8、サーズド・エル・セリアース
よろしくお願いします。
初めて、自分に向けられた期待というものを感じ取った。
そして、それに応えたいと思った。
だが今、ほぼ気合いのみで開いている瞳は紅く染められた世界しか映さない。自分に振り下ろされる炎の大剣。腹に開けられた大穴を中心に体が機能しなくなってきているなか、今採れる回避手段は横に転がるくらいか。そんなコミカルかつ緩慢な動きで、炎によって広い攻撃範囲を得たかの剣から逃れることはできない。
引きこもりが重い腰を上げた。そうすればあとは勝ち確BGMが流れて敵を倒してハッピーエンドになるわけではない。異世界でも現実はとことん厳しく、あっという間に死の間際へと追い込まれた。
皇族という身に余る身分で過ごした本当に短い時間を終えようとしている、本来なら誰にも救えないはずだった引きこもり。
そんな彼は、自分に振り下ろされた烈火を纏う剣を見上げ、
ニッ、と、確かに口角を吊り上げた。
それと同時に、彼の背中から燃え盛る大剣が飛び出し、全く同じ意匠のそれと克ち合った。
轟音が炸裂し、太陽フレアのような小さな熱風が二つの面する点に起こる。音や見た目の割には起こったことは小規模だと城原は思った。もしあの剣の水バージョンを生み出せたのなら、向こうの剣が一瞬で鎮火する、といった壮観を目の当たりにできたかもしれない。もっとも、そんなものを作る方法など知らないわけだが。
動きを押し止められた剣を前にして、小男は暫く茫然としたままだった。開け放たれたままの瞳が紅く煌めいている。
「…なぜ」
最初の呻きはよく聞き取れなかった城原だが、そこを心配する必要はなかった。次なる言葉を、男は声を大にして叫んだからだ。
「なぜ今のお前が最上級魔術を撃てる⁉ 魔力を体に回す過程で、その穴から相当の量が漏れ出ているはずだ!」
「ああ、そっちか。そこはセリアースの部分だから、褒められてもそんな嬉しくはないけど」
どこか呆れた声が出る。精神的な余裕が影響したか、痛みも少し引いてきた気がする。
「まあ、魔力変換効率とやらの違いなんじゃないの。多少魔力が漏れ出しても、その残りだけでこの魔術は撃てた。それだけだ」
「くっ、バケモノめ…だがそれほどの力を持っているなら、だ!なぜ追い込まれるまで魔術を使わなかった⁉」
城原の顔の喜色が、一段階増した。
「そうそうそれだよ、よくぞ聞いてくれた。
こほん、今から貴方に衝撃の事実を伝えよう」
僅かな間を開けた城原は、
「せんせー、諸般の事情で魔術の詠唱とかぜんぶわすれましたー!」
泡を食ったような顔をする小男から、またしても呻きが漏れる。
「それは…どういう…」
「読んで字の如くだよ。詠唱とか魔術に対する知識は、基礎を除いて何もかも忘れた。なんでそうなったかはあんまり言いたくないし、言ったところで理解されないだろうけどな。そして、」
今でも鬩ぎ合いを続ける二振りの大剣に眼をやり、
「なんて言えばそいつを呼びだせるかは、アンタがさっき教えてくれただろ。それをそのまま詠唱しただけだ」
先程、小男はセリアース──彼の言葉を借りるならバケモノを確実に殺すため、炎魔術の最上級【断罪の大剣・煉獄】の詠唱文を口にした。
城原はそれを聞き取り、詠唱し返すことで、全く同じ魔術で迎え撃つことができたのだ。
そんな経緯で生まれた大剣は、今やもう一振りのそれを少しづつ、小男側に押し返し始めている。
そんな中でも小男は、セリアースへの問いかけを止めない。彼が培ってきた魔術師としての常識が、目の前の存在に対しての理解を拒んでいる。
「いや待て、お前は本当に詠唱をしたのか? 目の前の俺にも届かない蚊の羽音のような声では、『源泉』の申請対象にもならないはずなのに!」
マシになったとはいえ未だ痛みを抱える腹を押さえながら、城原は小男の驚愕と向き合う。
「いや、あんな恥ずかしい文言を口に出して言えないから。フード捲れたからわかったけど、アンタも結構オッサンじゃねぇか。それだけ歳食っても厨二構文に囚われっぱなしなんて生き恥極めてるから。ちゃーんと、口に出さずとも詠唱できるようにしとかないと。人間には共感性恥辱っていうのも備わってるから、一種のエチケットだぞ?」
「…「思念詠唱」…バ、馬鹿な、それを最上級魔術に対応させるなんて…グッ!」
形勢は、明らかにセリアース側に傾いていた。二つの剣が交差する地点は、最初は両者の丁度中間であった。それが、今は小男の目の前まで迫っている。
「さぁて。ついさっきまで俺が終わりだのなんだの言ってくれてたが。今度はこっちの番らしいな」
体中を巡るエネルギーを、これだけ傷付いた状態でもしっかりと感じ取れる。それの循環を一斉に活性化させるように、再び力を込める。
だが、小男も抵抗を見せる。こちらと同じように力を加え直し、城原の剣を僅かに押し返した。
だが、勢いを盛り返したかのように見えたのは一瞬だった。セリアースの剣は奪われた分の距離を即座に取り戻し、その直後には前よりも差を詰めていた。
「…おい。なんでだ⁉ なんで万全の俺がケガ人に出力差で負ける⁉」
「さーてなんでかねぇ。何せ俺もウルトラ無知だから」
「な…にを…くっ!」
小男は、この剣闘から逃げるという手段を取った。大剣に魔力を回すのを止め、その場から全力で飛び去る。
次の瞬間、セリアースの大剣が、主からの補助を失ったもう一方を完全に押し込み、そのまま地面へと減り込ませる。そして、熱風を全方位に放ちながら爆散した。この爆発を以て、「断罪の大剣・煉獄」という術式は完成する。
さて、この魔術勝負において敗者となった小男についてだ。
飛び去るという判断は、決して悪いものではなかった。爆発に巻き込まれること自体は避けられなかったが、彼は確かに生き延びることに成功した。
セリアースの大魔術を前にしてなんとか命を繋げたのは、彼がその配下と自分に持たせた対魔礼装…魔術によって受ける影響を軽減させる特殊な装備があったからこそなのだが、あの魔術を真っ向から受ければその効能を貫通して小男を死に至らしめただろう。
自ら飛び下がったところに猛烈な勢いの熱風を受けたため着地した後も勢いを殺せず、体は回転しながら空間の隅の方まで転がっていく。
その間も、小男は生き延びるための思考を止めるわけにはいかない。
(奴の力量を見誤っていた。この調子だとすぐに次なる「断罪の大剣・煉獄」がやってくる。だが奴は、粋がってはいたが虫の息。配下共が落とした武器を拾って、すぐさまもう一発弾をブチ込む!)
水切り石のように高速で地を跳ねている状態でも目標を生み出し、設定する。
その時間にも終わりが訪れた。空間の隅の壁ではなく、そこに沿って置かれた木箱に激突する。
熱風を浴び、あちこちが燃えている衣服を身に纏った状態で。
(まずい、それは…!)
小男がその危険性に気が付いた瞬間、木箱の中の火薬が炸裂し、魔術に依らない烈火が小男を包んだ。
突如耳に響いた轟音に耳を叩かれ、レイシアは眼を覚ました。
それと時を同じくして、彼女を縛る魔術の拘束が突如として解ける。それは、術者の死を意味していた。
彼女は、ある空間の中で僅かに高いところにいると認識した。そこから全体を見渡して、まず目に入ってきたのは右前方、壁や床が燃え盛っている部分である。
そこから中央に視線を移すと、腹部を血に濡らした主人が立ち尽くしていた。
「…セリアース様⁉」
空間の中の一帯、小男が持ち込んだ火気により炸裂した火薬箱の周囲を見つめていた城原は、その声を耳にすると即座に振り返った。死の淵に瀕していた絶望感と、そこから光明を見出しそれを掴んだ高揚感。それらがやっと解けて、彼の心は安堵のみで満たされた。
「…レイシア。よかった、無事、で…」
突如、地に足がついている感覚を失う。床に倒れ伏してから、自分が多量の出血をしていることを思い出した。あの戦闘のときは、極度の興奮状態のため体のリミッターが外れていたのかもしれない。それの解除と共に限界を正常に認識したのだ。
「…セリアース様⁉」
先程と全く同じ叫びを放ち、レイシアがステージから飛び降りて駆け寄る。
「…悪い。ちょっと抱えて貰えるかな?」
「は、はい、すぐに!」
再び肩を抱かれて、出口へと歩き出す。先程の城内でのシチュエーションと同様に城原が支えられる側だ。
「レイシアには…ケガはない?」
「はい、私は縛られていただけなので。それよりセリアース様が!」
「まあな。これじゃあ人のことは言えない」
「何か、何か傷口を塞げるものを!」
慌てふためくレイシアを、城原は諭す。
「いや、いいんだ。それより脱出を急ごう。だって、」
城原が震える指で差した先で、先程と同じ火薬箱の爆発が起きる。
「あの火薬箱は壁に沿っていくつもあるから、火が燃え広がると連鎖爆発が起こる。このまま真ん中を進んでいけば巻き込まれることはないだろうけど、それを繰り返せばこの空間はあっという間に火の海だ」
レイシアが唾を飲む音が聞こえた。
「なら急がないと!」
「ああ、急かすだけ急かして悪いけど、今の俺は自分で動力を生み出せないから…」
先程まで、小男を相手に勝ち誇った台詞を吐き続けていたとは思えないほど弱気な言葉だった。感じる辛さは等しいはずだが、興奮状態が解けるだけでこんな有様になってしまうのは少し情けないと、朦朧とする頭で自己評価する。
レイシアはきっと彼女に出せる最高速で進んでいるのだろう。だが支えねばならないものが重すぎたか、進行速度は炎の方が速い。
ふと右に眼をやると、地に横たわる弓兵が炎に包まれる様子が見えた。既に命がなかったのか、意識を失ったままこのような運命に遭ったのか。無事な小男の兵隊も多いが、すでに灰と化した人間がいてもおかしくない。
そして、彼らの首領であるフードの小男。
彼がこの世から消えたのでレイシアが解放されたというロジックは理解せずとも、あの爆発を間近で受ければ即死は避けられないことは城原にもわかった。
最初に危害を加えたのは向こうだったとしても、彼らの命を城原が奪ったことに変わりはない。
(…レイシアが俺を捨てて走れば、間違いなく火が回る前にここから抜け出せる)
実際、ここで自分が灰となることでレイシアが助かるのならそれでもいいと城原は思っていた。
「魔導の血の寵児」と呼ばれた一人の皇族は世を去ることになるが、どうせ何も成さぬまま引きこもり続けていた生ける屍である。それに、セリアースが死ぬことで城原の意識が本来の身体に戻ることも考えられる。尤も、彼に城原玲樹の人生に対しての執着は微塵もないが。死に際に感じるであろう苦しみも、今の苦痛と比べればそう大したことはないだろう。
そう、彼の脇腹痛は言語を絶するものになってきていた。失血により体温が奪われていく感覚もあり、今後の治療で完治するとも限らない。生きてこの責め苦を味わい続けるより、ここで果ててしまうほうがいっそ楽かもしれない。
奪った命の数とは釣り合わなくとも自分がここで殺生の罪を償い、さらにレイシアを確実に逃がす。自己犠牲とは基本的に愚行で、創作物で美談になるくらいしかメリットがないというのが城原の考えだが、今回に限っては悪くない判断なのではないかと思えた。
だが、彼はレイシアの負担を減らすため、彼女に寄りかかるようにしていた自分の体を少し起こす。それだけでも、今のボロボロの体は更なる悲鳴を上げる。
受ける責め苦の量を増やしても、彼は生きたいと思った。
そもそも、だ。
レイシアは間違いなく、セリアースのことを捨てない。
「俺を置いて先に行け!」なんてことを言えば、間違いなく彼女は猛反発する。どうしても先に行かせたいセリアースと、絶対に連れて帰ろうとするレイシア。二人で喧嘩しているうちに炎はこの空間ごと彼等を焼き尽くすだろう。
大前提として、レイシアは絶対に生きて返す。そのために危険を承知でここまでやってきたのだから。セリアースだけが生き残るのでさえBADエンドなのに、二人で仲良死なんて論外だ。
それに、何とかしてレイシアの手を離れて、彼女だけ逃がすことに成功しても。
彼女が望むのは、「魔導の血の寵児」の完全復活だ。
万能でありながら人々から愛される。引きこもりがそんな王子様をやるのは茨の道だろう。だが、死んでしまえば0%の可能性も、生きている限り完全に否定されることはない。
そう、城原玲樹は彼女が思い描くサーズド・エル・セリアースになろうとした。この救出作戦もその第一歩だったはずだ。
それらの理由を以て、セリアースの生還はこの状況での最低達成条件に加わった。
(俺がやらなきゃレイシアが死ぬ。さっきもそういう状況だったから、誇張抜きで死ぬほど痛む中でも踏ん張って小男を倒せたんだろ⁉ 今回も同じだ。だから何とか足を動かせ!「)
レイシアに半ば引っ張られる形になりながら、一心にドアへと向かっていく。壁伝いに猛烈な勢いで広がる火は、既に出口の間近まで迫っていた。
炎と同時に拡大していくものがあった。煙である。
壁の周辺でのみ燃え広がる炎と違い、黒煙は中央まで侵食し城原たちの視界を昏くさせた。
今のセリアースに煙を吸わせるのはマズいと思ったのだろう、レイシアの手がセリアースの口を塞ぐ。左腕をレイシアの肩に回し、右手で傷口を抑えるセリアースにとってはありがたい気遣い…どころか、今の体で咳込めば大惨事が起こるのは自明の理なので、命を救ったに等しい行為だ。
だが、ということは。
レイシア自身は煙を防ぐ手段を失う。この全力疾走で息が上がっていたところに、濃密な黒煙が入り込んでくる。普段の彼女の声音からは想像もつかない、悶えるような咳の音が聞こえた。
「レイシア⁉」
慌てて声を掛けるが、メイドはもう応えることもしなかった。彼女の強靭な意志は、あの扉だけに向けられている。
そしてその扉は、既に目の前まで迫っていた。その全面に炎が渡っている状態で。
「…セリアース様」
発声さえ困難なこの状況でも、彼女は主人へ注文を付けた。
「お腹を地面にぶつけないよう、ケガの反対側の腕から着地するようになさってください!」
城原が「着地」という言葉に込められた意味を聞き返す前に、
セリアースを支える右腕を後ろに回して自分を盾にしつつ、走る勢いのまま扉へと突っ込んだ。
留め具が熱で溶けかけていた扉は外れ、二人は外へ放り出される。
「う…」
先に起き上がったのはレイシアだった。
「セリアース様⁉」
その後、すぐさまセリアースの側に駆け寄る。飛び出したときに二人が組んだ肩はとっくに解けていた。
一方のセリアースは、大の字から右の手だけを折って腹部に当てた格好で横たわっていた。
「助言のおかげだ。傷口からの着地は防げたよ」
「よかった…ですが、火傷などは⁉」
「そりゃこっちの台詞だよ。火にそのまま突っ込んだようなもんだろ?」
「服は若干焦げてしまいましたが私自身は無事です。すぐに濡れた地面に転がりましたから」
このスペースは、城原が下りてきた階段の最下段である。ここに直接雨水は届かないが、階段を伝って流れ落ちてきた水が薄くではあるが張っていた。
「…そっか。ならよかったよ、本当に」
「…セリアース様?」
一層力を失ったセリアースの声に、レイシアの息が詰まる。
「俺は…もうダメかもしれん」
傷の痛みに加えて、失血によって意識が朦朧とする。すぐこの傷を完全に塞がなければ、意識を失ってそのまま戻ってこれなくなるだろう。
「これだけの傷を塞ぐのは簡単なことじゃない。治療が始まるまでの時間、耐え続けられる自信はないな…」
さらに城原の心の奥底は、この中世ヨーロッパ風の異世界の医療技術を信頼していなかった。元気だった頃は呑気にPCを探していたが、こんな状況でそんな可能性を信じることはできなかった。
そして、城原が自分の命が長くないことを悟った最大の理由が、目的の達成により生きようとする意志が少なからず薄れたことである。
自分は確かにレイシアを助け出した。最後はレイシアに大いに助けられて今があるのだが、そもそも城原が小男を倒さなければレイシアの命もなかったのだから。
つまり、城原は目下の最大目標を果たしたのだ。
できることならば、「魔導の血の寵児」の復活劇をレイシアに見せたかった。だが自分のことを信じてくれた存在を守れたことで、今一時は心は満たされている。
あのレイシアのことだし、後追い自殺を考えそうなのが唯一の懸案だ。それだけはさせないように、今からじっくり…だが意識があるうちに迅速に…生きるように説得しなければいけない。生の道を諦めた人間が人に生きるよう説くのもおかしな話だが。
そして、レイシアには短い間の感謝を伝えたい。
自分を誇れる存在にしようとも、他人にとって大切な存在になろうとも思えない人生だった。だから、最低の地位に身を置き人に迷惑をかけ続けることに違和感も抵抗もなかった。
それは、突如として羨望を集めるような存在に成り代わっても同じだった。引きこもり生活のグレードが上がるだけだと思っていた。
そんな中で、レイシアのセリアースへの想いに触れたのだ。それは直接彼女が見せた態度であり、二人組のメイドから盗み聞いた彼女の生き様でもあった。
自分に期待する人間がいる、そのことに気付かせてくれた。それを受けて、生まれて初めて立ち上がることができたのだ。
「レイシア…」
眼を開けて、出会って1日も経たない大切な存在を見据えようとする。
だが、そこに彼女はいなかった。
「このまま安静にしてお待ちください、お医者様を呼んでまいります!」
階段を駆け上がる音が聞こえる。駆け出してからなので若干の事後報告だ。早く医者の元へ辿り着くことしか頭になかったのだろう。
彼女は制止など受け付けなかった。カンカンカンカン!と、短いスパンで足音が上っていく。
その足音が階段を上り切り、平らな地を駆けだす直前に、
「ひっ…あ、あなたさまは…」
あの快活なレイシアからは想像もつかないような、怯え、震えた声が上がった。
「おい、何があった⁉」
ただでさえブルブル震える背筋に更なる寒気が走る。そこに、
《御身の世界に瑕が走る──御身の子の身が穿たれる──御身の寵愛を、彼等に賜えられたし──》
(これは…魔術詠唱⁉)
敵か味方か、新たなる魔術師の登場に際して身構えた城原。
その彼が感じる痛みが、忽然と消えた。
「…え?」
脇腹をさすってみる。粘つく血に濡れていることに変わりはないが、その流れは止まっている。脇腹を貫通した大穴が、最初からそうであったようになくなっているのだ。平穏を取り戻した下腹部を、城原が唖然としながら眺めていると、
「水系統魔術で消火しつつ内部を検分しろ。生き残りがいれば即時に拘束する様に」
先程の魔術師の命令が響く。行動を以て了承とするのがやり方なのか、返事もないまま大群の足音が駆け下りてくる。かの魔術師の手先であることには間違いない。
(拘束⁉︎ ああもう次から次へと!)
久々に立ち上がり、地に足を着ける感覚を噛み締める。
「早く逃げろレイシア! 俺はもう大丈夫…」
覚悟を固めた城原を小馬鹿にするように、魔術師の配下達は彼をスルーして地下空間の内部に突入していった。
背後で似たような詠唱が重なっていく。水の魔術で火を鎮めんとしているのだ。だが振り返ってその様子を眺める気にはなれなかった。そんなことよりずっと気になることがあった。
猛る河のような勢いでセリアースを飲み込んだ魔術師の流れ。それを構成する者達は、一様に見覚えがある衣装に身を包んでいた。
(俺が魔力探知機に引っかかった時に出てきた、サーズド家の執事が従えていた従者…あいつが着ていたローブだ。ということは、こいつらもサーズド家の人間か)
そうなると当然、セリアースやレイシアに危害は加えられないだろう。その推測に安堵して、肩の力がまた抜けていった。そこへ、
コツ、コツ。
足音であった。
この階段で地下へ潜る際に鳴る足音を、城原は何度も耳にしている。孤独な闘いに赴く自分のもの、その自分を心から気遣うレイシアのもの、命を受け一斉に駆ける魔術師達のもの。
だが、今回のものはそのどれとも異なる性質を持っていた。まるで人が生を終え地獄へ堕ちるときに、現世へ迎えにやって来る悪魔の足音のように。近付かれれば近付かれるほど、息が苦しくなっていく感覚が襲う。
そして、足音の主は城原の可視範囲まで降りてきた。靴から顔へ、その姿が明らかになっていく。
そう、その人間は後ろ姿しか、城原の記憶にはなかった。
だがその男を一目見ただけで、城原の脳内にスパークが走る。
現実世界では引きこもりでなくとも到底味わえない濃密な一日を過ごした中でも、あの存在をどうして忘れることができようか。
氷山のような銀髪に、額に走る刀疵。
先代魔導官令エグリエスカ。
実孫セリアースを凌ぐとも言われる魔術の腕と、何より幾多の修羅場を潜り身に付けた人外級の威圧を放つ男が、城原の目の前に立ち塞がった。
「…傷口を塞いだだけだ」
先に口を開いたのはエグリエスカだった。この存在に自ら話しかける度胸は今の城原にはない。
「失血は今更どうにもできん。しばらく体調が優れない状態は続くだろうな」
彼の治癒魔術がなければ、城原は今でも生死の間際を彷徨っていたか、すでに死の側へと転がってしまっていたかもしれない。
それ以前に彼とセリアースは肉親である。危害を加える気があるはずもない。
しかしだからといって、エグリエスカは城原を安心させてくれるわけではない。
その全身から醸し出される威圧に加え、セリアースが座りつづけていた椅子の居心地の悪さからくる不和も懸念されるからだ。
(この爺さん、孫の引きこもりなんざ絶対許さねぇタイプだろ! よくこいつと同じ屋根の下で引きこもり生活を営む決心ができたなセリアース…
親族といえど他人に興味がなく頼る気もないので黙認したか、サーズド家総出の説得大会に参加したけどセリアースの意志の固さの前に敗北を喫したか…ありえそうなのは前者だな)
舌の代わりに脳を回すことしかできない城原に代わり、二人の姿を目に収められるところまで降りてきていたレイシアが震える声で問い掛ける。
「お、畏れながら申し上げます! なぜこのような辺鄙な場所に私たちがいるとお分かりになったのですか…」
あの家で働いていたレイシアでさえエグリエスカに問い掛けるには勇気を要するらしかった。
問われたエグリエスカが見つめ続けるのはセリアースか、その背後の扉跡越しに窺える消火の様子か。どちらにせよレイシアの方へ振り向かずに、老人は一枚の紙切れを取り出して掲げた。
「お前は見覚えがあるだろう。邸内で使用人が拾ったと報告してきた」
「それは…」
セリアース宛の手紙の中に紛れ込んでいた、誘拐の報告と呼び出しの手紙であった。
「「練兵の涙」…ほぼ全ての武器弾薬が既に消費されてもぬけの殻とはいえ、隠匿されている帝国の兵器倉庫だ。犯人は帝国の内部事情に精通した者か…内部がこの惨状では身元を特定できる確率は限りなく低いが」
(…なるほど、火薬箱なんて物騒なものがあったのはそういうことか。帝国の要人しか知らない場所をセッティングすれば、人目につかずに俺だけを抹殺できる。
まあ本当は俺もわからなかったんだけどな。あの緑の光の導きがなければ)
「よって、ここで起こったことは推測できる。今すぐにお前から洗いざらい吐かせようという気はない。…そこで、だ」
話題を転換しようとするエグリエスカの言葉。その転換先がどこなのか、場所によってはセリアースについて理解のない城原は大いに窮することになりかねない。
「こちらも質問をしようか…
お前はなぜ今になって立ち上がり、戦った?」
…城原は、黙りこくったまま。
まだ答えが帰ってこないことを悟ったエグリエスカは、再び話し始める。
「お前が部屋から出なくなってからまともに会話を交わす機会はなかったな。ここで伝えられることは伝えておこうか。
まず、お前が次代魔導官令としての務めを放棄したことに対して、怒りなど沸いてきたことがない。そこにあるのは、ただ失望だけだった」
城原は俯いていた顔を上げ、エグリエスカの表情を窺う。この老人の顔に穏やかさの色を見つけることはできないが、かといって引きこもりの孫と相対する苛立ちも見受けられない。
「シアンもデインも、魔導官令或いは魔術そのものに与えられた試練ともいえるこの時代を乗り越えていけるとは思えん。早期にシアンを魔導官令の座から降ろし、兄のデインではなくお前をそこに据える。お前はそれだけの大器だと見込んでいた」
セリアースの視線に気が付いたか、エグリエスカも焦点が定まっていないようだったそれを彼に注ぐ。
その瞳はあまりに無機質で、感情らしい感情は浮かんでいなかった。
「だがお前は逃げ出した。その姿を見たとき、私はお前を魔導官令復興のための選択肢から消した。一度そうした以上は、お前が最初からいなかったようにして仕事を進める必要があった。だが、私たち3人で魔導官令を回していく間に、お前の存在を欲しがる局面は数えきれん」
頑固という言葉さえ陳腐に感じさせるような雰囲気の老人は、拍子抜けするほど正直に感情を吐露した。
「だが、最も期待できるお前には魔導官令復権の志がなかった。その事実を噛み締める度に、私の中に失望が広がっていったのだ」
城原はふとエグリエスカから視線を逸らし、その後ろのレイシアに目をやる。彼女は老人のセリアース評を受けて、口惜しそうに口を結んでいる。
彼女は一切セリアースを諦めていない。自失状態の主人の覚醒の時を待ち続けていた。
だがエグリエスカは違う。魔導の血の寵児と呼ばれた実孫の存在を、惜しみつつも踏ん切りを付けるため消し去っていたのだ。
「さて。そういうわけで、未だお前に魔導官令復興の意思がないのなら無理して戻ってくる必要はない。落ち目の我々と言えど、人一人養うくらいは大した負担にならん。どうするかはお前が決めろ」
セリアースの去就は、城原の手に完全に委ねられた。
エグリエスカは彼に引きこもり続けるという選択肢を提示した。ならば、それを選んだところで責められることはない。
一庶民のものから皇族家でのものへグレードアップした引きこもりライフが、城原の目の前にぶら下げられる。それに食いつくのは、自意識の欠片もない城原にとって実に容易だ。
そして、城原は答えを出した。
「おじい様!」
セリアースのこの老人に対する二人称は何だったのかは知る由もないが、軽々しい呼び名の使用は憚られる老人に向けて叫び、立ち上がる。
同時に、レイシアへも目をやる。これまで一言も発することができなかった主人の決断を前にして、唾を飲み込む様子が見て取れた。
そんな従者に、セリアースは一瞬だけ微笑みを投げかけ、
「僕にもう一度、「魔導の血の寵児」をやらせてください!」
祖父に向けて深々と頭を下げた。
無の時間が、いくらか続いた。
頭を下げる城原からも、真後ろにいるレイシアからもエグリエスカの表情は窺えない。
「…必要はない」
やっと発された言葉に、城原は突き放される。
「お待ちくださいおじい様!」
「セリアース」
まくし立てようとした城原を、エグリエスカは静かに制止する。
「すぐに動く必要はない。栄養と休息を十分に採り、失血の影響がなくなってからお前に仕事を与える。満足のいかない健康状態では魔導官令の激務に耐えられん」
レイシアの顔が晴れ渡っていくのが見えた。城内を彷徨うセリアースを見たとき以来の輝きを放っていた。
そして不思議なことに、城原の心も晴れた。これから待ち受けるのは間違いなく茨の道だ。常に舗装された楽な道を歩むことを好む彼が、そこを歩むことの難しさは自分がよく知っている。
だが、今の彼には進むべき理由があった。推進力となってくれる人がいた。
「はい!」
城原玲樹であった頃も含めた人生で最も締まった声が、まだ閉鎖的な空間に響いた。
エグリエスカは検分へと加わった。用意した馬車で帰るようにとの命令を残して。
全面が焦げ付いた空間へ入る背中を見送ってから、セリアースは歩き出す。確かに歩く度にふらつく感覚もあるし、頭もどこかボーっとしている気がする。
だがその中でも、思いを伝えておきたい人がいた。
その少女の顔には光るものがあった。階段を上って正面に立ち、主従の立場を忘れて頭を下げる。
「ごめん。これまでずっと、辛い思いをさせてきたね」
そして頭を上げ、瞳を真っ直ぐに見据える。
「こんな俺だけど…ついてきてくr」
「もちろんです‼」
食い気味の回答に苦笑が漏れる。一大決心を中断されたのは少し恥ずかしいが、この直情さもまた彼女だ。
嬉し泣きに震える声でレイシアは続ける。
「例え地の果てまでも、私はサーズド・エル・セリアース様にお仕え致します‼」
「いやはや…まさか君がねぇ…本当に…いやぁ…えぇ…」
暗く湿っぽい部屋に、行き先のない呻き声が漏れる。
とはいえ、そこに混じる悲壮感はさほどの量がない。例えば出かける日に限って雨に降られたような、その程度の無念しか混ざっていなかった。
「責めるつもりはないさ。彼の力量を見誤っていたのはどちらかと言えば私だ。長い戦闘ブランクから覚めないうちに…と思ったんだがね。「魔導の血の寵児」は健在だったか」
彼の話し相手となるべき男はもういない。既に死亡した旨は耳に入っている。
「まあ、なんなら向こうがあえて隠していただけで戦闘訓練は怠っていなかった可能性もあるけどね。「お告げ」はそこまで言ってくれなかったようだけど。
いや、まあ違うな。彼は戦いの女神サマに愛されているよ。目先の魔術や剣技だけでない、根本の戦闘センスからして天賦のものだ。多少のブランクくらいなんとかしてのけるのが彼だよ」
席を立ち、地下をフラフラ歩いてみる。
あの男には多大な信を置いてきた。上への忠誠は固く下もガッシリ掌握しており、魔術の腕も一入であった。これほど点数の高い配下は二度と得られないと彼も思う。
だが、あの小男はあくまで道具に過ぎない。そしてその道具が、自分の命と引き換えにセリアースに重傷を負わせたという情報も掴んでいる。十二分の成果だと彼は評価した。なにせ、自分たちはかの存在に手が届くということを証明してくれたのだから。
「なんとかアイツを焚き付けて屋敷内で始末させるべきだったか。まあ、あのバケモノジジイの手の内でそんなことができる度胸はアイツにゃあないよな。そこから骨肉の争いに発展したりしてくれれば儲けものなんだが」
ドカッと席に身を投げ出す。物憂げな溜息が漏れた。
そして、それを吐き出し終わった口が邪悪な形に歪んでいく。
「だが安心してくれ。君の死を決して無駄にはしない。
魔導官令は、必ず潰す」
同様に歪んだ笑い声が、独りの男自らを包んだ。
城原にとって初めてこの世界が夜に包まれる。その中を進んでいく馬車の中では、不思議と交わされた会話はなく時間が景色と共にあっという間に過ぎ去って行った。
ボケっと考え事をしていたら、いつの間にか湯船に浸かっていたような感じだった。
(全身が熱湯に包まれる感覚懐かしー。1ヶ月くらい入ってなかったけど、これからはそんな訳にもいかねぇよな)
…トチ狂った入浴観の持ち主には勿体無いほどの広い風呂である。
(俺の部屋に戻って、奥にあるこの風呂に案内されたからこれは俺専用だよな。…本当に傾いてんのか魔導官令?)
鼻まで湯に浸かり、目の前で泡立たせてみる。やはり都市部だからか、水質自体は特別なものを感じなかった。
(さーて、これからだ。俺がするべき…いやしたいことは魔導官令の復興、同時に「魔導の血の寵児」の名を再び高める。…うーん、具体的なToDoやら何をもって成功とするのやらが全く分からん)
思考にかかった靄はまだ晴れないままだ。それでも、
(まあ時間はある。与えられた療養期間でレイシアから色々聞き出してやるさ)
1日で積み重ねて凝り固まった緊張が、熱湯に溶かされていくようだった。気持ちの行く先を自然に前方向へ向けさせてくれるような感覚に、深呼吸を重ねる。
「うし、いっちょリスタートやったるか!」
「はい、私ももう一度セリアース様のご勇姿を拝見できることを楽しみにしています!」
応答があるのは予想外だった。そして、相手の姿は見えずとも正体はわかる。
「あ、聞かれてた⁉︎それはちょっと恥ずかしいなぁ…」
「恥ずかしがられることはありませんよ。そんな意気を見せてくれるセリアース様こそが私の見たかったセリアース様ですので非常に感激です!」
賞賛を受けての正しい反応が見つからず、乾いた愛想笑いを捻り出した。それに対してレイシアもぎこちなく笑う。
なんだかんだあっても、出会って初日である。片方は他人とのまともな会話さえ間隔が空いており、もう片方はいわば片方の狂信者である。段差のないスムーズな会話など望むべくもなかった。
(これまではちゃんと話せてたんだけどな。緊張するのはここが風呂場だかってのもあるのか…
…ん?)
最初はどこかが引っ掛かる程度だった。その違和感が増幅して行くと同時に、城原は視線を左にスライドさせる。
それが一定に達してレイシアの姿が目に入った途端、セリアースは逆の右向きに激しく首を振った。
なぜかと問われれば、彼女があまりに肌色だったからである。この少女は一糸纏わぬ姿で湯浴みをしていた。
「なななななななんで何も着てないいやそもそもなにサラッと無断混浴してくれちゃってるんですかチョイチョイチョイ!」
慌てふためくセリアースを余所に、レイシアは合点のいったように手を打った。
「ああそうでした、昔のことは覚えていらっしゃらないのでしたね。
自失状態だったころのセリアース様は、ご自分でお風呂に入ろうともなさいませんでした。なので私がお連れし、そのまま体も洗って差し上げていたのです」
「何それ恥ずかしい。風呂入らなかった俺が言うのもなんだけど、そこまでしてもらうことないのに」
「いえ私としてもセリアース様との混浴に大興奮…いえそのなんというか非常に働き甲斐がありましたので」
(ああなるほど、この子にとっちゃぁ推しとの混浴になるのか。なら苦痛でもセクハラでもなんでも…)
セリアースの方も合点のいったように手を叩く…
訳がなかった。
「いやおかしいだろ俺はもう自力で入ってんだからさそれに入るなら入るでなんかしらは着て来いやー!」
今すぐこの場から脱出するため、ザバーンと湯船から立ち上がり…
全裸なのはあちらだけではないことに気が付いた。
そして、こちらがしていた配慮は視線を彼女から逸らすだけ。要所を防衛する意識は欠けていた。
セリアースがセリアースだった頃に何度も見られてきたのであろうから感じなくていい気まずさに、押しかけてきたのは向こうなのだからこれまた感じなくていい申し訳なさ。
既に熱湯で上気していた体の中から、さらなる熱が沸いてくる。
その感覚を最後に、セリアースの意識は世界から剥離された。水飛沫を上げて浴槽に倒れ込む感覚も感じぬままに。
布団が柔らかい。
これまで自分の居場所は、布団の中かゲーミングチェアの上かの二つに一つだった。それゆえ、そこの変化には自然と敏感になる。
(…もし奮闘虚しく魔導官令が潰れたら、布団ソムリエとして食って行こうか)
頭は未だに朦朧としているが、レベルの低い思考なのだからそれでも問題ない。
彼にとってこの世界でのスタート地点であるベッドに、セリアースは右向きに寝かされていた。何時ぞやのキャンドルが、闇を迎えて仕事を再開している。
湯の熱さと興奮による体温上昇でのぼせ上がったらしい。なんと鼻血が噴き出していたらしく、現実世界で言うティッシュのような軟紙が鼻に詰められていた。
(いや、今これ以上の失血は笑えねぇぞ…
血が逆流しないように横向きに寝かしてくれたんだろうけど、無理矢理体内に押し留めた方がいいんじゃねぇの?)
鼻から抜いた紙の赤さを見て、今度はスッと体温が下がる。
(まあいいや、レイシアが一緒に入ってくれなかったら溺死してたかもしれないから感謝が勝つ。
ここまで運んでくれたのもあの子だろうし、なんか迷惑かけっぱなしだな…)
今のところこの王子様は完全に口だけの男であった。
小男との戦闘後は完全に助けられっぱなしだ。それも成人か、それに近い体格の男性を支え歩くという重労働を二度も強いている。
そしてそれより頭一つ抜けている失態が、城原の記憶の中で幅を利かせている。
(レイシアが押し掛けてきたとはいえ、教育上非常によろしくないブツを見せつけてしまった…)
いくら本来の自分の持ちモノではないとはいえ、恥ずかしいに決まっている。
(いやでも、意識がフェードアウトする瞬間に見えたレイシアの顔は平然としていたような。
これまでずっとセリアースを風呂に入れてきたんだから見慣れてるのか?
…実際、奴の…いや俺のは皇族としての威厳を保っていた。恥入るような粗ブツではないしな…)
いつまでもクヨクヨする自分から脱しようとした結果、最悪の開き直り方を見せてしまった。
とはいえ、レイシアに頼りっぱなしの現状は茶化せない。「魔導の血の寵児」と呼ばれたセリアースを見ることがレイシアの理想であり、それを叶えることがセリアースの理想なのだから。
そこへ一歩でも近づくために、数少ない手札の中から使えるものを探し当て
(…ってやってても仕方ないだろ。取り敢えず今日は疲れてるし寝て、明日以降得た情報を基に考えていけばいいさ)
…こういった考えに対する是非は割れるものだが。
まだ城原玲樹を色濃く残すセリアースは、これを最善手と定義した。
完全にその気になったセリアースは、区切りをつけるために溜息のような言葉を吐き出す。
「はい終わり、おやすみなさーい」
同時に、ちょうど電球のスイッチをオンからオフに切り替えるような形で、左向きに寝返りを打った。
「はい、おやすみなさいませ」
その寝返り先に、メイドさんの顔が目の前で待ち構えていた。
時間が静止する。
「…昔のセリアース様は、放っておいたら地ベタでお休みになってしまうことも多々ありました。なので私が寝床までお連れし、お眠りになったのを確認しなければならなかったのですが…一度布団に入ってしまうと中々離れ難いものがありますし、言葉からは感じられなくなってしまったセリアース様の温もりを全身から感じられ…」
そこにいる理由を問われることを見越しての返答だった。ということは、
「薄々自分がおかしいことやってるって気づいてんじゃねぇの?」
今更驚くことはなく、何故か呆れたような声が出た。
そんなことがあったので、体の向きを戻した。空気の不味さはあまり改善されなかったが。
錆び付いたコミュニケーション能力でも、これまでは会話を繋げてこれた。だがそれは常に必要に迫られてであり、今のように空白の時間を埋めるのとは訳が違った。
馬車内での清々しさとは全く違う要因での、凍りついた静寂。打破するきっかけを探るが…
(うーん、ことレイシアとのコミュニケーションの継続だけを考えれば、今日の日中みたいな波乱が常時起こってないといけないな)
彼は何事も崖から突き落とされない限りやらない男であった。
眉間に皺を寄せ思案に耽ろうとするが、結局答えは案外すぐに浮かんだ。
「…ありがとう、レイシア」
自分を何から何まで救ってくれた彼女に、結局感謝を伝えられていないことに今更気が付いた。
「単純に、君が肩を貸してくれなきゃ俺はあの地下空間で灰になってた。そもそも攫われたのが君じゃなかったら、俺はあそこまで向かわずにこの部屋で腐りっぱなしだったかもしれない」
今日一日をレイシアのお陰で乗り越えられたのは今更言うまでもない。そこに加えて彼女は、昨日までの抜け殻だったセリアースのことも待ち続けてくれていた。
「こんなに自分のことを想っていてくれた人を忘れるなんて、とんだ大バカ野郎だよな…」
未だ城原玲樹を抜け出しきれていなくても、今の自分は確かにセリアースなのだ。セリアースが受け取るべきだった想いには自分がしっかり応えるべきだし、むしろそうさせてほしいと彼は思う。
「…そして、暫くはそんなバカ野郎から脱却できそうにない。昔の俺に戻れるのはいつになるか…そうなれる瞬間は死ぬまでやってこない可能性も否めない。
…それでも、そのバカ野郎が歩き続ける道の隣には君がいてほs」
「…ぐぅ…すぅ…はにゃぁ…」
決意を固めて再び高速の寝返りを打ったセリアースの前で、なんとメイドさんは可愛いらしい寝息を立てていた。
「…俺も寝るか」
思いつめていたことが馬鹿らしく思え、なんかもう全てがどうでもよくなった。先程のも決意表明と告白の狭間くらいの発言だった。聞こえていなくてよかったのかもしれない。
「…まあ今日みたいな濃密な一日を過ごせば疲れるよな。取り敢えずゆっくり休んでくれ。俺も負けず劣らず疲れてるんで寝かせてもらう」
今度こそ心のスイッチを切る。それを待ち構えていたかのように即座に瞼が落ちていき…
「すぅ…はぁ…」
「いや女性の寝息が顔に吹きかかる範囲内で寝られる男がどこにいんだよ」
ベッドから逃げ出しソファーで寝る羽目になったセリアースが、その主因から「これでは本末転倒です!」と理不尽な説教を喰らうのはその夜が明けてすぐの事であった。
これで第一幕終了といった感じでしょうか。よく頑張ったね自分。
今調べたら初投稿は今年2月でした。7か月かかってるってことですね。多分遅いほうだとは思うのですが、それより問題なのは今後の展開が断片的にしか定まっていないことです。なんとかします。
あと、ここまでを加筆修正したもので何かしらのコンクールに応募しようと思ってます。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
P.S ここにきて気が付いたんですけど、この小説ってどなたかに読まれているんですかね? 未だ評価を頂いたことがありません。
もし誰も見ていないならここで何言ってもいい説ないですか?
というわけで、竹島は韓国の領土です。
これで文句言われなかったら大丈夫ですね!