警戒レベル5
しかしオレの思いに気付くわけもなく、缶を開けては何度目かの乾杯をしている。
テレビを見ていた一人が何か言っている。指差すテレビを見てみれば増水した川が映し出されている。テロップから昨日の十八時過ぎであること、川に近付かないようにと警告する内容であることが読み取れた。
発言者につられてテレビに注目する男女。川に関する報道が終わったのか画面が切り替わると、彼らが顔を見合わせ盛り上がっているように見える。
ラーメン屋で流れた行方不明のニュースはこいつらだったんだ。酒に酔った勢いで行くなと言われた川に向かった。きっとそうだ。
男女はゆらゆらと立ち上がると互いに支え合いながら覚束ない足取りで部屋を出て行こうとした。さっさと出て行けくそ野郎。
そう念じていると例の男性が少女を指差し何か言った。一体何をしようというんだ。少女を見てみるとテーブルの上を、というより空中を無気力に眺めたまま微動だにしない。
母親らしき人物はわざとらしく大ぶりに手を叩くと、少女をつなぐ鎖の先、ドアの方へと向かった。鎖を外している。なんだ? 流石に外出時は自由にさせているのか? ほんの少しほっとした。あいつらがいなくなったら助けてやるからな。
安心させようと少女と目を合わせようとした。しかし様子がおかしい。少女は鎖を引かれると表情を一変させた。明らかに恐怖に怯えていて何か叫んでいる。必死に力を振り絞り後ずさるが後退するスペースがない。
女は鎖を乱暴に引っ張り、少女を立たせようとしているようだった。女の背後には低い棚があった。鎖を強く引いた拍子に棚の上の花瓶が倒れる。花瓶に挿してあった花はとっくに枯れているようだった。その花が飛び出し、隣に置かれる文字の書かれた札のような物の前に落ちる。
さらに男が肩を組むように女へ近付く。そしてにやけた顔で何かを囁き、棚に置かれた花瓶やお札だけでなくおかしや小さなぬいぐるみもろとも払い除ける。床に落ちたそれらを見て笑い転げる男女に言いようのない怒りがふつふつと湧いた。自分でも何に怒っているのか分からない。だがしかし何故だか無性に腹が立った。
少女は引きずられるようにして部屋を出て行く。
「おい! どこに行くんだ! なんでだよ、動けねえっ」
追いかけようとするのに体はそこに硬直して身動きが取れない。少女が抱える人形と目が合う。電気が走ったように一瞬意識が鮮明になり、突然声が聞こえるようになった。
「やめてくださいっ……おねがい、やだっ!」
「いい子だからね、こっちに来ようね」
「早く行かねえとお腹痛い痛いにするよー」
「ぎゃははは! そいつ、言っても通じてねえよ!」
少女の痛々しい叫び、無気力で無理に明るくしているような母の声、猫なで声で気味が悪い男の声。周りの大人たちは揃いも揃って笑い声を上げるだけだ。動け、動けよオレっ!
少女はあの人形をぎゅっと片手で抱き、これだけは離すまいとしている。人形が顔だけを直角にこちらへ向けた。オレは人形の真っ黒い目から視線を外せない。人形の固く閉じた口が、ぱっくりと開く。
「おあぁあおあぁあおあぁあ」
頭の中で赤ん坊の泣き声に似せた低くて不気味な音がした。人形の開いた口はその音に合わせて動いている。耳を塞ぐが何の意味もない。悲しくないのに涙腺が熱くなりぼたぼたと涙を流している気がする。頭がぐちゃぐちゃになって、何も考えられなくって、もう全てを終わりにしてしまいたくなったその時、唐突に音が止んだ。
「たすけて」
救いを求める声が聞こえたかと思うと、ぱっと目の前が暗くなった。どっどっどっ。血液が体中をものすごい勢いで駆け巡っている。頭が割れそうに痛い。
ぎこちなく見渡せばそこは元居た部屋で、じめじめした暗さと匂いが現実感を呼び起こした。
なんだ今のは。まぼろしか? オレのバカな妄想か? ふらつきながら壁を頼りに立ち上がる。窓にかかるカーテンを開けると、ほんの少しだけ明るくなる。日が出ていないのでほとんど変わりないが少しはましだった。
部屋にはオレ一人が立ち尽くしている。見渡すと今しがた幻の中で見た光景そのものが広がっていた。荒れたテーブル。物が散乱する床。紛れもなくあいつらが、少女がここにいた証拠だろう。