母の手に咲いた花
【黒薔薇シリーズの短編第四弾】
王都の片隅で、誰にも知られず、誰にも守られず、それでも咲いた命があった。
冬の風に晒されながら、声を上げることもなく、ただ母の帰りを待ち続けた少年――リアム。 その小さな背中に宿っていたのは、祈りにも似た希望だった。
ひとりの少年の生い立ちから根深い闇が見つかる。 そして、彼とその母を傷つけた者たちの過去と、闇に潜む者たちの罪へと繋がっていく。
王都の裏通りは、冬の風が容赦なく吹き抜けていた。
石畳の路地は冷え切っていて、陽の光が届かない場所では、昼でも夜のような暗さがあった。
人通りはまばらで、風の音だけが壁と壁の間をすり抜けていく。
その路地の片隅に、ひとりの少年が蹲っていた。
名は――リアム。十歳。 外套は薄く、裾は擦り切れていて、膝を抱えたまま身じろぎもしない。
風が吹くたび、肩が小さく震えた。 それでも、声を上げることはなかった。
黒薔薇商会のアラン・ヴァルモントは、その姿に足を止めた。
少年の背中を見た瞬間、胸の奥に鈍い痛みが走った。
かつての自分を見たような気がした。
誰にも頼れず、誰にも見つけられなかった頃の、自分の姿を。
「こんなところで、何をしてる」
声をかけると、リアムはゆっくり顔を上げた。
その瞳には、疲れと諦めが滲んでいた。
けれど、怯えはなかった。
それが、アランには余計に胸を締めつけた。
「母さんが……仕事に行ったまま、帰ってこないんだ」
リアムの声はかすれていた。
「来ちゃダメって言われてるけど、もう三日も帰ってこない。だから……」
言葉の続きを飲み込むように、リアムは視線を落とした。
その小さな手が、ぎゅっと外套の裾を握りしめていた。
「場所、知ってる。案内するから……でも、僕は入れない」
その言葉には、母への信頼と、禁忌を破ることへの葛藤が混ざっていた。
アランは、しばらく黙っていた。
この街の裏側を知る者として、リアムの言葉の意味を理解していた。
“仕事場”――それがどんな場所なのかも。
「わかった。俺が行く。君は、ここで待ってろ」
そう言いかけて、アランは言葉を飲み込んだ。
この路地に、子どもをひとり残すことが、どれほど危ういかを知っていたからだ。
「いや、やっぱり一緒に行こう。何があっても俺がそばにいる」
アランの声は静かだったが、確かな力があった。
リアムは、少しだけ安心したように頷いた。
その瞳には、まだ母を待つ希望の光が残っていた。
そして、ふたりは歩き出した。 王都の闇の奥へと、静かに。
* **
マリー――リアムの母。
十一年前のある夜、彼女は薬を盛られ、意識を失った。
目覚めたときには、すべてが終わっていた。
部屋の空気は冷たく、肌に残る違和感だけが、何が起きたのかを物語っていた。
相手の顔も、声も、何も覚えていない。
記憶は、まるで最初からなかったかのように、空白だった。
医師に告げられた妊娠。 マリーは、リアムを産むべきか、何度も迷った。
だが、彼女には家族がいなかった。
頼れる親も、兄弟も、親戚もいない。
天涯孤独の身。 誰にも相談できず、誰にも寄り添ってもらえなかった。
「この子が、私の最後の繋がりかもしれない」
そう思った。だから、産んだ。
それは、自分の家族を持てるという期待からだった。
だが、子どもを抱えた身寄りのない女が働ける場所など、限られていた。
昼間の仕事は、保育所も保証もない者には門を閉ざす。
夜の街だけが、彼女に居場所を与えた。
娼館――それが、唯一の選択肢だった。 マリーは、リアムにだけはその場所を見せなかった。
「仕事場には来ちゃいけないよ」
そう言って、毎朝、彼の髪を撫でて出かけていった。
リアムは、母の言葉を守った。
けれど、三日も帰ってこない母を待つには、十歳の心はあまりにも小さかった。
窓の外の風が鳴るたびに、彼は耳を澄ませた。
扉の音に、足音に、母の気配を探した。 けれど、何も聞こえなかった。
そして、彼は立ち上がった。
母の言葉を破ることになると知りながら。
誰かに頼ることもできず、誰にも見つけてもらえないまま、 彼は、小さな足で、王都の裏へと踏み出した。
* **
黒薔薇商会ーエリスとアランは、報告書の束を前に、長い沈黙を保っていた。
部屋の空気は凍えるほど冷えていたが、それ以上に、ふたりの胸の内に広がるものが重かった。
「十一年前……ラウルもリリアナも、まだ子どもだったな」
アランがぽつりと呟いた。
それは、誰かに語りかけるというより、自分自身に向けた問いのようだった。
エリスは、視線を落としたまま、静かに言葉を継いだ。
「…ということは、彼らが関わる前から、すでにこの組織は存在していた。 ラウルとリリアナは、ただの“些末”だったのかもしれない」
そのとき、扉が静かに開いた。
ユリウス・グレイが、書類の束を抱えて入ってきた。
彼の顔には疲労の色が濃く、目の奥には、抑えきれない焦燥が滲んでいた。
「すみません、少し……お時間をいただけますか」
ユリウスは一礼し、手にした資料を机の上に置いた。
その動きには、迷いも、ためらいもなかった。
「例の譜面の解析が進みました。兄が残した旋律の中に、通貨コードだけでなく、複数の送金ルートが隠されていたんです。 その一部が、十五年前の王都と隣国を結ぶ“灰の回廊”に繋がっていました」
アランが顔を上げた。
「灰の回廊……あのとき、俺たちが見落としたルートか?」
ユリウスは頷いた。
「ええ。しかも、送金先の名義に“ノアール”の名がありました。 セドリック・ノアール――隣国の元大公。 今は表舞台から姿を消していますが…」
アランはその名を聞くと、過去に調べていた資料を引き出し、もう一度目を通した。
紙の端に残る書き込みが、かすかに手を震わせた。
「そのルートを手繰り、資金の流れを辿れば……奴の動きが見える?」
エリスは、ふたりの報告書に目を通しながら、静かに言った。
「やはり……この組織の根は、王都の外にまで伸びている。 リアムの存在が、それを証明している。 十年以上前から、誰にも知られずに動いていた。 ラウルもリリアナも、ただの“枝葉”。 本当の根は、もっと深く、もっと古い」
ユリウスは、譜面の一節を指差した。 そ
の指先は、わずかに震えていた。
「兄は、これを命懸けで残しました。 この旋律は、ただの記録じゃない――告発です」
部屋の空気が、ひときわ静かになった。
誰も言葉を発さず、ただ譜面の上に視線を落とす。
黒薔薇商会がこれまで暴いてきたのは、あくまで“見える部分”だった。
貴族の名を冠した帳簿、偽装された慈善事業、密売ルート。
それらは確かに腐敗の証だったが、あくまで表層に過ぎなかった。
リアムの出生―― それは、十年以上前に仕掛けられた闇の痕跡だった。
薬を盛られ、意識を失った母マリー。
誰にも知られず、誰にも守られず、ただひとりで命を宿し、育てた。
その事実が示していたのは、組織の根が、王都の歴史よりも深く、静かに張り巡らされていたということだった。
そして、今回、ある名が浮かび上がった。
セドリック・ノアール。隣国の元大公。
今は表向きには隠居しているとされているが、王都の裏側に影を落とす存在。
「容易には手出しできない」
エリスの声は低く、しかし揺るぎなかった。
「でも、見逃すわけにはいかない」
アランは頷いた。かつて家族を失い、路頭に迷った自分とリアムの姿が重なった。
――それは、男の決意だった。
* **
修道院の児童養護施設は、石造りの重厚な建物だった。
年月を経て古びてはいたが、その佇まいには不思議な温もりが宿っていた。
風が吹き抜ける音も、軋む扉の音も、この場所では静けさの一部として受け入れられているようだった。まるで、すべてが祈りのように穏やかに響いていた。
セシリア・ヴァレンティアは、かつて元婚約者に辱めを受けそうになった過去を持つ。
だが、その危機の瞬間に彼女を救ったのは、ロゼことエリスだった。
以来、セシリアは「黒薔薇商会」の表の顔として活躍し、冷静さと気品を兼ね備えた存在として人々の信頼を集めている。
そのセシリアに導かれ、リアムは修道院の敷居をそっと越えた。
彼の足取りにはまだ不安が残っていたが、それでも前へと進もうとしていた。
クラリス・エルメリアは、静かにリアムの前に膝をついた。
かつては子爵夫人として生活を送っていたが、夫に蔑まれ、愛人に家を乗っ取られ、すべてを失った。
絶望の果てに辿り着いたのが、この修道院だった。
今では黒薔薇商会の援助を受けながら、児童養護施設の子どもたちを支える優しい女性として、穏やかな日々を送っている。
彼女の微笑みには、痛みを乗り越えた者だけが持つ深い慈しみが宿っていた。
リアムの前で、クラリスはそっとその手を握った。
小さくて冷たいその手に、彼の不安と戸惑いが滲んでいた。
けれど、クラリスの手に応えるように、リアムはわずかに握り返した。
その力は弱くとも、確かにそこにあった。
それは、リアムの心が少しだけ開いた証だった。
「ここで、お母さんの帰りを一緒に待ちましょう」
クラリスの声は、柔らかく、揺るぎなかった。
リアムは、わずかに頷いた。
その瞳には、母の安否を慮る、言葉にはならない想いが、静か灯っていた。
* **
数日後、かつてマリーと一緒に娼館で働いていた女性が見つかった。
彼女もまた、マリーより前に、人身売買にあった被害者だった。
今は隣国の港町で、細々と暮らしているという。
その女性は、マリーのことをよく覚えていた。
「彼女は……いつも息子のことを案じていたわ。 “あの子だけは、絶対に幸せにする”って…… 何度も、何度も言っていた。 辛い思いもたくさんしてきたけど、息子が宝だって」
その言葉は、誰に向けられたものでもなく、ただマリーの安否を祈るように繰り返されていた。
* **
その数か月後、マリーを連れ去った組織がようやく見つかった。
だが、マリーは、運ばれる途中で、すでに命を落としていた。
誰にも知られず、誰にも気づかれず、ただひとりで息子を想い戦っていた母。
クラリスは、窓辺に立つリアムの姿を見つめながら、静かに胸の内で言葉を紡いだ。
「あなたは、とても愛されていたのよ。
見えなくても、確かに――その愛は、あなたの中にある」
そして、母を想い、祈り、リアムは空を見上げた。
人身売買の組織は、一部の末端の人間だけが捕まった。
黒幕までは手を出せず、組織そのものを解体するには至らなかったーー闇は、まだそこにある。
* **
夜の帳が降りた頃、黒薔薇商会の屋敷は静まり返っていた。
書斎の灯は落とされ、廊下の先にある一室だけが、微かな光を灯していた。
その部屋で、エリスとアランは、広げられた地図を前に向き合っていた。
地図には、王都を囲む交易路、港町の倉庫、そして隣国との接点が赤い印で記されていた。
その印のひとつに、アランの指が止まる。
「まだ終わってない」
彼は、低く呟いた。
「奴は、王都の外に根を張っている。見えない場所で」
エリスは頷いた。 その瞳は、冷たい光を放っていた。
「この組織は、王都だけでは終わらない」
地図の端に書かれた名――セドリック・ノアール。隣国の元大公。
今は表舞台から姿を消しているが、資金の流れを辿れば、彼の影は今もなお濃く残っていた。
「どうやって奴を……簡単には……」
アランの声は低かったが、迷いはなかった。
「でも、俺たちがやるしかない」
エリスは、地図を静かに畳んだ。
* **
その頃、隣国の港町では、ひとつの船が静かに入港していた。
船名は伏せられ、乗員名簿には偽名が並んでいた。
だが、荷の中には、王都では見かけぬ薬草と、見慣れぬ通貨が混ざっていた。
港の倉庫に入ったその荷は、数日後には慈善団体名義で王都へと送られる予定だった。
表向きは寄付。
だが、黒薔薇商会の調査員は、その中に“沈黙の印章”を見つけていた。
それは、セドリック・ノアールの家紋だった。 隣国の旧貴族――かつて“大公”と呼ばれた家系の印。
その紋が刻まれた荷には、港の検査官も、税関の役人も、誰も手を触れようとしない。
『この印がある限り、検査は不要とされる。 “外交特権”の名のもとに、すべてが通される』
調査員の報告は、闇の深さを物語っていた。
それは、事実であり、慣例であり、そして――闇の温床だった。
セドリック・ノアールの名は、法を超え、監査を超え、疑念さえも封じる“沈黙の印章”だった。
エリスは、報告書を見つめながら言った。
「この家紋を使い、まだ取引がある。彼が今もなお“支配者”として君臨している証よ」
アランも、覚悟を決め、静かに頷いた。
その瞳には、かつて父を失った少年の痛みと、リアムを過去の自分の姿に置き換えて、心を砕き、生きている男としての意志が宿っていた。
そして、黒薔薇商会の次の裁きは、“触れてはならない”とされた場所から始まる。
お読みいただきありがとうございます。
よろしければ、下の☆☆☆☆☆から評価を入れていただけると大変励みになります。




