これが恋ではなかったのだとしても
「……フェリシア、この婚約を、解消してほしいんだ」
これまで何度、この言葉を伝えようとしてきただろう。
婚約を解消してほしい。言ってしまえばたったひと言だ。口にするのに十秒もかからない。
だというのに、そのたったひと言を、エリオットはここに至るまでどうしても口にすることができなかった。
明日言おう、明後日言おう……。そうやって先延ばしにしたまま、ずるずるとこんなところまできてしまった。
気づけばエリオットは十八歳になり、そのひとつ下のフェリシアは十七歳。
公爵家の令嬢であるフェリシアと縁を繋ぎたいと思っている家はいくらでもある。条件の見合う相手を今から相手を選び直すのなら、早いに越したことはない。
だからこそ、これ以上繋ぎ止めていてはいけないと、もう限界なのだと、エリオットは自分の気持ちに封をして、この関係に区切りをつけることにしたのだ。
わかりやすいように直接的な台詞がいいのか。それとも、間違っても傷つかないように迂遠な言い回しがいのか。考えて考えて考え尽くしたというのに、結局、短く用件を告げるだけのあっさりとした言葉になってしまった。
(自分の女々しさに、ほとほと嫌気が差す)
窺うように見たフェリシアは、花色の瞳でエリオットを正面からまっすぐ見つめ返していたが、その目はわずかに見張られている。カップをソーサーへと下ろす際に、普段ではあり得ない、かすかな陶器のぶつかる音を立てた。あまり動揺が顔に出る人ではないから、それだけでエリオットの唐突な申し出に驚いたのだろうことが窺えた。
わずかな沈黙。
エリオットは判決を待つ囚人のような気持ちで、身じろぎすることなく彼女の返事を待った。
エリオットとフェリシア。
お互い自己主張の強い性格ではなかったため、これまで些細なことで衝突することもなく、穏やかな関係を築いてきた。
だからこそ、なぜ、と思ったはずだ。
婚約解消をする理由がない、と。
「わたくし、なにか気に障ることをしてしまったでしょうか?」
身勝手な発言をしたエリオットに憤り責めてもいいはずなのに、フェリシアはまるで自らにこそ非があるというような口調でそう尋ねてきた。
「あなたがどうとか、そういうわけでは決してないんだ! 私が……私が、悪いんだ……」
フェリシアの顔を正面から見ていられず、目線が膝の上へと落ちた。そこにある拳はふたつとも固く握り締められている。
すべてはエリオットの心の弱さが招いた結果だった。
「あなたが悪いなどと、そのようなことはありませんわ。わたくし、いつも申しておりますでしょう? あなたは誰より、素晴らしいひと。だから、自らを悪く言うのはおやめくださいと」
理由も告げず、一方的に婚約解消を願う不誠実なエリオットに対して、フェリシアはいつものように優しく叱咤する。
本当に、どちらが年上かわからない。
こんなときなのに、普段と変わらないやり取りに唇が綻んでしまう。
思えば、出会ったときからそうだった。
エリオットとフェリシアの婚約が決まったのは今から五年前のこと。
父親同士が決めた、家同士の結びつきのための婚約であり、そこに本人たちの意思など関係なく、絵に描いたような政略的なものだった。
エリオットは辺境伯である父親のことが心底嫌いだ。憎んですらいる。
外に愛人を持ち、ふたり続けて娘を産んだ母に、「次は男を産め。でなければ愛人の子を後継にするからな!」と冷たく言い放った男だ。エリオットは抱き上げてもらった記憶すらもない。
そんな男が選んだ相手。なんの期待もなく、顔を合わせの場で失礼なことを言って話自体を消してやろうとまで思っていたエリオットだが、公爵である父親に連れて来られたフェリシアを見て、そんな子供っぽい意趣返しは簡単に頭から消え去っていた。
目と目が合っただけで、自分たちは似たもの同士なのだと、一瞬にして通じ合った。
この子も父親に愛されていないのだなと、お互いがお互いの父親をちらっと見て、目を戻したタイミングでまた視線が重なり、そんなささやかなシンクロがなぜだか無性におかしくて、ふたりして声を立てずに笑った。
話してみればフェリシアは年下なのにエリオットよりもずっと大人びた少女で。たとえどんな酷い相手でも、この婚約を受け入れる覚悟でここまで来たという。
浅慮でどこまでも子供だったエリオットは、自らの愚かさを心底恥じた。
フェリシアには母親がいない。
フェリシアを産み落としてすぐに亡くなったという話だった。
フェリシアの父も、兄も、その死をフェリシアのせいだと思うことで、悲しみを憎しみへと変えて自らの心を守ろうとしたらしい。
エリオットからすれば理解不能な思考回路であり、そんなのフェリシアのせいじゃないのにと憤ったエリオットを目を丸くして見つめていたフェリシアは、達観したような表情で口元に微苦笑を乗せた。
「恨む対象がないと死んでしまうような、弱いひとたちなのですわ」
もしエリオットがフェリシアの立場だったら、そうは思えない。悲しみに暮れて自らが壊れるか、恨みを晴らして相手を壊すかの、二択しか思い浮かばなかった。
フェリシアは、まっすぐ伸びた百合の花のような、慈悲深く芯の強い少女であった。
婚約解消を願うエリオットに、なぜ、と純粋な疑問が先行しているのか、今のところ傷ついたような様子は見受けられない。
エリオットは決して、フェリシアに傷つけたいわけではなかった。
だけど、もし。
少しでも傷ついてくれていたらのなら……と、自分勝手なことを思いそうになり、慌てて思考を打ち消すと、心の中でそっと自嘲した。
もしそうだったとして、だ。
仮に彼女がエリオットのことを想っていてくれたのだとしても、それを素直に喜べない。
なぜなら彼女の目に映る“エリオット”は、偽りのエリオットだからだ。
「きみの大切な時間を奪ってしまったこと、本当に申し訳なく思っている」
エリオットは謝辞を示すために頭を下げた。ひとつにくくった長い髪が、さらりと滑るのを背中に感じ、ふいに昔の記憶が過った。
「エリオット様の癖のない美しい金髪は、きっと長い方が素敵ですわ」
フェリシアがそう言ってくれたから、エリオットは髪を伸ばし続けていた。
細身で中性的な顔立ちのエリオット。男らしく見えないからと髪は短くしていたが、婚約者のフェリシアの希望ということで、伸ばしたままで数年が経った。今では腰まである。
(本当は、長い方が好きだった……)
「わたくしのために、伸ばしてくださいませんか?」
彼女は聡い。エリオットの本心に気づいたからこそ、ああ言ってくれたのだと知っている。
彼女がふんわりとした紅茶色の髪の間から、一緒に出かけたときに買ったピアスがちらりと覗いた。エリオットは反射的に自分の耳朶へと触れる。
一対のピアスを、ひとつずつ。
ふたりでひとつだというように分け合った。
今ではすっかりと馴染んでしまい、体の一部のように感じていたが、外して来るべきだった。
そんなことすら失念するくらいに、もう体の一部になっていたのだ。
フェリシアが儚げな微笑みを浮かべながら小首を傾げた。
「わたくしのことが、お嫌いに?」
「そんなことは、絶対にない!」
エリオットは言ってしまってから、はっと我に返って口元を手で押さえた。
嘘でもそう言っておけば、それが理由になっただろうに。
(……ああ、だけど……)
言えない。
言えるわけがない。
嫌いになるどころか、会うたびに惹かれていくというのに。
「……では、どうして婚約を解消したいと?」
「そ、れは……」
それを口にしてしまえば、婚約解消を望んだ意味がなくなる。
エリオットには秘密があった。
結婚してしまえば、これまで家族以外に隠し通していた秘密を話さなければならなくなる。
妻となる彼女に、話さないわけにはいかない。
だけどエリオットは、その秘密を告げることがどうしてもできなかった。
それを言うくらいなら、自分勝手に契約を破る最低な人間だと思われる方がましなくらいに。
彼女と一緒にいる時間が心地よくて、こんな日々がずっと続けばと思ってしまった。
その先にある現実を、見ないふりをしたままいられたらどれほどよかったか。
ずっと子供のままでいられたら――。
だけど時は待ってはくれない。
子供の時間は終わり、大人にならなければならないときが、すぐそこまてやって来ている。
フェリシアの幸せを願うのなら、今ここで潔く身を引くべきだ。
(なぜなら、私は――)
エリオットは奥歯を噛み締める。
もう限界だった。
幸せな未来を語る彼女の隣に居続けることへの罪悪感に、エリオットの心が先に根を上げた。
嫌われてもいい。罵られても構わない。
憎まれたのだとしても、真実を語るよりもいいとすら思う。
せめて思い出だけでも美しいままでいさせてほしいから。
終わりにしようと決めたのだ。
(だって私は……)
エリオットは顔を上げてフェリシアを真正面から見つめながら、心の中でだけ、真実を語る。
(私は、女、だから……)
エリオットは女として生まれ、周囲を欺き男と偽って育てられた。
この国の女子には、爵位の継承権がないからだ。
このままでは愛人の子に爵位を譲らなくてはならない。
母にそれを許せるはずがなかった。
しかし現実は残酷で。
姉ふたりを産んでから間を開けてできた待望の三人目の子は、また娘だった。
エリオットは絶対に、男でなければならなかったのに。
男児を出産することだけが、母の心の支えだった。だからこそ、耐えきれなかったのだろう。
母はエリオットのこと、男だと思い込むことにした。
姉たちはなにも言わなかった。
……言えなかった。
屋敷の人間はみな母に同情的で、エリオットが嫡男として国に出生届けがされるのを黙って見過ごした。
それがどのような罪か、みなわかった上で。
(これが許されざることだときちんと理解しているし、私は家族を顧みなかった父のことを許せないとも思う)
だからエリオットは、罪を背負うのは自分だけでいいと思っていた。
家を継ぐ者が男でなければいけないなど、それこそ前時代的ではないか。上に立つ者こそ、能力で判断すべきではないのか。
国を欺いていることに後ろめたさや後悔などない。なにせエリオットは生まれたときから男として育てられていたのだ。自分が男であると、幼い頃は本気でそう信じていた。
だが物心がつき、少しずつ歳を重ねれば違和感が生じはじめる。
当然だ。男として育てられていても、その本質は女なのだから。
五歳の頃には姉たちからすべてを聞かされていたが、それでも自分の役割を全うしようと心に決めたのは、ひとえに母のためだった。
それでもやはり理想と現実との間で歪みも生まれる。
体を動かすことは嫌いではなかったが、剣を振るう時間よりも、姉たちとお茶をしながら他愛ない話をする時間のほうが好きだ。領地経営の勉強よりも、姉たちのしている刺繍に興味があった。
エリオットは姉たちと同じように、女の子が好むものが好きだった。
だけど母のことを思えば、自分の気持ちを押し殺すしかない。
だから自分がほしいと思うものを、自分が持てない代わりに、フェリシアへと贈ることにした。
最初はフェリシアに似合いそうな可憐な花束。
「まあ! 素敵なブーケですわね。エリオット様、半分こいたしましょう?」
喜んでもらえたことにほっとして、それから、え? と首を傾げた。
「半分こ?」
「ええ。わたくしたちは婚約者でしょう? 素敵なものは、ふたりで分かち合わないと」
さも当然とばかりのフェリシアに押し切られて、そういうものだろうかとエリオットは首を傾げながら、手際よくふたつに分けられたブーケの片方を受け取った。
「お部屋に飾るのが楽しみですわ。エリオット様もお部屋に飾って、このお花を見ながらわたくしのことを思い出してくださいね」
「……ああ、うん」
テキパキと決めてしまうフェリシアについて行けずに曖昧に相槌を打った後、自分の手の中にある半分のブーケを見下ろしながら笑みをこぼしたエリオットは、今度こそしっかりとうなずいた。
「うん。もちろん」
フェリシアの微笑みと花の優しい芳香が結びついて、今でもあの花の香りを見つけると彼女のことを思い出す。
お菓子や紅茶の茶葉を贈ればフェリシアの持論でいつも半分こになり、アンティークの茶器を贈れば一緒にお茶をしようと誘われる。フェリシアはどんなものでもエリオットと半分こすることを望んだ。
そして極めつきはピアス。
アクセサリーは半分こできないだろうとたかを括っていたが、フェリシアが望んだのは、半分こするためにあるような一対のピアスだった。
ピアスをそれぞれ片方ずつつけようと提案され、さすがのエリオットも半分こにさせないようなプレゼント選びをすることを諦めた。
フェリシアはきっと、どんなものでも半分こにしてしまうだろう。
だったらはじめから半分こする予定でプレゼントを選んだ方がいい。
観念するエリオットに、フェリシアが選んだのはアメジストのピアスで、さすがにここでは口を挟んだ。
「こんな安物でいいのか? もっとあなたに相応しい石があるのに……」
それこそダイヤモンドでも、ルビーでも、エメラルドでも、フェリシアの瞳に似たサファイアでもいい。彼女に似合う最高のアクセサリーをと、金額にいとめをつけるつもりはなかっただけに、予定の半分もしない値段に肩透かしを食らった気分だ。
まさか値段も半分にする気なのかと呆れていると、フェリシアはくすくすと笑いながら首を振った。
「遠慮したのではなく、これがいいのです。エリオット様はアメジストの石言葉をご存知?」
「え? えぇと……ごめん。そういうのには疎くて」
フェリシアは素直に詫びるエリオットを見上げてふんわりと笑った。
「わたくし、エリオット様のそういう素直なところを、好ましく思いますわ」
知らない、ということは貴族にとっては恥である。社交の場では己の無知を悟られないようにするのが普通だろうが、見栄を張って後でボロが出たときの方が恥ずかしいのではないかと、エリオットは常々思っていた。
それにフェリシア相手に変に気取って、鼻持ちならないやつだと思われたくはない。
「……私は、無知は決して恥ではないと思うんだ。知ろうとしないことこそ、恥ずべきことだと思う」
フェリシアは軽く目を見張ってから、やわらかく表情を綻ばせた。
「アメジストの石言葉、ひとつ目は“誠実”です」
「いい石言葉だ」
「ええ。わたくし、相手が誰でも常に誠実でありたいと思っていますの」
「あなたらしいな。だけど石に頼らずとも、あなたはいつでも誠実だよ」
エリオットに対しても、ほかの誰かに対しても。
「そう思っていただけているのなら幸いですわ」
お茶目にウィンクをしながら淑女の礼を取るフェリシアに思わず笑みが溢れる。
「ほかには?」
「“心の平和”に“精神の安定”」
「それは……確かに必要かもしれないな。私たちには特に」
「そうでしょう? ですからエリオット様も、必ず身につけてくださいね? 絶対ですよ?」
「わかったわかった」
念押しするようにずいっと迫ってきたフェリシアの肩を軽く押して宥めると、彼女はとっておきの笑みを見せた。
「それともうひとつ」
「え? まだあるのか?」
「ええ。“真実の愛”という、一番外せない石言葉がありますわ」
「真実の愛……」
「婚約者に贈るにはぴったりでしょう?」
「……降参だ。まったく。あなたには敵わない」
高価なアクセサリーを贈らせてもらえずやや不完全燃焼だったエリオットは完全に諦めの意を示して、フェリシアの髪を耳へとかけると、ピアスの片方を恭しい手つきで装着した。
「あら。エリオット様ったら、わたくしに敵う気でいらしたのですか?」
アメジストのピアスを片方つけて笑うフェリシアに、胸の奥からじんわりとなにかが溢れ出しそうになる。
たぶんこの感情が、愛おしい、というものなのだろう。
石言葉から選んだというのは、口実だとわかっていた。
アメジストは二月の誕生石。
二月はエリオットの誕生月だった。
彼女はいつもそうだ。
いつだってエリオットのことを見て、エリオットのために考えて、エリオットに幸せな気持ちを与えてくれている。
得難いひとだ。
だからこそ。フェリシアの人生を犠牲にするわけにはいかない。
ましてや共犯者になど。
エリオットの秘密が国に知れた場合、当然だが、妻も連座される。
だが結婚さえしていなければ、婚約者とて赤の他人。
たとえ秘密を知っていたにもかかわらず密告しなかったことを咎められたのだとしても、エリオットが脅して口を封じていたと証言さえすれば、フェリシアは被害者だ。裁かれることはない。
フェリシアには、幸せな家庭を築く権利がある。
なによりエリオットと結婚してしまえば、彼女は自分の子を得ることができなくなるのだ。
彼女にふさわしい男と、幸せな家庭を――。
そう望んでいるはずなのに、覚悟もしていたはずなのに、想像すると苦しくなって、堪えようもなく頰を涙が伝っていた。
フェリシアとずっと一緒にいたかった。
この感情が恋かどうかはわからない。
だけど家族として、この先も一緒に生きていきたいと思った、ただひとりのひとだった。
「あなたは存外、泣き虫ですわね」
苦笑するフェリシアが席を立つと、エリオットの隣へと腰かけ、優しい手つきで濡れた頰にハンカチ押し当てた。
「……あなたが、強すぎるんだ」
「褒め言葉として受け取っておきますわ」
本当に褒め言葉として受け取るのだろう。彼女はそういうひとだ。
ハンカチで目元を拭ったエリオットは、居住まいを正して、改めてフェリシアと向き合った。
本当の自分として彼女と向き合うことが怖い。
それでも――。
「フェリシア。聞いてほしいことがあるんだ」
「なんでしょうか?」
「私は……その、実は……」
しかしいざ話そうとしたところで、どうしても歯切れが悪くなってしまう。
「私は……私は、」
なけなしの勇気を振り絞り、意気込んだときだ、フェリシアの指先がエリオットの唇を優しく押さえつけた。
「!?」
「言いたくないことを、無理をして言おうとしないでください」
だが、と反論しようとしたが、フェリシアの指に押さえられていて声が出せない。
「大丈夫。あなたのおっしゃりたいこと、たぶんわたくし、知っておりますから」
エリオットは瞬く。フェリシアが指を外してくれたが、口から出て来るのは戸惑いの声だけだ。
「知っている、とは……?」
「ですから、あなたの隠していることです。わたくし、前々から知っておりましたと。そう申しておりますの」
「えっ、そんな、まさか……え?」
情報をうまく呑み込めないエリオットに対して、フェリシアは普段と変わらない微笑み。余計に混乱する。
必死に脳内処理をして、ようやく、フェリシアの言わんとすることを理解すると、エリオットは驚きの声を上げながら狼狽した。
「えっ、えぇ!? な、な、なんで……」
エリオットの男装は完璧だ。これまで誰かに見抜かれたことはない。中性的な顔や体つきではあるが背が高く、幼い頃から男として育てられたために振る舞いに嘘がないため、疑いの目を向けられなかったのだ。
それなのに、なぜ。
驚愕するエリオットを見ながら、フェリシアはころころと笑う。
「だって、気づかないはずがないでしょう? 婚約者となってからずっと、あなたのことしか見ていないというのに」
ずる、と肩の力が抜けて、椅子の背もたれにもたれかかることでどうにか体勢を保つエリオットと、悠然としているフェリシア。肝の座り具合があまりにも違い過ぎた。
「エリオット様。あなたが男でも女でも、関係ありませんわ。わたくしが一生をともに過ごしたいと思うのは、あなたなのですから」
「……っ、だが、」
「もしかして……わたくしがあなたの秘密を国に密告するのではと、不安に?」
それはすぐに否定した。
「あなたのことを疑うわけがないじゃないか!」
「でしたら問題ありませんでしょう?」
「……いいや。問題だらけだ」
エリオットは頭を抱えるが、フェリシアはどこ吹く風だ。
「わたくしが子を持つことができないと、そのことをお気になさっているの?」
「だって……あなたは、子供が好きだと」
「ええ。子供は好きですわ。ですがわたくし、自分の血を引く子だけがかわいいというわけではないのです。あなたはきっと、お義姉様の子を、わたくしたちの子として後継に据える予定だったのでしょう?」
「……そこまで知って……」
エリオットの秘密を知っていたのだとしたら、簡単に想像がつく話だった。フェリシアが気づかないはずがない。
「あなたのお姉様の子でしたら、あなたによく似ていることでしょう。たとえ似ていなくとも、わたくしたちの子として愛せますわ」
エリオットも姉の子を自分の子として育てるのだから、本当の両親から得るはずだった愛情以上に慈しんで育てるつもりだった。
もうなにも言葉が出てこないエリオットの手に、フェリシアが手を重ねた。
情けないエリオットを映す花色の瞳はどこまでも澄んでいて美しい。
「ねぇ、エリオット様。あなたの背負っているものを、わたくしにも分けてくださいませんか?」
「え……?」
「言いましたでしょう? わたくしたちは婚約者なのです。いいことも、悪いことも、幸せも、苦労も――みんな半分こいたしましょう?」
まっすぐな瞳でエリオットに語りかけるフェリシアの強さが眩しくて、憧れる。
「……やっぱり、あなたには敵わない」
「妻の方が強い方が、家庭はうまくいくそうですわ」
「……ははっ、確かに」
ふたりとも父親が強く家族関係がうまくいっていない家庭に育ったので、それは間違いない。
「国を敵に回しても、神を敵に回すのだとしても、わたくしがあなたを守りますわ」
重ねられていたフェリシアの手が、覚悟を表すかのようにエリオットの手を握り締める。
そこではじめて、彼女の手がわずかに震えていることに気がついた。気丈に見えたが、そう振る舞っていただけなのだと気づき、エリオットは後悔を滲ませた。
婚約解消を願うことで傷ついてくれたらと、先ほど一瞬だけ邪なことを考えかけたが、実際にフェリシアが傷つく姿を見たら平常心ではいられなかった。
「フェリシア……」
ごめん、と謝ると、フェリシアの瞳が揺れて、堪えていたその感情が決壊した。
「わたくしは……わたくしはほかの誰でもなく、あなたと一緒にいたいのです!」
それは彼女の心からの叫びだった。
はじめて彼女に、胸のうちを真正面からぶつけられた。
エリオットだけでなく、フェリシアもまた、本音を隠して生きてきたのだ。
エリオットは彼女の華奢な肩を抱き寄せ、宥めるようにその柔らかな髪を優しく何度も撫でた。
「……うん。ごめん。私もだよ。……フェリシア。ごめんね」
これが恋かはわからない。
きっと彼女もそうだろう。
それでもだ。
これが恋ではなかったのだとしても。
一緒にいたいと思うこの気持ちだけは、間違いなく真実だ。
「わたくしをみくびらないで」
「うん。みくびらない」
「あなたを支えられるのは、わたくしだけですわ」
「うん。私にはあなたしかいない」
「……ようやくわかりましたの?」
「……うん。私は、あなたには普通の幸せな結婚をしてほしいと思ったんだ」
エリオットでは叶えられないから。
フェリシアは眉を下げるエリオットの肩に額を寄せると、仕方がないひととばかりに苦笑しながら、その背に腕を回した。
「わかっておりますわ。あなたはそういうひとだから」
「そういうひと?」
「誰かのために、自分を殺せてしまう哀しいひと」
「……それはあなたの方だと思う」
フェリシアこそ、父や兄のために自分を殺している。
「でしたらわたくしたちは、似た者同士なのでしょう」
はじめて出会ったあの日、お互いに抱いた第一印象。
ふたりともまだ、あの頃のままなのかもしれない。
そしてあの頃のまま、大人になっていく。
「わたくしの前でだけは、あなたはあなたのままでいていいのです。わたくしもあなたの前でだけは、本当の自分でいられるから」
「本当の自分……か。幻滅されてしまうかも」
あくまでも男として振る舞っていた。それが板についてはいるが、油断しているとその仮面が剥がれそうになるときもある。
「長くともにいれば、いい面も嫌な面も見えてくるものですわ。家族とは、そういうものなのでしょう?」
「……家族、か」
家族という表現は、夫婦よりもよほどしっくりと来た。
夫婦という名の共犯者ではなく、家族という名の運命共同体に。
……なれるだろうか。
「フェリシア」
「婚約解消は受けつけませんわ」
「それは、ごめん……。そうじゃなくて」
エリオットは抱擁を解いてからその場に片膝をつくと、フェリシアの手を掬い取り、その甲へと軽く唇を落とした。
「私と家族になってくれませんか?」
フェリシアは目を瞬いて、それから花が綻ぶような幸せそうな笑みを見せた。
「ええ。もちろん」
この先に続くのはきっと荊の道だ。
それでも。
彼女とならば、最期の瞬間まで、ともに歩んでいけるだろう。
重たい荷物をふたりで分け合いながら。
ゆっくりと。
未来へと向かって。
まっすぐに。
・エリオット
偽りの辺境伯子息
男装の麗人
剣の腕はそこそこ
本物の貴族令息たちよりも女性にモテる
・フェリシア
不遇の公爵令嬢
父と兄のせいで、実は男性が苦手
わりと最初からエリオットの秘密には気がついていた
***
最後までお読みいただきありがとうございました!




