6、彷徨
よろしくお願いします。
石や煉瓦によって形作られた街である。じっくり散策できれば、異世界情緒に身をドップリ浸せるのだろう。
だが、今の城原の前では、居並ぶ住宅たちは流れ行く背景、大通りの石畳は己が地面を踏みしめ走るための支えに過ぎない。
事態を把握した瞬間、城原の身体は動き出しており、脳は少し遅れを取った。
「四番街も「練兵の涙」も、場所の検討もついてない。そんな状態で飛び出した方が時間のロスだ」
扉に手を掛けた瞬間、そう訴えかけてきた。引き返して、本棚の無数の一つから、このホルディグス帝都のものと思しき地図が描かれたページを見つけ出し、さらにそこを破って持ち出すことにする。
邸内を走り抜け、手近な柵から外に出た。隠密性のケアなど頭になく、派手な足音と共に駆け抜けた。
間違いなく邸内の誰かに見咎められただろうが、そんなものは些事。「練兵の涙」に辿り着くことこそが今の城原に課された至上命題だ。
サーズド邸と記された自分の出発点を基準にして地図を読んでいくと、四番街は南に位置することが読み取れた。その方角へ延びる大通りを激走しているのが今だ。
さて、一刻も早く目的地へ辿り着くための全力疾走だが、一つ問題がある。
そう、城原のスタミナである。
生粋の引きこもりである彼に、長距離走の経験などあるわけがない。500メートルも走り続けられるかわからない城原に対して、地図とサーズド邸のスケールを照らし合わせて推測した四番街までの距離は4キロほど。気合や根性では埋め合わせられそうにない絶望だった。
だが、今の城原は。
サーズド邸と四番街の中間地点あたりに差し掛かっても、僅かに息を荒げているだけに過ぎなかった。
城内でも、僅かな体の軽さを感じたことは多々あった。
その僅かな軽さが、長距離を走ることで積み上がり、大きな違いとして現れたのか。
そして、その軽さの由来は、今の身体──セリアースにある。
(…いや、セリアースだって5年くらい引きこもりっぱなしって話だった。陸上選手だって5年も運動から離れれば、デスクワークが生業の中年男性みたいな身のこなしになりそうなもんだが…)
セリアースの完璧超人っぷりについて、城原はレイシアの口を介したものしか知らない。そしてそれを聞く限り、セリアースは何についても一定以上の成果を出すことができるが、それはあくまで一定以上止まり…各方面を極めた専門職には到底及ばないものだと思っていた。
だが、5年も引きこもり続けて、そこからいざ羽ばたかんとしたその日に、この長距離走を大した疲れも見せず(まだ道の半分ではあるが)やり遂げた。
(これって、相当すごくない?)
運動経験が圧倒的に不足している城原には、すごいんだかすごくないんだかはボヤっとしかわからない。
だが、そこらへんの一般人たち(城原玲樹のような最底辺は除く)にも到底なし得ないこと…一定以上以上だという想像はついた。
そして、自分(?)に酔っている暇はない。
セリアースの快速は、すでに城原を四番街へと運んでいた。
日は僅かに傾きかけている。異世界人の食習慣が現代日本人と共通しているなら、夕飯前の買い出しがラッシュを迎える時分だ。
そして、四番街は食料品を扱う店や、そこから発展した飲食店が多数集まっている。その二つの要因が重なり、城原は人波を掻き分け進んでいく必要に迫られた。
(っていうか、「練兵の涙」ってどこ? 名前的に水商売のお店? ああもう、感情で動くと本当にロクなことが起きん…)
そう、城原は裸一貫であの城を飛び出した。皇族であるという強力なカードこそ存在すれど、そこには引きこもりという汚点がついている。
当然、帝都の地理に関する知識もパーだ。誘拐犯側が、セリアースが当然知っているものとしてセッティングした場所であろうと、今の城原には皆目見当もつかない。
それに、ここの店はみな小規模な営業形態を保っているため、狭いエリアのうちにも複数の店舗がひしめき合っている。闇雲に歩いていたら偶々見つかりましたラッキー!とは成り得ないだろう。
待ち惚けを喰らった犯人の堪忍袋の緒が切れれば、レイシアにどんな危害が及ぶか知れない。至急「練兵の涙」に到着し、犯人と対峙する必要がある。
(なんせここには人がわんさかいる。片っ端から当たっていけばいずれ知ってる人に巡り合えるはずだ)
城原が最初に照準を定めたのは、香水の匂いと共に彼を追い越していった若奥様であった。
十数分後。
「なーんで誰も知らないんだよぉぉぉぉぉ!」
買い食いする客のために設けられたと思しきベンチで、城原は衆目への配慮を置き去りにして叫んだ。
城原がアタックをかけた人数は、両手で裕に余るほどになっていた。
だがその中の誰も、「練兵の涙」について芥子粒ほどのヒントになるようなことさえ言ってくれなかった。
そして、同様に尋ねた若い男──客引きであった──に、「練兵の涙」だと言われて連れてこられた場所──どう見ても、健全な食料品市場には似つかわしくない装飾ゴテゴテの風俗店──を見たとき、自分の中の大事な何かが潰れる感覚が襲った。そこからダッシュで逃げ出して今に至る。
そう、彼の心はいまや完全に折れたのだ。それは淡い期待が崩れ落ちたことによる大ショックだけが要因ではなく、
積み重ねられた心労が主因であった。
「ひ、人と話すの…精神的負荷が人間の許容範囲を超えている…」
城原の精神的負荷の許容範囲が人一倍狭いだとかそういう話は置いておいて。
実際、城原は疲れていた。
何度でも繰り返そう。城原玲樹は引きこもりだ。
家族以外…外部の人間と会話を交わす機会に、ここ数年ほとんど恵まれなかった。
そんな彼が、得体の知れない異世界人──今のところ異形の住人は見受けられず、全て人型であったが──に頼み事をし続けたのだ。
別に誰かを怒らせるようなことをしたわけではないことは城原もわかっている。実際、その質問で気分を害したものはいなかったのだが…
「ひ、人にものを頼むときの態度って、あんな感じで良かったのかな…何か粗相があって、みんな大人だから本人の前で口には出さなくても、影でボロクソ言ってるんじゃないかな…」
自分に答えられない質問を受けて怒る人間など、よっぽど己の知識量に自信を持つものしかしない。それにもし陰口を叩かれていても、彼等は城原と…恐らくセリアースとも繋がりを持たない通行人なのだからさして気にする必要もないのだが…
こうして自分で自分の心を追い込んでいった果てに、この疲労困憊っぷりがあるのだ。
「そもそも、引きこもりに対人をやらせるのが間違ってるよな…サーズド邸には結構な人がいるんだし、そこと協力すれば…」
なんてことは、城原もとっくに考えている。
犯人が潜り込ませた要求書で、人数はセリアース一人と指定されていた。それに従わなければ、レイシアが目の前で斬り捨てられるかもしれない。
そういう訳でどこまでも孤独なものになったこの闘いによって、城原の精神は摩耗したのだ。
街の広場に設けられたベンチから、人波の流れゆく様を眺める。引きこもり続けた彼にとって、PCで見る映像から飛び出したそれは新鮮に映った。
(…そうだよ。俺に一体何ができる? 自分で扱える武器も部下も持たず、手札は殺傷性のない風魔術の初級。体力やフットワークの軽さはセリアースから引き継いでいても、素手で何とかするだけの技術もない。
犯人が呼びだした俺と何をしたいのかは知らんが、結局一戦交えることにはなるだろう。そうなったときに返り討ちにされるくらいなら…誰かに任せた方がまだいい結果が得られるんじゃないか?)
そもそもここでの一番の被害者は城原でなくレイシアなのだ。兄デインからのオーダーでお使いに出かけた結果攫われたのだから、これは一種の労災であり、彼女の雇い主であるサーズド家に助け舟を求めることは間違っていない。
この世界において魔術が衰退したというなら、警察組織だってそれに頼らないものが組まれているはずだ。犯人側に感付かれぬよう行動…専門的な事件対応ができるのは後者だろうし、もしも魔導官令に引きこもりの妄言と一蹴されたとしても、一市民として誘拐事件を警察に持ち込めば、きちんと対応してくれるはずだ。
そう、やりようはいくらでもある。
「なんだ、そう思うと無駄骨だったじゃねぇか。…じゃ、交番を探さないとな」
用済みとなった休息所から腰を上げる。
(さて、じゃあ今度は交番の場所を聞かないと…事件が事件だから、、もっと上の方に対応してもらいたいが、まずは一刻も早く話を通さないことにはな。
うっ…ってことはまた人に聞かないといけないのか…)
城原が持ち出した地図は、帝都全てを収めるかなり縮尺の小さいものとなっているため、公的施設といえど中小規模のものは位置を示されていない。だが、このままサーズド邸に戻るのは明らかなタイムロスなので、ここで交番を探さなければならない。
(これだけ繁盛してる四番街には交番なんて間違いなくあるから、答えられなくて萎えることはないだろうが…それ関係なく人と話すってだけで滅茶苦茶緊張するんだよ…それも異世界人との会話なんてさぁ)
そう、実際この世界での城原の会話は全てガチガチで…
『やっぱり俺かんけーねーじゃん』
『いいえ、確かな関係がございます!』
『これまでセリアース様は魔術で私たちに沢山の奇跡を見せてこられました。それらが紛い物でないことは私の目にも明らかですし、他の魔術師たちにも広く認められていました!』
『じゃあそいつらも詐欺グループだよ! ごめんね寄ってたかって女の子を騙して!』
脳内に木霊する、レイシアと交わした言葉たち。
確かに、最初は取って食われるんじゃないかと恐れていた。だがそれは、後ろ向きな想像をさせれば右に出るものはいない城原にしては、驚異的な速度で雪解けを迎えた。
その後、彼女が全く異なる世界の住人だという前提は頭から掻き消えた。
こちらの思い通りに会話を進められたわけではなかった。むしろレイシアの謎言動に振り回されっぱなしだった城原だったが、そこに騙されている(と思っていた)レイシアへの憐憫や申し訳なさはあれど、此度のような心痛を感じたことはない。
「…結局、いいものだったよな、あれ」
引きこもり始める以前から、会話というものに楽しみを見出せなかった。
かけられる言葉が、家族からの嫌味や必要最低限の連絡事項のみになった頃には、より一層。
だが、あの会話たちは城原にとって確かに好印象を残した。
『ですがさらにさらに、セリアース様は現代の魔術師として最高の存在というだけではございません! 剣術や槍術、弓術に体術などなどあらゆる武道に精通され、学問においても専門家も舌を巻くような豊かな見識…そして、それらを兼ね備えていながら…』
「うん、まあ全部は覚えてないや」
レイシアの性格に依るものだろう、常に高めのテンションで伝えられた言葉たち。その中でも高揚の度合いが突出していたのは、セリアースに向けた賛美だった。
それらは、城原にとってはあまりに眩しすぎる分不相応なものだ。
だが、レイシアはそれを知らない。ただ目の前にいる主人に対して、自分が抱く感情を直接ぶつけただけ。
そして、城原にはレイシアが期待するものは何も持ち合わせていない。彼は一引きこもりにすぎないのだから。
だが、レイシアはそれを知らない。今でもセリアースが持つ能力を信じている。
そんな彼女が危機的な状況を迎えている今、それを脱したいと思うなら。
その助けを求める先は。
「彼女を救い出すのは、やはり俺の役目だ」
そして、その責務を負った城原自身は。
「俺は…
そいつを果たしたい。何が何でも。
そういう思いがあったから、俺はあの屋敷を飛び出したんだろ!」
引きこもり時代から培ってきた、自己嫌悪と卑下の感情。
異世界に迷い込んでから身に着けた、状況判断の合理性。
そのどちらをもかなぐり捨てて、城原玲樹が立ち上がる。
神様は、城原が決意を固めたことに免じてボーナスをくれるほど甘くはなかった。
彼の手元に、一切のヒントはなし。
だが、もう城原は絶望や諦観の味に飽きている。
今の彼の視線は、レイシアの救出一点に注がれていた。そのためには手間など惜しむわけがない。
尋ね人と同様の虱潰し作戦である。
決して時間に余裕があるわけではない城原だが、ノーヒントで動く以上はこうするほかになかった。
そう、こうするしかないのだ。それ故に…
「とはいえ、本当に見つかるのかねこれ…」
希望で満ちていた(こんな状態は初めてである)城原の胸に、早くも一筋の陰が差していた。
この複雑に入り組んだ無人の裏路地から、目標の施設を見つけ出すのは至難の業だ。少しずつ暗さを増していく空も、城原の焦燥感を掻き立てた。
「クソ…決めただろ…絶対に、レイシアだけは助け出すって…」
自分の不甲斐なさを感じるほど、全身が熱くなり、意味のない力が生まれてくる。それは己の右手に収束され、拳を固く握りしめ…
そこの熱さを鎮めるかのように、冷たい一粒が落ちた。
「…雨?」
この暗闇は、陽が落ちる頃合いになったから急拡大したのだと思っていた。だがそれに加え、天気の悪化もあったらしい。
それに気が付いた城原は、特に何という訳でもなく空を見上げ、
まだまばらにしか降らない雨粒の一滴が、城原の瞳を射抜いた。
盲亀の浮木…というほどではないが、顔を上げた瞬間に当たるというのもなかなか不運だろう。人間のウィークポイントの一つである眼球を襲ったごくわずかな衝撃に、思わず下を向き、目を閉じる。
「チ、たく…」
その僅かな不運も、追い込まれた人間を苛立たせる材料に成り得る。
自分の中に積もっていく負の感情を振り払うように、雨に濡れた瞳を開いて、
城原の目に映る世界は、少しだけその在り方を変えた。
そこら中にゴミが転がる道に、エメラルドの輝きが一条。
それは、曇天の路地裏には似合わない神聖さを放ちながら、この迷宮の深部へと続いていた。
「…?」
突如現れた輝きに、城原は眼を奪われる。
城原の前に姿を現した超常現象。本人は知る由もないが、これもまたセリアースの遺産であった。
秘術「魔眼」。
魔術使用の痕跡を視覚化できる手段である。
先に城原を恥辱から救ったのも、こういった秘術だった。
秘術とは、言ってしまえば持続時間が極端に長い(多くはかけられた対象が死ぬまで効果が切れることはない)魔術だ。
一度付呪してしまえば好きな時に使えるようになる分、源泉への申請が弾かれる確率が高かったり、その付呪時に魔導核にかかる負荷も大きい。秘術の内容にもよるが、熟練の魔術師でも秘術習得の過程で魔導核を全損、魔術師として再起不能に陥る例も多い。
複数の秘術をこの若さで習得するなど、前例のない大偉業なのだが…
その恩恵に預かる城原は、そんな理屈など知らない。
そして、そんな彼であっても、
「…この奥…よし、ダメで元々、行ってみるか…」
何かを感じ取り、今の彼にとって何より貴重な時間を預ける。
そうさせるだけの神秘であった。
光に沿っていくつもの角を曲がった先には、細長い建物があった。外壁がボロボロに崩れているため覗うことができる内部では、既に何本かの柱が折れていた。原型を留めていないためそもそもの使用用途は分からないが、今すぐに残りの柱が折れて二階が一階へと降格してもおかしくないような建物である。
この世界でも間違いなく犯罪に分類される行為の舞台としては、非常に適していると言えるかもしれない。
そしてかの光はそんなフロアを突き抜け、反対側の壁から下層へと続く階段へと続いていた。
目の前に沈んでいく階段、そしてその先を埋める暗闇。ここがこの旅のゴール地点になることを暗示しているようだった。
そう、きっとここで、犯人とレイシアが待っている。
「…行くか」
乾いた足音が左右の壁にリフレインする。
一定のリズムを刻みながら降りているこの階段は、一方通行ではない。犯人を捕らえ、レイシアと共にこれを上ること。それを果たすために、自分は今ここにいる。
先が見えないために、どこまでも続くのではないかと思わせるような階段だったが、当然ゴールは存在する。そこに用意された木の大扉の前で、城原は立ち止まる。
(状況の再整理だ。まずはレイシアの救出で、犯人をお縄にかけるのは二の次三の次。別に無理して争う必要はない。相手の条件次第では、それをそのまま呑んでレイシアと交換でも構わない。てかむしろ争わないほうがいいんだが、もしそうなったときの武器は…ほぼ移動専用の初級風魔術、それに俺には活かしきれない身体能力…うん、やはり穏便に済ませたいところだな…
…いや、もう逃げるのは真っ平だ。戦うにせよ交渉するにせよ、レイシアが思い描く「魔導の血の寵児」として犯人と渡り合って見せる)
ほんの少しの勇気を得た城原玲樹が、扉のノブを回す。
城原が入ったのと反対方向にはステージのような空間があり、
そこで、フードを被った小男が待っていた。
ずっとおとわっか系統のMAD見てたので作業が進みませんでした。
次からは頑張るのでもしよかったら読んでください。