたじろがせるほどの迫力を出したことに渚は驚く。窮鼠猫を噛むとはこのことである。
「おい、どうした?」
声を聞いた真守が屋上から降りてきた。
「いや、何でもないよ。哲也がキレただけー」
修太郎は何事も無かったかの様に振る舞う。
「どうしたの!さっきの声は?」
食堂にいた鳴と光まで来てしまった。
「こいつらがギャーギャー部屋の前で痴話喧嘩しやがるからだよ!ふざけやがって!」
「はぁ!?」
鳴が修太郎と渚を交互に睨み付ける。彼女の不安は見事に的中していたのである。
「違いますぅ~。痴話喧嘩じゃありませんよ~だ。チワワの話をしていたのだ」
人を馬鹿にしたような修太郎の喋り方に、真守がキレる。
「真面目にやれ、修太郎!俺らの命がかかってんだぞ!」
それを聞いた哲也がキレる。
「何だと!?俺がやったみたいに言うんじゃねぇよ!」
哲也が真守を睨み付けて言う。
「お前もお前だぞ、真守! 何で擁護してくれないんだよ!」
「落ち着け、哲也!」
尚も興奮し続ける哲也を、真守がなんとか宥めようとするが、ついに突き飛ばされてしまった。
「痛ぇ……」
「だ、大丈夫か?四之原」
「哲也君、落ち着いて!」
「うるせぇ!もう誰も信じられるか!」
普段は真守に従順な哲也のこの行動に、鳴を始めとする一同は驚きのあまり声も出ない。
ただ一人を除いては。
「哲也」
「ッ!」
修太郎のした事は、低い声色で哲也の名前を呼んだ。ただそれだけである。
「……」
それだけの行為で、あっさりと哲也は鎮まった。
修太郎はそれを確認するとニコリと笑い、
「まぁ、まだ哲也だと決まったわけじゃないからさ。明日までは辛抱してくれよな」
声色をいつもの調子に戻して、そう言った。
「わ、わかった。でも静かにしてくれよ……」
哲也は部屋の中に戻り、ドアを閉めた。
「おっしゃー。一件落着!なっ、光!」
修太郎はポンポン、と光の肩を叩く。
「お、おう。でも、お前ら……」
光が喋りかけようとした時、鳴が修太郎の前に一歩踏み出した。
――パチンッ。
大袈裟に反動をつけて放たれた渾身の平手打ちが、修太郎の頬にヒットした。
「痛いよ。鳴。泣きそうだよ」
「金的じゃないだけマシだと思いなさいよ」
「はい」
騒ぎの元凶は渚なのだが、修太郎は口答えをしなかった。
「神崎君」
「な、何?」
一連の出来事にインパクトがありすぎて、光は面喰っている。
「私、なんだか眠くなってきちゃったから、もう部屋に戻るね」
「あ、ああ。俺も眠いから、もう寝るわ」
それだけ言うと、鳴は早足で自室に戻って行った。光も後を追う。真守は修太郎を睨むと、
「お前は本当に鳴を悲しませることしかしないな」
「そうみたいだね」
「何でそんな他人事みたいに捉えられるのか、俺にはさっぱりわからないね」
「そりゃそうだよ。他人事なんだから」
「そこまで言うなら、旅行が終わったら金輪際、鳴に近づくな」
真守の言葉一つ一つには、鋭い棘が刺さっている。すると修太郎は、フッ、と含み笑いをしたかと思うと、
「ハハハハハハハハ!」
大声で笑いだした。恐らく二階の鳴達にも聞こえる大きさで。
「てめぇ、何笑ってやがる!」
「いやぁ、ごめんごめん」
渚はポカーンと、二人のやりとりを見ている。
修太郎の目には、涙が浮かんでいる。笑いすぎると出るあの涙である。つまり適当に話を濁すために笑ったのではない。一連の真守の台詞が、余りにも面白おかしくて、本心から笑ったのだ。
ただ、その笑いのツボは真守にも渚にも分からなかった。心理学者に見解を伺いたい気分であった。
「最初からそのつもりだよ」
「何?」
「鳴には金輪際近づかない。自然とそうなる」
渚に言った事と同じ内容を、修太郎は真守にも伝える。
「自然と?」
「うん。自然と」
「わけわかんねぇやつだな」
「誰にも俺は理解できないよ」
「言ってろ。さっきの言葉、忘れるなよ」
捨て台詞を吐いて、真守は階段を上がって行った。再び屋上で涼むのだろう。
「あ~あ、無駄にエネルギーを使っちゃったな」
「ごめん。私のせいで」
「じゃあ……ご褒美ちょーだい!」
「え……キャッ!」
修太郎は渚の豊満な胸に顔を埋めた。
「ちょ、ちょっと、七里君ッ」
「うへへ~」
スリスリと左右に振られる修太郎の顔の感触が気持ち悪い。だが、ここで渚のプラス思考が発動した。
――これって、告白をOKしたってことじゃないの?
「……する?」
「へ?」
修太郎は顔を渚の胸から離す。
「ここで、する?」
「しりとり?」
修太郎の冗談は完全に無視して、渚が距離を詰める。
「後悔、しないから」
そう言って渚は両腕を修太郎の首周りに巻き付けた。修太郎の眼鏡が吐息で曇る。そしてゆっくり自分の唇を、修太郎の口に近づけていく。
「しないから」
ゆっくり、ゆっくりと。後数センチ、数ミリ……。
――ピトッ。
恋する乙女の唇は、修太郎の人差指で止められた。
「悪いね。勘弁だわ」
「どうして?」
この流れでキスを拒否されるなんて、渚でなくとも信じられない事態である。
修太郎が女性経験がほとんど皆無だとはいえ、この空気が読めない男が存在するだろうか。
「鈍るんだ」
――鈍る?
「鈍るって、何が?」
「決意が」
決意?意味が分からない。このワードはこんなにも難解なものだったのか。先程から修太郎は、述語が圧倒的に足りない。
「それに同じクラスの誼だし、君には後悔して欲しくないから」
「だから、しないってば!私を受け止める度胸がないだけでしょ!?」
「断言していい。引き返さなければ、君は後悔する」
「どうして!?『変態だから』以外の理由を言ってみなさいよ! 自分で誘っておいて、酷いわ! 女の子に恥をかかせる気!?」
修太郎は一瞬、間を置くと、
「だって俺は、 犯 罪 者 だ か ら」
「………え?」
その瞬間、急な眠気が渚を襲ってきた。
「嘘?」
「嘘じゃないんだなぁ、これが」
ニヤニヤしながら話す修太郎。
確かに、二人も死者が出ているのに、この余裕はおかしい。
自分の身の危険を、全く考えていない。そんな人物は、この合宿所にただ一人しか有り得ない。
犯人。殺人鬼その人だけだ。
「ま、ましゃか…そんなほとっへ……」
「犯罪者と、付き合いたくはないし、突き合いたくもないでしょ?いくら何でも」
目の前に、殺人鬼がいる!その事実が頭にあるのに、危機感があるのに、脳が命令を出せない。
このままでは、犯される。いや、殺されると言うのに!
――この眠気に抗えない!
「しゃ、しゃつじんはんは、はひば君じゃ……」
「あらら。ちょっとちょっと、大丈夫?」
「ひゃ、ひゃふけて……」
旅行二日目、夜十一時十二分。そこで、渚の意識は途絶えた。
人生最大の危機を前にして。




