彼女との出会い
14
僕とミクさんが出会ったのは、今から二十年ほど前。僕は会社に入社したばかりで、毎日激務に追われていた。心身共に疲弊していた仕事の帰り道、駅の改札を抜けた僕の耳にピアノの音色が聞こえてきた。優しい、美しい音色。自然と僕の足はピアノの方へと赴いていた。
それは駅の真ん中あたりに置かれていた、誰でも自由に弾けるピアノから聞こえていた。席には若い女性が座っていて、とても楽しそうにピアノを弾いていた。彼女の周りには観客らしき人たちが複数囲んでいて、通り過ぎる人たちの中でも思わず立ち止まってピアノの音色に振り返る人もいた。
そんな彼女に僕は魅了された。多分一目惚れだった。彼女の表情に、ピアノの音色に、目が、耳が離せなくなっていた。ピアノを弾き終えた彼女は拍手の中、恥ずかしそうに一礼をすると、すぐにその場を去っていった。観客たちは散らばっていき、それぞれ家路に向かう中で、僕は彼女の背中を追いかけていた。小走りで近づくとすぐに追いつき、高鳴る心臓を抑えながら声をかけた。
「あ、あの!」
「?」
彼女はびっくりした顔で振り返った。改めて彼女を見ると、とてもきれいな容姿をしている。それに指先まで気を遣った所作は美しく、思わず見惚れてしまう。
「あの?」
見惚れていた僕を、怪訝な顔で彼女が覗き込んでくる。
「あ、えっと、ピアノすごく上手ですね!」
(違う、こんなありきたりなことが言いたいんじゃなくて、もっと…)
「あぁ、聞いてくださったんですね。ありがとうございます」
彼女が花開いたように笑うから、ついこんな言葉を口にしていた。
「僕、一目惚れしました! また会えませんか?」
「へっ?」
先走る気持ちを抑えきれず、口を滑らせた。すぐにしまったと思ったけれど、もう遅い。彼女は目を見開いて固まってしまった。
「………あの、帰りっていつも同じ時間ですか?」
「え? あ、はい」
本当は、残業ばかりでこんな時間に帰れることは滅多にないのだが、そんなことは言えずに返事をしてしまう。
「じゃあ、これから毎日この時間にここにきてピアノ弾いてます。その時、一緒にお話ししましょう」
彼女があまりに優しく微笑むので、今までの仕事の疲れが一気に消えた気がした。
「はい! ありがとうございます!」
この日からほぼ毎日、僕とミクさんは駅で会うようになった。僕はミクさんに会うために仕事を頑張り、そのおかげで残業することも減った。前に一度残業になってしまった時、彼女は遅くまで駅のベンチで座って待ってくれていた。そこで彼女と連絡先を交換し、遅くなりそうなときは連絡をすることに決めた。
僕らはいろんな話をした。彼女は音大生でピアノ専攻だということ、ピアノを弾くのが大好きだということ。彼女の口から出る九割はピアノのことで、本当にピアノが好きなんだと分かった。僕は彼女の人柄を知り、ますます彼女のことを好きになった。そして出会って三か月ほどたったある時、思い切って聞いてみた。
「あの、覚えてますか? 初めて会った時に言ったこと」
「えっと…?」
「一目惚れした、とかいうやつです」
「ああ! ピアノのことですよね? 嬉しかったです」
「え?」
「え?」
なるほど、つまり彼女は、僕が彼女のピアノに一目惚れしたと思って、会ってくれてたというわけか。それって完全に脈なし…………
「その、もちろんミクさんのピアノに惹かれたのは事実です。でも、それよりも僕はあなた自身に惹かれた。僕はあなたのことが好きです」
このまま彼女のピアノに一目惚れした、ただの会社員で終わらせたくない。今は脈が無くても、いつかはミクさんの中で特別になりたい、彼女が他の人のもとでピアノを弾いて、笑っているのを考えただけで胸が痛くなった。
「ミクさんは、僕のことを何とも思ってないかもしれないけれど、これからは少しだけでも意識してもらえないですか?あなたが嫌なことは断じてしないと誓うので!」
「………私も、好きです」
「えっ?」
真っ赤な顔で僕を見る彼女はとても可愛かった。
「私も、誠実な、優しいあなたが好きです」
「や、やった! やったー!」
周りに人がいるにもかかわらず、大きな声で叫んでガッツポーズをしてしまった。視線を感じて委縮すると、ミクさんは恥ずかしそうにしながらもクスクスと笑っていた。
それから僕たちはいろんな場所へ行った。ミクさんからチケットをもらって、彼女のピアノの演奏を聴きに行くこともあった。
ミクさんのピアノはいつ聴いても美しく、他の演奏者の中でも一際輝いて見えた。それは僕のフィルターがかかっているのもあるだろうが、ピアノを弾くミクさんはいつも本当に楽しそうだった。
付き合ってから、彼女のことを一つ一つ知るたびにもっともっと好きになった。彼女とずっと一緒にいたいと思う気持ちが強くなっていった。
僕の仕事は順調で、若いなりにも大きい仕事を任せてもらえるようになった。それに器用にやりくりできるようになったおかげで残業することはほとんどなくなったし、時間に余裕ができた。ミクさんは将来ピアニストになりたいと話していて、僕も彼女のそばでその夢を心から応援していた。
でもある時から突然、ミクさんはピアノを弾かなくなった。理由を聞いても僕には教えてくれなかった。
僕は焦った。ミクさんが何を思ってるのか、なんでそんなに苦しそうな顔をしているのか分からずに、何の力にもなれない自分が悔しかった。
そしてデートをしていても、晴れない顔で、笑っているのに楽しくなさそうな顔をする彼女に耐えきれず、僕たちは初めて喧嘩をした。
「あなたに、私の気持ちが分かるわけないのよ!」
彼女は涙ながらにそう叫んだ。
「………分かるわけ、ないだろ。だって何も言ってくれないじゃないか。そんなに僕って頼りないかな。僕じゃ力になれないかもしれないけど、話を聞くことも、傍にいることもできるよ。でも言ってくれないと何も、できないんだよ」
僕の言葉に彼女は俯いた。二人でいてこんな空気になるのは初めてだった。もしかしてこのまま僕たちは別れてしまうのだろうか。そんなことは絶対に嫌だと、強く思った。
「………ピアノを弾くのが好き。でも今は弾くのが辛い。嫌いになりたくないのに、嫌いになってしまいそうで怖い……怖いの」
それが彼女の本音だった。肩は震えていて、鼻をすすりながら、それでも教えてくれた。僕は震える彼女を抱きしめた。
「結婚しよう。どれだけ時間がかかっても、君がまたピアノが楽しいと、好きだと思えるように僕がそばで支えたい。………君を、愛してるから」
彼女は僕の腕の中で泣きながら何度もうなずいた。こんな形でプロポーズをすることになるとは思わなかったけれど、これからも僕の気持ちが変わることはない。二人が一緒になるのが少し早まっただけだ、幸せなことじゃないか。
その後、ミクさんは大学を中退し、そのまま僕たちは籍を入れた。両親に反対されることもなく、結婚式は二人で話し合い、身内だけでひっそりと行った。そして籍を入れると同時に、引っ越しをした。
ミクさんはちょっとずつ以前の明るさを取り戻し、僕が仕事に行っている間は、家事をしてくれて、帰ってくると玄関まで走って迎えてくれた。
そんな生活が一年続いた。僕たちの関係は良好だったけれど、お互いにピアノの話題は口にしなかった。
でもある時、二人で夕食を食べている時、ミクさんが言った。
「ピアノ、弾いてみたい」
ミクさんは申し訳なさそうに話を切り出した。僕を窺うように見ているけれど、僕は素直に嬉しかった。思ったよりも早く、ミクさんの口からそれを聞くことができたからだ。
「じゃあ買おうか、ピアノ」
「え、いいの?」
「うん、もちろん」
二人で住むには広い一軒家を買ったのも、この時のためでもあった。しかし、彼女が欲しがったのは、コンパクトな電子ピアノだった。横長の長方形の形をしたピアノ。グランドピアノを買う気だった僕は拍子抜けしたが、彼女は「このピアノがいいの」と譲らなかったので、僕はそれに従って彼女の欲しがったピアノをプレゼントした。
数日後、家にピアノが届いた。それを僕たちはリビングの空いているスペースに置いた。
ミクさんはピアノの前に立つと、じっと向き合った。そして、ふたを開け、鍵盤が露わになると、軽く深呼吸をしてから鍵盤の上に手を置いた。しかし、ピアノの音が奏でられることなく、彼女はその場にしゃがみこんでしまった。
「やっぱり、無理かも…」
「大丈夫、これからは弾きたくなったらいつでも弾けるから」
ミクさんの背中に手を置き、ゆっくりとさすると、彼女の呼吸が和らいでいく。
僕はピアノを空き部屋に移し、ミクさんの視界に入らないようにした。それから彼女がピアノを弾くことはなかったけれど、代わりにクラシックを聴くことが増え、ピアノの音色に呼吸を乱すことはなくなった。
それから数年後、僕たちの間に新しい命が芽生えた。名前はレン。男の子だった。
僕たちは空き部屋をレンの部屋にした。レンは年よりも落ち着いていた子供だったが、自分の部屋に置いてあったピアノには興味を示した。僕はミクさんのことを危惧したけれど、彼女は意外にもあっさりと了承した。
僕はそれからどんどんと仕事が忙しくなり、家のこと、レンのことは彼女に任せっきりになってしまった。申し訳ない気持ちはあったけれどどうしようもなく、ミクさんも大丈夫だと言っていたので、それに甘えてしまっていた。
レンはピアノを気に入ったらしく、時間さえがあればピアノを弾いていた。そして、レンはミクさんに似てピアノの才に秀でており、家にある楽譜はあっという間に弾いてしまった。僕はレンがあの頃のミクさんと重なって見えて、とても嬉しかったが、もしかしたらその頃からすでにミクさんとレンの関係はこじれていたのかもしれない。
ある時、家からピアノの音がしなくなった。レンは相変わらず部屋にいるのに、ピアノの音が聞こえないのを不思議に思った僕がミクさんに聞くと、彼女はこう言った。
「レン、ピアノ飽きちゃったらしいの。もうピアノ見たくないっていうから捨てちゃった。ごめんなさい、せっかく買ってくれたのに」
僕はこの時、彼女の言葉を信じきっていた。だってあの頃のピアノが弾けなくなったミクさんは本当に苦しそうだったから。きっとレンも同じようにピアノを弾くのが辛くなってしまったのだろうと、そう信じていた。
だけど、レンの表情は以前より暗くなり、心配になった僕は音楽プレイヤーをプレゼントした。ミクさんも音楽を聴くことはできていたから、きっとレンも喜ぶだろうと思った。案の定、レンはとても喜んでくれた。だが相変わらず仕事の忙しさは変わらず、家族との時間は思うようにとれずに歯がゆい気持ちだった。
そして時が経ったあの日、僕はミクさんを連れ寝室に入ると、先にミクさんをベッドに座らせ、僕もすぐ隣に腰を下ろした。
ミクさんは下を見ていて、表情は読み取れない。沈黙が続く部屋で僕は必死に言葉を探していた。
ミクさんを見て視線を落とす、そんな動作を何回か繰り返し、僕は意を決して口を開いた。
「本当は、嫌だった? レンがピアノを始めた時から」
「っ!」
ミクさんが顔を上げ、僕の方を見る。目元が潤んで今にも泣きそうな、苦しそうな顔をしている。
「…………がう。違う。嬉しかった、最初は。レンが楽しそうにピアノを弾くのを見ても、ただ微笑ましいと思っていたのに。
なのに………レンがピアノを上達させるたびに、自分の中で焦りが生まれて、したくないのに嫉妬して、妬んで、恨んで、この感情をコントロールできなくなって……。
なんで私は弾けないのに、この子はどんどん上手くなるの?って、レンは何も悪くないのに。
………部屋からレンのピアノの音色が聞こえるたびにイライラして、耳をふさいでも聞こえてくるのが辛くて、勉強なんてもっともらしい理由つけてピアノを弾かせないようにした。
それでもレンが合間を縫ってピアノを弾こうとするから、勝手に家を抜け出してあの女の子にピアノ誘われてたから、余計腹が立って、………ピアノを捨てた。
……家からピアノがなくなった時は、ほっとして、音色が聞こえないことに安心してる自分が最低すぎて死にたくなった。
………レンの顔、もう何年もちゃんと見てない。見るのが怖いし、私にレンの顔見る資格ない。…あなたも、ごめんなさい、ごめんなさい」
「…………謝る相手は僕じゃない、だろう? ………それに僕はミクさんに堂々と説教できる立場じゃない。僕が仕事を理由にミクさんに家のことを任せていたせいで、ミクさんを苦しめた。レンの、ミクさんの辛さに気づけなかった。僕の方こそ、ごめん」
「っ‼」
ミクさんはぼろぼろに泣いている顔で首をぶんぶんと横に振った。そんなミクさんを僕は抱きしめた。
僕は、僕だけが彼女の弱さを、ピアノに対する感情を知っていたはずなのに。僕がもっとちゃんと見ていれば、話を聞いていれば、何か変わっただろうか。今更そんなことを考えても遅いけれど。
腕の中で泣くミクさんを見て、あの日を思い出した。今も変わらず愛おしい彼女を、力いっぱいに抱きしめた。
「ミクさんは、これからどうしたい?」
「…?」
「レンと、どう関わっていきたい?」
「‼ …………私、は、レンの好きなものを認められるようになりたい。…すぐには無理かもしれないけど、レンがピアノをやりたいなら、お、応援…したい。……でもさすがに虫が良すぎるよね、これまでずっとレンを縛り付けておいて、今更……」
「そうかも、しれないね。……でも今日のレンの表情を見て、僕は、レンの覚悟を感じたよ。きっとレンはミクさんが、どれだけ時間がかかっても、待っててくれると思う。レンも変えようとしてるんだ。……それは多分、レンを部活に誘ってくれた子のおかげなんだろうね」
「……………」
「ねぇミクさん、レンのステージ…見に行こうか」
僕たちは抱きしめ合ったまま、お互いの本音をさらけ出し、僕が最後にそう問いかけると、彼女は小さく頷いた。
この日の夜は、二人で手を繋ぎながら朝までずっと話をしていた。僕たちが出会った頃のこと、レンが生まれた時のこと、ミクさんの家での過ごし方や、僕の仕事の話、今までの分を取り返すように語り合った。
レンの話をしている時のミクさんの顔から、やっぱり彼女もレンのことを大切に想っているんだと確信できた。
僕たちは時々顔を見合わせ、笑みをこぼしながら、寝不足になるのも構わずに話し続けた。