王太子は不機嫌な男装令嬢を逃さない
エヴァンズ伯爵家には双子がいる。
歳は17で男女のよく似た双子だ。幼い頃はそれこそ見分けが付かず、よく2人で入れ替わり使用人達を困らせていた。
だが10代も半ばを過ぎると段々と性差のせいだろう。姉はまろみを帯び、弟は骨張ったしっかりとした体型になった。
それでも顔は瓜二つ。体と髪型を交換すれば今でも入れ替わりが可能な程。まあ実際そんな事は出来ないので、想像するだけ無駄なのだが。
そんな2人に転機が訪れた。それは悪魔の悪戯か、はたまた天使の悪戯か。どちらにしても悪戯に変わりはないが、それはあまりに突然の事だった。
「え、エルが怪我!?」
麗かな春の陽気を身に浴びながら紅茶を啜っていた令嬢は両親からの突然の報告に持っていた紅茶を溢した。
しとしととテーブルを経由して芝へ落ちる紅茶を令嬢付きの侍女が慌しく拭く。だが令嬢は侍女の動きを気にする事なく見開いた目で両親を見た。
「そうなんだ。学校から連絡があってね、どうやら魔術の授業中に誤って他の生徒がうった魔法に当たってしまったらしいんだよ」
「え、それ怪我ですんだの?欠損とかしてない?」
「欠損なんかしてないわよ、本当奇跡みたいなものだけど。でもねえ、ちょっと問題が起きちゃって……」
「問題?怪我以上の?」
空のカップから手を離し、令嬢は戸惑いの目を両親に向ける。その目には弟エルンストの心配よりも両親に対しての疑問の方が浮かんでおり、少しばかりの苛立ちが見てとれた。
令嬢はせっかちな性分の為、問題を小出しにされると無性に苛立つ性質を持つ。今も一気にスパッと全てを終わらせたいのだが、いかんせん両親はおっとりとした性格でいつも令嬢を苛立たせる。
何故、この両親からこんな気性の激しい子供が生まれたのか甚だ疑問だが、父方の祖父が先の戦争の英雄であり、戦場の魔王と呼ばれた程の激しい人物だった事から恐らく隔世遺伝だろうと周りからは言われていた。
令嬢の母はおっとりとした仕草で自身の頬を触ると大袈裟な溜息を吐き、夫の方を見やってまた溜息を吐いた。ひとつひとつの動作の遅さに段々苛つきが抑え込めなくなってきた令嬢はピクリと眉を動かし、『何が起きたの』と語気を強め先を急かす。
父も母と目を合わせた後、大きく息を吐く。そして、ばつが悪そうに視線を落とした。
「記憶がなくなっちゃってね。今5歳くらいの記憶しかないみたいなんだ。まあ、大きい体に小さい精神でさ、可愛いは可愛いんだけど学園には行けなくなっちゃってね」
「そんな事あるの!?小説じゃないんだから!嘘でしょ!?」
令嬢はテーブルに手をつき、勢いよく立ち上がる。手元のクッキーの皿がガシャンと音を立てて、いくつかの物がテーブルから落ちていった。
「そんな事があるんだよ。今家に帰ってきてるから後で会うと良いよ」
肩をすくめ、情けなく眉を下げる父に令嬢は力強く舌打ちをした。
「賠償金は!慰謝料は!相手は誰!?」
今にも胸ぐらを掴まん勢いで父に詰め寄れば、まあまあと肩を抑え込まれる。それさえも煩わしく肩を回して外すと母が『まっ』と口元を押さえ父を守る様に間に入ってきた。
そんな事をしている時ではないのだ、と令嬢は母越しに父を睨み付ける。父の乾いた笑いが耳を掠った。
「そんな怖い顔しないでよ。相手は王太子殿下でね、慰謝料は即日いっぱい貰ったよ」
「はあ!?王太子!?」
予想外の相手に思わず力が抜ける。名も知らぬ奴にやられたのだろう、もしかしたらイジメか?とも考えていた為、令嬢は素っ頓狂な声をあげてしまった。
ゆるゆると後ろへ下がり、座っていた椅子にトンと腰掛ける。そして呆けた顔で両親を見た。
「王太子って、あの?」
「そうそう」
「え、何で王太子のがエルに当たるわけ」
「それは知らないけど、当たっちゃったんだって」
「それ反対の立場だったら不敬罪?」
「そうだったかもしれないねえ」
気の抜ける父の声に一度抜けた力が更に抜けていく。令嬢らしからぬ体勢で椅子に身を沈めていると両親の視線が驚く程泳いでいる事に気が付いた。そして視線だけで会話している事にも。令嬢は不審な両親の動きに眉根をこれでもかも寄せると令嬢らしからぬドスの効いた声を出した。
「なに?まだ何かあるの?」
令嬢の言葉に両親は尚も視線を泳がせる。だがこのままではいけないと2人も思ったのだろう。視線を合わせた後、大きく頷き、何故か令嬢から大きく距離を取った。
「シェリー。お願いがある。エルの代わりに学校へ行ってくれ」
「はぁ…………は!?」
キリリ、そんな表情をした父の言葉に令嬢の思考が止まる。どういう事だろう、と考える間も無く飛び出たのは情けない声。
その声の持ち主である、令嬢シェリアーナはある懐かしき日の現実逃避という名の走馬灯を見た。
――――双子で庭を走り回り、無許可で池で釣りをして鯉を一匹残らず釣り上げた事。ミミズの為に穴を掘り、執事のスミスを転ばした事。蟻を蟻地獄へ落とした事。弟と入れ替わり、お茶会へ行って意地悪令嬢を泣かした事。見知らぬ令息に噛み付いた事……
(ああ、ほぼ黒歴史じゃない)
呆然と様子を伺う両親を見れば、引き攣った笑みを向けられた。シェリアーナもそれにつられ、にっこりと口端を上げる。
「無理に決まってるでしょ!」
そう叫んだ声は何処までも響き、空を抜け、屋敷を揺らした。父も母も小さく悲鳴をあげ、それでも何かを言おうと2人で抱き合っている。
「無理なものは無理!ぜーったい無理!」
そうして伯爵令嬢シェリアーナ・エヴァンズは弟の代わりに女人禁制の学園に通う事となったのだ。
――――――
「エル!今日は何すんの?」
そばかすの散ったやんちゃな笑顔を向けられた青年は鞄の中に荷物を詰め込んでいる最中だった。青年は学友の声に鞄に物を詰めていた手を止め、その名を呼ぶ。
「フレッド」
「俺、久しぶりに遠乗りしたいんだよな。いいだろ?」
ガラス玉のような曇りのない瞳を向けられ、青年は迷う事なく頷いた。
「いいぜ!行こう!」
ブロンド色の髪が頷いた反動でさらりと揺れる。短く切ってはいるが、髪質が細いせいかその髪は同じ年頃の男性よりも柔らかく美しい。長い睫毛で彩られた青い瞳は窓から見える晴天の色を映した様に澄んでいた。
屈託の無い笑顔で頷いたこの青年の名はエルンスト、ではなく伯爵令嬢シェリアーナ。つまりは青年でも何でも無く女である。
ある春の日に双子の弟であるエルンストが事故で5歳児の記憶しかなくなった結果、何故かシェリアーナはこうして替え玉として学園に通っている。
理由は未だに納得していないが、男装して通っているのだ。
両親が言うに『ほぼ無傷ですぐに学校へ通えます』と王太子側に説明した手前、すぐに復学せねば嘘をついた事になる、つまり不敬罪だ!と言う事らしいがそんな横暴な事あってたまるかとシェリアーナは思っている。
そもそもだ、王太子が起こした事で不敬罪を言い渡されるなんて国としておかしい事この上ない。寧ろ後遺症が出てしまって申し訳ないと慰謝料の増額が行われる問題だろう。なのにも関わらず、だ。一度言ったことは覆せないと怯えて女の身である姉に男子校に通わせるなど頭が1回死滅しているに違いない。
顔は似てても髪型も体型は違うと言ってみたものの、そんなものはウィッグと肩パッド、シークレットブーツでどうにかなると胸をサラシで潰されて、全寮制の男子校に放り込まれた。
シェリアーナは自分の親ながら頭がおかしいと嘆き悲しみ、一週間怒りが収まらなかった。いや、実際は一週間ではない。今現在も進行中だ。
嘆いて怒って、暴れても『行け』の一点張りであまりの頑固さに第三者に介入して貰いもした。しかしその話し合いの結果も『代わりに学校へ行きなさい』との結論。これは自分の頭がおかしいのかと思った。だが、第三者という名の母方の叔父も『学校へ行きなさい』とは言うものの、なんとも複雑そうな顔をしていたので叔父も少しはおかしいと思ってくれていたのだろうと思う。何せ全ての語尾に『?』が付いていた。
そうしてギチギチに弟になりすます事を強制されたシェリアーナはバレるのは絶対厳禁という無理難題な学園生活を送らされているのだ。
エルンストこと、シェリアーナの返答にフレッドは更にくしゃりと笑い顔を作り、拳を突き上げた。
フレッドとは本物のエルンストの一番の友達だ。長期休みの度にエヴァンズ伯爵家に遊びに来ていたのでシェリアーナもよく知る人物である。
「やった!じゃあ先に外で待っててくれ。図書室に本返してから行くから」
言うが早いか、自席の荷物を取るとフレッドは『あとで!』と教室を出ていく。その様子を手を振り見送ったシェリアーナは自身も鞄を手に教室を出て行った。
シェリアーナは何だかんだ言いつつも、この生活に慣れていた。当然怒りはまだある。だがそれは別として学園生活はお茶会ばかりの令嬢生活よりも遥かに楽しかった。
それはシェリアーナの元々の気質が男性寄りという事もあるのだろう。嫌々しょうがなく弟に成りすましていたが、別に戻らなくても良いやと思い始めている。
令嬢のお茶会の様に腹の探り合いや騙し合い、気に入らない女を陥れる事もなく、自分の思うまま日々を過ごせるのは何と心地よい事か。
男の間でも色々な謀り合いがあると言われているが、今のところシェリアーナには降りかかってこない。伯爵という爵位があるからだとは思うが、それにしても平和なものだ。フレッドや他の友人達にも特に何も思う事なく過ごせている。
一度同じ伯爵位の令息に今回の事故の嫌味とも妬みとも取れぬ事を言われたが、それも本当に一度きり。確か『無傷で大金貰えて良かったな』みたいな事を言われたが、その後は顔を見ると逃げられるようになった。
まぁ、何も無いならそれに越した事は無いのでシェリアーナもスルーしている。理由も分からず自分を見て怯えられるのは正直良い気はしないが。
シェリアーナは少し時間を潰してから、図書室へ行くと先に教室を出たフレッドを待ち合わせの場所で待っていた。
季節は夏である。雲ひとつない青空の下は陽射しがきつい。だが令嬢時代は感じる事の出来なかった直下の陽射しは痛いが、何処か気持ちがいいと感じた。
全身で夏を感じながら立っていると『おーい』というフレッドの声が背後から聞こえてくる。シェリアーナは予想よりも早くやってきたフレッドに対し満面の笑みで振り返った。
「フレ」
フレッドの名を呼ぼうとした。したのだが、視界にフレッドともう一人、お呼びでない人物が入り、シェリアーナは名を呼ぼうとした口を不自然に止めた。
「エル!そこで殿下に会ってさ、一緒に行きたいって。良いだろう?」
屈託のない笑顔でそう言うフレッドの隣には艶やかな黒髪の男がいた。
男は生まれからくるのか、優美な笑みを湛え、ゆっくりとシェリアーナへ向かってくる。握手を求めているのだろうか、手を出して差し伸べてきた。
「ご一緒しても良いかい?」
王家の印である赤い瞳を光らせて、体の真横にあるシェリアーナの右手を両手で掴んだのはまぎれもなく弟に魔法を打ち込んだ我が国の王太子、マリウスであった。
マリウス・インダメル・バルリング。
サラリとした、夜空を詰め込んだ様な輝く黒髪を持ち、ルビーの様に美しく輝く赤い瞳の持ち主。おおよそ人が持ち得ない筈の人外な美貌で老若男女を虜にする男、それがこれだ。
マリウスがひとたび王宮のバルコニーから手を振れば、広場の歓声は隣国まで届くと言われている。誇張はされていると思う。だがその位地響きを感じる歓声が沸き起こるのだ。
当然、茶会や夜会でも同じような事が起き、人々が次々と倒れていくのをシェリアーナは見て恐怖を覚えた。倒れる人は皆嬉しそうに『我が人生に悔いはない』と満面の笑みで意識を失っていく。マリウスの歩いた後ろには死屍累々、微笑みの骸が転がっているのだ。
あまりの恐ろしさにシェリアーナは父に聞いた事がある。何故王太子を見ると皆嬉しそうに倒れるのか、と。すると返ってきたのは意外な答えで『王家は魅了体質』との事だった。
ほぼ伝説に近い王家の成り立ちではあるが、王家の先祖である妖精の加護がマリウスは一段と強いらしい。そのせいで人々が熱狂し、倒れていくのだと言う。恐ろしい話だ。
だがシェリアーナはこの男が苦手だった。弟を5歳児にしたという恨みも勿論あるが、それ以上に気味が悪く何を考えているのか分からない感じが嫌だった。
夜会やお茶会でシェリアーナとして会ったことは当然ある。話もしたし、ダンスもした事がある。寧ろ積極的に話をされて他の女性陣からとてつもなく恐ろしい眼差しを向けられた。嫉妬する女の恐ろしさたるや、思い出しただけで震えが止まらない。
そう、シェリアーナは何を隠そう、マリウスに気に入られている。それは社交界の公然の事実、暗黙の常識であった。
シェリアーナもそれを理解していたからこそ、学園に来てからはあまり近付かない様にしていた。万が一バレたら大変な事になると思っていたからだ。だが、当のマリウスはエルンストに怪我させた事を大変申し訳なく思っているようで1日1回は話し掛けてくる。
もういい、大丈夫だと伝えても気持ちが収まらないと押しかけてくるのだ。
『痛いところはないかい?』
『フォークは持てる?良かったら食べさせてあげようか?』
『手をかして、転んでしまうよ』
バレているのか、と勘違いしてしまいそうになる程過保護に接せられシェリアーナはもううんざりだった。
シェリアーナは握られた手を素早く離すと不機嫌な感情を隠さぬまま、フレッドを見た。
「突然人増やすなよなー。相談してから決めろよ」
「だから今相談したじゃん。良いだろ?」
「……まぁ、良いけど」
プイッと目の前で笑みを湛えたままのマリウスを横目で見ながらシェリアーナは一人早歩きで厩舎へ向かう。
後ろから待てよー、と言うフレッドの情けない声が聞こえてきたが、聞こえないフリをして大股で距離を離した。だが、態度が悪いと一緒にいるフレッドが気にしてしまうかも知れない事に気付き、シェリアーナは溜息を殺しながら立ち止まる。
「早く行こうぜ。ずっとあそこに居たから暑いんだ」
だから早く馬に乗り、風を感じたいとシェリアーナはフレッドに話しかけた。フレッドは何の疑いもなく『そっか』と言い、マリウスの様子を見ながら気持ち駆けてくる。それに釣られてマリウスも足速にシェリアーナの元へ近寄ってきた。
シークレットブーツを履き、身長をかさ増ししているせいか令嬢の時よりも顔がよく見える。シェリアーナはフレッドの手前、あまり悪い態度は出来ないと思い、薄い話題をしながら厩舎へ寄ると馴染みの馬に跳び乗った。
真夏の太陽の下、馬の様子を見ながら野を駆ける。感じる風は生暖かいが、それでも風が無いよりは断然涼しい。
最初はどうしようかと思ったが、遠乗りというものは基本馬で走っているだけ。話す事も殆どなく過ごせた。途中、馬の水分補給で止まった際は話したがほぼ内容の無い話だった。
これなら問題なさそうだ、そう思ったシェリアーナだったが、学園へ折り返そうとした矢先、雨がぽつりぽつりと降ってきた。小雨かと気を抜いていたが、雨はあっという間に土砂降りとなり視界を白く霞ませる。
「いきなり来たな、近くの村まで行って止むまで待つか」
シェリアーナの提案に2人とも頷く。この雨の中無理して学園まで戻ってもきっと良い事は無い。それ程までに視界が不明瞭だった。遠雷の音も聞こえ始め、稲光と音の間隔が短くなってくる。雨がこれ以上酷くなる事が予想出来た。
そうと決まれば3人は村まで馬を走らせる。この雨で馬を走らせるのは可哀相だと思ったが、屋根も何もない場所に居続けるよりはマシに違いない。
人間の娯楽に付き合わせた結果、こんな雨の中走らせている事に申し訳なさを感じたシェリアーナは馬へ小声で『ごめんな』と謝りながら走り続けた。
強くなり続ける雨に打たれ、村へと辿り着けば、秘密裏に付いてきていた王太子の護衛らが3人を出迎える。この村の村長も大雨だと言うのに外で王太子を出迎えてくれた。震えているのは雨に降られている寒さからか、はたまた王太子に恐縮してなのかはわからない。ただこんな雨の中迎えなくてもよかろうにと思った。
「うわあ、びしょびしょだ。殿下大丈夫ですか?」
馬達を厩舎へと移した後、護衛らが手配した宿へと向かう。向かいながらフレッドが髪をかき上げながら、マリウスに訊ねた。
当然、マリウスも雫が滴る程濡れている。どの程度を大丈夫と捉えればいいのか不明だが、シェリアーナ的には大丈夫ではない事のように思えた。
何たって王太子である。彼が一緒に行きたいと言ったとはいえ、こんなびしょ濡れにしてしまったのだ。風邪でも引かれたら一大事だろう。
シェリアーナは護衛の様子を伺った。彼らの目が鋭ければ、きっと自分とフレッドの命は無い。
「私は大丈夫。エルンストは?」
マリウスは濡れて気持ち悪かったのだろう、上着を脱ぎつつ返事をした。急に話を振られたシェリアーナは一瞬びくりとした後、真顔でそれに答える。
「大丈夫です」
「本当に?顔色悪いから無理しないで」
顔色が悪いのは貴方のせいです、など言える筈もない。シェリアーナは口端を引きつらせながら頷く。
「あ」
そうこうしていると雷が近付いてきたのか、稲光のあと間を置かず激しい雷鳴が轟いた。ほぼ光と同時の地面を揺らすような轟音にその場に居た者は皆一様に肩を揺らす。
「近かったな」
「近くに落ちたみたいだ。見ろ、あそこの木が少し変だ」
フレッドに言われ、シェリアーナは彼が指さす方を見る。豪雨で見えずらいが、確かに村の入り口にある木が斜めになっていた。微かに煙も出ているように見え、シェリアーナは好奇心から少し屋根からはみ出ながらじっと木を見る。
(あ、焦げてるんだ)
黒くなった木肌を見て、シェリアーナはそう思った。本当に何気ない普通の、いつも通りの行動と思考。いつもと違ったのは雷が近くで鳴っていた事くらいだろう。
シェリアーナは木を見た後、一つ瞬きをした。次の瞬間、地面を抉るような、打ち壊すような音と瞼を閉じていても分かる眩い光が体を包みこむ。
「エル!!」
聞こえた声はフレッドの声。
(あ、死んだ)
そう思ったと同時にシェリアーナは意識を失い倒れこむ。倒れる瞬間、感じたのはひやりと冷たい布地と清潔感のある香水の匂いだった。
――――――
「ん……」
背中に感じる柔らかい感触を感じ、シェリアーナはゆっくりと瞼を上げた。
「い、いきてる……」
まだ寝起きの為、頭は少し呆けていたが、シェリアーナは自分が生きている事に驚いた。絶対死んだと思ったのだ。
「雷落ちたよね」
そう、シェリアーナは自分に雷が落ちたと思っていた。体は揺れたし、熱も感じたように思う。だが、不思議な事に体に痛みは全くなく、寧ろよく寝たのか体調が良い程だった。
(もしかして目の前に雷が落ちただけ?それに驚いて気を失ったってこと?)
そう結論づけたシェリアーナは上体を起こそうとベッドに手をつこうとした。だが、思うように動かせず何事かと視線を下にしてみればベッドの横に黒い塊見えた。一体何だ、と小さくと唸る。
自由な方の手で目を擦り、よく目を凝らせば自分の手を握り椅子に座ったまま寝こけているマリウスがいた。
「何で此処に?」
シェリアーナは掴まれている手を起こさぬ様そっと抜く。いつから握られていたのか、少し手が熱かった。
そして物音を立てずベッドからそっと降りる。何も履いていない足は床に接した面が冷たく心地良かった。
気付かれぬ様に動いたのが功を奏したのかマリウスは気持ちよさそうにスヤスヤと寝続けている。シェリアーナはそれをどうしたらいいのか、分からずただ窓辺に座り込みながら見ていた。
マリウスのシェリアーナへの気持ちは知っている。
少しずつ思い出してきたが、倒れたシェリアーナを抱えたのはマリウスだったと思う。あの香水の香りはいつもダンスの時に感じているものだ。
マリウスはシェリアーナに好意を持っている。その前提で話せば、シェリアーナが倒れたのであれば、手も握ろう。
だが、今回はシェリアーナではない。エルンストだ。
シェリアーナの時であれば分かる。茶会や夜会の時に隙あらば体の何処かの部位を触ろうとしていたマリウスだ。介抱で手を握る事なんて朝飯前だろう。
何度も言う。今回はエルンストである。シェリアーナではない。
エルンストであるシェリアーナの手を握りながら寝るなんておかしいだろう。
そう考えたところで、はたとシェリアーナは自身が双子という事を思い出す。
(顔が同じなら別に良いのかしら)
そう思い、シェリアーナはなんて節操のないと思わず顔が歪んだ。もしかしたらバレているのかも知れない、そうも思ったがそれは深く考えず闇に葬った。一番恐ろしい事である。考えただけで体が震える。
「ん……」
そんなこんな考えていると黒い塊がゆっくりと動いた。
「殿下、お目覚めですか」
床に座り込んだまま、そう言えばマリウスは目を瞬かせた。
「君の方が先に起きたんだね」
寝起き特有のふんわりとした笑みにシェリアーナは苦笑を浮かべる。
「はい、まさか殿下に看病されているとは思いもしませんでしたよ」
少しだけ声色を下げてシェリアーナがエルンストらしく言葉を発する。マリウスは小さく笑い、椅子から立ち上がった。
外へ出るのだろうとシェリアーナは思った。だが、マリウスは真っ直ぐに窓辺へ来ると座り込んでいるシェリアーナの腕を掴む。
顔は笑っているのに、掴まれた腕は予想よりも強かった。その衝撃に言葉を発するのも忘れ、見下ろされている顔を見る。
「エルンスト、か。男にしては細い腕だと思わない?」
男の顔は確かに微笑んでいる。だが、その瞳はそんな優しいものではなかった。ぞくりと背中が粟立つ程の不快感、そして感じた事のある、あの情欲に濡れた鈍く光る瞳。
喉の奥がヒュッとなる音がした。
(まさか……!いや、)
バレている。これは確実にバレている。
シェリアーナは様子のおかしい喉を押さえ、ゆっくりと瞼を閉じた。マリウスの視線を一度断ち切り、恐る恐る瞼を開ける。
(あ、うん。バレてるわ)
マリウスの顔はおおよそ弟であるエルンストに向けるものではなかった。シェリアーナが忌諱していたあの顔である。
それでもシェリアーナは「まだバレてないかも知れない」という淡い期待から、にへらと笑い、腕を外そうと腕を捩った。
「おかしな事を言いますね、俺はエルンストですよ。腕はほら、前の魔法事故の時に」
「後遺症も何もないと聞いているけど?」
「それは、あれです。後から来たっていうか」
「じゃあ、ねえ?エルンスト」
マリウスは焦るシェリアーナの言葉を遮り、にっこりと笑った。そして掴んでいた腕を離し、ほんの少しシェリアーナから距離を取る。
「いつの間にそんなに髪が伸びたの?胸はそんなに膨らんでいた?」
「へ?」
マリウスの指摘にシェリアーナの口から素の声が出る。にっこりと微笑んでいるマリウスはその表情のまま、シェリアーナの長い髪に触れた。そして梳かすように掬い、驚いた顔のシェリアーナの顔を見ながらその一房に唇を寄せる。
感覚が無い筈の毛先から背中が痺れるような刺激が走り、シェリアーナは赤面した。それを満足そうに見たマリウスはゆっくりと唇を離し、愛おしそうに甘い声を出す。
「シェリアーナ」
そう、やはりバレていた。いつの間にやらウィッグも無ければ、さらしも無い。一体誰がこんな事を!と混乱する頭で考えたが、どう考えても答えは一つ。目の前の男しか居なかった。
怒鳴りたい。罵倒したい。シバキ倒したい。
現在はエルンストとして男装し、学園生活を送っているが元は貴族令嬢である。そんなシェリアーナの肌を見たのかも知れない男。
怒りと羞恥で顔に血が上ってくるが、相手は王太子だ。何も言う事が出来ないのがもどかしくて堪らない。
シェリアーナは言えない代わりに感情のままキッと睨みつけた。
「いつから知っていたか知りたい?」
尚もシェリアーナの髪に触れようと手を伸ばすマリウス。だが、それをシェリアーナが許す筈もなく無碍に叩き落す。
マリウスは口を開かないシェリアーナに対してくすりと笑うと「教えてあげる」と楽しそうに口を開いた。
「最初からだよ」
その言葉でシェリアーナは先程の雷が再び襲ってきたような感覚になる。まさか!どうして!何故!驚きという言葉では軽く感じる衝撃が走り、シェリアーナは大きく目を見開いた。そして唐突に理解する。
この入れ替わり生活が仕組まれたものだったのだと。視線が泳いでいた両親と疑問符ばかりの叔父。両親達は王太子に言われシェリアーナを此処へ送ったのだと。
こうなってくると5歳児であったエルンストも怪しく思えてくる。
「もー!やだーー!」
限界を超えたシェリアーナは半泣きで叫んだ。その顔をマリウスは愛おしそうに見つめる。
「愛しい、愛しいシェリアーナ。私は君と一緒に学園生活を送りたかったんだ」
マリウスは涙目のシェリアーナの背中に腕を回す。ギュッと抱きしめ、その長い髪に顔を埋めた。
シェリアーナは囚われた胸の中で全ての関係者へ暴言を吐く。鼻腔を擽るこの香りが好みな事だけが唯一の救いだった。
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