遠く夏の思い出に。
笹の葉さらさら
軒端に揺れる
お星さまきらきら
きんぎん砂子
*
「僕は誰より不幸で居たいと思うんだよ」
どこにもふざけた雰囲気の無いふざけた台詞を、だから私はぞんざいに、おざなりに跳ね返した。
「誰より不幸で痛い? そうだな、君は確かに痛いから、うん、不幸だ」
「痛くはねぇよ」
痛くは無いし、それが不幸だと断定もするな。眉を寄せた不機嫌の表情で、ひとつ前の席に位置する椅子の背に腕を乗せる姿勢のまま、そいつは私の顔を睨んで来る。久遠 久遠。彼の両親は絶対自分らの子どもで遊んでいたのだろうと推測できる出来の悪い駄洒落みたいな名前を持つ、私の小学校四年生来の旧友である。お互い片田舎の、平均レベルの県立高校に進学した今現在も、異性の垣根がどうとか、そういった壁を一切感じさせない唯一の親友であることは間違い無かった。ただ、同じくらい間違いないことに、そして残念極まりないことに、久遠という男は、なんというか、にべもない言い方をするのであれば、単純に、どうしようもないくらいに、阿呆であった。同じレベルの学校に通っていてその言い分は中々おかしなものであるというのは自覚しているのだけれど、それを差し置いて、というか、差し引いてみたところで、あらゆる発言や挙動の総合から、彼が阿呆であるということは、これもどうしようもない事実だった。まぁ、悪い奴ではないけれど。
「おい、なんかさっきから僕を差し置いて失礼なことを考えてないか」
「勘違いしないで欲しいな。差し置いてなんか無いよ」
差し引いてみただけで。
「失礼なことを考えていたってところは否定しないんだな……」
とても残念そうな顔をする久遠。これ以上残念になったらさしもの私もついて行けなくなるから止した方が良いと思う。
「安心してよ、久遠」
「なんだよ」
「私は、君に対して失礼でないことを考えたことなんて一度も無いからさ」
「フォローする気ないよなぁ!?」
「無いね」
「断言しやがった!」
「ああもう、騒がしいなぁ。もうすぐ夏なんだから黙りなよ」
「意味が分からないぞ!?」
「私だって分からないよ」
「不条理だーっ!!」
本当に騒がしい奴だった。重ねて言おう、悪い奴では、無い。ただちょっと煩わしいだけだ。
「さて、と」
一通り応酬も済んだところで、私は席を立つ。窓際三列目。良いのか悪いのか判断しかねる微妙な位置だけれど、私は別に問題児でないからどこの席であろうと、教師に目をつけられることは無いので関係ない。問題は、明らかに目をつけられている久遠が前の席にいることくらいか。
通学鞄に机の中にしまってあった教科書類を全部突っ込んで、帰宅の準備を進める。それを見た久遠も席を立ち、鞄を手に取ったようだけれど、別段机の中身を鞄に移すことはしていないようだった。置き勉という奴である。
「いやぁ、相変わらず真面目一直線だな、サッチーは」
「君が特別不真面目なんだ。何だよその机からはみ出しているぐちゃぐちゃのプリント類は。それと、サッチーはもうやめてくれ」
佐伯 千夏であるところの私の名前から出来た、これも小学生時代からのあだ名を、彼はいまだに時折口にする。高校一年でサッチーは、流石に如何ともし難いものがあるので迷惑千万も甚だしい。そもそもこのあだ名を私に付けたのも、久遠だった気がする。
「良いじゃん、サッチー。可愛いって」
「……馬鹿ばっか言うな。馬鹿にもなるよ」
「もってなんだよ」
「すでに君は阿呆を極めてるからね」
「言ってくれるなぁ」
苦笑いの表情で言って、久遠は歩きだした私の後についてきた。開け放たれたドアをくぐって、廊下に出る。真っ赤な西日が階段まで続く一本道を染めていて、ほんの僅かにだけ、私は目を細めた。都会を夢見る年頃の私だけど、こういった、時間の流れに逆らわず染まっていく田舎の風景は、数少ない私の心の癒しになっていた。夕方には赤色に、夜になれば真っ暗に。街灯や建物の灯りが絶えないという都会では、まず無い感覚だろう。ちらっと、隣に並んで来た久遠の横顔を眺める。はずだったのに、彼が私の方を向いていたせいで、自然、目が合う形になる。気付いた久遠が微かに微笑んで、堪え切れず、前を向き直るふりをして、私は彼から目を逸らした。頬が熱い。淡く色づいているであろう顔を、久遠は西日に照らされているせいだと勘違いしてくれるだろうか。
「どうしたんだよ、千夏。なに? 僕に見つめられて照れてるのか?」
悪戯っぽく、久遠があどけなさを含んだ笑顔を見せた。変なところだけ、彼は変に鋭い。
「自意識過剰が過ぎるよ、久遠。照れてるんじゃなくて、照らされてるんだ」
我ながら苦しい言い訳だった。自身で言い訳だと分かっているぶん、苦しさも増す。阿呆の久遠は、しかしどうやら、気付かなかったらしい。「日差しが強いもんなぁ」なんて言って、誤魔化されているようだった。御しやすし、とまでは、流石に思わないけれど。この方面での鈍さには、思うところが無いでもなかった。想うところなら、ありすぎるけれど。
「お、笹の葉」
私達が通う高校の目の前には、小さな幼稚園がある。その直ぐ入口の所に立てられていた木を見て、久遠が呟いた。笹の葉。枝の部分には、園児が書いたのであろう、拙い字でつづられた願いごとを記した短冊が無数にかかっている。赤、青、黄、緑、紫、白。色とりどりの短冊は、たまに吹く風を受けて、細長い葉と共に揺れていた。
「明日は、七夕だからね」
「そういやそうだったっけな」
言って、また歩き出す。通り抜け様にもう一度、笹の葉に目をやった。一際強い風にさらりと揺れて、その拍子に、結び目の弱かったらしい短冊が、偶然私の手元に運ばれてきた。はっとして手を伸ばすと、短冊は、確かな感触を持って私の手に納まる。先を行く久遠は、どうやら気付いていないらしい。広げた手のひらに乗せた短冊に目を落とす。砂子をまぶした、他の短冊とは異彩を放つ、高級そうな、和紙。なにも書かれていない面を裏返してみると、どうしてか、どちらの面にも、文字は記されていなかった。明らかに、幼稚園の関係者がつけたものではなさそうに見える。誰か通りすがりの人が掛けたのかなと思い、しかし何も書かれていない短冊を見直し、首をひねる。考えたところで、分かりそうも無かった。もしかしたら、文字にはせずに、願いだけをこめた短冊を吊るしていたのかも知れないと、そのくらいの推測が、私の知能では限界だった。
「千夏?」
と、私が立ち止まっていることに気付いたのか、久遠が不思議そうな声を出して歩み寄ってくる。ぼうっとしてしまっていたらしい。咄嗟に、必要も無いのに短冊を制服のポケットに隠して、こころなし慌てて、早足で久遠に追いついた。
「ごめん、なんかぼうっとしてた」
「みたいだな。珍しい」
「うん、久遠じゃあるまいし、私としたことが」
「え、あれ? なんで僕、このタイミングで貶されてるの?」
「貶して無いよ、馬鹿にしてるだけ」
「あれ? 何で僕、待っていてあげただけで馬鹿にされてるんだ?」
「聞き捨てならないな、久遠。待っていてあげただなんて、それじゃまるで私が君を待たせていたみたいじゃないか」
「おかしい、さっきから不当に責められている気がする」
流石の阿呆でも気付くらしかった。まぁ、かなりいい加減な言い分だし。
「気の所為だよ」
「おお、なるほど、気の所為か」
「うん。君の所為だ」
「僕が悪いのか!?」
「うん、君の性だ」
「男だな」
意味が分からない掛けあいだった。深い意味のある雑談なんていうのも、ある意味おかしな話だけど。それにしたって中身が無い話だ。
「まぁいいや、さっさと帰ろうぜ」
「そうだね」
頷いて、彼の隣に並び直す。片道三十分あまりの道を歩いて、そろそろ夕日も沈みきるくらいの頃に、ようやく私たちはお互いの分かれ道についた。「それじゃ」と、軽く片手を上げて反対の道を行く。別れてから、一度だけ、背を向けて歩いて行く久遠の後ろ姿に目を向けた。さ、帰ろう。
*
玄関に入ると、私は奥のキッチンで夕飯の準備をしているらしかった母に一言も無く、黙って階段を上り自室に向かう。ただいまくらい言えと、三つ下の妹にはよくよく注意されるのだけど、私としては妹の様な出来の良い娘に成りきれる自信が欠片ほども無いため、無理な話だった。お決まりにもなっているその注意が無いことをみると、どうやら妹はまだ帰っていないらしい。あの妹の事だ、どうせまだ、部活中だろう。中学生になるやいなや、入部した女子サッカー部で一年生にしてレギュラーの座を獲得し、学年が上がるとともにあっさりとエースまで駆け上がった彼女は、いつだって誰より真面目に練習に励んでいると聞く。話の根は、もっぱら母だ。妹の出来の良い話を実の母から聞かされるというのは、やはりというか、あまり心地いいものとは言えなかった。むしろ、包み隠さずに言ってしまうのならば、正直なところ、虫唾が走る。全力疾走だった。しかしそんな本音など言えるわけでもなく、黙って愛想よく、母の言葉に頷いて心無い褒め言葉を妹に向けて投げかける私は、どうしたって小さな人間なのだろう。
部屋に入ると、鞄を机にひっかけて、制服のまま、皺がつくのにも何ら気を配らずに、朝から敷きっぱなしだった布団に寝転んだ。良い物とは言い難い敷布団越しに、固いフローリングの感触が僅かに伝わる。かさり、と、制服のポケットが音を立てて、私は先程そこにつっ込んだ短冊の存在を思い出した。行儀悪く寝転んだままにポケットを漁って、少し折り目がついてしまった和紙を引っ張り出す。頭の所にちょこんと付いた青いリボンが、どことなく物悲しく思えた。なんとなく、頭上を照らす電灯に向かって手を伸ばしてみる。和紙を透かせるように掲げてみたけれど、勿論、何が起こるわけでも無かった。急に馬鹿らしくなって来て、腕を投げ出して軽く目を瞑る。普段しないようにと心がけているのに、ため息が唇から洩れでていた。駄目だな、私。
「駄目だな、ほんとに」
口にも出してみて、音にも乗せてみて、空気に紛れさせられないかと思い、しかし、無論それも失敗して、むしろ物悲しさを増すだけに終わった。短冊を握りしめたまま、力任せに枕に抱きついた。思い出されるのは、久遠の事。私の事。
異性の壁。男女の垣根。そんなものをとっくに超えた関係でいたつもりだったのは、どうしたって幻想でしかなかった。小学生の頃は、まだそんな感情など理解していないから、性別なんて関係なく無邪気に遊んでいられた。中学生にもなると、既に私は、久遠を異性として意識せざるを得なくなっていた。壁を感じないなんて、大嘘にも程がある。私は、一度だって、久遠を意識しないことなんて無かった。ただ、そう演じていただけである。関係を壊したくないから。いつまでも、幼くても、親友という立場にいたかった。
痛いのも、だから不幸なのも、私だった。
全く、泣きたくなってくる。癇癪を起した子供みたいに枕を壁に投げつけて、やるせなくなって、また布団に転がった。こうなってしまったら、もう不貞寝に限る。
明日は七月七日。七夕。一年に一度しか会えない上に、不条理な人間の願い事をいくつも聞かされる羽目になる織姫と彦星。いくつも、覚えきれない程に理不尽な願いを託される彼らに、だったら、私の願いも、聞いてもらえるのだろうか。
*
寝ざめは最悪だった。結局昨夜、夕飯時に起こしに来た妹の声すら届かず、結果として六時前ごろから延々と、今朝まで眠っていたことになる。眠りすぎで頭が痛いなんて事象は、史上初めての事だった。情けない。制服についた皺は案の定、朝の短い時間では取るにも取れず、くしゃくしゃのそれをまた着こんでの登校である。気分がすぐれるはずも無かった。絶賛、絶不調。痛みにこめかみの辺りを押さえながら、思考すら碌に出来ずに学校への道を歩く。
タイミングが悪い、と言えばこれ以上ないくらいの悪さで、親友はやってきた。
「よ、おはよう、千夏」
「うん、ばいばい、久遠」
「ちょっと待った! なんで朝の挨拶の返しが別れの言葉なんだ!?」
「あのなぁ久遠。突っ込みっていうのは、もっとスマートな言葉を選んで端的に要点を責めるんだよ。そんな突っ込みしか出来ないんじゃあ、まだまだだね君は」
「何で突っ込みに駄目だしされてるんだよ僕は……」
「じゃあ、鍛え直して戻ってくると良い。私はいつまでだって君を多分待ってはいないよ」
「え、ちょ、おい!? なんでそんな慈愛に満ちた表情で送り出そうとしてるんだよ! 僕はただ通学中に見かけた友人に挨拶をしただけなんだが!」
「そう、君にはそう思えるのかもしれない。でも、私には、もしくはその辺りを歩いている他の人々には、そうは見えていないかもしれないんだよ、久遠」
「え? じゃあ、今の挨拶はお前にはどう見えたんだ?」
「じゃあ、また学校で」
「誤魔化せてないからな」
朝から無駄なやりとりにも程があった。頭痛の種が増した気がする。増した原因が自分にも多大にあるような気がしてならなかったけど、そこは気の所為だと信じておきたい。事実なんだけれど。
「ねぇ、現実は世知辛いね」
「だから朝からどんなテンションだよ」
呆れたような表情の久遠。むぅ、なんだか、この扱いは少し納得いかない。
「君が余りにも阿呆だから、今の世がどれほど生きにくい世界になっているかを語り聞かせてあげただけだよ」
「今ものすごい勢いで馬鹿にされた気がするぞ」
「阿呆だと言っただけだよ」
「だからフォローになってない」
「する気も無い」
「だろうな!」
うん、これで良い。少しだけ頭痛も和らいで、単純な自分の思考に苦笑した。そんな、不安定な気持ちだったからだろう、そんなことを、言ってしまったのは。
「……久遠」
「ん?」
「七夕をしよう」
「は?」
意味が分からなそうに首をかしげる久遠。安心してほしい、私にも分からない。分からないくせに、口だけは達者に動いた。
「だから、七夕だよ。笹の葉に短冊を結ぶんだ。それで、今日が終わったらそれを燃やす」
「七夕が何であるかを聞いた訳じゃねぇよ。いいけど、笹はどこにあるんだよ」
「それは、……商店街に、町民が自由に結んでいい笹があったはずだ。それに結ぼう」
「ん、まあ、僕は良いよ。短冊だけ用意してくれれば」
「それなら、大丈夫」
昨日の短冊は、鞄の中に入れてある。幼稚園の笹に返すつもりだったけど、この際だ、持ち主には悪いが、使わせてもらおう。
「一枚しかないけれど、片面ずつでいいよな」
「構わないよ」
久遠の了承を取って、また少し、気が晴れた風に思えた。自分の単純さが嫌になる。けれど、その単純さは、別に疎むようなものではない気もした。
気は晴れてるんだから、良いじゃないか。
昇降口について、上履きに履き替えてから、私は例の短冊を久遠に手渡した。
「放課後までに書いておけよ」
「おっけー。じゃ、教室行こうぜ」
「ん」
*
空は茜色に染まりつつあった。夕刻である。久遠は短冊を、約束より早く昼休みには書き終えていて、私はそれの裏側に、自分の願い事を、我ながらいじましくも、小さく綴った。久遠の書いた願いを見たい衝動にも駆られたが、マナー違反であるし、自分がそれにどんな期待をしているのかも心の底で分かっていたので、自重した。
終業のチャイムとともに二人して教室を出て、互いの家とはまるで逆方向の、少し距離のある商店街へと足を向けた。
「なぁ、千夏は短冊、何書いたんだ?」
「絶対に教えない」
「ケチだなぁ」
「だったらそっちが教えろよ」
「んー、僕? 何だ見てないんだ。僕はあれだよ、ほら」
夕焼けの空を、久遠は見上げる。どこか遠い目をしていた。二人の間の距離が、今以上に開いてしまった気がして、気持ちの分だけ、少し近づく。久遠は、当然気付かない。
「『僕を不幸にしてくれ』」
「……なんで」
「そこまで聞くのかよ。まぁ、あれだよ、不幸の後には幸福が待ってるって言うだろ。幼い話なんだけどさ、僕はあれを信じてるんだ。きっと、嫌なことの後には相応の良いことがあるんだって」
「だったら、最初から『幸せになりたい』でいいじゃないか」
「それだとなんだか、偽物な気がするだろ」
「私には分かんないよ」
「そっか」
沈黙。斜め後ろの方から照りつける太陽の所為で、今だけは、私達の影は重なっていた。地面に視線を落として、そのまま黙々と歩く。いつもとは、どことなく雰囲気が違ってしまっていた。私の、心持が原因だろうか。
「まぁ、実際、すでに不幸なとこもあるんだけどな、僕の場合」
「ん? どうしてだよ」
口を開いた久遠からそんな言葉が出てきて、私はつい聞き返す。いつでも能天気に生きているように見えている、あの久遠が、一体何に不幸を感じるというのだろうか。私の疑問に答える台詞も、どこかぱっとしないものだった。
「誰にも、知ってもらえないんだ、僕は」
「は?」
疑問が重なる。何を言ってるんだろう。
「特に、知って欲しいところは、尚更なんだよね」
「……そんなの」
君だって同じじゃないか。そう言いたかったけれど、口も既に、い行の発音の形になりかけていたけれど、誤魔化すように、先を紡いだ。
「聞かせれば。言っちゃえばいいだろ。知って欲しいなら、言えば良い」
言いながら、胸が詰まる気がした。誰でも無い、自分に言っているのかもしれない、私は。言ってしまえば。この気持ちも、幾分か楽になるだろうのに。
「そうなんだけどね。僕の我儘を言って、それで壊したくないんだよ」
「ふうん。……色々考えてるんだね、久遠のくせに」
「まぁな。千夏も、あるだろそう言うこと」
「そりゃあ、私は久遠の百倍は悩んでるさ」
「失礼な。そういう千夏こそ、大した悩みは無さそうだけどな」
「大したは余計だ」
「悩みはないのか!?」
「冗談だよ」
くくっと、出来る限り軽快に笑って、少しだけ歩幅を広めた。さっきから久遠が私の歩調に合わせてくれていたのを、そして、普段からそうしてくれていることを、私は知っていた。だから、悩むんだ。
「ほんと、気の利いた奴だね、君は」
「お、褒められた?」
「今のが責め言葉だったって言われた方が驚くけどね」
「それもそうだな」
「責め言葉だよ」
「驚いたぞ!?」
意味無く軽口を交わし、お互いに気付いていない振り。見えない優しさは、口にしない優しさは、言わぬが吉に決まっていた。それこそ、ぬるま湯のような関係ではあるけれど、心地いいのだから、仕方が無い。これ以上先に進みたいけれど、この関係は、失いたくない。失えば、きっと痛い。それが怖い。
「さて、そろそろ見えるころかな」
言って、曲がり角を右に入る。商店街の入り口がそこにはあって、それを越えた先、この商店街唯一の広場には、目的の笹の木が、明らかに周囲から浮いた様子で立っていた。田舎であるが故か商店街はまだそれなりに繁盛していて、その影響もあって、ここに立てられる笹には毎年近所の子供たちの短冊が、多数結ばれている。今年もその例に漏れず、当日たる今日には数えられそうにも無いほどの紙きれが、風に揺られる葉と共に揺れていた。意味無く木のてっぺんを見据えながら、私達は木の真下まで足を運んだ。
鞄から、大事にしまいこんでいた短冊を取り出す。私達の、それぞれ違った願いのこめられたそれを、私は、出来る限り背伸びして、他のどの短冊よりも高い位置に結び付けた。
踵を地につけ直して、手のひらを合わせ、口の中で、書き綴った願い事を言う。より高く、より強く願いをかけて、あの空さえも通り抜けて。遠い宇宙の、その先へ。織姫と彦星の、二人の寄りそう所へと。
人間の願いなんて、彼らにとっては逢瀬の邪魔にしか、あるいはならないのかもしれないけれど。
「久遠」
だから、無言で手を合わせる私を見つめていた久遠に呼びかけた。出来るだけ、自分の力も添えないと。叶うものも遠ざかると、そう思うから。
「なんだよ」
「あのさ、星、見に行かないか?」
「星?」
首を傾げる久遠に、私は続ける。苦笑の仮面付きで。極度の緊張を誤魔化すために。
「今日は七夕だよ。天の川、見に行かない?」
私の言葉に、さらに久遠はきょとんとした表情を浮かべた。ああ、と、気の抜けた声で答える。
「行く。行く行く、行こうぜ、千夏」
「うん。じゃあ、そうだな、私ん家の近くの公園で――」
「いや、僕、良い場所知ってるからさ」
「え?」
「そっち行こうぜ」
「……うん」
無邪気に笑う久遠に返す言葉は何もなく、顔に血の上る感覚から逃げるように俯きがてらに頷く。自然な動作で手首を掴まれて、私の鼓動は否が応にも跳ねた。心臓が止まるかと思った。急にどうしたんだ? 久遠は。
「ほら、どうしたんだよ。夜なっちまうだろ」
「あ、うん、久遠、手……」
「あ、悪い」
私の指摘に、しまったという風に久遠が掴んでいた手を離す。しまったのはこっちだった。折角の機会だったのに、自分から潰すような真似を。
「こっちなら、いいよな」
「――――っ!?」
息が詰まる。というか、はっきりと息が止まった気がした。いや、止まっただろう、間違いなく。私の手首を解放した久遠は、そのまま腕を引っ込めることなく、その手を更に伸ばして。私の掌に、その手を重ねてきた。
手を繋いだのなんて、何年振りだろうか。
思い返されるのは小学校の頃の記憶。
あれ?
そうだ、あの時も……。
久遠に手を引かれて、私は歩く。彼の足の向くままに、手の、引かれるままに。
幾度も道を曲がる度に、まるで蜘蛛の巣の中心に収束するかのように、記憶の糸が、繋がり始めていた。
*
笹の葉さらさら
軒端に揺れる
お星さまきらきら
きんぎん砂子
歌声。幼い歌声。私と、彼の、久遠のものだ。手をつないで、久遠の方は懐中電灯を片手に、夜道を歩いている。親の許可も得ずに、夜の外出だった。七夕の、夜。
目指していた先で、その日、星空は望めなかった。曇っていたから。厚い雲が、空を覆っていたから。
だから忘れていたのだろう。厚い雲で覆われる空そのままに、記憶に蓋を、上から、頑強な蓋を、被せてしまったのだろう。星の無いことなんて、少し見上げれば気づけたはずなのに。高揚していた気分では、そんなことにも気が回らなかった。無念さは、幼さに比例するかのように高く募っていた。残念なその記憶から逃れたくて、忘れていたのだろう、私は。私だけが。今日まで、この日まで。
たくさんの廃車。廃車の山を登って、さんざんに怖い思いをして、それで、全部忘れていた思い出。
*
「なんで……」
自分でも理不尽だと分かりきっている言葉が、唇から洩れでた。
「何で、言ってくれなかったのさ……っ!」
いつかのように、ぼろぼろの車を乗り越えながら、視界は、涙で滲んで危うかった。たまにふらつく私の肩を、久遠は優しく支えてくれる。真っ暗になった不法投棄場で、私は彼の胸にすがりついた。久遠は、ずっと困ったような顔をしている。
「嫌な思い出だったから、忘れていると思ってたんだ」
申し訳なさそうに呟く。正しい。確かに、私は忘れていた。嫌な記憶になったから。恐怖が、綺麗な思い出に勝ってしまったから。
「でも、そろそろ僕も我慢の限界っつーかさ」
思い出してもくれたみたいだし、ね。悪戯っぽく笑いながら、久遠は言った。安定しない足場から高い空を見上げて、雲一つない満天の星空を見上げて、私は目元をぬぐう。情けない。情けなくて余計に泣きたかった。だとすれば、私はいったいどれほどの間、彼を待たせていたことになるのだろうか。
「あれが小学校六年の事だったから、うん、ぴったし四年ってとこかな」
「……」
黙って、流れるような天の川を見つめ続けた。今久遠の方を見てしまえば、きっと押さえは効かなくなる。
「悪いことしたなぁって思って。怖い思いさせちゃったんだなって思ってさ。だから、僕は一番不幸になりたかったんだ。千夏にさせた思いを、自分でも味わってみたかったから」
「そんなの、一番じゃなくたって」
「まぁ、そうなんだろうけどさ。僕は単純だから」
「知ってる」
ようやく、少しだけ笑みが漏れた。「やっと笑ったな」なんて言われて、悔しくて微妙にそっぽを向いてみせると、久遠はあっさりと折れて、すぐに取りなして来た。確かに、単純な奴だ。単純で、単純に、優しい。
「そんなことで、私が喜ぶと思ってたんだな」
「ぜんっぜん」
「はあ?」
「むしろ全部知ったら怒られるんじゃないかなと思ってたくらいだよ。で、予想は当たったみたいだ」
「……そうだな」
反論する気にもなれず、黙って久遠の頭を小突く。分かった気になっちゃってさ。なんて、この状況では流石に口にしないけど。
なんだ、昔から、ずっと、久遠の方が何枚も上手だったんじゃないか。
そう思うと、妙に悔しくて、そう思うと同時に、少しだけ悪戯心がわいてきた。
「久遠」
「ん?」
「短冊。私が何を書いたか、知りたくない?」
「何それ、すっげぇ知りたい」
「叶いそうだから、教えてあげるよ」
バランスを取りながら久遠の隣に立ちあがって、私は彼の耳元に口を寄せた。
「一番、幸せに」
四年前のリベンジとも言える星空の下で、私達は唇を重ねた。
四年越しの成就。四年越しの理解。一年越しの織姫や彦星になんて、負ける気はしなかった。
私達の間に、川は無いから。
失速感が半端ないです。元々は三題話、「くも」「川」「車」を元に書きあげた作品です。
一ミクロンでも楽しんでいただけたのであれば、光栄です。
では、拙作ながら修行中の身故、感想など頂ければ励みになります。