表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

正しい記録

掲載日:2026/04/01

彼が死んだ理由は、誰にとっても明白だった。

少なくとも、そう説明された。

市立病院の内科医・三枝修一は、当直明けの朝、医局の給湯室で倒れているのを発見された。死因は心不全。過労による突然死――それが病院側の公式見解だった。

私は、三枝の同僚だった。

同じ内科でも専門は違い、深く親しいわけではない。それでも、彼が「過労死」で片づけられることに、強い違和感があった。

三枝は、むしろ仕事を減らそうとしていた。

診療記録の整理、無意味な会議の削減、曖昧な慣習の是正。彼はそれらを、少しずつ、しかし確実に進めていた。


「この書き方、事実と違いますよね」


彼がそう言ったのを、私は覚えている。

電子カルテの記載についてだった。症状が曖昧なまま「改善傾向」と書かれている患者。検査をしていないのに「問題なし」と記録されている数値。


「皆そう書いてるから」


誰かがそう答えた。


「実際、トラブルになってないし」


三枝は引き下がらなかった。


「でも、それは“起きなかった”だけで、“問題がなかった”わけじゃないでしょう」


彼の言葉は、正しかった。

だが、正しさはしばしば、厄介だ。

数週間後、院内で小さな騒ぎが起きた。

数年前に亡くなった患者の遺族が、「説明と記録が違う」と訴え出たのだ。

カルテには「十分な説明を行い、同意を得た」とある。しかし遺族は、そんな説明は受けていないと言う。

調査委員会が立ち上がり、三枝が中心メンバーになった。


「事実を確認するだけです」


彼はそう言っていた。

だが、その“事実”は、多くの人間にとって不都合だった。

看護師は忙しさを理由に記憶が曖昧だと言い、医師は「当時の判断として妥当だった」と述べ、事務は「記録通りです」と繰り返した。

そして、誰かが言い出した。


「三枝先生、少し神経質すぎませんか」


「完璧を求めすぎると、現場が回らない」


次第に、空気ができていった。

三枝は“問題を大きくする人”

“責任を現場に押し付ける人”

事実よりも先に、人物像が語られ始めた。

彼が死んだ前日、私は三枝と廊下ですれ違った。

ひどく疲れた顔をしていたが、それでも彼は言った。


「ねえ、記録って、誰のためにあると思います?」


私は答えられなかった。

翌朝、彼は死んでいた。

警察も労基も、深くは踏み込まなかった。

病院側が用意した説明は整っていた。

過密な勤務表、連日の当直、慢性的な人手不足。


「かわいそうに」


「真面目すぎたんだね」


そうした言葉が、彼の死を包み込み、固定していった。

だが、私は知っている。

三枝は、最後の調査報告書の草案を、個人の端末に残していた。

そこには、こう書かれていた。


――問題は、誤った判断そのものではない。


――それが“正しかったことにされる”過程である。


彼は、誰かを告発しようとしていたわけではない。

ただ、「そうだったこと」を、そのまま書こうとしていただけだ。

けれど、その文章は公表されなかった。

委員会は、より穏当な表現に修正した報告書を提出し、遺族との和解も成立した。

真実は、誰も否定していない。

ただ、誰もそれを必要としなかった。

三枝の死から半年後、彼のことを話題にする者はいない。

「過労死した医師」という、わかりやすい物語だけが残った。

私は今でも、ときどき彼の報告書を読み返す。

そこには、感情も糾弾もない。ただ、事実だけが並んでいる。

そして思う。


人は、事実に耐えられないのではない。


事実が、物語にならないことに耐えられないのだ。


今日もカルテには、少しだけ都合のいい言葉が並ぶ。

それを読む誰かは、きっと疑わない。

なぜなら、そのほうが安心できるからだ。

正しい記録は、静かに死んでいく。

誰にも殺されず、誰にも守られないまま。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ