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君と涙と蜘蛛の糸。

作者: のっこ

元は、某小説サイトに載せていたものです。かなり拙いものですが、消してしまうのも悲しいので。少しでも楽しんでいただけたら幸いです。


○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 

<1>


 ゆらゆら静かに揺れて目の前に降ってきたこれは、きっと、神様が垂らしてくれた蜘蛛の糸に違いない。だって、こんなに真っ直ぐで綺麗で、しかも何だかいい匂いがするもの。

 これにしがみついて上っていけば、きっと私も―――…。


「いったい! ちょっと明音あかね、何すんの!」

「…え? あッ…。ごめんごめん」

 大きな声と手を振り払われた感覚に、はっとして一気に目が覚めた。

 宿題の合間にちょっとだけ、ほんの数分だけベッドで休憩するつもりが、いつのまにか、すっかり眠っていたらしい。しかも何か夢まで見ていた気がする。

「もー。髪の毛抜けるかと思った」

「ごめんって。……あれ?」

 非難めいた声に苦笑いで謝りつつ、明莉あかりを見れば、夕食時に着ていた、いわゆる家着とは違う、いつものパジャマ姿。どうやら私は、随分と長い間眠りこけていたようだ。

「えー、明莉もうお風呂入ったの?」

「えーって何よ。お風呂、明音が最後だからね。掃除よろしく」

「それが『えー』なんじゃん。あー、めんどくさ」

「寝てた自分が悪いんでしょ。挙句に寝ぼけて人の髪、力一杯引っ張るし」

「だーから、ごめんって。……ちょっとその…、…蜘蛛の糸かと思ったのよ……」

「は?」

「なんでもなーい。さーてと、お風呂入ろうっと」

 怪訝そうに見てくる明莉をわざと無視して、勢い良くベッドから立ち上がると、そのまま部屋を出た。


 ―――そっか。お風呂上りだったからか。

 道理でいい匂いがしたと思った。

 風呂に入るべく脱衣所へと向かいながら、一人納得する。

 さっき、夢現に私が蜘蛛の糸だと思ったものは、明莉の長い髪で、感じたいい匂いはシャンプーの匂い。

 分かってみれば他愛もない寝ぼけだ。

 そもそも、神様の蜘蛛の糸なんて、現実にあるわけない。

 あったとしても、私のとこまでは、届かない。



 私と明莉は、世間で言う『双子』ってやつだ。詳しく言うなら、二卵性双生児。

 だから私達は、生まれた時から何もかも一緒で、そして、生まれた時から、何もかも違った。

 明莉は生まれつき色白で、日に焼けると赤くなって痛そうだけど、すぐ白に戻る。一方私は、いかにも黄色人種ですと言わんばかりの黄色さで、日に焼けると容赦なく黒くなって戻らない。

 明莉の髪は生まれつき、さらさらのストレートなのに、私のは、ごわごわと硬い上に変にうねってる。高校に入ってストパをかけたけど、硬い髪質はどうしようもないし、天然物には到底敵わない。

 顔の造りだって、まるっきり違う。睫の長い、愛らしいフランス人形が明莉なら、私はこけしとでも言おうか。良く言えばあっさりした、はっきり言えば、特徴も味気も何もない顔だ。

 これだけ違えば、なんかもう逆にきっぱり諦めがつくからいい。所詮、自分とは違う人間だ。

 とは言え正直、自分と明莉の容姿の違いにコンプレックスを抱いた時期もあった。

 あれは、中学に上がりたての頃だったか。明莉が新入生の中で一番かわいいと上級生の間で評判になって、その双子の姉がこけしときたら、噂の的にならないはずがない。

 いくら、人間は顔じゃないと思っていても、いざ自分のことになると、やっぱり気にしてしまうものだ。でも、こればっかりはどうしようもないし、悩むだけ無駄だと開き直るしかなかった。

 そのおかげか、高ニなった今では、「こけしにはこけしの良さがある!」と言い張れるくらいの心の強さを保っている。…………つもり、だった。のに。

「…はぁ…」

 思わず口から出た溜め息を掻き消すように、風呂場の鏡に映った自分に、思いっきりお湯をかけた。



○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

<2>


 去年のニ月って、こんなに寒かったっけ? と、多分毎年思っているだろう疑問を胸に、マフラーに顔下半分を埋めて歩く。

 朝の道は殊更寒い。空気が冷たすぎて、鼻の粘膜が激しく痛いし。せめて一月と二月の二ヶ月間だけでも、授業午後からにしてくれたらいいのになぁ。

「背骨曲がってんぞー」

「ぎゃっ!」

 いきなり後ろから背中をばーんと叩かれて、背筋が一瞬反り返った。

「ちょぉっ、とおる! 朝っぱらから何すんのよ!」

「ばあさんみたいな背中になってたから、注意してやったんだよ。気にするな。礼はいらねー」

「何が礼はいらねーだよ。大きなお世話だっつーの。つーか、痛いし」

 実際は、コートとかの厚みがあるから別に痛くなんかないけど、いかんせん、反り返った拍子にマフラーと首の間に出来た隙間から、冷えた空気が進入してきたことが腹立たしい。

「礼はいらんが、お前がどうしてもと言うなら、数学の宿題見せてもらってもいいぞ」

「いや、会話成り立ってないし。人の話聞けよ、痛いって言ってんだよ」

 呆れて突っ込む私と透のやりとりに、隣を歩いていた明莉が笑って、小さく肩を揺らす。

「相変わらず仲良しだねー」

「あ、おはよう、石川さん」

 何が『あ、おはよう』だ。白々しい。

 思わず、ハッと鼻で笑いそうになったのを押し止めた私の横で、明莉が、「おはよう、中野くん」と透に笑いかけ、それから私に顔を向ける。

「じゃあ明音。私、急ぐから先行くね」

「あー、うん。…あ。私今日、部活で遅くなるから」

「分かった」

 ばいばいと手を振って、小走りに先を行く明莉の背を見送って、ちらりと透を見れば、その視線に気付いたのか、透が眉を顰めた。

「何だよ?」

「残念だったわね。まあ一言でも喋れただけ、私に感謝してよ」

「は? 何言ってんだ、お前。つーか、マジ宿題見せて。俺、今日あたるんだわ」

「あたるって分かってんなら、してこいよ」

「そこを何とか。な? 頼むよ、石川」

 明莉は石川“さん”で、私は呼び捨てかよ。まあ、いいけどね。透に今更、さん付けで呼ばれても気持ち悪いし。

「スタバのキャラメルマキアート」

「……購買部のコーヒー牛乳」

「さよなら」

「おおおい、ちょ、待てって石川。分かったよ、スタバ奢るから!」



○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

<3>


「ざけんな」

 昼休み。

 弁当を食べ終えた私に透が、「ほれ、約束のものだ」と手渡したものを前に、考えるより先に口がそう動いた。

「なんだよ。お前がキャラメルマキアートが飲みたいっつーから、わざわざ買ってきてやったんじゃんか」

「どこにキャラメルマキアートがあんのよ! コーヒー牛乳じゃん、これ! しかも一番小さい八十円のやつだし!」

「ちっちっちっ。ちゃんと見ろってお前。ここにちゃんとマジックで、キャラメルマキアートって書いてあるだろが。だから、これはれっきとしたキャラメルマキアートだ」

「ちっちっちっ、じゃねー! どっか行けバカ!」

 怒声と共に、奴のふくらはぎに蹴りを入れてやったのは言うまでもない。

「あははは。透、ウケるー」

「いや、ウケないし」

 けらけら笑う玲奈を横目で軽く睨んで、透の字でキャラメルマキアートと書かれたコーヒー牛乳に、ぶすっとストローを差し込む。

「でも結局飲むんじゃん」

「そりゃね。勿体ないし」

「はー。ほんとあんた達、付き合えばいいのに」

「はあ? 何、その話の屈折具合は。なんで私が透と付き合うのよ」

「だって仲いいし、結構お似合いだし? それにあんた達が付き合えば、私とたーくんとあんた達の四人で旅行とか行けるじゃん」

「いや、誰得ですかそれ?」

「私得。でもマジメな話でさぁ、いいじゃん、透。普通にかっこいいしさー。狙ってる子、結構いるんじゃないのー? 明音、うかうかしてたら、取られちゃうよ?」

「どうぞご自由に」

 素っ気無い私の返事に、お弁当の玉子焼きを頬張ったまま、玲奈がつまらなさそうに肩を竦めた。

「ご自由にって…。明音、本当に興味ないのね。透、可哀そう」

「別に可哀そくないでしょ。透だって私に興味があるわけじゃないんだから」

「えー、そーかなぁ」

「そーです」

 透とは一年の時から同じクラスで、何かと気も合うし、仲がいいのは否定しない。でもだからって、男女間の好きっていうのとは違う。あくまで友達として、好きなのだ。それは透にしたって同じだろう。

 きっぱり言い切って、ずずっと音を立ててコーヒー牛乳を啜った。


「あ。そう言えばさぁ。あんたの妹」

 もぐもぐと口を動かして弁当の残りを平らげながら、玲奈が思い出したように顔をあげて言った言葉に、私も顔をあげた。

「また告られたらしいよー。さっき四組の子から聞いた」

「あらら、また? 同じ学年の人?」

 明莉とは結構何でも話すけど、この手の話だけはお互いしない。聞くのも話すのも、妙に気恥ずかしいからだ。姉妹とか家族とかってみんな、そんなもんじゃないだろうか。

「うん。五組の、えーと、渡辺くん、だったかな」

「ええー。あの、秀才メガネくん?」

「そうそう、その人。まぁ例に漏れず玉砕したらしいけど」

「はらー…」

 だから、明莉のモテ情報は大体いつも、人の噂を介して耳に入る。

 私個人としては、正直あんまり興味ないんだけど、話題になってるから一応耳を傾けている、そんな感じ。だった。

 だけど。

「しかし、すごいよねー。先々週、三年の先輩に告られたばっかじゃん? なんだっけ、ほら、あんたの部活の先輩。一之瀬…だっけ? で、断ったのに今週また新たな人に告られるとかさー。普通ないよ」

 だけど、耳を傾けていると、聞きたくない情報まで耳に入ってくるのも事実で。私は、それを防ぐ術を持っていない。

 そのことに、先々週、初めて気付かされた。

「少しでいいから、モテパワー分けてほしいよホント。ね? 明音」

 同意を求めて、玲奈がこっちを見てる。顔をあげないと。

 だいじょうぶ。

 あれだけ練習したんだもの。絶対、普通に出来る。

 

 顔、あげて。笑って、普通にしなきゃ。

 普通に……。


「明音?」


 喉が、痛い。痛い。

 飲み、こめない。


「…っげほっ、ごほっ…あー! コーヒー牛乳が器官に入った、苦しいー」

「ばっか、何やってんのよ。大丈夫? あーあ、そんな涙目になっちゃって…」

「ん、大丈夫ー。はは、死ぬかと思ったー」

「もー、おバカ。…あ、5限、自習だってよ」

「え? ほんと? やったねー」





 ねぇ、神様。

 もしいるのなら、教えてよ。


 私、今、笑えてる?




○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

<4>


 誰にも、秘密だった。

 誰にも、秘密にしておきたいくらい、大事だった。

 たとえこの想いが届かなくても、ただ見ていられれば、それで幸せだと、本気で思ってた。


 私はなんて、幼稚で愚かだったのだろう。



「はー、四時かぁ。明音今日、部活?」

「うん。玲奈はもう帰んの?」

「うーん。暇だし本屋寄って帰る。部活頑張ってねー」

「ありがと、じゃあねー」

 玲奈に手を振って、教室を出る。と、いきなり、目の前にぬぅっと黒い影。

「おわっ、びっくりしたー。何、透。あんた、無駄にでかいんだから、出入り口のところ立ってたら、邪魔でしょーが」

「……お前、今日部活行くの?」

「行くよ? なんで?」

 真正面から見下ろすように私を見る透の目が、何故か少し怒ってるみたいに見えて、小さく首を傾げた。

「何よ? 何か約束してたっけ?」

「いや、別に……。まあいいや。じゃあな」

「?」

 なんだ、それ。意味わかんない。

 片手を軽くあげて教室に入っていく透の背中をちょっと振り返ってから、少し考えて、気にしないことにした。

 怒らせるようなことした覚えないし、何か用事があるんなら、メールか電話してくるだろう。

 それより今は、普通を保つことに専念しなくちゃ。


 弓道は高校に入ってから始めた。上手か下手かで区別したら、下手の方に入ると思う。それでも、この二年間一度も、部活をサボったことはない。

 弓道場は、私にとって唯一、先輩を堂々と見ていられる場所だったから。

 先輩は、上手の方に入る人だ。去年の春の引退試合でも、いい成績を残していた。

 そう、最初の頃は、先輩の弓を引く姿勢が綺麗で、どうしたらあんなふうになれるんだろうと思って眺めていただけだった。

 それがいつのまにか、弓を引いていない時の先輩まで目で追うようになって、気がついたら、ずっと先輩を見ていたいと思うようになっていた。


 本当に、この二年間ずっと、先輩だけを見てきた。

 だから、分かる。

 先輩は今日、弓道場に来る。弓を引きに。自分の気持ちにケリをつけるために。

 その先輩の姿を見て私も、ケリをつけられたらいい。大事すぎて誰にも言えなかった、この気持ちに。

 先輩のためでも明莉のためでも、誰のためでもなく、私のために。

 誰にも秘密だった恋を秘密のまま、終わらせよう。


 ああ。先輩の音だ。

 弓道場に近づくたびに大きくなってくる、弓音。この音だけで、先輩を見分けられる私は、我ながら凄いと思う。

 弓道場の扉を開けて一礼。すっと顔を上げた先に見える風景。その見慣れた風景の中に、思った通り、先輩はいた。

 思った通り、私が好きになった綺麗な姿勢で、弓を引いていた。

 何もかも思っていた通りで、その光景に、胸の奥が、じりっと焦げるように痛んだ。

「明音、明音」

 囁くような小声で名前を呼ばれて振り向く。見れば、同じ二年で、こちらも高校から弓道を始めた恵美が、手招きしていた。

 壁に沿って、そっと移動する。

「早いね、恵美」

「うん。担任が休みで、HRなかったから」

 並んで正座しながら、囁き声で会話する。本当は私語厳禁なんだけど、そんな規律そうそう守れるもんじゃない。人の邪魔にならないよう、囁き声で話すというのが、暗黙のルールだ。

「それより、一之瀬先輩。あの話聞いた? あんたの妹に告ったっていう」

「あぁ…、うん」

 恵美が顎で指すように、先輩の方に顔を向ける。それを幸いと私も、先輩へと真っ直ぐ顔を向けた。

 大好きだった、見てるだけで幸せだと思ってた、先輩の弓を射る姿。

「やっぱ今日それで、弓引きに来たのかな。傷ついた心を癒せるのは、弓道だけってヤツ? 超泣けてくんだけど」

「いいじゃん、別に。OBなんだからいつ来たって、先輩の自由だよ」

 悪意は無いんだろうけど、恵美の物言いにむっとしてつい、きつい声を出してしまった。

 幸い、恵美は気にしなかったようで、呆れと哀れみが入り混じったような顔で先輩を見ながら、口を動かし続けている。

「先輩もバカだよねー。あんなモデル級の超美人とそうそう付き合えるわけないじゃんねー。卒業までもう日にち無いんだから、言わなければ綺麗なまま、青春の一ページになっただろうにさー」

 言わなければ、綺麗なまま…。

 よく聞く言葉だ。

 でも、それは理想論だって、私は知ってしまった。

 先々週、先輩が明莉に告白したと聞いたあの日から。

 先輩に好きな人がいたことで。

 それが、よりにもよって、明莉だったことで。

 とうに忘れたはずのどろどろしたコンプレックスが、片割れである明莉への醜い嫉妬が、私を、私の想いを、汚い色に塗りかえってしまったから。

 ただ、好きなだけ。それだけで幸せを感じてた頃にはなかった、どろどろした醜い感情。それが、あまりにも苦しくて。苦しすぎて息すら詰まるから、だから。

 私は、この恋を秘密のまま、なかったことにしようと決めたんだ。


 じっと、瞬きすら惜しんで、先輩の姿を目に焼き付ける。食い入るように真っ直ぐ前を見る私に遠慮したのか、恵美も、口を噤んで静かに前を見ていた。

 耳に馴染んだ弓音が響いて、先輩の最後の矢が的に刺さる。


 これで、本当に最後だ。もう、終わりにするんだ。

 二度と、この人を目で追わない。探さない。


 私の決意を体現するように、先輩が的に向かって一礼して、後方に下がる。


 どうして―――…。

 どうして、明莉なんだろう。

 どうして、私は明莉じゃないんだろう。


 往生際悪く、いまだ込み上げてくるそんな感情を押し潰すべく、下唇をぎゅっと噛んだ、その時。偶然ではなくはっきりと、先輩と目が合った。

 その途端、つい数秒前に終わりを誓ったはずの想いが、心臓を大きく震わせた。

「石川さん」

「は、はい?」

 しっかりとした意思を持って先輩が、私を見て、近づいてくる。こんなこと、今までに何回あっただろうか。きっと両手で数えられる程度だ。

「ちょっと、いいかな」

 先輩が、申し訳なさそうな顔で、外を指差す。

 隣で恵美が興味津々と言った顔をしてるのが、見なくても分かる。

「あ…、はい」

 普通に、普通に、普通に。

 胸の中で呪文のように繰り返した言葉は、何の助けにもならなかった。

 ただ、声が震えないようにするのが、精一杯だった。



○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

<5>


「妹さんに、聞いた?」

 弓道場から少し離れた場所にある水飲み場で、先輩は唐突に、でも言いにくそうに口を開いた。

 予想はついていたし、それを分かって付いて来たんだから、こんなことを言う権利はないんだろうけど、実際に先輩の口から明莉のことを聞くのが、こんなに嫌な気持ちになるとは思わなかった。

 身体が二重にも三重にも重くなった気がする。

 心臓が、重たさに耐え切れず、捩れてちぎれそう。

「いえ…、明莉からは別に何も…」

「……そっか。でも、もう知ってるよね?」

「………」

「気を遣わないでいいよ。彼女に告白しようと思った時から、噂になるのは覚悟してたから」

「はあ…」

「彼女のことは、もういいんだ。踏ん切りがついたっていうか、すっきりしたっていうか。ただ、石川さんは部活の後輩だし、この先OB会とかで色々会う機会もあるからさ、このことで石川さんに嫌な思いさせたら悪いなと思って……」

「…嫌な思い…?」

「何ていうか、変に気を遣ったりさ。そういうのいいから。俺が勝手に彼女を好きになって、勝手にふられただけだから。石川さんは何も気にしないでいいからね」

 視線の先で、先輩はそう言って優しく微笑んだ。

 その微笑の影で、すっきりしたという言葉の裏で、どれくらい先輩が傷ついているのかとか、私には分からない。

 私に分かるのは、これ以上、先輩の口から明莉のことを、遠まわしに明莉を庇うような言葉を、聞きたくないっていう自分のどろついた感情だけだ。

 はいって答えればいい。

 そうしたら、きっと、この会話は終わる。

 私がそう言えば、先輩はきっと、じゃあって言って、去っていくから。

 はいって、ただ頷けばいい。

「石川さん?」

 分かってるのに、どうして。

 喉が詰まって、声が出せない。

 苦しくて、胸が潰れそうで、頷くことすら出来ない。

 先輩が見てる。分かってる。だけど。苦しくて動けない。


 お願い、見ないで。

 

 明莉を好きだと言ったその目で。


 私を見ないで。



 神様。

 誰か、誰でもいいから。

 

 私をここから、先輩の前から、今すぐ連れ出して―――…。



「石川!」

 突然、大声で名前を呼ばれて、びくっと肩が震えたのと同時に、金縛りが解けた。

 振り向くと、透が、凄い勢いでこっちに向かってきていた。

「透…? え、どうしたの」

「先生が呼んでるぞ。急ぎだって」

「え? 先生って?」

「いいから。呼んで来いって言われてんだよ、俺。行くぞ」

「え、ちょっ、待ってよ。だって…」

 有無を言わさない力で透が、私の腕を掴む。そのまま勢いに負けて数歩引きずられたところで、焦って先輩を振り返った。

「先輩、あの…っ」

「あ、いいよ俺は。大丈夫。引き止めてごめんね」

「ほら、いいって言ってんだから、さっさと行くぞ」

 少し呆気に取られた顔で先輩がそう言う、その数秒すら待てないといった感じで、透がぐいぐい腕を引っ張ってくる。地味に痛い。

 一体、何なんだ。そんなに緊急事態? え。私、何かしたっけか。

「ちょ、透。痛いって。ちゃんと行くから、そんな引っ張んなくても。てか、誰が呼んでるの? 担任?」

「………」

「透?」

 答えない透を不審に思うも、殆ど引きずられるようにして歩いているため、顔を覗きこめない。これが漫画なら、私の頭の上にハテナマークが三個くらいつくところだ。一体何なんだ、本当に。

「ねぇ痛いってば、離してよ。つーか、どうしたのよ、透。先生って誰? ねぇってば」

「………」

「いい加減にしてよ、痛いって言ってんじゃん! 何なのあんた、耳聞こえないわけ!?」

 力任せにぐいぐい引っ張って、ずんずん歩いていくくせに、こっちの質問には全然答えてくれない透に痺れを切らして、声を荒げた。

 と、その甲斐あってか、ぱっと透の手が、私の腕から離れた。のは、良かったんだけど。

「わっ、ぶっ!」

 急過ぎて、透の背中に真正面からぶつかって、そう高くもない鼻が潰れた。

 透が振り返ってこっちを見る。気がつけばいつのまにか、弓道場からかなり離れた場所まで来てた。

 見下ろしてくる透の目が、何気に怖い。何なんだ。怒りたいのはこっちだ。

「痛いし」

 とりあえず、潰れた鼻をさすりながら睨む。本当に痛いのは、掴まれてた腕だけど。

「…ごめん」

 やや間を置いて、透がばつが悪そうに、ぼそっと謝った。微妙に納得が行かないけど、まあ、それほどに急いでいたんだろうと思うことにする。

「もういいよ。で、何? 担任が呼んでるの? 職員室に行けばいいわけ?」

「……や、先生っていうか…」

「は?」

「ごめん! あれ、ウソ!」

「はああ?」

 ぱんっと両手を合わせて、勢いよく頭を下げた透を前に、思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。

「なっ、えっ? 嘘って何、どういうこと?」

「いや、だから…。別に先生に呼んで来いとか言われてなくてだな…。なんつーか、その…あれだ。うん。ごめん」

「いやいやいや、意味分かんないし。あんた、何言ってんの?」

 私の疑問やら戸惑いやらは、当然だ。なのに透は、あからさまに不機嫌そうに顔を歪めた。

「……意味分かんねーのは、お前だろ」

「は? 私が何だって言うのよ?」

「何必死に普通装ってんの? つか、全然装えてねーけど」

「はっ?」

 声だけは何とか張り上げたけど、内心、身体の芯が瞬時に凍りついたみたいに、ひやりとした。

「なに、言ってんの…?」

「だから、そういうのをやめろっつってんだよ。お前、ここんとこ全然笑えてねーじゃん。そんなに辛いなら辛いで、無理して普通にしなきゃいいだろ」

 足元が危うい。

 膝が震えて、身体が崩れそう。

 本当に、こいつ、何言ってんの……?

「それをさぁ。なんで、あいつが来るかもしんないのに、部活行ったりすんの? 家でも学校でも泣けもしねーのに、なんでその上また、あいつと喋ったりしてんだよ! 見てられるわけねーだろ、そんなん!」


 ―――あぁ。

 透は、知ってる。

 私が誰を好きで、その人が誰を好きか。

 

 知って、るんだ…。


 どうして? ずっと秘密にしてきたのに。

 誰にも知られたくなかったのに。

 こんな…、こんな惨めな想い、誰にも知られたくなかったのに―――…。



「……だから?」

「え?」

「見てらんないほど私が憐れだから、可哀そうだから、助けてやろうって?」

「な、」

「誰がそんなこと頼んだよ、ふざけないでよ」

「石川…」

「笑えてなくて悪かったね。でもそれで、透に迷惑かけた? かけてないよね? だったら放っておいてよ!」

 だめだ。泣きたくない。泣いたらだめ。

 泣いたら、もっと惨めになるだけだ。

 もうこれ以上、自分のこと、嫌いになりたくない。

 こんなに劣等感だらけの醜い自分は、もう、嫌。

 だから、終わらせようって、全部秘密のまま、何もなかったみたいに終わらせて、元の私に戻ろうって、思ってたのに。

 戻れるはずだったのに、どうして。


 どうして、こんなに苦しいの。



○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

<6>


 神様が地獄に落ちた罪人を憐れんで垂らした、蜘蛛の糸。

 だけど、それは良く出来た物語の中の話。

 この不平等で理不尽な世界で、自分という小さな地獄に落ちた私を救う蜘蛛の糸は、どこにもない。



 透の顔が見れない。

 きっと怒ってる。ううん、きっと傷つけた。嫌われたかもしれない。感情のままに酷いことを言った自覚はある。それが八つ当たりだって自覚も。

 でも、どうしようもなかった。

 ただ、苦しくて仕方なかった。

「…ごめん、私……」

 今にも崩れそうな足を何とか動かして、後ずさる。

 とにかく、この場を離れたかった。

「部活あるから……行くね…」

「待てよ、石川」

「友達ならっ…!」

 これ以上、醜い自分を見られたくなくて。

 気がつけば、引き止めるようとする透の手を叩きつけて、ヒステリックな声を張り上げていた。

 瞬間、透がビクッとなったのが、目の端に映って、いたたまれない。何より、自分が情けなくて、たまらない。

「友達って…まだ思ってくれるなら、放っておいて。お願い…」

 泣いちゃだめだ。泣いちゃだめだ。泣いちゃだめだ。絶対に、泣くもんか。

 歯を食いしばって、喉に痞えた熱い塊を飲み下す。

 そのまま、背を向けようとした時だった。

 透が静かに、でも強い口調ではっきりと、言った。

「友達じゃなくていい」

 その言葉に驚いて思わず、伏せてた顔を上げた。

 透の目は、痛いくらい真っ直ぐ、私を見てた。

「毎日毎日、そんな辛そうな顔見るくらいなら俺、友達じゃなくていい」

 友達じゃなくていいって…、友達やめるってこと?

 驚きと不安と恐怖で、一瞬、身体が竦んだ。

 そんなのやだ。そう、思った。

 混乱して錯乱して思考がぐちゃぐちゃだったけど、それだけははっきり分かった。

「……透」

「なあ」

 掠れた私の声は、透の声に掻き消えた。 

 ぼすっと温かな衝撃がして、透の手が私の肩に乗る。そうやって私の肩に両手を乗せたまま、透は項垂れるみたいに、がくりと深く頭を下げた。

「どうしたら、お前、笑うんだよ」

「え…?」

「なんでさぁ…」

 喉の奥から搾り出すような、低い声。項垂れたまま、透が、ぽつぽつと口を動かす。

「なんで泣かねーの? 泣けよ。なんでそんな、一人で我慢すんだよ。俺、どうすりゃいいの」

 どうすりゃいいのって………。

 そんなの私が聞きたいよ。

 なんで、そんなこと言うのよ、透。

 なんで泣かないって、そんなの……。泣けってそんなの、だって……。

 だって―――…。

「…に、言ってんの…? 泣くわけ、ないじゃん…だって……。なんで、泣かなきゃいけないのよ、私……可哀そうなんかじゃないもの」

 もう、惨めなのは嫌。だから、泣かない。

 泣いたら、認めることになるから。

 自分が、惨めだって。

「あ、明莉はかわいくて、女の子らしくて…、好かれて当然で……だから……別に…」

 生まれた時から何もかも一緒で、なのに、何もかも違って。人を引き付ける綺麗さも、人から好かれる愛らしさも、いいところは全部、明莉が持っていった。

 誰も面と向かって言わないけど、皆がそう思ってるの知ってる。友達も、親戚も、親だって…。

「私は私だもの……。先輩が、明莉を好きでも…、それで私が劣ってるわけじゃない…、私は可哀そうなんかじゃない…ッ」

 だけど、何より一番嫌なのは、自分がそう思ってしまうこと。

 私は、私。口では偉そうにそう言って、内心では誰より私が一番、明莉を羨んでる。妬んでる。

 生まれる前から一緒の、世界にたった一人の大事な妹、本当にそう思ってるのに。

 なのに。

 

 その心の裏で、私が明莉だったらって、明莉がいなければ良かったのにって思ってる。

 あの日からずっと。

 ううん、物心ついた時からずっと。


 なんて醜い。


 もう、こんな自分、嫌。

 惨め過ぎて。



 消えてしまいたい。



○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

<7>


 握り締めた手のひらに爪が刺さって痛い。でも今は、握った手を開けない。

 そこから、必死に繋ぎ保っている何かが、零れ落ちてしまいそうで―――。

「あほかお前は」

 少しの間の後、透が吐き捨てるように言って顔を上げた。その声の、思わぬ強さに知らず唇を噛む。

「誰が可哀そうとか、そんな話してんだよ? つか、可哀そうじゃないから泣かないって何だよ、それ? くだんねー見栄はってんじゃねーよ」

「な…っ、み、見栄じゃないもん!」

「見栄だろうが!」

 怒鳴りつけるみたいに言い返されて、肩がびくっとなる。

 それでも、透から目を逸らせなかった。

 透の目があまりに真剣すぎて、目が離せなかった。

「人に可哀そうって思われたくねーっつう見栄だろうが、そんなん」

「……」

「俺はさぁ…お前が元気ないと、気になんだよ。無理して普通装って笑ってても、それが嘘だって、分かんだよ」

「……」

「無理して我慢して笑えなくなるくらいなら、素直に泣けよ。お前、悲しかったんだろ?」

「……」

「あの男と石川さんのことで、すげぇ傷ついたんだろうが」

「……」

「だったら、泣けよ。くだんねー見栄張ってないで、気が済むまで好きなだけ泣きゃあいいだろが」

 血が出そうになるくらい強く噛んでも、わなわなと震える唇を止められない。


 そうだよ、私は傷ついた。

 すごくすごく、胸に穴が開くくらい、悲しかった。

 でも、仕方ないじゃない。私は明莉じゃないんだもの。どうしたって、明莉にはなれないんだもの…。


 ほらまた、明莉に嫉妬してる。

 もうイヤなのになんで……。


「辛いからって、自分から逃げんな」

「ッ…」


 なんで…―――。


「言っとくけどなぁ。好きなヤツの好きな人に嫉妬しないやつなんて、いねぇかんな」


 ―――なんで…。


「俺なんか正直、あいつがいなけりゃいいって毎日思ってるよ。性格悪いのかもしんねーけど、でも誰か好きになったら、綺麗事だけじゃ済まねぇんだよ、仕方ねぇんだよ」


 ―――なんで、こいつは……。


「だからって、自分から逃げてちゃ、それこそ自分が可哀そうだろうが」

「……」

「…なんか、言えよ」

「……ッ」


 だめだ。口を開いたら、もう。

 手のひらをどれだけ強く握っても、もう。



 零れ落ちる―――……。



「…によ」


 目の淵が熱い。

 視界がぼやけて、鼻の奥がツンと痛む。


「透に何が分かるっていうのよ…」


 零れる。


「あ、明莉は、私の妹なの、大事な…。それを…それなのに、どうして…」


 必死に隠してきた想いが。

 涙が。


「どうして明莉なのよぉ…ッ」


 ぼろぼろ、落ちて、零れていく。


「見てるだけでいいって思ってた。だけど…だからって明莉だなんて…、そんなの私、惨めすぎるじゃんかぁ……ッ!」


 立っていられなくて、その場に座り込んだ。

 気が付いたら、声を上げて泣いていた。

 気が付いたら、透が同じように座り込んで、私の頭を撫でてくれていた。

 いい子いい子するみたいに、ぎこちなく。

「わ、私」

 その手が、暖かくて、心強くて。

 なんだか、全てを許されているような気がして。

 後から後から、涙が溢れて、止まらない。

「明莉が良かった…! そしたら私ッ」

 こんな苦しい思いしなくてよかった。

 先輩に好かれて、先輩の彼女にだってなれた。

 明莉を妬まずに、自分を嫌わずに済んだのに。

「なんで私は私なのよぉ…」

 こんなこと、言っても仕方ないのは分かってる。だけど、一度外れた心の蓋は、もうどうしようもなくて。

 心の底に押さえつけていた感情が、そのまま言葉になって、涙と一緒に出ていく。

「やだよもう、やなのぉっ」

 聞き分けのない子供みたいに泣きじゃくる私の頭を、透はずっと、撫でてくれていた。

 そうしながら、言い聞かせるみたいにゆっくり言った。

「なんでとか分かんねぇけど、でも俺は」

 透が手を止めて、小さく呼吸を整える。それに合わせて、涙でぼろぼろの顔を上げて、透を見た。

「お前がお前じゃないと、嫌だ」

 透は、恥ずかしくなるくらい、じっと私を見てた。

 撫でる手は、ぎこちないまま、止まっていた。

「お前がお前を嫌でも、俺はお前じゃないと嫌だ」

 ぎこちない大きな手に。

 じっと私を見る目に。

 その、言葉に。

「…何、言ってんの。ばかじゃないのぉ…」

 透が、私に向ける全てに込めた優しさが沁みて、また、新しい涙が零れた。

「悪かったな。いいから泣いとけバカ」

「バカって言うなバカ~」

 バカバカ言い合って、それでもまだ透が優しく頭を撫でるから、私はもう、その涙を甘受するしかなかった。



○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 

<8>


 どれくらい、そうやって泣いただろう。時間にしたら二十分、いや三十分くらいだったかもしれない。

 泣きすぎて、ちょっと瞼が重いけど、気持ちは遥かに静かに、穏やかになっていた。

「少しはスッキリしたか?」

「ん…」

 頃合を見計らうような透の問いに、ずずっと鼻を啜って、顔を上げた。

「お前…、顔がすげぇことになってんぞ」

「仕方ないじゃん、泣いたんだから。んなことより、透、ティッシュ」

「はあ? 持ってねーよ」

「じゃあハンカチでいいよ」

「いや、持ってねーし。つーかお前が持っとけよ。女だろうが一応」

「だって、私、弓道着」

 ぶすくれてそう言えば、「あ、そっか」という間抜けな声が返ってきた。

 それにしても、泣いたらどうして、こんなに鼻水が出るのか。ずずっと大きく鼻を啜ったら、透がぶっと小さく笑った。

「なによー」

「別にー。…ったく、しゃあねぇな」

 笑って透が、徐に腕を伸ばす。何だろうと思う暇なく、ごしごしとブレザーの袖で顔を拭かれた。

「…透、制服汚れるよ?」

「いいよ」

「…鼻水、つくよ?」

「おーつけとけ、つけとけ」

 されるがままに顔を拭かれながら、真正面に座る透を眺め、優しい笑い顔するんだなぁと改めて思ったりしてみる。

「なんだよ?」

 私の視線に気付いて、透が眉を器用に歪めた。

「いやぁ、透、優しいなと思って」

「今頃知ったか」

「うん、初めて知った」

「お前な…」

「うそ。知ってるよ。あんたがいいヤツだってことは」

 あからさまに顔を顰めた透に笑って言って、立ち上がる。

「ありがとね、本当。なんかちょっと、ふっきれた気がする。色んなことが」

「おう。なら、良かった」

 見下ろす形で笑ってそう言ったら、透も立ち上がりながら、照れくさそうに笑ってくれた。

 きっと、ちゃんと笑えていたんだろうと思う。だって、心から思って言った言葉につられて、自然に出た笑顔だったから。


 嘘みたいに、体が軽く感じる。

 まさに、身も心もすっきりしたって感じだ。

 私をどろどろに汚していた感情は、綺麗になったわけでも無くなったわけでもないけど、そういう汚い部分も含めて、私は私なんだ。


 泣くことに、こんなに意味があるなんて知らなかった。

 きっと、一人だったら、知らないままだった。


 人を妬んでも仕方ないのは、分かっている。

 だけど、そういう感情を持っているからって、私がダメな人間というわけでなく、きっと、人間だったら誰だって持っている弱さなんだって、開き直りではなく、そう思えた。

 ずっと、惨めさに泣くなんて、負けだとしか思ってなかったけど、そうじゃないんだ。

 認めること、自分の弱さに向き合うこと。それはすごく心に痛いことで、だから涙が出てしまうけど、でも、それは負けじゃない。自分の感情を逃げずに受け止めた証拠だ。


 もしかしたら、涙は、神様が人間に与えてくれた、心の痛みから心を守る道具なのかもしれない。


「ねぇ、透」

「うん」

 まだ乾ききらない頬に、風が冷たい。顔にかかる髪を耳にかけながら、隣に立つ透の手に目をやった。

 泣けと肩を揺さぶって、ずっと頭を撫でてくれていた、大きな手。

 全てを許されているような、安心感をくれた。

 汚れた頬を、優しく笑いながら拭ってくれた。

 透は私を、私と言う地獄から救い上げてくれた。

 

 ―――ああ。

 蜘蛛の糸だ。

 神様は私にも、ちゃんと用意してくれてたんだ。


 救い上げてくれる手を。


 そう思ったら、透が今、私の傍にいてくれることが、純粋に嬉しかった。


「私、こんな性格だからいつもつい、憎まれ口きいちゃうけど、でも、あんたのこと好きだから」

 本心だけど、改めて言葉にすると恥ずかしい。だけど、これだけはきちんと伝えなくちゃと思って、透の顔を見上げた。

「だから、これからも、友達でいてね」

 ちょっと照れたけど、笑顔でちゃんと伝えた。

 おかしなことを言った覚えは無い。むしろ、友達としては感動すべき場面ではなかろうかと思う。

 なのに、透は何故か一瞬、まじまじと人の顔を見て直後、信じられないと言わんばかりの顔で、頭を抱えやがった。

「ちょ、何よ、その反応は。人が恥ずかしさをこらえて言ったっていうのに」

「……お前さぁ、それ、マジで言ってんの?」

「は?」

「お前、俺が……」

「はぁっ、っくしょいっ!」

 透が、がばっと顔を上げて何か言いかけた、ちょうどそのタイミングで、派手なくしゃみが出た。

「あーっさっむぅー!」

 考えてみれば、コートも着ずに、ずっと外にいたのだ。寒さに、くしゃみのひとつも出て当然だ。

「ちょ、冷えた冷えすぎた! 風邪引く! とりあえず移動しよう移動!」

 両手で腕をさすりながら、そう促して、校舎へと踵を返す。

「え…。あ…おい」

 声に振り向けば、透は何故か、呆気にとられた顔で、その場に止まったまま。

「何してんの、透。行こうよ、風邪ひくよ? いくらバカでも」

 透だって、寒いはずなのにと、思ったまま口にすれば、呆れ返ったようにがっくりと肩を落とされた。

「……おっまえ、マジで…」

「はー? なにー?」

「なんでもねーよバカ!」

 寒さに耐えられず、校舎へと足を動かしながら聞けば、キッと顔を上げた透から、軽く怒鳴られた。いや、百歩譲ってバカなのは認めるけど、意味が分かんないし。

「なによー?」

「もういいよ。ほら、寒いんだろうが。さっさと歩けバカ女」

「はああ? あんたね、ちょっといい奴だと思ったら、何よその態度!?」

「うるせーバカ」

「バカバカ言うなバカ」

 小学生並みにバカバカ言い合って、並んで歩く。

 うん。これが、いつもの私達だ。

 いつもの私。

 気がつけば、自然に、『普通』に戻ってた。

 無理して演じることもなく。

 はっとして、透を見上げた。目が合う。その目をちょっと、まじまじと見てしまった。

「なに?」

「…すごいね、透」

「は?」


 先輩のことを想うと、正直まだ胸がズキズキするけど。明莉を羨む気持ちも捨てきれないけど、でも。

 きっと、大丈夫。

 もうそこに、地獄はない。


 全部、透のおかげだよ。

 本当に、本当に、ありがとう。

 透が蜘蛛の糸を必要とするときには、今度は私が透の蜘蛛の糸になれたらいい―――。


 なんて言ったら、多分「意味わかんねーんだよバカ」って言われるから、黙っておくけど。


 願いを込めてそっと心で呟いた言葉は、二月の冷たい風に乗って、夕焼けの空に溶けていった。




『君と涙と蜘蛛の糸』〈了〉

お読みくださって、ありがとうございます。

何かございましたら、どうぞお気軽に何なりと。

ただし、「それ、神じゃなくて仏」という突っ込みは、ナシの方向でお願いします(笑)。

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