「お客様にお呼び出しを申し上げます」何気なく聞いていたスーパーの店内放送が著者を「恐怖のあまり店に一年間入れない」状態に陥れるまで
さて、今回も与太話ですが、実はこれ十年程前の出来事になります。
書いてる当人にとっては一時魂をえぐるぐらい嫌な思いをさせられた忘れられない「事件」でして、年月を経た今やっと文字にすることができるかなと思い、まとめてみたら結構長くなりました。
まず最初に言っておきますが、私は年季の入ったメンヘラさんです。そこを念頭に置いて生ぬるくお読みください。
事が起きた順序に沿って書くのではなく、あえて「夫」の視点から書きはじめたいと思います。
「お父さん。今日は一緒に買い物に行って」
ある土曜日、妻が思いつめたような表情で話しかけてきた。
週末に一緒に買い物に行くのなんて珍しくもないことだ。
「かまわないけど、何、その切羽詰まったような顔」
「言おうか言うまいか迷ったんだけど、ここはもう第三者に確認してもらおうと思って、……でないと私、もうあの店に買い物に行けない」
「あの店?」
「Tストア。怖くてここひと月ぐらい避けてたんだけど、やっぱり確かめたい」
「だから何を」
「行ってから話すから」
というわけで、通いなれた最寄りの駅前通りまでの道を、妻と並んで押し黙って歩いた。
妻は駅前のスーパーの中でもTストアがお気に入りだった。カレールーやスパイス、オイルや酢の類の品ぞろえが、ほかの店より気が利いているというのだ。
そういえばここしばらく、たしかに週末の買い物で、いつも寄っているTストアの前を通っても、「今日は寄らない」と言って表情を硬くして通り過ぎていた。
「着いたよ」
一階はブティックと百円ショップ、スーパーは地下にあった。エスカレーターで降りる際、妻はきょろきょろとあたりを見回して落ち着かない様子だった。
「何見てるの」
「監視カメラとかない? わからないように置いてない?」
「いや、どこにも見当たらないけど」
色々と質問はしたいがあえてここは黙っておく。
スーパーの店内に入ると、六月にしてはきつすぎるほどの冷房が肌を刺した。
彼女がエキセントリックな行動をとったり変な妄想にとらわれたりするのはもう長年見てきて慣れているのだが、今日の様子は明らかに異様だった。見てわかるレベルで、怯えているのだ。彼女は買い物かごを手に取ると、声を潜めて言った。
「いい? ここからよ。周りの雑音に気を取られないで、店内放送をよく聞いて」
「店内放送って、今日のお買い得商品は、とかいう……」
「そういうんじゃないの。決まった島の名前を言うのよ」
「島?」
「それから、人の名前。それ、私のことなの。私、完全に見張られてるのよ」
「……」
「変なこと言ってると思うでしょ。それは当然よね。でも、聞いてたらわかるから。いい? 私が入店するといつも五分以内におんなじ放送が始まるのよ、もう決まって五分以内。聞いててね」
「う、うん、わかった」
何を買うとも言わないので、ぼくたちはくっついて豆腐や納豆を眺めるふりをしていた。
するとだ。本当に五分経った頃、店内放送が流れ始めたのだ。
『いらっしゃいませ、ご来店まことにありがとうございます。
お客様にお呼び出しを申し上げます。
東扇島からお越しのショウジ様。東扇島からお越しのショウジ様。
お言付けがございますので、一階のサービスカウンターまでおいで下さい』
妻は目を大きく開けて僕の顔を見つめた。
「ね? 聞いたでしょ?」
「うん、確かに島の名前……というか、呼び出ししてたね。で、なんでそれが自分のことだって思ってんの」
妻は立ち止まった僕の腕を引っ張った。
「通路で止まらないで、挙動不審に思われるから。そうでなくても見張られてるんだから。買い物客の振りした警備員が私たちの周りに集まってるはずよ」
「ここで買い物する気はないわけ?」
「いえ、何も買わずにウロウロした挙句店を出たらますますマークされるから、何か買わなきゃ」
そして妻は牛乳、キャベツ、味噌、適当に商品をかごに入れると、震える手で会計を済ませ、トートバッグに詰めると後ろも見ずにエスカレーターに飛び乗った。
外に出ると、初夏のあたたかな風がむしろ肌に心地よかった。
店を出て五分ほど無言だった妻がやっと口を開いた。
「私の頭がおかしいと思ってるでしょ」
「いや、きみの言う通りのことを聞いたから、そこは妄想じゃないと思ってるよ」
「あれがね、私があの店に行くたびに、必ず五分以内に流れるのよ。もう必ず。変だと思わない?」
「きみがいないときにも流れてるんじゃないの?」
「だって私たち、行ったことがあるでしょう。東扇島。私が、小説のあるシーンの舞台に使いたいからって、わざわざあなたに車で連れて行ってもらったじゃない、それも夕方、夜景を見るために」
妻はそのころ、一文にもならない素人小説をネットに上げるのを趣味としていた。そしてときどき、舞台にする場所のロケハンをしたいから、連れて行ってとぼくに車を出させるのだ。
「あ、あの島か。川崎の、京浜運河に面した……」
「そう、工場や物流倉庫しかない人工島。主人公が命を懸けた取引をする場に使いたくて。人工の浜辺があるとなおいいと思って、行ってみたらドンピシャだった。近くの羽田空港からの飛行機の離着陸も見えたし、対岸の浮島のコンビナートのフレアスタックも見えたし、最高の立地だった。
でね、知ってるでしょ? あの島には、ほとんど住民がいないのよ」
「あ……」
「おかしいと思わない? こんな遠くの町のたいして大きくもないスーパーに、住民のいない、というかほとんど知る人もない人工島からきた人の名前を呼んで、それがいつも『ショウジ様』。だいたいあそこ、一階にサービスカウンターなんてないと思う」
「言われてみれば、不自然ではあるね」仕方なくぼくは答えた。
「でね、ふつうスーパーの呼び出しなんていちいち頭に入らないものじゃない? 自分に関係なければ。でもある時、東扇島の、って地名が耳について、あれ随分珍しいところから来たお客を呼んでるなと。自分が行ったから、違和感を感じたのよ。第一、カードを使って買い物をするようなデパートでも大型店でもないのに、なんでスーパー側がお客の名前を知ってるの?」
「うーん。それ、大型スーパーやデパートが使う、隠語とかかな?」
「それ。それだと思う。いったん気づいたら、何度行っても自分が入店するたびに同じアナウンスが流れ始めるのが分かって、ネットで調べてみたの。
そしたら、同じ悩みを相談している人や愚痴ってる人が多いのに驚いたのよ。自分が某ドラッグストアに行くたびに特定の音楽が流れる。店頭の商品を整理してくださいって放送が流れて店員がぞろぞろ出てくる。変な地域の人の決まった名前の呼び出しが始まる。不自然で気持ち悪いって、たくさんあったわ。
この人たち一種の妄想病じゃないかって、自分が経験しなかったら思ったと思う。
でも、これ、実際にあるんだって、スーパーで働いてた人がネットで答えてたの」
「実際にって、要注意人物の隠語が?」
「そう。たとえば、某大手スーパーのEでは、幕張からお越しの…… がよく使われるんだって。あと、万引き犯は川中様、赤井様。要注意人物は桃井様。
ほかの店では、例えば7番→万引き犯、100番→レジ応援、太郎さん、茶太郎さん→ゴキブリ。
○○からお越しの××様、サービスカウンターまでお越しください、は、丸ごと要注意人物が入店、注意せよ、の例として挙げられてたわ」
「うわ……」
そこまで調べ上げていたとは、結構長いこと思い悩んでいたに違いない。何しろ妻は一度猜疑心を持ったら、人の倍は思い詰めるタイプなのだ。
「もし東扇島なんて実際に行ってなかったらあんな放送聞き逃してたと思う。行ったから耳についたし分かったのよ、そんな場所から来る人を私が行くたび呼び出すのは変だってね。
さあ、どう、これ、私の頭がおかしいの? それとも、万引きおばさんと疑われてる?」
ぼくはしばらく考えてから言った。
「それだけ例をあげられたら、きみの考えてる可能性もゼロではないと思う。何で疑われたのかはわからないけど。でも、実際は何もやましいことはしてないんだから、これからも堂々と行けばいいんじゃない? モノを売ってくれないわけじゃないんでしょ?」
「そりゃそうだけど、不愉快っていうか…… 怖いっていうか。
いらいらするから、一度言ってやろうかと思うの。まずレジに行って、一階のサービスカウンターってどこですか、今呼び出された東扇島の庄司ですけど、何の御用ですかって。店長引っ張り出して問い詰めたいわ」
「そりゃ困るだろうなあ」
ぼくは思わず笑い声をあげたが、妻の表情を見て口元にこぶしを当てた。
「じゃあさ、きみは精神的にもいろいろ弱いところを抱えてるんだし、一度気にし始めたらきりがないから、もうそこに行くの諦めて、ほかのスーパー使えば。よそでは言われてないんでしょ?」
「だからそうしてきたわよ。一か月も避けてれば、もうやられないかと思ってた。でも今日あなたと行って、同じ放送されて、正直すごくショックだった……
たとえ一軒だけのスーパーでも、自分が要注意人物扱いされてるのって、我慢がならない」
「でもどうしようもないじゃない」
「どうしようもないわよね……」
くそ。
ここからは私自身の視点になる。
兎に角夫も耳にしたのだ。これは私の幻聴ではない。
あのスーパー、早く潰れないかな。
ただそればかりを、私は考えるようになった。
人を呪わば穴二つ。こんな願いはよくないことだ。でも、たった一つの空間から無実の罪で締めだされることが、こんなに耐えがたく不愉快なことだとは。
でも、でも。私は残る可能性を考えずにはいられなかった。
ああいうのは、従業員向けの業務関係の呼び出しの隠語だというのも、聞いたことがある。なにも怪しい客云々とは限らないのだ。
それでも、何時に行こうと、昼だろうと夕方だろうと(一時わざと時間をずらして毎日行ってみたことがある)入って五分でそれは流れるのだ。もう、必ず。そんなに頻繁に同じ業務連絡が流れるだろうか?
じゃあ、それが自分を指すものだとして、自分がターゲットになるきっかけはあっただろうか。
真面目に考えてみたら、これが、……あったのだ。
持病の鬱病が悪化して、一時、日常生活が困難になったことがあった。
それでも、この「鬱とパニックのセット」はもう結婚当時からあったので、今更夫に心配をかけまいと、表に出さないようにしていた。ごく普通に家事をやり、猫の世話をして、買い物に行き手のかかったご飯を作り、独立した子どもたちが遊びにくれば楽しくもてなして……
だけど、しばらくしてそれすらも困難になるほど一気に鬱が悪化した。
いつものようにメニューを決めて、お気に入りのTストアに入る。ところが、何を買ったらいいかさっぱりわからない。買い物を書いておいたメモも行方不明。
何の商品を見ても、どれを手に取ればいいのかわからない。何も決められない。でも買い物をせずここを出るわけにいかない。何をどうしたらいいの。何をどうしたら……
頭が真っ白になったまま、冷や汗をかき動悸に追い立てられ、私は涙目で、買い物かごを下げたまま店内を迷子のようにぐるぐる回る。
いったん入れた品を戻し、別のものを手に取り、同じものを何個も買っているのに気づいて、また戻す。どうしたらいい。どうやったらここから出られる?
おおよそ三十分もの間、さほど広くない売り場を行ったり来たりして品を入れたり出したり。
私は、確かに不審人物に見えただろう。そうだ。疑われたとしたらその時期に違いない。
その時から私はおそらく、「東扇島のショージさん」になったのだ。
何で東扇島かって?
それはまず、そんなところから来る人はいないと見越しての選択だろう。
これがもしあのへき地ではなく、吉祥寺よりお越しの佐藤様、だったら、「わたし呼び出されたんですがサービスカウンターってどこですか」と佐藤さんが次々にレジにやってきて困ったことになっただろう。
それでも私はあきらめが悪かった。
あれは従業員への業務連絡で、自分は関係ない、被害妄想だ、という方にかけることにしたのだ。
そして、夫に確かめてもらったのち、二週間ほど避けていたその店に、意を決してまた行くことにした。
鬱はだいぶ前に通院で治ったので今は不審な行動をとることもない。堂々としていればいいんだ。そう自分に言い聞かせて。
決心したその日、私はすぐに地下のスーパーに下りず、一階のブティックの前で立ち止まった。以前から目をつけていた麻のジャケットが、三割引きになっていたのだ。
とはいえ、元値が一万とちょっと。自分にとっては高い。ガラス越しにショーケースを眺めていると、奥から年配の男性店員が出てきた。
「今ちょうどすべての商品がお買い得ですよー。そのジャケットは着心地もよく、お色も上品でお勧めです。なんなら、ちょっと羽織ってみませんかあ」
「そうですねえ。でも、ちょっと今持ち合わせが足りなくて…… このセール、いつまでやっていますか」
「来週までです。何ならお取り置きしておきましょうかー」
「いえ、いったん帰って考えて、また来させていただきます」
「では、またのご来店をー、お待ちしております」そう言って男性店員はお辞儀をして奥に引っ込んだ。
いつも女性店員が応対しているブティックで、その男性店員を見るのは初めてだった。のんびりゆっくりしたしゃべり方で語尾を伸ばす特徴があり、こういう店には不釣り合いな年齢に見えたが、決して感じは悪くなかった。そう、そのときは。
それから、意を決して地下のスーパーに降りた。
これでまた放送があるようなら、もう二度とここに来ない。この店のことは忘れる。そう自分に言い聞かせて。
売り場に入って、大急ぎで予定の品を買って、レジに急ごう。あの放送が始まる前に。
ところが、買い物を始めようとしたその時、早くも放送は始まったのだ。
『ご来店ありがとうございます。お客様にお呼び出しを申し上げますー』
来た!
そしてなんとその声は、いつもの事務的な若い女性の声ではなかった。
年配の男性の声だ。
のんびりしたしゃべり方、語尾を伸ばす癖……
『東扇島よりお越しの、ショージ様―。東扇島よりお越しの、ショージ様―。お言付けがありますのでー、一階のサービスカウンターまで、お越しくださいませー』
声色といいしゃべり方と言い、あのブティックで対応してくれた男性だ! 間違いない!
そして店内放送までの素早さ!
どういうこと? 私の顔はスーパーだけじゃなく、一階のブティックまでマークされてるの?
そこで私は、一番いやな情報を思い出した。
大手のスーパーで働いていたという店員の言っていたこと。
「隠しカメラでリストに入った要注意人物の顔写真は、時間がたっても削除されることはない」
何を買ったか覚えていない。そのスーパーを飛び出して、私は心に誓った。
誰が来るものかこんなところ。来なければいいんだ。二度とこない、もう二度と。
なのに、たった一軒のスーパーに入れなくなっただけで、世界から締め出されたような敗北感と侮辱感と怒りは、消えることがなかった。
いっそ「東扇島の庄司ですが何か」と店長を呼び出そうかと本気で思ったこともある。
この日のことは夫には言わなかった。私は自分に言い聞かせた。
ネットでも見たじゃないか、同じ嫌な思いをして、あらぬ嫌疑をかけられている人がこの世にはたくさんいる。私だけじゃない、私だけじゃない。それに私には心当たりがある、あんな不振な行動をとればリストに入れられても仕方がないのだ。恨むまい、忘れればいい。
私はそのスーパーを「存在しないもの」のように無視して、約一年、入ることをやめた。
でも、ひととして、何か納得がいっていなかった。
私は強く思ったのだ。
自分の名誉回復をしたい。この嫌な気持ちを抱えたまま、あそこを禁断の地にはしたくない。私はこの町全体が、大好きなのだから。
そして、やり方を切り変えることにした。
何を言われてもいい。どんな放送をされてもいい。あの店にまた行こう。
私は何も、悪いことをしていないのだから。
どんどん行って、さっさと買い物をして、寄り道せずにレジに並ぼう。
それを繰り返して、「この人は要注意人物じゃない」と分かってもらえるまで。
そしてそれを実行した。
一大決心して一年ぶりにスーパーのあるビルに入る。
こんなに緊張してこのエスカレーターを降りているお客がほかにいるだろうか。
さすがにもう一年入っていないのだからどうかリストからは外れていますように。私は祈る思いだった。胸は不安で内側から震えていた。
だが。
やはり私は爆弾を食らった。一年置いたのに、あの放送が始まったのだ。
『東扇島よりお越しの井本様。東扇島よりお越しの井本様。お言付けがございますので……』
やっぱりどこかから見られている、そしてマークされ続けてるんだ!
なんてことだろう。でも名前が変わっている。これどんな意味があるのだろう?
でも、東扇島はそのままだった。
逃げ出すものか。
私は負けない。いや、正直、ちょっと負けた。とにかくあの島の名前をもう聞きたくなかったのに……。
その日はもう失望のあまり、必要なもの必要でないもの、ごちゃまぜにしてかごに放り込み、店を出た。
それでも、店に通うことをやめはしなかった。
不快な放送を聞かずに済むように、スマホにイヤホンをつなげて音楽を聴きながら買い物を続けることにしたのだ。
これはこれで目立つかもしれないが、別に悪いことをしているわけではない。だけど、ここに来ることはやめない。私が「無害な客」だとわかってもらうまで。
そして「さっさとお買い物をする普通のお客」として店の常連に戻り、ふた月ほどたったある日、思い切ってイヤホンを外してみた。
その日、入店してからから出るまで、あの放送は流れなかった。
「東扇島」から始まる放送に気づいてから、こんなことは初めてだった。
リストから外れた? それとも偶然?
それからも、胸をどきどきさせながら、私はそのスーパーに通い続けた。イヤホンを外したまま。
お買い得品だのセールだのの店内放送は流れるが、「東扇島」はぱたりとやんだ。
以来今まで、まったく流れていない。
やった! ついに私は要注意人物から外れたんだ!
ばかばかしい話と思われるだろうけど、長年背に負っていた荷物が、ほどけて落ちたような感覚だった。
ある時夫とTストアに入った時、彼も言ったのだ。
「あれ、あの放送、流れてないね」
「そうなの。このところ、全然聞かないのよ」
「よかったじゃない」
「うん、ここまで長かった……」
それから彼は言った。
「でもさ、要注意人物や万引き常習犯て、まったくゼロになることはないよね。君以外にも、マークされてる人物はいるはずだよね」
「うん…… そうだね」
「でも、どこそこよりお越しのだれだれ様、サービスカウンターまでっていうの自体、流れなくなったの?」
「そういうの全然聞かない」
「それも変だよね。本当に、要注意人物を警戒する放送だったのなら、別のターゲットに対して流れてもいいはずなのに。場所とか名前を変えてさ。それって、本当に、きみをさした隠語だったのかな? 別の意味があったんじゃない? それをさ……」
「もう、いい。とにかく安心して店に入れるようになったから、いい。裏事情はもう、どうでもいい」
考えるのも思い出すのも面倒になって、私は会話をやめた。
兎に角それ以来私は、その店から「許された」と思っている。いつ行っても、あの不自然な呼び出しはかからないからだ。いつでも安心していける店に戻ってくれた。それがすべてだ。
私を忘れてくれた?
それとも今までのすべてが、私の妄想なのだろうか……?
今でもつい、ネットで検索してしまうことがある。
(私は万引き犯と間違われているのでしょうか)に類する言葉を。
「私が店に入ると、必ず呼び出し放送があるんです。それも同じ地域の、同じ名前を」
「いつもBGMが変わるんです。そして複数の店員が後ろをついてくるんです」
「僕が入店すると、お客の振りをした、目つきの悪い男性に必ず挟まれるんです」
「私は疑われているのでしょうか。店に抗議しても無駄でしょうか」
モルダー、あなた疲れているのよ。Xファイルのセリフが耳に浮かぶ。
誰もが疲れている、誰ともわからない大勢の他人と交差しながら都会で泳ぎ生きる中で。
世界は変わっていないらしい。
悩める人の群れは絶えない。
それが病的な思い込みでも、あるいは疑いをかけられている人であっても、
ルールを守り、正しく堂々と買い物をし、いつかその泥沼から抜けられる日が来ますように。
その不安と不快さと恐怖を知っているからこそ、私はついつい、彼らのために祈り続けてしまうのだ。