腐ってしまうその前に—赤い陽
『腐ってしまうその前に —赤い箱』 に出てきた妹の話を書いてみました。
もちろん前作未読でも楽しんでいただけると思いますが、そちらも読んでいただけると、もっと楽しめると思います。
腐ってしまうその前に—赤い箱
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3歳年上のお姉ちゃんは、ずっと私の憧れの存在だった。
短い髪で、元気で、賢くて、誰にでも優しかった。
よく笑うお姉ちゃんの周りには、いつでも人が集まっていて、私はそれを少し離れたところから眺めていた。
お姉ちゃんはそんな私に気づくと、笑いながら呼び寄せ、手を繋いでくれた。
姉はいつも私の世界の中心、——私の太陽だった。
1.戸惑い
あれは、まだ私が中学1年生で、もう少しで来る春休みを楽しみにしていた、まだ少し肌寒い日のことだった。
その日の夕方、お姉ちゃんは赤くぼんやりした顔で帰ってきた。
「お姉ちゃん、顔真っ赤だよ?熱でもあるんじゃない?」
「……晴香!告白されたの!すっごい嬉しい!」
そんな風に浮かれたお姉ちゃんを見るのは初めてで、私はとても戸惑った。
その夜はなかなか寝付けなかった。
壁の向こうから、お姉ちゃんが電話で話している声が夜遅くまで聞こえ続けていたからかもしれない。
2.失望
「お姉ちゃん、あのさ—」
「晴香ごめんね、約束してるから急がないと!」
「ねえ、夜ごはん食べたら一緒に—」
「あ、ごめん電話だ!もしもし?私も—」
——春休みはお姉ちゃんと一緒に過ごせると思ってたのに……
けれど春休みの間、お姉ちゃんに会えるのは、朝食と夕食の時だけで、あとはずっとひとりで過ごした。
「お母さん!お姉ちゃん、あんなに出かけたり、電話ばかりしてていいの!?」
仕事で忙しい親には、お姉ちゃんは相変わらず“いい娘”のままに映っていた。
でも私には、お姉ちゃんがどこかに行ってしまったように見えた。
「……お姉ちゃん、いつも彼氏ばっかでつまんない」
「ごめんね。でも晴香も、彼氏ができたらわかるわよ」
お姉ちゃんは幸せそうに微笑みながら、私の頭を撫でた。
告白されてから伸ばし始めた髪は短いままなのに、どこか違う人のようだった。
春休みが明けても、お姉ちゃんは彼氏が中心の生活だった。
彼氏と過ごす時間が減るから、と大好きだったはずの部活も辞めてしまった。
大会で見たお姉ちゃんの姿に憧れて、中学から同じ部活に入っていた私はとてもがっかりした。
練習にも身が入らなくなり、結局しばらくして私も辞めてしまった。
お姉ちゃんが二年生の時に両親に嘘をついて彼氏と外泊したこと。
三年生の時には図書館で受験勉強という名のデートしていたこと。
その度に、私のなかのお姉ちゃんが少しずつ霧がかっていった。
「お姉ちゃん、この問題ってどう——」
「今から図書館行く約束なの!後でね?」
いつからか、お姉ちゃんの口から出てくる言葉は『ごめんね』『後で』だけになった。
そして私がどんな表情をしているか気づきもしないで、長い髪を揺らして急いで出かけていく。
私は、『お姉ちゃん』と呼べなくなっていった。
お姉ちゃんとの距離に比例するように、私は勉強にのめり込んだ。
学校のある日は教師に質問し、休日は部屋に籠ってひたすら机に向かった。
勉強をすればするほど、思考は澄み渡り、ある日気づいた。
姉とその彼氏は、人生を享楽しているだけだ。
——もう、あのお姉ちゃんはいらない。
受験間際に志望校を変更した私に、余計な受験料を振り込むことになった母は少し文句を言っていた。
しかし、特待生として学費免除を受けられることとなり、結果的に満足していたようだった。
「えー、晴香は絶対私の高校に通うと思ってたのにー」
合格が決まった私に、姉はそんなこと言っていた。
だが、彼氏からの電話に気づくと、私への興味はすっかりなくなっていた。
——ほら、やっぱりね。
姉の考えや行動なんて、私にはもう簡単に読めた。
だからお祝いの言葉がなかったことも、別に悲しくなんかなかった。
3.別離
姉は大学進学と同時に、一人暮らしを始めた。
姉がいない静かな生活を歓迎した。
高校では若さなのか、女子校という環境なのか、女子特有の醜さみたいなものに多く遭遇した。
彼氏のために自分を変えていった姉とは違い、自己主張が強く、自己愛の塊のようなクラスメイトたちに興味は尽きなかった。
ある日、学校から帰ってくると、居間には母と、久しぶりに帰ってきていた姉がいた。
「あ、晴香おかえりー。彼氏出来た?」
——姉の頭の中は相変わらず恋愛しかないんだな。
「いらない」
「えー、もったいない。女子高だからかな?もし——」
「てか、何でいるの?」
「もう、冷たいなぁ。可愛い妹に会いに来たんじゃない」
そう言いつつも、結局は母相手にひたすら彼氏のことを話し、姉は満足したように帰っていった。
——本当に空っぽ。
完璧だった頃の姉を思い出して、少し寂しくなったが、今日出た課題のことを思い出し、すぐにどうでもよくなった。
それから、姉とは全く会うことはなかった。
就職、プロポーズ、同棲、と母が父に話しているのは、耳の片隅で聞こえていた。
姉のことなのに、まるでテレビの芸能ゴシップのようで、すぐに忘れてしまった。
大学に進み、前から興味のあった分野の研究を始めた。
姉は彼氏と付き合いだしてから、自分を削っていった。
奪われたのか、自分で渡したのか。
心理的な変化よりも、姉の脳そのものに何が起きているのかを知りたかった。
就職した会社でも、ある研究チームのメンバーに抜擢された。
大学で研究していたことの延長のような仕事で、忙しいながらも、充実した毎日を送っていた。
半年ほど経った頃、チームが開発した新技術が世の中に発表され、ニュースでも大きく取り上げられていた。
世間の反応は賛否両論だった。
それでも、辛い思いをしている人たちへの一つの治療法として、少しずつ受け入れられ始めていた。
4.再会
試験運用が始まる数日前の夜のことだった。
多分神経質になっていたのだろう。
一人、誰もいない研究室に残っていると、突然スマホが鳴り、少し肩が跳ねた。
そのせいで手元が狂い、その夜の作業は台無しになってしまった。
——あとちょっとだったのに。
イラッとしながら、発信者を見ずに電話に出る。
「もしもし晴香?これから家に来てくれないかしら?」
電話口から、しばらく聞いていなかった姉の声がした。
昨日も電話で話したばかり、と勘違いしてしまうような、あの頃と変わらない口調だった。
「……何で?忙しいんだけど」
「ちょっと手伝って欲しいのよ。知らないうちに腐ってたから、片付けちゃいたくて」
腐ってた?
いや、そんなことは、大好きな婚約者にお願いすればいいじゃないか。
「何で私が?」
「お願い。晴香にしか頼めないのよ」
婚約者は留守にでもしているのか?
——あれ?そういえば……
ふと、姉が恋愛のことを全く口にしていないことに気がついた。
急に興味を覚えた私は、電話を切ると姉の元へ向かった。
5.日没
『ピンポーン』
姉が婚約者と暮らしているマンションのエントランスに着き、インターホンを鳴らした。
——呼んでおいて、なんですぐ出ないの?
ここに来たのは、姉がどう変化しているのか確認したい、という思惑もあった。
どこまで変わってしまったのか――まだ姉は残っているのか。
けれど、集中していた作業は中断され、夜もすっかり遅くなっていた。
姉を観察したいが、さっさと帰りたい気持ちもあり、私はイライラしながら何度もインターホンを押した。
ブザーの音と共にドアが解錠され、教えてもらった部屋番号を確認し、エレベーターに乗り込む。
——今日夕飯どうしようかな。もう遅いし、コンビニでちょっと買って帰ろうかな。
夜も遅いためか、生活音のしない通路を静かに歩く。
部屋の前でインターホンを鳴らして、姉が出てくるのを待ちながら、この後のことを考えた。
——いつものように話が始まったら、さっさとうちに帰ろう。治験でサンプルも充分だし。姉のことだ、開口一番で婚約者の話だろう。
姉がドアを開けた。
「いらっしゃい。入って入って。来るの初めてだよねあ、スリッパどうぞ」
ウキウキした声で微笑んだ姉が部屋に招き入れる。
変に浮かれた姉の様子に違和感を覚える。
——口の端と指先が赤い……?化粧?
微かにするりんごの匂いと、嗅ぎ慣れない臭い。
「お母さんが送ってきてくれたりんご食べてたんだけど、晴香も食べる?」
「ううん、家にあるからいい。ってかそれが腐ったんじゃなかったの?早く帰りた——」
リビングに入っていく姉の後に続いた。
姉がドアを開けると臭いが強く——
「ひっ!」
ドアの向こうに広がったのは、床に敷いた毛布に広がる染みと、その上にある何か、テーブルから滴り落ちる血だった。
毛布の上にある、それが人だと認識するまでに時間がかかった。
一瞬で吐き気がこみ上げた。
「け、警さ——」
「今年のは特に甘くて美味しいよ。果物って腐りかけが一番甘いっていうけど、りんごもそうなのかな?」
さっきまで姉が座っていたのだろう。
テーブルの上には、りんごが綺麗に切り分けられて並んでいた。
その果実は赤く光っていた。
「本当に甘くて美味しい」
姉は席に座って、それを食べる。
口と手が、どんどん赤く染まっていく。
私はリビングの入り口に立ちすくんだままだ。
「何してるの?こっちおいでよ」
姉は、可笑しそうに笑っている。
——お姉ちゃん……?
久々に聞く笑い声で一瞬で昔に引き戻され、一瞬ここがどこで、ここには私たち以外に何があるのか忘れそうになった。
「お姉——」
「何かね、浮気相手が妊娠したから、その人と結婚して、ここに住むって。気に入ってたけど、腐ったなんてがっかり。でも片付けたし——」
——違う、これはお姉ちゃんじゃない。
ここから逃げ出さなければ。
警察に通報しなくては。
頭ではわかっているのに、体が少しも動かない。
血の強い臭いと、姉の話し声で、頭が段々とぼんやりとしてくる。
「じゃあ晴香はテーブルを綺麗にしてくれる?腐ってたから、ハエも入ってきてたんだって。どこ触ったかわからないし、本当に気持ち悪い」
そう言い終えると姉は、私に花柄のエプロンと似たような柄をした布巾を渡し、テーブルを綺麗にするように言ってきた。
姉は、幼い頃に聞いたことのある歌をハミングしながら、手際よく片付けていく。
部屋は静かに整えられていった。
一日の終わりのように。
「よし、終わり。あら?まだ終わってなかったの?ごめんね、ちょっとお風呂に入るね」
そう言うと姉は、リビングを出ていった。
テーブルは何度拭いても赤い染みが残っている気がして、私はそこをずっと磨き続けた。
「あー、さっぱりした。晴香も入ってく?」
姉の声が耳に入り、壁にかかっている時計を見る。
もう一時間以上も磨き続けていたらしい。
お風呂から出てきた姉は、風呂場で髪を自分で切ったのか、髪が短くなっていた。
化粧を落としたあどけない顔、そして幼かった頃のような短い髪に、自分の意識が昔に引きずられるのを感じる。
「あの会社、あなたが働いているところ。記憶取り出せるんでしょ?お願いできるかしら?」
——知っていたのか。
「だから私を呼んだの?」
震える声で姉に尋ねた。
「可愛い妹に会いたかったのよ。じゃあおやすみ。あ、鍵はオートロックだから」
そう言って、姉は寝室へ消えていった。
つまらなくなっていく姉を観察しているつもりだった。
だが、反対に姉も私を見ていた。
軽蔑の目で姉を見ていた私を、微笑みながら。
私はもう全てを姉の望む通りにするしかなかった。
6.陽はまた昇る
一晩中リビングにあるソファに座り込んでいた私は、部屋に差し込む朝日でようやく我に返ると、姉の部屋でシャワーを浴び、そのまま会社に向かった。
時計を見ずに会社に来てしまった。
明るい社内にはまだ誰の姿もない。
自分の席で手の震えを必死に抑えながら、姉の名義の契約書を作成する。
作成した契約書を、試験運用参加者たちの中に紛れ込ませ、ふと手に目をやると、爪に僅かだが血が残っていた。
慌ててトイレに向かい、何度も何度も手を洗った。
爪に入り込んだ血が見えなくなった頃、今になって吐き気が込み上げ、個室に飛び込む。
胃液しか出ず、喉が焼ける。
それでも吐き続けた。
気づかないうちに出社時間になっていたのだろう。
皆が出社する声が聞こえだし、どんどん大きくなってくる。
必死に吐き気を抑え、個室から出ると口をゆすぎ、顔を冷たい水で洗う。
トイレに入ってきた同僚が私に気づく。
「あれ?晴香おはよう、早いね……って同じ服。また残業して泊まったの?ちゃんと家に帰りなさいよー」
同僚に苦笑いを返す。
そうだ、残業は良くない。
同僚の忠告のおかげで、冷静に戻れた。
あとで私の担当しているモニターと併せて姉を呼び出そう。
他のモニターたちに囲まれている姉を想像すると、思わず笑ってしまった。
——ああ、私はお姉ちゃんのために、この研究をしてきたんだ。
腐ったものをすべて、お姉ちゃんの中から取り出せば、——元の完璧な、私の太陽。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
姉妹がいないので、うまく書けているか不安ですが、楽しんでいただけたら幸いです。




