4、魔導官令
よろしくお願いします。
階段から、地下の暗く湿っぽい部屋へ降りる男の顔は蒼白であった。
「その知らせ」自体が、悪いものであったわけではない。それは、いずれやってくる可能性としてはあまりに巨大すぎて、確定事項と呼んでも差し支えがないような代物だからだ。
その男の下に進み出たのは、上背の小さな男であった。
「やはり、来ましたか」
問いかけた先…己が忠誠を誓う相手の表情を一瞥した小男は、それだけで全てを察した。
自分が最も信頼を置く従者は、その信頼に応えてくれている…主人が何を思うのかを、即時に理解してくれる。その歓びによって、男の顔は彩を取り戻した。
そう、これはチャンスではないか。
私は、確かにずっとこの時を恐れていた。だが同時に、ずっとこの時を心待ちにしていただろう?
男の背筋が震える。これが武者震いであると完全に言い切ることはできない。先述の通り、恐怖という感情は今の彼の中に確かに存在しているからだ。
それでも、彼は嗤う。負けて全てを失う恐れより、長い間お預けされてきた餌を食い散らかせるかもしれない期待感が上を行ったことの証左だ。
大願成就を目の前にし、更にそれを果たすに足る戦力がいるという二重の歓び。それらにより完全に血色を取り戻した男の唇から、戦いの幕を開けるコールが発される。
「「魔導の血の寵児」が、目覚めたぞ」
城原玲樹を襲った怪現象の正体は、異世界転生である。
そう知った本人の胸中は、
案外穏やかであった。
(まあ、心の奥底にあったよ、そうじゃないかっていう気は。それを有力な説として捉えるのはなんとなく憚られたけど。
大体、異世界に転生される人間はどちらかというと底辺よりの人間だからな。ハリウッドスターが異世界で無双する話とか聞いたことない。
俺は間違いなく社会の最底辺にいる…いたから、さっきの募集要項はバッチリ満たしてる)
だが、まだ謎から解放されることはない。
(そうだ、俺を異世界に送り込んだ奴の目的がわからない。
レイシアの話を聞く限り、今のこの世界は三国によってちゃんと治められているし、何ら危機に瀕しているというわけでもなさそうだぞ)
それに、元々いたセリアースの意識は、どこに行ったのだろう。
そして、万能だったセリアースを追い出して、何の取り柄も持たない城原をその肉体に据えるのも、どう見てももったいない。
(…まあ転生する前に説明とかを挟んでこないってことは、俺を動かしている奴は何も教える気はないんだろうな…不親切だが、まあいいよ。自力で何か掴んで見せるさ)
城原がこれまでに得たセリアースの情報は、端正な顔、引きこもりという前歴、だがその実完璧超人であるということ、そしてーー魔術師として非常に優れた腕前。
だがそんな断片だけでは、セリアースとして振る舞うことはできない。
ここまできて、やっと自分がうつぶせに寝っ転がっていた事実に気が付いた。跳ね起き、レイシアに詰め寄る。
「俺の年齢性格誕生日血液型住所家族構成持病平熱経験人数性癖50Mのタイム全部教えて」
「え、えっと…」
困惑するメイドさん。目を泳がせながら暫く考えて出した提案は、
「取り敢えず、家族構成からで宜しいでしょうか…」
レイシアの後ろにつき、隠れるように忍び足で階段を降りていく。
いつかの彼女のような過剰反応を示す者が他にいないとも限らないし、その彼女からも、まだ人前に姿は見せないことを勧められている。
では、なぜ見つかるリスクを冒してまで部屋の外に出るのか。
レイシアは、サーズドの一族が顔を揃えるのは朝食時くらいからだと説明した。
非常口を連想させる建物の隅にある扉を開けば、そこは大きめの都市公園ほどの面積を持つ庭であった。
きめ細やかな芝生が広がり、そのずっと奥には、頻繁に剪定されていることを感じさせる乱れのない木々。皇族の屋敷に相応しい佇まいである。
「ここからは、何も遮蔽物がありません。匍匐前進くらいの気持ちでお願いします」
言われた通り、匍匐前進擬きで進もうとする城原。
…目の前で屈みながら進むレイシアを守るロングスカートの防御は堅かった。
(…なんか、さっきからやってることがメ〇ルギアなんだよな。カーテンの裏に隠れたりとか。
折角異世界転生したんだし、なんかこうもっとスカッとすることがやりたい…)
城原玲樹のストレス耐性は誇張抜きで0である。ストレスから逃げて引きこもりになり、その後はそれを一切感じてこなかったのだから。
そして、天才的な魔術師に転生したならば、行く手を阻む障害は己の力で薙ぎ払えるためノンストレス…なはずなのに、なぜこんなにもコソコソ振る舞わなければならないのか。
(いや、待てよ…そうだよ、俺は魔術師じゃねぇか)
城原はほくそ笑んだ。
「あの庭に面した建物がダイニングです。人目につかないよう庭から大回りしてきましたが、そこで皆様のお顔を覗き見…ご覧になりながら私が説明を致しますので…セリアースさ」
呼びかけた相手は、弾丸のような勢いで飛び出した。
風圧で芝生を転がるレイシアを余所に、セリアースは猛烈なスピードで滑っていく。だが、そのスピードの分摩擦もかかり、勢いを失うまでもまた一瞬であった。
見る見るうちに減速していくセリアースは、目的地であったダイニングの出窓の下のスペースにぴったりと収まった。
「ハチャチャチャチャ!」
(熱っつ! 摩擦で火傷しかけたぞ…でもまあ、ここまで早急に辿り着くという目的は果たせたんだ。《嵐の芽吹き》だったか? 横軸の移動にも使えるとは…)
やっと魔術を(スタイリッシュとは到底言えないが)活用でき、ご満悦の城原。
(そういえば、レイシアは置いてきちゃったけど。まああの子はこの家の使用人だから、一人で出歩く分には怪しまれないはずだ…)
そして、出窓の下の狭いスペースで一休みしている城原を、
ジリジリジリジリ!と、耳をつんざくばかりの警報音が襲った。
「おいおい、今度は何だよ!」
引きこもりという、緊張とは無縁の生活を送ってきたツケをこの数十分で払わせるような、緊迫した状況が続く。
そして、庭へと続く扉が開け放たれる。
そこから庭へ踏み出してきたのは、格調の高そうなタキシードを纏った白髪の男であった。服装と風貌から、使用人を束ねる立場にあるのだろうと城原は考える。
更にその後ろから、ローブを羽織った男たちが続いた。人相はみな違うため、彼らの正体の考察に使える材料は服装しかないが、そうなると…
「あいつらも、魔術師…?」
だが、今は身を隠さねばならないため、詳細な観察は後回しだ。体を縮める。
日が当たらないこのスペースは見つかりにくいとは思うが、入念に探されたらアウトだ。最悪の事態に備えて、セリアースらしく振る舞うためにはどうすればよいか考え出した城原だったが、
「あ、あ~~~~~~!」
レイシアが、執事風と魔術師(仮)達の注意を惹いてくれた。
「む、レイシアか。この庭の魔力探知機が作動した。不審者は何処へ向かった?」
執事風の老人が不審者の存在を断言したことから、魔力探知機とやらの精度はかなり信頼されているらしい。誤作動で済ませることは難しそうだ。
「え、えーと…」
メイドさんも苦しい。言い淀んでいる間に、老人の目つきはどんどん険しくなっていく。
彼女のセリアースへの忠誠は、もはや信仰と呼べるほどに深い。そしてその対象には、そのセリアースが属するサーズド家も含まれているだろう。
だがしかし、ここで不審がられれば、彼女の職場での居心地が悪くなっていくのは無職にも容易に想像できる。それはあまりに理不尽だ。
(なら…周囲の混乱覚悟で、セリアースが脱引きこもりを果たしたんだぞ、とここで宣言すれば…いや、まだセリアースとして振る舞うための準備ができてないぞ⁉)
城原は城原で、一人頭を抱えていた。
そして、先に思考の停滞から脱したのは。
「そ、その…実は…」
(レイシアが先に音を上げたかっ! ならしょうがない、その場その場を何となくで凌ぎつつ、後でちゃんとレイシアに…)
「ま、魔兎が、走っていきました…」
あの忠実なメイドさんは、セリアースの名を口にしなかった。
だが、それで解決するわけではない。老人の追及は止まないからだ。
「魔兎? 獣除けは高ランクのものが張られている。獅子でも進入を躊躇うほどの効力なのに、魔兎ごときがそれを抜けたと?」
「えっと…私が連れ込んだんです…飼おうと思って」
「…我々は、ご主人様のお屋敷に住まわせていただいている以上、そこに勝手に生き物を連れ込むなど言語道断。わかるな?」
「…はい」
「減給だ。皆様のご歓談のお時間に横槍を入れたこと、よくよく反省するように」
「…申し訳ございませんでした」
裁定を下した老人は、ローブの集団へと向き直り、
「使用人の勘違いで、侵入者、不審者の類はいなかった。各々持ち場へ戻ってくれ」
彼等はタイミングを完璧にそろえて頭を下げ、散っていく。
それを確認すると、最後に残った老人も立ち去る。だがその直前、これまで感情を一切見せずにトラブルに対処してきた老執事はこう吐き捨てた。
「…全く。日夜お忙しくしておられる方々へのお世話を怠け、何の役にも立たない引きこもりにばかり構いおって」
老人は、独り言の体を装いつつ、レイシアの耳にも入るような音量で言葉を吐いた。
だが、それはレイシアだけでなく、ずっと聞き耳を立てていた城原の元にも届いたのであった。
「うわ…やっぱりセリアース嫌われてるじゃん…」
レイシアのようなタイプは少数派…どころか、セリアースに理解を示しているのは彼女オンリーかもしれない。
そう考えると、あそこで出会ったのがレイシアでよかった。口調だけは丁寧だが心からは憎悪を滲み出させている使用人に対応されるのは苦しい。
そして、そのレイシアが近寄ってくる。
彼女は手を差し出した。それに掴まり起きろ、という指示だと解釈した城原はその手を取り、体を引き上げた。
「セリアース様。この庭には別勢力の魔術師の侵入対策として魔力探知機が多数設置されています。魔術の行使はお控えください」
「う、うん…わかった。
ごめん。俺が勝手にやったことなのに、そのせいで君が罰を受けることになっちゃって…」
「いいんです。お伝えしなかった私のせいですから。
それより、早く皆様のご紹介を。セリアース様が昔のように振る舞えるようになれば、もう隠れる必要はありませんので」
ダイニングに備えつけられた窓から、慎重に顔を覗かせる。
「向こう側が意識しなければ、見つかることはないと思います」
レイシアの推測は城原も信用したいが、隠したはずの身が見つかるトラウマは払拭できそうにない。それでも、勇気を出して顔も出す。
シャンデリアを仰ぐ大きなテーブルを、四人が囲んでいた。二人と一人が向かい合うように座り、それらとは違う辺…城原は「お誕生日席」と呼ぶことにした…にいる人は、城原たちの窓に背を向けているため顔は確認できない。
「まず、向かって左側の奥の男性です」
レイシアが指し示した男は、眼鏡を掛けていた。今のセリアースとそう変わらない年頃に見えるが、それにしては面持ちが険しい。眉間に深く刻まれた皺は、この爽やかな朝には似合わなかった。
「こちらがセリアース様のお兄様、デイン様です。
…正直に申し上げて、デイン様は魔導核のような、何か飛びぬけた才覚をお持ちというわけではありません」
「え、魔導官令の家の子なのに魔導核がないの?」
「はい。魔術師の家の子は魔導核を持って産まれてくるケースが大半ですが、デイン様はその例外でした。
ですがそんな中でも、デイン様はお若い頃から目の前の仕事を確実に片付けていかれる方でした。
しかしセリアース様が引きこもられてからは、その分の仕事がデイン様の下に回ってきました。セリアース様がサクッと片付けられる仕事も、才能に恵まれず、何より魔術という切り札を持たないデイン様には重荷です。
そのため、毎日とてもお疲れなご様子。この朝食時などはまだリラックスされておられる方です」
再度デインの表情を観察する城原。
(あの皺の寄り具合でリラックスしている方って…普段は文豪みたいに思い悩んでるんだろうな)
「お次は、デイン様と向かい合っておられる女性…アクシアル様です」
視線をそのまま右にスライドさせた先にあったのは、美人ながらかなりの厚化粧…もしくは厚化粧によって支えられた美人…な、朝一からのドレス姿であった。
深紅のドレスや口紅はかなり過剰な装飾で、ナイトパーティーで見かけたならばぴったりだがこちらも朝食にはミスマッチだ。
(朝飯食べる前に身支度する習慣がついてんのかね?)
これは、着替えの頻度が三日に一回である城原の考察。
「どのような方かと申しますと…このあだ名を聞いていただくのが一番かもしれませんね」
使用人の間だけでひっそり使われているあだ名なのでご本人には秘密にしていただきたいのですが、と前置きしてから、レイシアは伝えた。
「我々の間では、「お嬢姫様」と呼ばれております」
それだけでよかった。城原でも彼女の人格について大体理解できた。
「まあつまり、THEお嬢様でTHEお姫様ってことだよね」
「はい、とにかく派手好きで、常時誰よりも自分が目立っていないと気が済まないお方です。毎日のように社交場へ繰り出されているので、それもまた兄君デイン様の負担になっていたりもします…。で、でも決して悪いお方ではないのですよ?
それに、ご自分が得意とされている炎系統の魔術では、弟君であるセリアース様を凌駕するほどの腕前をお持ちです」
(なるほど、才能はあるけど人間性にちょっと問題があるのか…
ていうか、いい人って付けとけばフォローになるのは異世界でも変わらない言葉のマジックなんだなぁ…)
変な魔術なんかより使いどころがあるかもしれない、処世術的なものを身に着けた城原であった。
「そして、そのアクシアル様のお隣がシアン様です」
こちらも、眼鏡の男性である。だが、先程のデインとは、醸し出す雰囲気のベクトルが真逆であった。
(なんか、すげぇ穏やかなお顔をしていらっしゃる。
この世界には、神様だけじゃなく仏様もいるのか?)
今日の朝食の献立にはパンらしきものが入っているのだが、彼はそれを口に入れるたびに口元を綻ばせる。朝食という、何かと余裕を持てない行動において、ちゃんと味わいながら食事をしているのだ。 これまで見てきた二人がどこか張り詰めていたのも相まって、城原の目には彼が聖人のように映った。
「シアン様はセリアース様たちの御父上です。魔術の腕はそこそこですが、そのお優しい性格によって家の内外問わずに人望が厚いです」
城原の中で、魔術師とは冷酷な人種だというイメージがついていたため、シアンの食事姿は強く印象に残った。
尤も、その優しさが枷となって魔術がそこそこ止まりになっているのかもしれないが、性格を捻じ曲げて魔術師らしく生きるより、今の心持ちで暮らしていくほうがこの男性には合っているような気がした。
「それで、最後はおじいさまのエグリエスカ様ですが…」
それは、城原たちに背を向け、城原が言うとことのお誕生日席に座っていた。
白髪の男性である。
そこだけを見た城原は、先程の執事長を思い出す。だが、そのイメージは一瞬で掻き消された。
執事長のものは、完璧に整えられた灰がかった白。それに比べてこの男の頭髪は、過酷な雪山を連想させるような。
決して無造作というわけではない。ただ、醸し出される野性味を隠しきれておらず、それが見る者を軽く恐怖させる。
だが、それはあくまで頭髪という、人体から放たれる空気感…「オーラ」を決める一部分でしかない。
他の大部分から出されるものと合算すれば、その数値…もし「オーラ」を測定できるのならば…は、人の限界を超えたものが吐き出されるだろう。
本来実体を伴わないはずの「オーラ」。だが、彼のそれは、確かに見る者の心を束縛する。
当然、城原はこれほどの「オーラ」を放つ人物と接触を果たしたことはない。彼が人との接触を常とする職業に就いていても、あの世界で生きる限りはきっと出会えなかっただろう。
自分が異世界に転生したことを理解はしても、その事実を前にどこか高を括っていた城原。そんな甘えが、完全に打ち砕かれた気さえした。
(なんだアイツは? ホントに人間? セリアースのじいちゃんって聞いたけど…厳ついってレベルじゃねぇぞ… もしヤクザが一万人束になって凄んできても、この老人と比べりゃ保育園のお遊戯会だ…)
気がつけば、ダイニングを見回すための窓から、体の位置を離していた。どこか張り詰めていた空気の大元は、兄でも姉でもなくこの老人であったことに今更気が付く。
「エグリエスカ様は先代の魔導官令で、家の皆からは「大御所様」と呼ばれています。
彼がその任についていたのは、技術の発達など、何かと魔術に対する向かい風が強い頃でした。大御所様がいなければ、サーズド家は皇族の地位を奪われ、魔導官令という役職も廃止されていた…と言われるほどです。
ですが、大御所様は王国内や戦場で実績を積み上げ、皇帝陛下の信頼を得られました。そのため、今もこうして魔導官令とサーズド家は存続しているのです」
レイシアの説明で、見かけや雰囲気倒しの人物ではないことが分かった。
サーズド・エル・セリアースという、この異世界で然るべき地位にいる人間に転生したということは、このような傑物とも渡り合っていかなければならないということだろう。
自分がそれを成している未来図が見えず、城原は静かに絶望する。
そして、やがてその絶望は、このメイドさんの手によってさらに増幅されることになる。
同じく警戒レベルはMAXのまま、城原はレイシアと共に自室へ帰還した。
「さて、お待たせしました。今度はセリアース様ご自身についてです。セリアース様のことなら何でも知っている、この私にお任せください!」
サーズド・エル・セリアース。
そのサーズドという家名は、ホルディグス王家にとって特別なものである。
かつて王国を興した始祖の四兄弟の次男、シドリヤから連なる者たちが冠するものであるからだ。
ホルディグス帝国が勃興するまでには様々な苦難が待ち受けていたが、四兄弟はそれぞれの得意分野で活躍し、それらを退けてきた。これはかの英雄譚に語られる通りである。
だがそこには、次男シドリヤの名前だけがない。
彼は、何か突出した才を持たなかったのだ。
勿論、彼とて兄弟たちの活躍を指を咥えて見ていたわけではない。
彼は常に、兄弟の補助の役に回った。突出した何かを持たない次男は、残り三兄弟のどの役割もある程度こなせられた。
彼は間違いなく、ホルディグス帝国創設の影の功労者であった。彼に幾度となく助けられた三兄弟は彼を心の底から信頼していた。
だが、次男シドリヤその人のみが、己の功を認めていなかった。
何の取り柄を持たない故、裏方でコソコソ働いていくしかなかった自分が、始祖の四兄弟として持て囃されることが、シドリヤには我慢ならなかった。自責の念が、彼の心をどんどん擦り減らせていった。
見かねた長男はシドリヤに長期休暇を出し、どこかへ旅にでも出て気持ちをリセットすることを勧めた。新興帝国内での自分に存在意義を見出していなかったシドリヤはそれを受諾、長い旅が幕を開けることになる。
その旅も佳境に差し掛かったある日、シドリヤは突如の暴風雨に襲われた。人が入れるような洞穴を見繕い、そこで水滴を拭いつつ雨が上がるのを待つにことにする。
ふと、真っ暗な洞窟に光が灯った。
シドリヤが目を上げると、そこにはエメラルドの光を放つ蝶が静かに羽ばたいていた。
ホルディグスでは見かけたことのない蝶、捕まえて土産とするのもいいかもしれない…そう考えた彼は、光蝶へと手を伸ばした。だが蝶はその手をすり抜け、洞窟の深い方へと逃げていってしまった。
雨はまだ止みそうにない。興味を催した彼は、蝶を追って深部へと向かった。
蝶を何度も視界に捉え、手を伸ばせば届く距離まで間合いを詰めた。だが、最後には伸ばした手をすり抜けていく。そんなことを何度繰り返したか。
そして、蝶は洞窟の突き当りを左へ曲がった。その先には、あの蝶単体では到底放てない量のエメラルドの光が差していた。
しめた、と思ったのはシドリヤ。きっとこの先にはあの蝶の同種が集まっているのだろう。その中からなら、一匹くらい簡単に捕えられるはずだ。
そのシドリヤが、突き当りを左へ曲がる…
その先に広がる光景は、シドリヤの予想だにしないものだった。
そこに無数の命はなく、ただ一つの鉱物…巨大な緑鉱石があるのみであった。
だが、その方が遥かに異質なのだ。
これほど巨大な鉱石を、シドリヤは見たことも聞いたこともなかった。中くらいの池にすっぽりはまりそうなほどの大きさで、その市場価値は計り知れない。
「引き返す」「無視する」といった選択肢は、頭の片隅にも浮かんでこなかった。そのまま歩みを進め、巨石の前に立つ。数秒眺めていただけで、光輝に眼が眩んだ。
そして、その輝きに向けて伸ばしたシドリヤの指先が、緑鉱石に触れたその瞬間。
大幅に増幅し、更にはその性質を「白」に変えた光の奔流が、たった一人の旅人を呑み込んだ。
浮遊感に包まれながら、シドリヤは眼を開きかけた。
だが、その眼はすぐに閉じられる。その空間は、瞳を開け続けることを許さない、暴力的なほどの強い「白」で満たされていたからだ。
視覚を一切封じられた空間で、頼れるのは聴覚だけ。
そして、それを揺らしたのは、神秘的だがどこかシステマティックな高音だった。
『認証開始…一致、「新たなる天地」の民。
分類精査…人間。
創世神の要望に合致、「権能」を解禁。
この存在に最適化された出力方法を構築、完了。
「魔導書」として物質化…成功。
作業完了、対象を解放します。』
何を指し示す言葉なのかは、シドリヤも皆目見当がつかない。
ただ、解放がどうこう言っていたことから、自分がこの空間から解き放たれることを知り、安堵したくらいであった。
そしてその言葉に相違なく、浮遊感は薄れていく。閉じた瞳をも貫通しかけていた「白」も、その勢いを失っていくのが分かった。
そして、シドリヤが目を覚ます、その直前に、
これまでの声とは全く異なる、血の通った高音が城原の聴覚を撫でた。
「君たちの世界を…よろしく頼むよ」
気が付くと、シドリヤはホルディグス帝都の自邸内、自室のベットに横たわっていた。そしてその手には一冊の本…呪文や魔術理論などが記された、魔導書があった。
その本を参考にしながら、シドリヤは研究を重ねた。例えば、神話との脈絡と彼が聞き届けた創世神のものと思しきメッセージから、権能を借りるという魔術の正体を暴いたのは彼であり、それはかの魔導書には記されていない。
それらの成果は魔術の基礎として帝国内に根付き、彼の没後も子孫たちの手で更なる発展を遂げた。
神秘の力を得たホルディグス帝国は、軍事面でも内政面でも大きく飛躍したため、魔術は隣国からの畏怖と研究の対象となった。
だが、魔術に関する技術や情報はホルディグス帝国内に厳重に囲い込まれていた。神秘に触れる術は、帝国が独占していたのである。
そして、その魔術と魔術師を統べる魔導官令の地位も、必然的に高い位置にあった。
だが、時代が進み、科学技術が発達していくに連れて、その地位は下降の道を辿ることになる。扱えるものが限られる魔術よりも、広く万民がその恩恵を受けられる科学技術の方が、重宝される場所が多かった。
その滑落に歯止めをかけたのがエグリエスカである。しかし、彼の力を以てしても現状維持が精一杯で、魔術とその術者たちの栄達は望むべくもなかった。
既にエグリエスカも高齢であり、彼亡き後の魔導の道を危ぶむ声も魔術師たちの間で溢れていたのだが…
サーズド・エル・セリアースの誕生により、彼らに希望の光が差した。
魔術はもちろんとして、幼いながらもあらゆる道に精通したセリアースは魔術師以外からの評価も高く、それに伴い魔術も再評価されるようになってきた。彼が実務に関わり始めてからの魔導官令は、大きく実績を伸ばした。
そして、セリアースは魔術師の悲願に手を伸ばす。
かつてシドリヤに力を授けた巨岩、「源泉」の再発見である。
全ての魔術の大元となる「源泉」。そこに辿り着き、研究することが魔術の更なる発展を可能にするのは想像に難くない。
だが、シドリヤは「源泉」の詳細な所在地を伝えぬまま没した。そして、魔術の衰退に連れて、その救世主として「源泉」の発見が強く求められるようになっていた。
だから、セリアースは旅に出た。
そして、そこから帰ってくる頃には、彼は茫然自失になっていた。
「魔導の血の寵児」と呼ばれたころの面影は既になく、目からは光が完全に消えていた。
そして、彼はそのまま部屋に籠り、出てくることはまずなくなったのである。
「家の者たちが総出でセリアース様の説得を試みましたが、前から最側近であった私を除いて、誰も部屋に入ることをお許しになりませんでした。そのため、あの変化の理由を知る者はご本人しかいなかったのですが…今や本当に誰にもわからなくなってしまいました」
ですがそれはまあいいのです、とレイシアは切り替える。
「ご自身が引きこもる理由を忘れ、失われたのなら、もうそこに甘んじる必要はございません! 今一度「魔導の血の寵児」として、この国とそこの魔術を盛り立ててください!」
自分の主張が伝えられたということは、彼女は知っていることを全て話したのだろう。何度かに分けられて伝えられた、この世界の歩みと、セリアースという人物を取り巻く環境。
そして何より、レイシアのセリアースの復活にかける熱意。
それを踏まえて、城原が出した結論は…
「え、嫌だ」
「…はい?」
聞き返された。もう一度、詳しく答える。
「だから、俺は引きこもりっぱなしでいい。魔術どころかほぼ何も覚えてない俺ができることなんてないだろうし、俺がいなくてもなんとか回ってるんだろ? じゃあもういいじゃないか」
最大の理由である、働きたくない…それも、魔術師などという年中命の危機と隣り合わせてそうな奴等のトップとして…という城原の信条は伏せつつ、細かい理屈だけを並べる。
言葉というのは不思議なもので、己の無力さを口に出したことで、実際の無力感が体を包んだ。
そのまま、レイシアを背にしてベッドに寝転がる。
しばしの沈黙の後、スパンの短い足音と、扉を開け放つ音が背けた背中の方から聞こえてきた。
設定が難しくなってきました。
自分の頭の中だけでは整理しきれない可能性がありますが、設定集?みたいなものを作るのもなんかなぁ、って感じです。
そういえば、アイデアメモみたいなのも作ったことないですね。浮かんだアイデアを覚えていればよし、そうでなければ不採用、みたいな。僕のチンカスメモリーのせいで世に出なかった設定たちも結構いると思います。安らかに眠れ。
そうして好き勝手に、思うが儘書いてる小説ですが、読んでいただきありがとうございました。
これからもよろしくお願いします。