警戒レベル8
はしごから落ちた時は座ってへそ上辺りまでの水位だった。
しかしみるみるうちに水位は上昇し、今では膝の辺りでざぶざぶと水をかき分けているではないか。
地下水の水位が上がって浸水していると思っていた。それかあまり考えたくないが、下水道管に何かあったとか。
だがこの急な濁流はきっとどこかから一気に水が流れ込んだせいだ。あの音は外と繋がる何かが外れたか壊れた音に違いない。道路を冠水させた雨水なのか、川が近くで氾濫したのか分からないが、何かが壊れたことをきっかけに物凄い勢いで地下室の水位が上がっている。
「ドアだ、ドアを壊そう! 何か壊せそうな物……」
物置にでもしていたのだろうか。大量の水によって波が発生し、随分と色んな物が流れて来ている。少しずつ暗闇に慣れてきた目で見ても、ごみとも有用な物とも分からない。
だがこれならドアの破壊に使える道具も流れてくるかもしれない。震える手で辺りを探るが手頃な物はなかなか見つからない。漂流物に触れて確かめるが、軽い物か、水圧によってようやく動いた重たすぎる物ばかりだった。
水面を見た。そうこうしている間にもまた水かさが増している。もう腰を越えるかというところまで来た。上昇が速い。出来ればこの得体の知れない水に顔を付けたくはないが、四の五の言える状況ではない。
浮くほど軽いよりは、沈んでいて持てる程度の大きさの方が物を壊すのに向いているはずだ。時間がない。意を決して大きく息を吸い込み膝をかがめた。
頭まで水に浸かる。先程まで聞こえていた激流は掻き消される。暗闇で呼吸が出来ず目も開けられない。それがこんなに恐ろしいとは思わなかった。どこから何に襲われるだろうか。やめようやめようと念じても、どうしても嫌な想像で脳が満たされてしまう。
水に潜ってみたは良いものの、目が開けられないので結局は手探りに頼るしかなかった。壁を伝って行ったり来たり。苦しくなっては立ち上がり、息を吸ってはまた潜り。
「あっ! ごぼごぼごぼっ」
指の先に硬い物が触れた。ついに見つけたとつい水中で歓喜の声を上げてしまい口に大量の水が入る。慌てて立ち上がった。
「げほっ……おえっ、おえぇっ!」
乾いた喉を流れるぬるい水に思わず嘔吐しかける。それでも潜った甲斐があった。確かに硬くて重みがあった。
呼吸を落ち着かせた後、もう一度肺いっぱいに空気を吸い込む。ここから出るんだ。絶対に助かるんだ。とぷん、体を沈める。すぐに体が浮いてしまいそうになり、手足をばたつかせた。指に先程の硬さを感じ。ぐっと掴む。出るぞ、ここから出るんだ!
――じゃらり
長さがあるようで、立ち上がり強く引っぱった。ひも? くさり……鎖じゃないか! あれだと気が付いた時、目の前に少女がいた。はっきり見えなくとも輪郭や手に触れる揺れる髪の毛で直感的に理解した。少女の、死体だ。
「あ、ああっ……」
水底で掴んだのは、彼女の手首に繋がれた重い鎖だった。顎が震える。凝視すれば、彼女がぐっと目を閉じ歯を食いしばり苦悶の表情を浮かべて命の幕を下ろしたことがよく分かった。恐怖と同時に悔しさや悲しさが胸に押し寄せて来る。怖いと感じるのはご遺体に失礼だ、と言い聞かせる。彼女は短い生涯を懸命に生きたのだ。
「もう大丈夫だよ、大丈夫だからね」
あいつらから遠く離れた場所に行くんだ。次はきっと幸せになるんだ。彼女がきっと安らかに眠れますように、そう祈りを込めて少女のすっかり冷え切った頬を撫でる。
――遺体が大きく目を開け、オレの腕をがしっと掴む。
闇の中で丸い瞳がこちらを凝視するのが分かる。それは歯がすべて見えるほど口を開けて、金属をこすり合わせたような声を出した。
「ぎぃあああああああっ」
「ーーーーーーーっ!」
もう叫ぶことも出来ずにただ開いた口を震わせた。全身が震え上がる。強張った体を何とか動かし、振りほどこうと暴れた。成仏してくれよ! 彼女の冥福を祈る気持ちが一瞬にして消え失せた。少女の化け物がキィキィと叫んでいる。轟音にかき消されて何を言っているのか聞こえなかったのは幸いだった。万が一聞こえていたら一生忘れられないだろう。
掴まれた腕を振りほどこうと藻掻いていると、拳が固いものを殴りつけたような衝撃を受ける。ふっとオレの腕を掴んでいた力が抜け、少女の頭はゆっくりと水中へ消えていく。