警戒レベル3
ドアの隣にはポストがあった。住民の名前らしきものが書いてある。一番上にある文字列は黒でぐちゃぐちゃと塗り潰されている。その下に「ゆかり」さらにその下には「ゆま」と書いてあった。
「ゆまを探しに来て」
先程の言葉を思い出す。あの子の名前だったのか。かくれんぼでもしたいのか?
水浸しの玄関を覗く。びくびくと奥を伺っているオレにはお構いなしで、少女はとっとと部屋に上がっていた。幸い玄関よりも一段高い部屋の中は浸水していない。
「おじゃま、しまぁす……」
控えめに声をかける。ちゃぷちゃぷと音を立て玄関に上がった。室内はまっくらで他に人の気配がない。うっと息の詰まるような生ぬるい空気が頬を撫でる。玄関の上がり框に座り込み、必死に長靴を引きはがす。
「ちょっと待ってね。くそ……脱げねえっ」
濡れたパンツと長靴同士が密着し、上手く脱げずに手こずる。やっとのことで脱げた長靴。浸水しかけている玄関に置いて行くのは気掛かりだが、流石に人の家に泥まみれの長靴で上がるわけにはいかない。家の中が水浸しになるまで長居はしないだろう。玄関にはでかい長靴がぷかぷかと浮かんでいた。
「ねえ、お父さんかお母さんはいない? 勝手に入ったら、お兄ちゃん怒られちゃうかもしれないな」
立ち上がり振り向きざまに声をかける。返事がない。
「あれ? ゆまちゃん?」
返事どころか、少女そのものが忽然と姿を消した。しまった。もうかくれんぼが始まってしまった。少女の名前を呼びながらフローリングの冷たい床を少し歩いてみる。ひた、ひた。歩くというより、玄関を上がったところで彷徨っているに近い。
少女が家に入るのを見届けたわけだし、お遊びにまで付き合う必要ないんじゃないか。心の中ではだいぶ「帰ろうかな」という気持ちが勝っていた。
「かくれんぼかなあ? お兄ちゃんの負けだよ、出てきてくれるかなあ」
一拍待ってみる。じっとりとした湿度の高い空気が肌にまとわりつき気持ちが悪い。しん、と静まり返ったまま外の雨音だけが耳に届く。
「大人と鉢合わせたら終わるな、こりゃ」
ゆまちゃんには悪いが帰らせてもらおう。最後に一声かけようとして、玄関から一番近い部屋の障子が目に入ってしまった。古びた障子紙は黄ばんでいて所々乱暴に破れている。思わず眉を顰めた。部屋から漏れているのか、鼻孔を突く異臭がより一層不気味さを演出している。
「中が丸見えだな……うわぁっ!」
障子紙の破れた隙間から黒いビー玉のような目がこちらを見上げている。
「に、人形? び、っくりした……」
部屋から覗いているのは無機質な人形の瞳ではないか。その瞳へと吸い寄せられるかのように障子に手が伸びる。す、すす、と引っかかりを感じながら障子を開けた。建付けが悪い。障子を開けるとこじんまりとした和室だった。障子に立て掛けてあったのか人形は仰向けに寝転んでいる。
そうか。もう一つ、この部屋への入り口があるんだな。ゆまちゃんはオレに気付かれないよう他の入り口からこちらへ回るとこっそり人形を置いた。どこかに隠れて様子を見ているのかもしれない。
部屋は廊下よりもさらに暗いが、真ん中に置かれた小さなローテーブルの上は物が散乱していることが見て取れた。
「なんだこれ。くせえな」
部屋はアルコールの臭いと残飯の腐った臭いがしている。
「あった! 電気電気っと……あれ?」
入ってすぐの壁にスイッチを見つけて押してみる。だが部屋は明るくならない。かちかちかちかち――さらにスイッチを押すが暗いまま。この雨だ。停電でもしているのかもしれない。
「ねえお人形さん、ちょっとゆまちゃん呼んで来てくんない?」
困り果てて床に寝転ぶ人形に話しかける。そんなわけはないのに、人形の目つきが鋭くなった気がした。
「え。いや、いや、ビビりすぎでしょ。……うわ、まぶしっ!」
そう言って笑い飛ばそうとした時、いきなり目の前が明るくなり顔を背ける。
反射的に閉じた目を開けてみると、目の前に見知らぬ若い男女がいた。呆然と立ち竦む。さっきは人の気配など感じなかったのに。女性は小柄で髪色が明るく、涼し気なワンピース姿だった。すやすやと眠る可愛らしい赤ん坊。女性はその赤ん坊を手に抱き、何か話しかけながらゆらゆらとゆっくり揺らしている。
声は聞こえなかった。
すぐ傍らでは筋肉質で眼鏡をかけた短髪の男性が優しそうな笑顔で赤ん坊の柔らかな頬を指で撫でていた。二人はふと目を合わせ幸せそうに微笑む。
白いベビーベッドの上では可愛らしいモチーフや動物のぬいぐるみをぶら下げるベビーメリーが回る。壁には「命名 ゆま」と立派な文字で書かれた用紙が飾られていた。
突然の光景に言葉を失っているとまた部屋が暗くなる。