ミコトのピアノ
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アイとは違うクラスなので、特に何も起きなかった修学旅行が終わり、本格的にミコトのピアノ指導が始まった。
そう言えば、ミコトのことを話した時から、アイの様子がおかしい気がするのだが…どうしたのだろう。気になるけれど、今は目の前のことに集中しないといけない。
俺は目の前に立っているミコトに視線を向けた。
「よろしくお願いします」
「よろしく」
彼女は先生に教室のピアノ使用の許可をとったようで、心置きなく弾くことができるとのことだった。俺は無許可で勝手にピアノを弾いていたなぁと自分の行動を振り返り、苦笑する。
「えっと……じゃあ、まずは弾いてみてくれる?」
「はい」
人に指導なんてしたことがない、そのうえ俺は人と話すことが苦手だ。どう始めればいいのか戸惑った。
でも初めはやっぱり、彼女がどんな風にピアノを弾くのかを知る必要がある。
ミコトがピアノの椅子を引いて座り、鍵盤に手をかけた。何となく緊張が高まり、ゴクリと息を飲んだ。
静まり返る中、彼女のわずかに空気を吸う音が聞こえた。そして次の瞬間、ピアノの音色が俺の耳に届く。
正直言って、すごく上手だった。正確に奏でられた音色は、まさに楽譜通りで、リズムも完璧だ。そう、まるで機械のように…
「うん、ありがとう」
弾き終わったあとの余韻も消え、俺は声を出した。ミコトは鍵盤を見つめ、ふうっとため息をつく。その顔を見て、いまの演奏に全く納得していないことがすぐに分かった。
「すごく上手だったよ、俺が教えられること…ないかも」
俺の純粋な誉め言葉に、ミコトはふるふると首を横に振る。
「全然ダメ、です」
「………」
「確かに、私は楽譜通りに音を奏でることはできます。でも、それだけなんです。それしかできない。……………………両親にも先生にも言われました、あなたのピアノは感情がなくてロボットみたいだって」
正確に、楽譜通り弾くことも、かなりの技術が必要になる。俺はそれをよく分かっている。彼女は本当にすごい。でもそれを言っても、きっと響かない。
俺は…………どうすればいい?
脳内にアイが浮かんだ。無意識に彼女に助けを求めようとしてしまった自分に嫌気がさす。
「………ピアノ、楽しい?」
精一杯考えて出た言葉がそれだった。
ミコトの顔が、さらに翳る。
「分からない……です。…………ピアノは親に言われて習い始めました。最初の頃は、ただ純粋に楽しかったと思います。親もいっぱい褒めてくれて…。でも…………いつの間にか、もっと上手く弾かなきゃって思うようになって…………勝手に自分を追い込んで。必死に練習しました、楽しいとかよく分からないまま。その結果がこれです」
胸が痛くなった。俺とは逆だけれど、ピアノに対して複雑な感情を持っていた部分は、共通していると感じた。
頭の中で、彼女にかける言葉を必死に探す。
「新入生歓迎会の時、初めて先輩たちの演奏を聴きました。すごく、すごく良かったです。…………何より、レン先輩が本当に楽しそうにピアノを弾いていて。それで心がぐっと揺さぶられたように感じたんです。私もそんな風に弾くことができたら……きっと親も先生も褒めてくれるって」
「…ダメだ」
自分でも驚くくらい、はっきりと言葉が出た。
「——え?」
ミコトは不意をつかれたかのように、か細い声を出した。
「そういう…他人のためにピアノを弾くのは……ダメだ、と思う」
考えも言葉もまとまっていないのに、思いつきで話している。ドキドキと心臓が嫌な鳴り方をしているが、これはちゃんと伝えなきゃダメだ。
「っ…………」
「いや、別に全てが悪いってわけじゃなくて。………ただ、今の話を聞いている限り、ミコトさんは義務感でピアノを弾いているような気がして」
「………」
「俺は、ピアノが大好きで、弾けるのが本当に楽しくて。それが、ミコトさんにも伝わっているほどだと思うと、ちょっと恥ずかしいけど………」
「………」
「ミコトさんが、何のためにピアノを弾いているのか、弾いている自分を好きになれないと、楽しく弾くことは…難しい、と思う」
「………」
「でも、本当にすごいよ。ここまで正確に弾けるのは、あなたの才能だ。それは、今までの努力があったから。そのことを否定する権利は、誰にもないよ」
「………っ」
あれ、これってピアノの指導だよな?
初回からこんなんで、大丈夫か。こんなことまで言って、彼女の行動に俺は責任が取れるのだろうか。
「私、ピアノを楽しく弾けるようになりたい……です。そのために、ちゃんと向き合いたいと思います。そんな風に言ってくれたの、レン先輩が初めてで……嬉しいです」
ミコトは俺とは反対に身体の向きを変え、肩と声を震わせながらそう言った。
彼女はきっと、真っ直ぐで純粋で、すごく努力家だ。この短時間で、それがよく分かる。きっと、親や先生の言うことも全部受け止めてしまうのだろう。それで、期待に応えられるように頑張ってしまうんだ。
何だか、彼女のことを放っておけない。母の期待に応えられるように頑張っていた俺を見ているようで…。
責任が取れるか、なんてそんなこと今はどうでもいい。
「分かった、全力でサポートするよ」
俺はミコトの背中に、そう言葉を投げかけた。なるべく優しい声色を心がけて。




