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白昼夢の下校道

作者: 月舘とうふ

! 念のためR-15のセルフレーティングをしています

 ある日の昼下がり、男の意識は夢の中にあった。

 下山誠治という名のその男は、そこで少年の姿に戻っていた。


 赤いTシャツにベージュの短パン、白いスニーカーを履いて真っ黒いランドセルを背負い、そして無意識のうちに小学校を飛び出したところからその夢は始まった。

 昇降口の庇を抜けると真上で太陽がカーンと光っていた。雲一つない晴天とあたりに散らかる蝉の声、遠くに見える長い山脈の稜線は蜃気楼ようにゆらゆらと揺れてぼやけていた。誠治は真夏かな、と思って咄嗟に「あっつー」と口走ったが、ここは夢、まったく暑くはなかった。


 誠治は既にこれが夢であるのを、なんとなくではあるが感じ取っていた。ただ、それを「夢」と認識していたというよりは、「現実ではないなにか幻想めいた景色」と、かなり抽象的に捉えていたのである。

 しかしながら、彼にどうしてそんなことが理解できたのかというと、実は直前に風呂掃除をしたばかりで、それが鮮明に頭に残っていたからだ。つまり誠治からすれば、「あれ、さっき風呂掃除し終えたとこなのに、どうしてこんなところにいるんだ……」と見えていたのである。おまけに体も小さくなっていたのだから、夢と現実を区別することは容易であった。


 戸惑いと困惑の中、誠治を追いかけて後ろから三人の少年が走ってきたようだ。中井、小野、竹部の三人は、昇降口を飛び出すと、誠治の肩やランドセルをぽんと叩いて追い抜いた。そうして四人は合流した。

「悪い待たせたな、帰ろうぜ」

 子供の頃の彼らのリーダー格であった中井がそう言った。

 懐かしい顔ぶれだ、そういえばと誠治は少年時代は大体この4人で下校していたことを思い出した。彼らとは中学も一緒だったが、各々が違う部活に入部したことをきっかけに次第に疎遠になっていった。高校はもうみんなバラバラで、思い返せば中学の卒業式以来碌に会っていない気がした。いずれ散り散りになるというのに、このときは彼らとの友情が永遠のもののように感じていた。なんとも安易な言葉ではあるが、当時はその関係性を、あるいは彼らのことそのものを親友だと思っていたのである。夢のなかとはいえ思わぬ再会、なにか無性に熱いものが込み上げてきそうだった。


 実際に泣いたわけではないが、泣き顔なんて見せられない、そう思った誠治はしばらく顔を背けるように振り返って学校のほうを見た。

 この頃合併されて新しく建てられた校舎に、誠治は小学生時代の後半の三年間しか通わなかったが、その姿は細部まで随分記憶に残っていたようである。昇降口の上の大きな庇は緩やかアーチ状の丸みを備えて、その上にある時計塔の屋根は、校舎で唯一それだけが鋭く印象的に尖っている。その時計塔を中心にして左右に伸びる二階建ての校舎は、外壁のすべてに木の板が使われているので、木造校舎のような木の温かみをまとい、どこかノスタルジックな匂いの立ちこめてくるのであった。まるで昔の学校を今風に改良して再現したような校舎であった。

 その校舎の下側を、花壇のマリーゴールドが黄やオレンジや赤の差し色で彩る。毎年春になると、花壇の一つのブロックを一つのクラスが担当しそれぞれが苗を植える、誠治はそれを思い出して、確か四年生のときはあの辺で、五年生のときはこっちだっけかと指を指しながら眺めた。

 夢の中で再現されたそれらの景色、誠治は「そうそうこんなんだったな」とあらためて感心していた。

 誠治は記憶によって再現された校舎を懐かしむようにすみずみまで観察しながら後ろ向きに歩き、そうしてここで過ごした過去のあれこれを振り返ると、改めてなんでもない、つまらない、しょうもない毎日だったなと、ため息が出てしまった。田舎で遊ぶ場所も物もほとんどなく来る日も来る日も同じようなことを繰り返していたのである。

 それが今の誠治にはまぶしかった。


「おーい、なに後ろなんか見て歩いてんだ、はやく来いよ」

 中井の張り上げた声が遠くからしたと思ったら、みんなは既に横断歩道を渡っていた。後ろ向きに歩いて見えていないうちに離されてしまったようだ。誠治は振り返って急いで横断歩道へ向かった。学校前の押しボタン式の信号は、歩行者用の青信号の時間がやたら短くて、しかも一度逃すと次の青までが長い。これを逃すと置いていかれると思って走った。案の定横断歩道に入る直前で青信号は点滅をはじめた。誠治はさらにスピードを上げ、なんとか赤に変わるすんでのところで渡りきれた。誠治は「ふー、危なかった」とちょっとおどけてみせた。

 今では置き勉なんてのも認められる場合があると聞くが、誠治の子供の頃はそういうのは禁止で、毎日ランドセルをパンパンにして登下校していた。短い距離でも一生懸命に走ると中の教科書が暴れて、肩に余計な負担がかかってしまう。というのは多くの方も経験済みであろう。誠治もまた「そうそうランドセルってこんな感じだったな」としみじみその後ろに引っ張られる感覚を懐かしむのだが、直後に「ん、待てよ、これちょっと違うな」と思い直す。その夢の中ではどういうわけか肩というよりも、もうちょっと上、首のほうがキツかった。ついでにちょっと走っただけでやたら息も苦しかったので「首の凝りに息切れなんて、俺も結構歳をとったのかな」と静かに自嘲した。


 横断歩道を渡ってから道沿いにしばらく歩くと、十字路が見えてきて、その前に小さな空き地がある。誠治たちはこの空き地でちょっと駄弁ってから帰ることが多かった。なぜなら、この先の十字路で竹部とは別れるだからだ。

 で、何をして駄弁っていたかというと、竹部の描いた漫画を見せてもらっていた。竹部というのは絵を描くのが好きな男であったから、ノートや紙切れにあれこれ描いていたのである。と言っても漫画なんかは小学生の書くものだから、なぜか唐突に崖から落ちたり脈絡のない爆発オチだったり、とてもストーリーとは言えないような荒唐無稽なものであり、内容は、はっきり言ってしまえば面白くはないのである。それでも、その頃の誠治たちはそれを割と心から楽しみに見ていたというのもまた事実なのである。

 夢の中でも誠治たちは竹部の漫画を見せてもらっていた。やはり竹部は絵が上手い、特にキャラクターの造形が可愛らしくていい、と誠治は心の中で賛辞を送った。丸みのあるフォルムや柔らかな鉛筆のタッチやその曲線の丁寧なこともさることながら、技術的なセンスも良く、たとえば黒目の一部を白抜きにしているあたりは独学の小学生のくせによくやっていると思った。なんとなく、あの有名な、なんか小さいやつみたいな愛くるしさがあるようだった。誠治も一度マネをして漫画を描いたことがあったが、どうにも不恰好な棒人間しか描けなかったので、そのときは五分で筆を折った、というのも今となっては微笑ましい思い出だろうか。


 ここで竹部とは別れて残りの三人で再び帰路につく。この道は左側に民家が並び、右側は農地がある。民家は一軒一軒が距離を離して、間を防風雪のためのスギやモミや柿の木の屋敷林が埋めていて、道路を挟んで反対側は幅が50cmにも満たない小さな用水路があり、その向こうに田畑が一面に広がっている。畑に立ったペットボトルで作られた赤や黄色のカラフルな風車(かざぐるま)——これはモグラ除けらしい——が時折吹く風によってカタカタと回転して、地面にその振動を伝えていた。それを囲むように収穫を待つばかりのトマトやナスやパプリカが鮮やかに実っていて、畑に夏の色を添える。

 誠治たちが右の農地側の道を歩いていたのは、虫好きの小野に付き合ってのことである。

 小野は道路の舗装されてない雑草のぼうぼうと生えた地面をじっと見つめながら歩いていた。もちろん虫を探してのこと。誠治もこの頃は虫だって平気で触れていた。小野といるとそういう機会も多かったからだ。あるときは三人してミミズを素手で掴んで空へ放り投げたこともあった。並走する電線を越えるほど高く投げ上げたことを今でもよく覚えている。

 それは今の誠治からは考えられないことである。いつからそうなったのかは記憶にないが、大学に入って一人暮らしをするようになった頃にはもう触れなくなっていた。自宅のアパートに帰って、部屋の電気をつけたら壁に大きな黒い虫——念のため言うとGではない——が止まっていたときは驚いて、見えないことにして外に出て、そこで二三分は身動きできなかったほどだ。

 さて、夢で小野は雑草の茂りに手を突っ込んでカマキリを捕まえて見せた。

「今からいいものを見せてやるよ」

 そう言って小野は捕まえたばかりのカマキリを舗装された歩道のほうに持ってくると、拳ほど石をどこからか持ってきて、それでカマキリを叩き潰した。二度三度とそれを繰り返し、カマキリを絶命させてしばらく待つと、その死骸から黒っぽい細長い何かがうにょうにょと(うごめ)きながら這い出てきた。

「知ってるこれ? ハリガネムシって言う寄生虫だよ」

 と、小野は得意気に言った。もちろん誠治も(しん)に小学生の頃なら驚いただろうが、中身はすでに大人、それにハリガネムシだって何度小野から見せられたことか、今さらどんな表情で見てやればいいのか分からず、内心やれやれと呆れていた。ところが、中井も小野も目を丸くしながら観察していた。やがてハリガネムシの体全体がカマキリの死骸から抜け出して、道路の上でのたうち回っている。宿主を失った寄生虫はもう長くは生きれないだろう、誠治はどこか哀憐の情が湧いた。ところが対照的に中井はにやにやとした笑いを浮かべていた。子供の頃は自分もあんな顔で見ていたのだろうか、と誠治は中井を少しばかり冷ややかな目で眺めていた。

 誠治は何を思ったか、そのハリガネムシを掴んで、昔ミミズにそうしたように空へ向かって放り投げた。それはきっと、夢だと自覚があったからできた所業であろう。投げると同時に上を向いたのは行き先を確認したかったから。でも、カンカンの太陽光が目に飛び込んできて、思わず目をつぶったら、もうハリガネムシの行方は分からなくなった。

「なにしてんだよ、もうちょっと見ていたかったのに」

「いやあ、なんか気持ち悪くって」

「ったくしょうがねえな。つか気持ち悪いって言う割によく触れるよ」

 そうしておもちゃをなくした三人は虫遊びをやめ下校に戻った。道なりに歩いたならば、程なくして屋敷林に囲まれた赤い瓦屋根の家の前についた。

「じゃあまた」

 と言い、小野はその赤い屋根の自宅へ消えていった。

 最後に残るのは誠治と中井の二人。この先に見える丁字路で二人が別れるまで距離は500mもないだろう。

 それはこの幻想も終わりが近いているということを、予感させるものであり、誠治はなんだか名残惜しくなっていた。子供の頃のなんでもない日常がこれほどまぶしく、そしてまた残酷な現実を不覚にも一滴の涙を流した。

 もう察しはついているかもしれないが、誠治がこれほど昔の情景を懐かしみ、またやけに輝かしく見ているのは、現実がうまくいっていない裏返しである。

 現実の誠治は神経衰弱と酒への依存が祟って体を壊し、そうして仕事をやめ、あてもなく実家に戻ってきてもう半年が過ぎていた。すべてを失ってなお残ったのは、奨学金の負債だけであった。

 実家での生活で少しずつ酒は抜けてきているが、心を蝕む病は日に日に酷くなっている。

 漫画家にはなれなかったけれど、趣味でイラストを続けている竹部。大学院へ進学し、学者の卵になった小野。高卒で地元に就職したものの、すぐに結婚し若くして子宝に恵まれている中井。他にも同級生たちが大人になってそれぞれの生きがいや幸せを見つけているらしく、実家に戻ってきてからそういう話を風の便りで聞かされ、そうして時が止まったように引きこもっている自分と比較してしまい、その度に心はすり切れるのだった。毎日夜になると、何者かに土足で内臓を踏まれているような、どうしようもない悔しさに襲われて歯ぎしりをしていた。


「ああ、そうだ」

 中井は言った。

「川を渡ろう」

 小学生だった誠治たちは、目の前の用水路のことを川と呼んでいたのであり、つまり中井の発言は用水路を飛び越えようという提案だった。確かに昔こんなことをしていた。何にもない田舎では、単なる用水路ですらアクティビティになる。もちろん褒められたことではないけれど、往来の少ない田舎道は誰かに見られることもほとんどないし、見られたとてそれで咎められることもなかった。誠治はその提案を受け入れた。

 中井は足を開いてひょいと用水路を飛び越えてみせた。

 次は誠治の番だ。誠治も足を開き、向こう岸へ足が掛かるのを確認して、ぐっと踏み出した。しかし、どういうわけか踏み出したほうの足を滑らせてしまったのである。途端にバランスを崩し、体はそのまま用水路に落ちてしまった。と言っても、あっても水深20センチとない浅い用水路、だから何も心配していなかった。

 なのに、落ちた瞬間からそれは底の抜けた沼のようになっていて、誠治の体を一気に肩まで飲み込んだ。なんだこれは! なんて考える余裕もなかった。もがいてももがいても上へ上がることは出来ないし、それどころか少しずつだが確実に、どんどん沈んでいる。

「おい、助けてくれ、抜けないんだ」

 すると中井は血相を変えて笑い出した。

「頼む、笑ってないで助けてくれよ!」

 大声で叫んでも中井はずっと高笑いをして手を貸そうとしない。何かがおかしい、そう感じて誠治は辺りを見回した。すると、なぜか別れたはずの竹部と小野もそこにいた。彼らも溺れている誠治を囲むと、彼を見下し笑い出したのである。

 気味の悪い甲高い笑い声が耳にちくちくと突き刺さる。鼓膜を針で刺されているような痛さのある笑い声に、思わず耳を塞ごうと両手を上げたが、そうすると体が沈んでしまいそうになったので、甘んじてそれを聞くしかなかった。ところが、もっと可笑しなことが起こった。誠治を囲む少年たちに追加でまた一人また一人とどこからともなく子供が現れた。見るとそれは小学校のときの同級生たちで、よく見知った顔の男女がぞろぞろと。そうして彼らは何十人と増殖していき、皆誠治を指差し同じような顔を作って同じように笑っていた。狐のように目を細め、蛇のように口を裂き、まるで地震の警告音に似た嫌な声で冷笑してきた。彼らが誠治に向ける視線と笑いは、中井があのハリガネムシに向けていたものに、どこか似ていた。

 侮蔑を向けられてると誠治は感じた。


「なんだお前ら、俺を馬鹿にしに来たのか、俺があんまりにも惨めだから、寄生虫みたいな哀れなやつだって笑いに来たのだろ。畜生、ああ何だってまたこんなものを見せやがって。こんな仕打ちしやがって。

 ……いやあ、違うな。お前らが悪いんじゃないよな、分かっているよ、俺が悪いんだ、何もしない俺が全部悪いんだ。それぐらい分かっている。だからもうその笑いをやめてくれ、お願いだ。そんなに笑われたら悔しくて死にきれねえじゃねえか。

 ああもう、なんだか腹が立ってきた。そうか、こんだけ悔しいと腹が立ってくるんだな。ああもう分かった、せめてお前らに笑われないぐらいにはなってやるよ、どうせなにも失うものなどないのだからな。

 ……」

 そこまで言うと誠治の顔はすべてドブに飲み込まれ、ついに声も出せなくなった。

 ドブの中はわずかな光も入ってこない完全なる闇。そのなかで手足をばたつかせて必死にもがいたが、息もできない水中ではそれも続かなかった。

 手足が動きが止まると、突然、体が落下した。絞首台の足場を外されたように、体は重力でもって自由落下し、奈落の底へと下って行くのである。

 誠治はもう何も思っちゃいない。

 直後に……夢は終わった。


 強い衝撃によって、誠治は現実の世界に戻された。意識はまだ朦朧として、体は和室の畳の上で突っ伏していた。

 頭が痛い。息が苦しい。半目を開けて見える視界は天地がぐるぐる回転するし、ズームインとズームアウトを交互に繰り返してぐわんぐわんと揺れる奇妙な世界を捉えていた。何かひどい夢でも見ていた気がした、もうほとんど覚えていなかったけれど、あの蔑まれた笑い声の合唱が今も耳に残っていてズキズキして痛い。

 しばらくすると顎のほうに何か水っぽいものを感じて、よだれかと思いぬぐってみたけれど、それは赤くてどうやら血だったようだ。

 およそ十分か、それよりもうちょっと長いか、うつ伏せのまま息を整えて、ようやく意識も落ち着いて、視界も少しずつ正常に戻った。そうして一つ大きくため息をついて、何か思い出したようにつぶやいた。

「ああ、俺はいったい……。おっといけない、お湯を張らないとな」

 誠治はゆっくりと立ち上がり、風呂場へ向かった。

 敷居の近くに落ちていたU字の金具をひょいと飛び越え、首に巻かれていた充電コードをかなぐり捨てて、彼は早歩きで向かった。



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