【第一章】 小野小町と二つの名
一、小野家の麗しき姫君
平安の都、選択的別姓の制度が定着して久しい頃のこと。
小野家に一人の姫君が生まれた。その美しさたるや、産湯を使わせた乳母が思わず「小さき町一つを治められるほどの美しさ」と呟いたことから、「小町」と名付けられた。
父・小野良真は、六歌仙にも名を連ねる歌人の家系。代々、風流と教養を重んじる文人の家であった。母・八岐大蛇綾乃は、かの須佐之男命がヤマタノオロチを退治した際、その功により「八岐大蛇」の姓を賜った伝説の将軍――草薙将軍の血を引く、武門の名家の娘であった。
この二人は、互いの家の独立性を尊重し、選択的別姓を選んだ。父は「小野」、母は「八岐大蛇」。そして生まれた小町には、両方の姓を名乗る権利が与えられた。
二、「小野小町」として育つ日々
「小町や、将来はどちらの姓を選びますか」
幼い頃、母は時折そう尋ねた。しかし小町の答えは決まっていた。
「小野がよろしゅうございます。だって、『八岐大蛇』なんて、恐ろしげではありませんか」
母は苦笑した。確かに「八岐大蛇」という姓は、武門の誇りではあったが、優雅さには欠けた。特に和歌の世界では、姓の響きも重要である。「小野小町」は雅で美しいが、「八岐大蛇小町」では、まるで妖怪のようではないか。
「まあ、あなたが選んだ道を行けばよろしい」
母はそう言って、娘の選択を尊重した。
かくして「小野小町」として育った姫君は、父の薫陶を受けて和歌の道に親しんだ。その美貌は年を重ねるごとに磨かれ、十五の春を迎える頃には、都中の評判となった。
「小野家に絶世の美女あり」
噂は瞬く間に広がった。
三、武芸音痴の姫君
ただし、小町には一つ、致命的な欠点があった。
母の血を全く継いでいないのか、武芸が壊滅的にできないのである。
「小町、せめて護身用に薙刀の基本くらいは」
母が稽古をつけようとすると、小町は薙刀を持った途端、その重さで尻餅をついた。
弓を引かせれば、弦が顔に当たって泣き出す。 剣術を教えれば、素振りの途中で目が回って倒れる。 馬に乗せれば、鞍にしがみついて「降ろしてくださいまし〜」と叫ぶ。
「これはもう、武門の血など一滴も継いでおらぬな」
母は諦めた。
「まあ、女子に武芸は必須ではありません。小町は歌を詠み、琴を奏でればよろしいのです」
父もそう慰めた。
小町自身も、武芸には全く興味がなかった。それよりも、美しい着物を着て、月を愛で、和歌を詠む――そんな優雅な生活こそが、小町の理想だった。
四、入内の決断と姓の選択
十七の春、小町のもとに宮中からの誘いが届いた。
「更衣として入内せぬか」
これは大変な栄誉である。小野家は歌道の名家とはいえ、位階はそれほど高くない。更衣として宮中に上がれば、もしかすると帝の寵愛を得られるかもしれない。
「小町、これは願ってもない好機ですよ」
父は喜んだ。
しかしその夜、母が小町を呼んだ。
「小町、少し話があります」
母は真剣な表情で切り出した。
「宮中に上がるのなら、私の姓――『八岐大蛇』を名乗ってはどうでしょう」
「え? なぜですか」
小町は驚いた。
「考えてごらんなさい。小野家は確かに歌道の名家です。しかし、位階も財力も限られています。一方、八岐大蛇家は伝説の将軍の血を引く、武門の名門中の名門。朝廷でも一目置かれる家柄です」
「しかし、母上...」
「宮中では、家柄が物を言います。『小野小町』として上がるのと、『八岐大蛇小町』として上がるのでは、まるで扱いが違うでしょう。そして...」
母は声を潜めた。
「求婚者の質も、まるで違ってきます。帝の寵愛を得られなくとも、高位の貴族から求婚があれば、あなたの将来は安泰です」
確かに母の言う通りだった。
小町は悩んだ。「八岐大蛇」という姓は好きではなかった。しかし、母の言葉には説得力があった。
「...わかりました、母上。宮中では『八岐大蛇小町』と名乗ります」
こうして小町は、生まれて初めて母方の姓を使うことを決意した。
これが、すべての悲喜劇の始まりであった。




