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母の手に咲いた花

作者: なみゆき
掲載日:2025/11/03

【黒薔薇シリーズの短編第四弾】


王都の片隅で、誰にも知られず、誰にも守られず、それでも咲いた命があった。

冬の風に晒されながら、声を上げることもなく、ただ母の帰りを待ち続けた少年――リアム。 その小さな背中に宿っていたのは、祈りにも似た希望だった。


ひとりの少年の生い立ちから根深い闇が見つかる。 そして、彼とその母を傷つけた者たちの過去と、闇に潜む者たちの罪へと繋がっていく。

 王都の裏通りは、冬の風が容赦なく吹き抜けていた。

石畳の路地は冷え切っていて、陽の光が届かない場所では、昼でも夜のような暗さがあった。

人通りはまばらで、風の音だけが壁と壁の間をすり抜けていく。



その路地の片隅に、ひとりの少年が蹲っていた。

名は――リアム。十歳。 外套は薄く、裾は擦り切れていて、膝を抱えたまま身じろぎもしない。

風が吹くたび、肩が小さく震えた。 それでも、声を上げることはなかった。



黒薔薇商会のアラン・ヴァルモントは、その姿に足を止めた。

少年の背中を見た瞬間、胸の奥に鈍い痛みが走った。

かつての自分を見たような気がした。

誰にも頼れず、誰にも見つけられなかった頃の、自分の姿を。



「こんなところで、何をしてる」



声をかけると、リアムはゆっくり顔を上げた。

その瞳には、疲れと諦めが滲んでいた。

けれど、怯えはなかった。

それが、アランには余計に胸を締めつけた。



「母さんが……仕事に行ったまま、帰ってこないんだ」


リアムの声はかすれていた。


「来ちゃダメって言われてるけど、もう三日も帰ってこない。だから……」



言葉の続きを飲み込むように、リアムは視線を落とした。

その小さな手が、ぎゅっと外套の裾を握りしめていた。


「場所、知ってる。案内するから……でも、僕は入れない」



その言葉には、母への信頼と、禁忌を破ることへの葛藤が混ざっていた。

アランは、しばらく黙っていた。

この街の裏側を知る者として、リアムの言葉の意味を理解していた。


“仕事場”――それがどんな場所なのかも。



「わかった。俺が行く。君は、ここで待ってろ」


そう言いかけて、アランは言葉を飲み込んだ。

この路地に、子どもをひとり残すことが、どれほど危ういかを知っていたからだ。


「いや、やっぱり一緒に行こう。何があっても俺がそばにいる」


アランの声は静かだったが、確かな力があった。

リアムは、少しだけ安心したように頷いた。

その瞳には、まだ母を待つ希望の光が残っていた。



そして、ふたりは歩き出した。 王都の闇の奥へと、静かに。


 

 * **


マリー――リアムの母。

十一年前のある夜、彼女は薬を盛られ、意識を失った。

目覚めたときには、すべてが終わっていた。

部屋の空気は冷たく、肌に残る違和感だけが、何が起きたのかを物語っていた。

相手の顔も、声も、何も覚えていない。

記憶は、まるで最初からなかったかのように、空白だった。



医師に告げられた妊娠。 マリーは、リアムを産むべきか、何度も迷った。

だが、彼女には家族がいなかった。

頼れる親も、兄弟も、親戚もいない。

天涯孤独の身。 誰にも相談できず、誰にも寄り添ってもらえなかった。



「この子が、私の最後の繋がりかもしれない」


そう思った。だから、産んだ。

それは、自分の家族を持てるという期待からだった。



だが、子どもを抱えた身寄りのない女が働ける場所など、限られていた。

昼間の仕事は、保育所も保証もない者には門を閉ざす。

夜の街だけが、彼女に居場所を与えた。



娼館――それが、唯一の選択肢だった。 マリーは、リアムにだけはその場所を見せなかった。



「仕事場には来ちゃいけないよ」


そう言って、毎朝、彼の髪を撫でて出かけていった。



リアムは、母の言葉を守った。

けれど、三日も帰ってこない母を待つには、十歳の心はあまりにも小さかった。

窓の外の風が鳴るたびに、彼は耳を澄ませた。

扉の音に、足音に、母の気配を探した。 けれど、何も聞こえなかった。



そして、彼は立ち上がった。

母の言葉を破ることになると知りながら。

誰かに頼ることもできず、誰にも見つけてもらえないまま、 彼は、小さな足で、王都の裏へと踏み出した。



* **


黒薔薇商会ーエリスとアランは、報告書の束を前に、長い沈黙を保っていた。

部屋の空気は凍えるほど冷えていたが、それ以上に、ふたりの胸の内に広がるものが重かった。



「十一年前……ラウルもリリアナも、まだ子どもだったな」


アランがぽつりと呟いた。

それは、誰かに語りかけるというより、自分自身に向けた問いのようだった。



エリスは、視線を落としたまま、静かに言葉を継いだ。


「…ということは、彼らが関わる前から、すでにこの組織は存在していた。  ラウルとリリアナは、ただの“些末”だったのかもしれない」



そのとき、扉が静かに開いた。


ユリウス・グレイが、書類の束を抱えて入ってきた。

彼の顔には疲労の色が濃く、目の奥には、抑えきれない焦燥が滲んでいた。


「すみません、少し……お時間をいただけますか」



ユリウスは一礼し、手にした資料を机の上に置いた。

その動きには、迷いも、ためらいもなかった。


「例の譜面の解析が進みました。兄が残した旋律の中に、通貨コードだけでなく、複数の送金ルートが隠されていたんです。 その一部が、十五年前の王都と隣国を結ぶ“灰の回廊”に繋がっていました」



アランが顔を上げた。


「灰の回廊……あのとき、俺たちが見落としたルートか?」



ユリウスは頷いた。


「ええ。しかも、送金先の名義に“ノアール”の名がありました。 セドリック・ノアール――隣国の元大公。  今は表舞台から姿を消していますが…」



アランはその名を聞くと、過去に調べていた資料を引き出し、もう一度目を通した。

紙の端に残る書き込みが、かすかに手を震わせた。


「そのルートを手繰り、資金の流れを辿れば……奴の動きが見える?」



エリスは、ふたりの報告書に目を通しながら、静かに言った。


「やはり……この組織の根は、王都の外にまで伸びている。  リアムの存在が、それを証明している。  十年以上前から、誰にも知られずに動いていた。  ラウルもリリアナも、ただの“枝葉”。 本当の根は、もっと深く、もっと古い」



ユリウスは、譜面の一節を指差した。 そ

の指先は、わずかに震えていた。


「兄は、これを命懸けで残しました。 この旋律は、ただの記録じゃない――告発です」



部屋の空気が、ひときわ静かになった。

誰も言葉を発さず、ただ譜面の上に視線を落とす。

黒薔薇商会がこれまで暴いてきたのは、あくまで“見える部分”だった。

貴族の名を冠した帳簿、偽装された慈善事業、密売ルート。

それらは確かに腐敗の証だったが、あくまで表層に過ぎなかった。



リアムの出生―― それは、十年以上前に仕掛けられた闇の痕跡だった。


薬を盛られ、意識を失った母マリー。

誰にも知られず、誰にも守られず、ただひとりで命を宿し、育てた。

その事実が示していたのは、組織の根が、王都の歴史よりも深く、静かに張り巡らされていたということだった。



そして、今回、ある名が浮かび上がった。

セドリック・ノアール。隣国の元大公。

今は表向きには隠居しているとされているが、王都の裏側に影を落とす存在。



「容易には手出しできない」


エリスの声は低く、しかし揺るぎなかった。


「でも、見逃すわけにはいかない」



アランは頷いた。かつて家族を失い、路頭に迷った自分とリアムの姿が重なった。 

――それは、男の決意だった。



* **


修道院の児童養護施設は、石造りの重厚な建物だった。

年月を経て古びてはいたが、その佇まいには不思議な温もりが宿っていた。

風が吹き抜ける音も、軋む扉の音も、この場所では静けさの一部として受け入れられているようだった。まるで、すべてが祈りのように穏やかに響いていた。



セシリア・ヴァレンティアは、かつて元婚約者に辱めを受けそうになった過去を持つ。

だが、その危機の瞬間に彼女を救ったのは、ロゼことエリスだった。

以来、セシリアは「黒薔薇商会」の表の顔として活躍し、冷静さと気品を兼ね備えた存在として人々の信頼を集めている。


そのセシリアに導かれ、リアムは修道院の敷居をそっと越えた。

彼の足取りにはまだ不安が残っていたが、それでも前へと進もうとしていた。



クラリス・エルメリアは、静かにリアムの前に膝をついた。

かつては子爵夫人として生活を送っていたが、夫に蔑まれ、愛人に家を乗っ取られ、すべてを失った。

絶望の果てに辿り着いたのが、この修道院だった。


今では黒薔薇商会の援助を受けながら、児童養護施設の子どもたちを支える優しい女性として、穏やかな日々を送っている。

彼女の微笑みには、痛みを乗り越えた者だけが持つ深い慈しみが宿っていた。



リアムの前で、クラリスはそっとその手を握った。

小さくて冷たいその手に、彼の不安と戸惑いが滲んでいた。

けれど、クラリスの手に応えるように、リアムはわずかに握り返した。

その力は弱くとも、確かにそこにあった。



それは、リアムの心が少しだけ開いた証だった。


「ここで、お母さんの帰りを一緒に待ちましょう」


クラリスの声は、柔らかく、揺るぎなかった。

リアムは、わずかに頷いた。

その瞳には、母の安否を慮る、言葉にはならない想いが、静か灯っていた。



  * **


数日後、かつてマリーと一緒に娼館で働いていた女性が見つかった。

彼女もまた、マリーより前に、人身売買にあった被害者だった。

今は隣国の港町で、細々と暮らしているという。

その女性は、マリーのことをよく覚えていた。


「彼女は……いつも息子のことを案じていたわ。  “あの子だけは、絶対に幸せにする”って…… 何度も、何度も言っていた。  辛い思いもたくさんしてきたけど、息子が宝だって」



その言葉は、誰に向けられたものでもなく、ただマリーの安否を祈るように繰り返されていた。

 



* **


その数か月後、マリーを連れ去った組織がようやく見つかった。

だが、マリーは、運ばれる途中で、すでに命を落としていた。


誰にも知られず、誰にも気づかれず、ただひとりで息子を想い戦っていた母。



クラリスは、窓辺に立つリアムの姿を見つめながら、静かに胸の内で言葉を紡いだ。


「あなたは、とても愛されていたのよ。

見えなくても、確かに――その愛は、あなたの中にある」



そして、母を想い、祈り、リアムは空を見上げた。


人身売買の組織は、一部の末端の人間だけが捕まった。

黒幕までは手を出せず、組織そのものを解体するには至らなかったーー闇は、まだそこにある。




 * **


夜の帳が降りた頃、黒薔薇商会の屋敷は静まり返っていた。

書斎の灯は落とされ、廊下の先にある一室だけが、微かな光を灯していた。



その部屋で、エリスとアランは、広げられた地図を前に向き合っていた。

地図には、王都を囲む交易路、港町の倉庫、そして隣国との接点が赤い印で記されていた。

その印のひとつに、アランの指が止まる。



「まだ終わってない」


彼は、低く呟いた。


「奴は、王都の外に根を張っている。見えない場所で」



エリスは頷いた。 その瞳は、冷たい光を放っていた。


「この組織は、王都だけでは終わらない」



地図の端に書かれた名――セドリック・ノアール。隣国の元大公。

今は表舞台から姿を消しているが、資金の流れを辿れば、彼の影は今もなお濃く残っていた。



「どうやって奴を……簡単には……」


アランの声は低かったが、迷いはなかった。


「でも、俺たちがやるしかない」


エリスは、地図を静かに畳んだ。





 * **


その頃、隣国の港町では、ひとつの船が静かに入港していた。

船名は伏せられ、乗員名簿には偽名が並んでいた。

だが、荷の中には、王都では見かけぬ薬草と、見慣れぬ通貨が混ざっていた。

港の倉庫に入ったその荷は、数日後には慈善団体名義で王都へと送られる予定だった。


表向きは寄付。


だが、黒薔薇商会の調査員は、その中に“沈黙の印章”を見つけていた。

それは、セドリック・ノアールの家紋だった。 隣国の旧貴族――かつて“大公”と呼ばれた家系の印。

その紋が刻まれた荷には、港の検査官も、税関の役人も、誰も手を触れようとしない。


『この印がある限り、検査は不要とされる。 “外交特権”の名のもとに、すべてが通される』


調査員の報告は、闇の深さを物語っていた。

それは、事実であり、慣例であり、そして――闇の温床だった。



セドリック・ノアールの名は、法を超え、監査を超え、疑念さえも封じる“沈黙の印章”だった。



エリスは、報告書を見つめながら言った。


「この家紋を使い、まだ取引がある。彼が今もなお“支配者”として君臨している証よ」



アランも、覚悟を決め、静かに頷いた。

その瞳には、かつて父を失った少年の痛みと、リアムを過去の自分の姿に置き換えて、心を砕き、生きている男としての意志が宿っていた。



そして、黒薔薇商会の次の裁きは、“触れてはならない”とされた場所から始まる。

お読みいただきありがとうございます。

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