レン
3
「レン!ピアノなんかやってないで、勉強しなさい!」
廊下にまで響いた母の怒号に、僕の身体は震えあがる。
「で、でも宿題はもうやった、よ」
か弱い声の反論はすぐにかき消される。
「宿題なんてやって当たり前なのよ!それより予習は?テストまでの時間を有効に使いなさい!」
「……はい。ごめんなさい」
ピアノを弾くことが大好きだった。レンは聴いたことがないが、母も以前はよくピアノを弾いていたらしい。
それもあってか、何となくピアノに惹かれた。
元々家に置かれてあったピアノを遊び程度に弾いていたけれど、どうやら自分には才能があったようだ。家に置いてあったピアノの楽譜はすぐに完璧に弾けるようになった。レンにとってピアノは何よりの趣味で、心の拠り所だった。
だが、母はそれを良く思っていなかった。そんなことをしてる暇があるなら勉強しろと、いつもレンをピアノから遠ざけた。
父は優しかったが、仕事でいないことが多く、レンのことは母に任せっきりで、幼い頃のレンは母が絶対的な存在だった。やることを終わらせてピアノを弾いても、大抵怒られた。
だから、結果を出そうと頑張った。勉強して、母の納得する結果が出れば、ピアノを自由に弾けると思ったからだ。
でも、違った。レンが勉強をすればするほど、母の理想は高くなっていった。ますますピアノをする時間は無くなっていった。
そんな日々に飽き飽きしていたある日、ニュースで流星群が見られるという報道がされた。小さい頃、父に連れられて星を見に行ったことを思い出した。
星のことは詳しくはないけれど、見ることは好きだった。夜の勉強の合間に、部屋の窓からこっそり星を眺めるのが、数少ないレンの楽しみだった。
その時のレンは何を思ったのか、流星群を外で見たいと考えた。
その日、夜まで部屋にこもって勉強をし、時間が近づくと、静かに階段を下りた。リビングの前で耳を澄ませると、母は誰かと電話をしているようだった。まあまあ盛り上がっていて、多少の物音ならば気づかないような感じだったので、急いで玄関のドアを開け、こっそり家を抜け出した。
冷たい風がレンの頬をくすぐる。もっと厚着をすればよかったかもしれないが、もう戻れない。レンは初めての母への反発に、緊張と同時に達成感があった。
そのまま走って、近くの川まで行った。川の土手に近づくと、一人の少女が寝転がって、空を見上げているのに気づいた。
レンと同じくらいの年齢の彼女は、呼吸をすると、口から白い息が漏れ出していた。レンが彼女を見つめていると、彼女もこちらに気づいて、目が合った。彼女は自分の体を起こすと、レンの方に向き直って、自分の隣をぽんぽんと手のひらでたたいた。
「ここ」
僕は促されるままに彼女の隣に腰を下ろす。勉強ばかりで友達はいない。家族以外と、ましてや女の子と話すなんて全く経験のない僕はびっくりするくらい緊張していた。
「流星群、見に来たの?」
彼女が話すたびに、白い息が空気に溶けていく。鼻の頭が真っ赤になった彼女は、誰が見ても可愛らしい女の子だ。
僕は声が出ず、こくりとだけ頷く。こういう時に、話題を広げられない自分が恥ずかしい。
「そっか!ふふふ、私も!」
それでも彼女は気にしていない様子で嬉しそうな顔をした。それが、僕にとって救いだった。
「私、アイって言うんだ!君は?」
「れ、レン」
「レン!」
それから流星群を見て感動しながら、主にアイが話して、僕は相槌を打ったり、たまに短く返事をしたりして会話をした。
アイは僕と同い年の元気いっぱいな女の子だった。隣の小学校に行っているらしい。歌うことが大好きで、ピアノが弾くことが好きだと伝えると、とても嬉しそうに笑っていた。
「じゃあさ、大きくなったら私と一緒にバンドやらない?」
「へ……?」
「私がボーカルで、レンはキーボード!」
アイがピアノを弾くジャスチャーをしながら僕の方を見た。アイなら本当にできる気がした。この時だけは母のことを忘れて、アイの言葉に大きく返事をした。
アイの話にワクワクしながら、相槌を打っていると、あっという間に時間は過ぎていった。ずっと話していたかった、話を聞いていたかった。けれど、そんな楽しい時間も長くは続かなかった。
「レン!」
聞き覚えのある、でも聞きたくなかった声が耳に届く。アイが不思議そうに体を起こして、声の方に視線を向ける。
「何してるの⁉勝手に家飛び出してこんなことして!」
母が僕の腕を無理やり引っ張って立たせる。肩が痛い。
「あ……」
「初めまして、レンのお母さん、ですか?」
アイは母に向かって、丁寧にあいさつをした。が、母はそんなアイに近づいて、頬を平手打ちした。そしてアイを睨みつけて、冷たく言い放った。
「あんたみたいな子、レンに二度と近づかないで!」
「お、お母さ」
「レンは黙りなさい!」
母の怒鳴り声にレンの身体がすくむ。
「帰るわよ」
そのまま僕の腕を掴んで、母は家の方向に歩き出した。僕は後ろを振り返った。
「アイ!」
アイに向かって叫んだ声は今までで一番大きかったと思う。
「レン、またね!」
アイは頬を叩かれて痛いはずなのに、笑顔で大きく僕に手を振った。どんどんと小さくなっていくその笑顔を忘れたくなくて、必死に脳裏に刻み込んだ。
家に帰ってからの母の様子は言うまでもない。頭に血が上った母は手が付けられないほどだった。何を言っても聞く耳を持ってくれない。
レンはどうすることもできずに、ただ黙って母の怒鳴り声を聞いていた。本当は耳をふさいでしまいたかったのをぐっとこらえて。
父が帰ってくるまで、それは続いた。玄関のドアが開く音に、母は現実に引き戻されたように、静かになった。
父がリビングに入ってきて、違和感に気づいたのか、何があったのかレンに話しかけてきたが何も答えられなかった。父と母の仲は良好だったが、レンと母の溝はますます深まっていった。
その日から母は徹底的にレンを縛り付けた。母の監視下でないと外も出られない。またアイと会わないように、学校の送り迎えまでする始末だ。
元々友達のいなかったレンだが、さらに周りの視線は冷たくなっていった。ピアノも弾かせてもらえなくなった。それが何よりつらかった。ピアノを弾いているときだけは、自分らしくいられたし、アイとの約束もかみしめられるはずだった。
でもあんな別れ方をして、アイはもうレンと会いたくないかもしれない。軽蔑されたかもしれない。勉強ばかりしている日々は、レンをネガティブにさせた。勉強が嫌いなわけではないけれど、強制されるのは嫌だ。
ピアノを弾かなくなったレンに違和感を持った父が、音楽プレイヤーを誕生日にプレゼントしてくれた。母は良く思っていなさそうだったが、父の手前何も言わなかった。
その日に自分の好きな音楽たちを設定して、たくさん聴いた。イヤホンもついてきていたので、周りの音を気にせずに、音楽だけに集中できた。
けれど翌日、学校から帰ったレンは絶望した。朝、母から今日は迎えに行けないと言われ、一人で帰っていた。母は、家にいて笑顔でレンを迎えてくれた。
その様子に母も、もしかしたら何か変わったのかもしれないとうれしく思ったが、そんなレンの希望はレンの部屋を開けてすぐに打ち砕かれた。
(ない…!)
すぐに部屋を飛び出し階段を下りて、リビングにいる母のもとへ駆け込んだ。
「ね、ねえ!」
「なあに?どうしたの?」
母は何事もなかったかのようにティータイムを楽しんでいる。
「何って…ピアノだよ!何でピアノがなくなってるの!」
「ああ、あんなもの捨てたわよ」
「は?」
思わず膝から崩れ落ちそうになった。何ともないように言う母が理解できない。
「ど、どうして…」
「もう弾かないでしょう。音楽プレイヤーだってあるんだから必要ないわよ」
「そ、そんなことないよ!それに、ピアノは弾かないんじゃなくて、弾かせてくれないんでしょ!」
こんなにちゃんと母に口答えをしたのは初めてかもしれない。だが、僕に向けられた母の瞳は冷たく、僕の心の奥に突き刺さってくるようだった。
「何?私のせいって言いたいの?」
母の目線に、僕の言葉がつまる。そして母は大きくため息をついた。
「あのね、ピアノなんかやってたって何の役にも立たない。勉強していた方が将来も安泰なの。あなたのためを思って言っているのよ?レン」
今日母が迎えに来なかったのは、ピアノを捨てるため。母が笑っていたのは、ピアノを捨てたから。母の言う通りかもしれない。ピアノなんかやっていても何の役にも立たない。母は僕のために厳しく言ってくれているんだ。
今思えば一種の洗脳のようなものだったのかもしれない。母の言うことは全部正しいことのように聞こえて、僕もそれに従うしかなくなった。
「ごめんなさい」
僕は無意識に謝っていた。
「理解ればいいのよ」
母は嬉しそうに僕を抱きしめた。もうこんな自分、アイには会わせる顔がない。アイは今の僕を見て、幻滅するだろうか。楽しそうに夢を語るあの日の彼女の顔が、脳裏に浮かんで消えなかった。
4
中学校に上がると、母の送り迎えもなくなった。母の言うことを聞いて、結果も残していたから、もう自分に反抗することはないと思ったのだろう。その通り母に逆らう気は、もうレンにはなかった。アイには会いたかったけれど、会いたくなかった。今のレンを見て欲しくはなかった。
送り迎えがなくなったとはいえ、母がレンを縛り付けることはやめなかった。学校が終わったら、寄り道せずに帰り、帰ったら自分の部屋で勉強。ご飯、お風呂、歯磨き以外は勉強をさせられる。一日に何度も数時間おきに、母が部屋に様子を見に来る。それでも寝る前に部屋の外の空を見上げて、音楽プレイヤーで音楽を聴く時間だけは、レンは一人でいられた。
音楽を聴いている時間は必ずと言っていいほど、アイのことを思い出す。彼女はレンを忘れているかもしれないけれど、レンはずっと覚えている。忘れることなどできない。
中学生活二年目に入ったとき、帰りにどうしても文房具を買わなくてはいけなくて、あるショッピングモールに入った。
文房具売り場に向かっている途中に、楽器屋の前を通った。そこに置いてある、試し弾きができるピアノに、レンは釘付けになった。頭ではだめだと思っても、心はピアノを目にして高鳴っていた。
文房具を買った後も、さっき見たピアノが頭から離れなかった。もう一度楽器屋の前を通ると、自然と足が止まっていた。身体が動かない。ピアノに魅せられている。
(ああ、俺はまだこんなにもピアノが好きなんだ)
引き寄せられるように、ピアノに近づいて、黒鍵に指を置いて優しく押す。久しぶりのピアノの生音にレンの心が取り戻される感じがした。
そこから先はあまり覚えていない。ただ自分の思うままに指を動かしてピアノを弾いた。気づいたら、レンのピアノの周りに何人かの人が集まって、弾き終わると一斉に拍手と歓声を上げた。拍手の音にレンは一気に現実に引き戻され、その場でお辞儀をすると、逃げるように走っていった。
ピアノを弾かなくなって何年か経っていたため、指はなまっていたし、ぐちゃぐちゃな演奏だった。けれど、どうしようもなく楽しかった。ピアノを弾くことは、どんな時も楽しかった。ずっと変わらない。でも同時にピアノを弾いてしまった罪悪感が込み上げる。急いで帰らないと。
母には文房具を買いに行くことを伝えておいたおかげか、変に思われることはなかった。レンも自分の緩んだ頬を見られないように必死に取り繕ってやり過ごしたが、その日は興奮して中々眠れなかった。
この日から、何かと理由をつけて楽器屋に足を運び、ピアノを弾くようになった。母への罪悪感はもちろんあった。気づかれるかもしれないというドキドキも、ピアノを弾きたいという気持ちにはかなわなかった。
買う予定もないのにしょっちゅう試し弾きに来るレンをお店の人達は快く受け入れてくれた。それどころか、来るたびにピアノを褒めてくれて、もっと聴きたいとさえ言ってくれた。
でも時間的にレンは一曲分を弾くので精いっぱいだった。それでも、受け入れてくれる人達のためにリクエストの曲はできるだけ弾くようにした。
ピアノを弾かなかった日々でも、机を弾く癖が抜けなかったレンが、ピアノの感覚を取り戻すのは遅くなかった。この楽しみのおかげで勉強も頑張ることができた。
受験期に入ると、ピアノもやめて勉強一本にしたため、あの日、アイと再会した日に弾いたのは、ほぼ一年ぶりのピアノだった。
ピアノという息抜きがなくなったからか、レンは母の望む第一志望の高校に落ちてしまった。第二志望の高校では受験生の中で一位で、新入生代表スピーチをすることになったが、母は喜んではくれなかった。その代わりと言っては何だが父はとても喜んでくれたので、それは救いだった。
入学式でアイと再会したとき、レンが受験に落ちたのも、アイとまた会うための必然だったのかもしれないと思った。ずっと会いたいと思っていた女の子に再び会えたことはレンにとって、かけがえのないほど嬉しかった。でも、アイの約束を叶えることはもうできない。
これからレンは、失った母の信用を再び取り戻さなくてはいけない。受験に失敗したレンに絶望していても、母がレンを縛るのはやめなかった。
入学式の後、教室で担任の話を聞いている時も、母から寄り道はするなという釘を刺す連絡が、レンの携帯に入っていた。さすがにこの年になれば、自身の家庭環境がおかしいことは自覚していた。けれど今更この生き方を変えることはできない。母に認めてもらえるまで、レンはきっと母に従い続けてしまうのだろう。それがいつになるのか、分からないけれど。




