1、朝日の差す青銅の城で
この世に生を受けて十五年、初めて小説というものを書いてみました。
拙いところも多々あるとは思いますが、何卒宜しくお願い致します。
暖かな布団の中で、ゆっくりと目を覚ました。
いつものように、再び目を閉じて眠りに就こうとする。
それから暫く経ったが、彼の眼は冴えたままだった。今日は二度寝を体が嫌がっているのかもしれない。心はそれを強くを望んでいるのだが。
仕方がないので起床を決意した。寝床から出てしまえばあとは変わらない。毎日繰り返しているせいで条件反射になっているのだろう、寝惚け眼でもしっかりとゲーミングチェアに腰掛け、パソコンを起動させる。
そして、この引きこもり…城原玲樹の開き切っていない瞼に、強烈なブルーライトが飛び込んできた。
引きこもり、と区分される人間は、突発的に生まれるものと時間をかけてゆっくり熟成されながら生まれていく2パターンがある。
突発型は、何か心に深い傷を負うような大事件が起こり、それをきっかけに社会と交わりを持たなくなる、といったようなきっかけが多い。
対して後者、熟成型は、「なんとなく社会との交わりを避けているうちに、気づいたら外へ出なくなっていました」と言ったタイプだ。
つまり、社会を目の前にしてダッシュで逃げ出したのが突発型、「あ、はい、いやちょっと…」とか言って、手を顔の前で横にブンブン振りつつ少しづつ後退っていたらいつの間にかとんでもない距離が開いていた、というのが熟成型である。
だが、本当に心が深く抉られるようなことが起こったのならば、人と関わったり、組織に身を置いたりしづらくなるのは仕方がないし、それが最適たりえることもあるだろう。つまり、突発型は「少し心が弱かっただけ」な人間の分布が多い。
それ故、社会復帰もそう困難なものではなく、知人友人家族親戚あたりの励ましで立ち直れる例も多く存在する。
一方の熟成型は、「あ、これちょっと嫌だな。逃げるか」を繰り返して今に至っている。つまり、言ってしまえば真正のダメ人間が占める割合が高いのだ。
そして、この城原も典型的な熟成型である。「学校で特にやることもないから」と不登校になった人間が仕事に就けるわけもなく、「不登校」の称号は「無職」へとしっかり引き継がれた。
彼がもし、そういう自分を恥じ、改善のために何かしらのアクションを起こせる人間ならば、まだなんとかなったのかもしれない。
しかし彼は、熟成型の中で多数を占める真正のダメ人間であった。
彼はこの状況に満足してしまった。一日中寝て過ごすことが許される、こんな特権階級が存在してよいのだろうか、と(本来存在すべきでないのは言うまでもない)。
最初の方は、彼の親も彼の身を案じ、更生を試みた。
だがそれは2週間で終わりを見せた。彼が産まれてこのかた初めて見せた鋼の意思を前にして、その生みの親は彼に食事住居電気水道その他諸々の生活インフラを提供することしかできなくなっていた。
先のことなど何一つ考えず、取り敢えず今を必死でだらけることしか考えないのが、この城原玲樹という男であった。
「ふぁあ…と、もうこんな時間か」
城原はネットゲームからログアウトして、重い足取りで寝床へと帰っていく。
彼は時計を見ない。なぜなら予定など一切存在しないからだ。
彼が時間の基準とするのは、自分の身に起こる生理現象だ。あくびが出れば睡眠時間だし、腹が鳴れば食事時間。己の好きなように時間を使うことができる。
ちなみに、現在時刻は午前十二時三十分。生活習慣もクソもあったものではない。
だがそんなことは気にも留めない彼は、怠慢な動きで体を布団の中に滑り込ませた。
そして、何もかもを放棄して眠りに落ちるために瞼を閉じた。
それからしばらく後。
「…何でだ。眠れねえ」
天井を見上げながら、城原はひとり呟いた。
全く運動をしないため体が疲れるはずもないのに、どういう訳か普段の城原の寝付きは頗るいい。目を閉じれば勝手に脳が活動を休止し、意識が闇へと落ちていくのだが、今日はその限りではないようだ。
「またPCでも触るか…」
寝付けないのなら仕方がない。何かしらの活動に身を投じなければ、この無職は完全な暇人になってしまう。
「…いや、やめだやめ。寒いわ」
季節は12月に差し掛かっており、一度布団に入ってしまえば簡単には出づらい時期である。
社会人や学生なら、職場や学校に向かう時間が近づけば、なんとか決心してこの魅惑の空間から脱出しなければならないが、そういったタスクを一切持たない彼にそんな決心をする必要はない。
「PCを触る」と「たとえ寝付けなくてもお布団に甘える」を天秤に掛けた結果、彼の心と体は後者を望んだ。
だがしかし、そうなると彼は危惧した通りの完全な暇人になってしまう。寝付けるようになるまでの時間を潰すためのコンテンツは彼の布団の周りには存在しないし、それを取りに行こうとしても心と体に引き留められる。
何の道具も使う必要がない暇つぶしと言えばなんだろうか。
それは、考え事である。
「…よくよく考えて俺、これからどうすればいいんだろう」
そう、彼は引きこもりだしてから初めて、自分というものを見つめる機会に恵まれたのであった。
(使い古された文章だけど、親が死んだら食い扶持なくなるからな。そうなれば飢え死にへまっしぐらだ)
勿論、彼とてそんな末期は御免である。きちんと食っていくために何をすればいいかを考える…かと思いきや、
(まあ、俺なんて特技も長所も武器も適性も何もかもを全く持ち合わせてないからな。それに、引きこもりやる前から対人スキルも壊滅的だったし、何か言われたことだってまともにできなかった)
確かに彼には、何ら特別なところはなかった。むしろ人より劣る点が多数用意された状態で産まれてきた、と言えるだろう。
だが、そんな人間は彼以外にも腐るほどいる。彼等彼女等はその差を「努力」で埋めようと頑張っているのだが…
(歯車を噛み合わすためには、それらの中に粗悪なものが入ってたらダメなんだよな。社会の歯車で考えたら、まさに俺はその粗悪なやつだ。だから無理に組み込まれようとせず、こうやって弾かれてるのが社会にとっても俺にとっても最適なんだよきっと)
…この考え方が、彼をダメ人間たらしめる所以であった。才能がないのを言い訳に努力をしない。そんな人間が成長できるはずもないのだ。
「だから…俺はこうやって…社会のために…睡眠を…グー」
久々に考え事などしたから脳が疲れたのだろうか。お望み通り、彼の意識は闇に呑まれていった。
「う…うん…ふにゃあぁ…」
だらしのない声とともに、城原は目を覚ました。
眼ははっきりと開いていない。というかほとんど閉じているが、それは彼がPCに向かうのを阻む要因には成り得ない。この部屋におけるベッドとPCの位置関係は彼の身体に刻み込まれているからだ。
どこまでも重い足取りで、彼の身体は半自動的に進んでいく。
そして、いつも通り椅子に腰かける
はずだったのだが。
彼の身体は、後ろに大きくバランスを崩すだけに終わった。
当然、彼は盛大に尻餅をつく。その衝撃で眠気は完全に吹き飛んだ。
「いてて…なんなんだよもう…座り損ねたか…?」
仕事も学校もない彼にとって、朝一番からブルーな気持ちになるのは珍しいことだ。
だが、流石にこれくらいでケガを負うことはない。机に手を掛け、体を起こした彼だが、
その視線の先には、見慣れたPCはなく、
黄金色の長髪に、シャープな輪郭。だが何より目を引くのは、その切れ長の碧眼だ。
氷のように冷たく、春の日差しのように暖かな。
灼熱の砂漠の太陽のように熱く、冬の湖畔のように冷ややかで。
確かな気品を備えた男の貌が、城原を見つめていた。
「う…わあああああああああああ⁉」
まさか人の顔が見えるとは思わなかった城原は、驚きで仰け反り再び尻餅をついた。
だが、今度の彼の行動は早かった。
「誰じゃアンタはぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
運動器具のコマーシャルのように、倒れた体を強引に引き上げ、再び机の上へと顔を出す。
が、例の金髪も同じように下から顔を出してきた。
「??????????????」
不審さに気づいた城原は、もう一度体を倒し、引き上げてみる。やはり相手も同じように顔を出してくる。
そこで、城原は金髪に、右手を振ってみた。やはり奴も同じように手を振り返してきたが、その手は左手であった。
ここに来て彼は気が付いた。机の上にあるのは豪奢な鏡台であることに。
つまり、この金髪美男子は…
「俺、ってこと… あらヤダカッコイイ」
この容姿は本来の城原とは似ても似つかないものだが、今彼に張り付いているのは確かにこの顔だ。
そこで、城原は2つの狙いの元、思いっきり頬を引っ張ってみた。だが、普通に痛いだけ。特殊メイクならばこの顔は拉げるだろうし、夢ならば痛くないはずだ。
「これは…何だかただならぬ事態に陥っているな…」
そもそも、ここに鏡なぞ置いていないし、机の感触もおかしい。いつも使っているものとは違い、森に生える木を直接触っているかのような触り心地だ。
そして、この暗闇の中で鏡に映る自分(?)の顔を確認できているのは…
「なんだこれ? ローソク?」
机の端に立つ照明器具は、電気スタンドなどではなく明らかにキャンドルである。
だがその光が照らすのは机の上だけであり、この部屋の全体像は見えない。
「っと、部屋の電気は……って違うよな。ここはもう俺の部屋じゃない」
彼はそう判断し、思考を切り替えた。蝋燭を使っているところから見て、電気が通っているとは思えない。
だが、ここは自分の部屋にあらず、ということしかわからないのでは心細い。
「ここで確実に居場所を知るための方法は…採光でーす!」
3試合連続決勝ホームランの感想ではないが、太陽光を取り入れれば、この場所全体が照らされて全貌が明らかになる。だが、この部屋の可視範囲は、蝋燭に照らされた机の周囲だけである。
そこで城原は、壁にぶち当たるまで進んでみることにした。もし窓に当たれば、それを開けてここがどこかを確かめる。そういった狙いの元の行動であった。もし地下ならばここがどこかの詳細は分からないだろうが、それでも地下と言うことは分かる。
鏡台の前から後退り、カニ歩きで3歩横に。
そこからゆっくり大股で進むこと5歩。顔が布に覆われる。
「これは、カーテンか?…よし!」
勢いよくカーテンを開け放つ。光が彼を包み込んで…
朝の光の眩しさは、普段と何ら変わるものではなかった。
だが、その光は、更なる異様な光景の前にかき消される。
石造りの城。そうとしか形容できないものだった。基本的には、四角く切り出された石が積み上げられてできている簡単なつくりだが、そこからはこの建物が積み上げてきた確かな歴史を感じられる。
そして、そのどれにも、一番上に赤い屋根の尖塔が突き出している。
そんな建物が正面にあり、右にあり、左にあった。
それぞれは別の建物のようだが、渡り廊下のようなもので繋がっている。
城原がいる建物もおそらくそうなっていて、それに囲まれた空間が中庭のようになっていた。決して派手ではないが、洗練された庭である。
勿論、日本の一般家庭である城原家にこんな光景は広がっていない。
「ってことはやっぱりここは全く別の場所、なのかねぇ?」
貼り付けられた画像である可能性も考え、窓も開け放ってみたが、乗り出した体が写真パネルに阻まれることはなかった。この光景をもっとよく見ようとさらに身を乗り出すが、危うく落ちそうになり慌てて体を引き上げる。
「…どうやらマジで家じゃないとこにいるんだな、俺」
これで引きこもり脱却…などと喜んではいられない。ここには多くの謎があるからだ。
(まずここはどこなのか、それがわからないと話にならん。
そして俺が誰の手によってこんなところまで連れてこられてるのかもさっぱりだ。
あと、何故俺がここに連れてこられたのかも一切わからない。本人に黙ってさらってるんだから、俺のためを思った行動とは思えないし。
それよりなにより、一番の謎は…)
さっきの鏡の前まで戻り、自分の姿を凝視する。やはりそこに本来の城原の顔を構成していたパーツが一つでもあるとは思えなかった。
(どんなに優れた整形技術があってもこんなに変わるとは思えないな。そもそも髪はこんな急速に伸びないし、ヅラでもない)
髪を強く引っ張り、その痛みに顔を顰める。
(まあまず、攫ってきた人間の顔を変える意味がわからないよな。となると…)
荒唐無稽な状況説明が脳裏に浮かんだ。
「この人は全くの別人で、その人に俺の意識が憑依した…とか?」
城原玲樹という人間は、基本的に現実主義者である。常に現実を、かなり後ろ向きで荒んだ心で見てきたゆえに、引きこもるという道を選んでしまったのだが。
故に、そのあまりに現実とかけ離れた考察は、普段の彼の中では排除するべき可能性なのだが…
(寝てるうちに突然憑依したとすれば、今知らない場所にいるのも説明がつく…でも、それ以外の一切が説明がつかないんだよなぁ…)
一瞬、脳内を駆け巡ったファンタジー思考を断ち切り、目の前に広がる現実での最適な行動を模索する。
(やっぱりここは、なんとかして脱出するのが一番だろうな。何されるかわかんないし。ここが海外の富豪宅で、超絶美少女な一人娘と結婚して家の跡を継いでくれ、とかいう展開だったらもったいないけど)
だが、先述のように彼は悲観的な現実主義者である。そんなウキウキ展開より、「ここが吸血鬼の城なので、貴方はもうすぐ血を吸われますよ」みたいな未来の方がはっきり見えてくる。
「そもそも、美少女を嫁に貰えるとしても、後継ぎとして働かないといけないなら絶対にその話は蹴るけどな」
…彼がウキウキ展開を否定する大きな材料として、こんな性格の引きこもりが婿養子に選ばれるはずもない、という冷静な(?)自己分析があったりするのだが、
(そんなことはどうでもいい。兎に角、まずはここから脱出を図る!)
そして、謎の城で意識が覚醒した一引きこもりの脱出計画がスタートした。
実は後ろからずっと監視されていたので脱け出そうとしても無駄でした、といったことが無いよう、今一度自分がいる部屋を見渡す。
真ん中にベッドがあるが、やはり城原の普段の寝床とは全てが異なる。寝起きで全く気が付かなかったが、布団も枕もすべてが柔らかく、極め付きに布が掛けられた屋根のようなものがついている。映画でしか見たことのないような豪奢な寝床であった。
その他室内調度品も、すべてが古くとも絢爛で、壁にある本棚とそこに納められている古めかしいハードカバーも含めて、この城の外観に似つかわしい内装だ。
城原が今、前に立っている扉も見たことがないような大きさであったため、そこから厚さも兼ね備えていることが連想できた。
「パソコンがない以外はかなり高得点なんだけどな。
いや、もうここには来ないんだ。というか戻ってくるってことは脱出失敗だから戻ってきちゃダメなんだ」
意識がある中では、ほんの数分過ごしただけの部屋に何故か名残惜しさを感じつつも、重い扉を少しだけ開ける。
扉を開けた彼の正面から、長い廊下が真っ直ぐに延びていた。ということは、彼が幽閉されていた部屋は廊下の突き当りにある、ということだ。
外壁だけでなく、やはり内部も石が基調であった。数多く備え付けられた窓から入り込む朝の柔らかな日差しによって、青銅の如くうっすらと輝いている。
その窓が付いているのは、城原から見て右側。もう一方には等間隔で、さっき開けたような立派なドアが並べられている。城原がいたのと同じような部屋があるのだろう。
学校にありそうなくらいの長い廊下の先には、薄暗いながらも下へ続く階段のようなものが見える。あそこから下に降りることで、出口も見えてきそうだ。
(正真正銘の西洋の城だな…)
城内はシンと静まり返り、ここが有名な観光地で、数多の観光客がここを目当てに訪れる…と言った感じではなさそうだ。
(観光客なら、ホストクラブみたいなキラッキラの城を好むだろう。こういうところは、城塞マニアとかが見れば喜びそうだけどな)
だがそもそも、自分が今置かれた状況について、彼の中での最有力は「誘拐説」だ。
誘拐犯が、その対象を人目に付くような場所で拘束するとは考えづらい。よって、ここは人里離れたところにあり、吸血鬼が出る、なんていう噂もあるため地元の人でも滅多に近づかないような城であると思われる。
だが、そんな彼の脳内では、今でももう一つの可能性がこびりついて離れなかった。
「別人憑依説」。
(顔は完全に俺のものではない。それに、心なしか体が軽い。多分、体も既に本来の自分のものではないんだろうな)
そもそもの自分の身体が、何かで大きく変質したのか。
全くの別人に、自分の心だけが乗り移ったのか。
現実に起こりえる可能性があるのは、どちらか。
ここに来て、城原はやっと状況の不可思議さと向き合う、かのように見えたが、
(考えるのは後からでもできる。まずは脱出だ!)
彼は、取り敢えず目の前の危機や面倒ごとから逃げ切ることしか頭になかった。その成れの果てが引きこもりである。
(出口も間取りもわからないけど、ここに残るよりはマシだろう…よし!)
心を決めて、少しだけ開けたドアからするりと出る。
彼は窓側を進んでいくことと決めた。
こちら側の象徴である長窓は、壁の窪んだ部分にある。もし正面から誰か来ても、その窪みに収まることによって発見されないからだ。
勿論、左側に並ぶドアが突如開けばその時はおしまいだが…
(自分が通過しているところとよっぽど近くのドアが開かない限り、同じように盾を使える。偶然かち合うのを恐れて引き返すほうが危険な目に遭うだろう)
視覚と聴覚はもちろんフル稼働。足音もできるだけ出さないようにかかとから着地しつつ、廊下をゆっくり進んでいく。
一瞬で走り抜けてしまう、というのもありだが、それを明確な目的地もわからないうちにやってしまうと、廊下を走り切ったはいいものの、そこから先がなくなってしまう。周囲の様子や出口のヒントなどを探しながら進むのが今は最上だ。
周囲を最も警戒しながらも、窓から見える景観にも目を留める。
(未だ四方は石の建物に囲まれてるままだな…っと!)
正面からの、確かな人の気配。人類が野生と共に捨て去った生存本能が、ここの状況下で復活したような気さえした。
だが、彼とてそうバカではない。隠れ場所の目途くらいは付けていた。
ここのつくりの特徴は、彼の進行方向から見て左側に部屋が並んでおり、右側には大きい窓が多数ある、というところにある。
そして、窓があるということは。
彼が目を付けたのは、その窓から入る光を遮るための大きな深紅のカーテンだ。まだ朝早いため使われていないそれは、右端で束ねられその出番を待っていた。
(これなら、足までしっかりと隠してくれる。ここを気に留める人なんていないだろうし、音を立てたり動いたりしなければ大丈夫だ)
急いで、かつ音を立てずに、カーテンの中に潜り込んだ。こまめな掃除によるものか、柔らかな香りが漂う。この布団に包み込まれるような感覚は、多くのものを魅了するのだろう。
だが、今の城原にとっては、快感に誘われる心地はしなかった。一つはこの危機的状況のため、もう一つは、彼は(ネットゲームが不調な時は)ほぼ丸一日寝て過ごすこともザラなため、布団に包まれる感覚に希少価値やありがたみを感じられないからである。
(ってしまった! 窓を少し開けておくべきだったか…それなら少し動いても、カーテンが風に揺れていると誤認してくれるかもしれないのに…いやでも、ここだけ窓が開いてるのも不自然になるのか…)
そうこうしている間にも、足音は確実に近づいてくる。完璧に隠れられているかは中からはわからないが、自分とこの重厚なカーテンを信じて、体のあらゆる微動を止めること、そして、呼吸音さえできる限り小さくすることに徹する。
彼の耳は決して聡い方ではないが、その人物が今どのあたりにいるかは直感的に判断できた。
(俺からあと5m…3…)
ここまで近づかれると、自分の心臓の鼓動でさえも立派な不安材料だ。そればかりはどうしようもできないが。
(っ…来る…)
その人物と城原が最も接近する距離、そして…
ガチャリ。ギ―。バタン。
それは明らかに、その人物が目の前の扉の中へと入っていった音だった。
(は、はぁ…っていけねえ!)
緩みかけた緊張の糸を再び引っ張り直す。相手が再び扉を開けるのがいつになるかはわからないのだ。
そう、わからない。だからこそ、彼はこの体勢を維持しなければならない。
(クソ、なんでよりによってこんな間近に入るかなぁ!)
完全に制止する、というのは、下手な運動より筋肉を使う。
だが、そう言った体への負担より、心にかかるプレッシャーの方が多くの割合を占めているのも事実だ。
だがそれでも、長い間引きこもっていた彼にとっては、キツい運動であることに変わりはない…はずなのだが、
(…なんか、そんなに疲れないな。やっぱり、これまでより明らかに体が軽い…これも…今の俺は俺の身体じゃないから…?)
ここでもちらつく「別人憑依説」の影。時間が経つにつれて、立証のための証拠が出揃っていってしまう。
一度は思考を放棄したテーマに、今度は真剣に向き合おうとしたその時。
ギー。
目の前の扉が、再び開く。
いつか来るとは分かっていても、その音を聞いた瞬間、全身が硬直した。
心臓を雑巾絞りにされるような感覚が、再びやってくる。
今きっと、その人物は視界の真正面でカーテンを捉えている。単なる風景として認識すればよし、違和感に気づかれたらすべてが終わる。
誇張抜きに呼吸が止まり、そして。
目下最大の脅威は、足音と共にこの場を離れていった。
小さくなった足音が、階段を下っていく。さっきは気が付かなかったが、例の部屋がある突き当りを左折したところにその階段はあった。
ここに来て、やっと全身の力が抜ける。
(ふう…取り敢えずこの場はクリア)
だが喜んでばかりはいられない。脱出までの道程は遠い…どころか、明確な出口さえ不明瞭なままなのだから。
慎重に進んでいたので、廊下を突き当たるまでに相当な時間を要した。だがこれで第一段階クリア。
(あとはこの階段で最下層まで降りれば)
よく考えれば、バカ正直に正規の出口を使わなくとも、この城の周囲を囲う塀を乗り越えれば脱出は簡単になる(ここが、聳え立つ城壁のようなものを持っていれば話は別だが)。
(でもここって、四方を建物に囲まれてたよな…じゃあやっぱり出口は…)
…唐突だが、城原玲樹が高い集中力を求められる状況に身を置いたのは、このケースが人生で初めてである。
引きこもりになる以前から、どんな作業をしていても心は上の空だったし、引きこもり出してからはそもそもすべき作業というものがなくなった。
それでもここまでは、正真正銘の命の危機なため集中力を保ってこれた。だが、それも一山越えたことにより、そもそもが低い彼の集中は途切れてしまっていたのだ。
石の階段へと足を延ばした、その瞬間。
「セリアース様⁉」
背後から掛けられた声。気が付かなかった接近。逃亡の終わり。
驚愕。自責。恐怖。
様々な感情から、全身の動きが硬直した。階段を下る、その途中で。
城原の身体は、バランスを前に崩して倒れ込む。硬直したままの身体は何の抵抗も示さなかったため、そのまま階段を転がり落ちていく。
踊り場の壁に頭を打つことで、正しい世界に戻ってこられたような気がした。
(痛い。おもっきし転がったからメチャ痛い。終わり。見つかったから終わり。死ぬ。人生が終わる)
体中がズキズキ痛む。今から立ち上がり、全力ダッシュで振り切るなど絶対に無理だし、そもそも気力が尽きた。
逃げ切れないことが決定した今、何かしらの多大な危害を加えられることに関しては、彼の中で既に確定事項と化していた。
(何とかして、殺されるのだけは回避しなきゃ。どうすればいい…ドゲザハラキリヤキドゲザ…一つ死ぬのが混ざってたな…いやでも…この城に住む吸血鬼に惨い殺され方をするよりは、自ら死を選ぶ方が少ない苦しみで旅立てるかもしれん…けど、切腹って介錯してくれる人がいないと結構苦しいって聞くけどな…)
彼の中では、完全に逃げのターンは終了していた。今度は、如何にしてより被害を抑えられるか、を考え始めている。
そんな彼のもとに、先程の声の主が駆け寄ってくる。が…
「って、キャァァァァ!」
デジャヴを感じる、階段を転げ落ちる音。
(…いや、アンタにはカリスマ反面教師がいたでしょ。なんで学ばない?
てかコイツくらいなら、力づくで倒せるんじゃないか?)
追手の学習能力のなさとマヌケっぷりから、城原の中で一筋の光明が見えたその時。
逃亡を諦め、大の字に寝っ転がっていた城原の腹部に、階段から転げ落ちた追手の身体が覆い被さった。腹部から鈍く、重い痛みが伝わる。
「ブグォォォォォォ!」
(なんだこれ! 圧殺⁉ ドジに見せかけた圧殺ですか⁉ こんな風格溢れる城に住んでおきながら、伝統的な処刑方法は重量による圧殺ですか⁉ せめてワイングラスに注いだ俺の血を啜る、みたいなエレガントなシーンを見せてから殺してくれ!)
よくわからない城原の心の叫びを余所に、その処刑の執行人は、
「ももも申し訳ございません! って頭にこぶが、こぶが! どどどうすれば…」
何やら、城原にケガを負わせてしまったこと(彼女からの直接攻撃であるボディプレスによる外傷はなく、そのこぶは階段から落ちたときにできたものである。その転落の原因も確かに彼女にあるのだが)に対して、大いに焦っているらしい。
(…流れ変わった、か?)
この人は、どうやら自分に危害を加える気はない。城原はそんな雰囲気を感じ取った。傷のない綺麗な体の人間を殺したい、みたいな理由も考えられるが。
だが、今のこの体勢ではこの人の表情が見えず、本当に味方なのかどうかの判断も付けづらい。上半身を持ち上げてみる。
城原の腹の上であたふたしていたのは、桜色の髪をした少女であった。恥ずかしさからか僅かに上気した頬は艶があり、健康的な印象を与える。紅く、宝石のような瞳は(これまた恥ずかしさによるものと思われる)微かに潤んでいた。
その美しさと共に、強い印象を残したのが、
(これって…ロングスカートのメイド服だよな…)
彼にとっては空想の中のものでしかなかった服装。身に纏った少女が、すぐそばでオロオロしている。
(メイドってことは…やっぱり主人に従順なんだろうな…じゃあやっぱり、俺が殺される前に傷付かないようにっていう…⁉)
本日何度目かの硬直を迎えた城原に対し、
「…というか、セリアース様がなぜここに⁉ は、もしかして、ついに、ついにぃ!」
目の前のメイドは、何故かテンションを上げていた。その姿を城原の脳内で検索に掛けたなら、間違いなく「限界女オタク」がヒットするだろう。
だが、一通り叫び終えた彼女は我に返り、
「コホン。折角セリアース様が部屋の外に出られたところ、大変申し訳ないのですが…一度手当をしたいので、お部屋にお戻りいただけますか?」
このメイドを本当に信頼してもいいのかは、今の彼には分からない。だが、彼の直感は、大人しく部屋に戻った方がいい、と告げている。そもそも今のケガで、この場を無理矢理振り切って逃げ切るのは厳しいだろう。
「…分かった。戻るよ」
節々から悲鳴が上がる身体を強引に持ち上げ、前に一歩踏み出した途端、
「っ‼」
膝の辺りから、一段と激しい痛みが襲う。歩くことさえ困難だとは思わなかった。
だが横から咄嗟に、
「肩をお貸しします」
例のメイドさんが体を寄せてきた。
「ごめん、ありがとう」
ここでも大人しく借りておく。まだ警戒は解けていないし解いてもいけないが、歩けないのならば仕方があるまい。
つい先程、慎重に次ぐ慎重で進んだ廊下の真ん中を、堂々と進んでいく…というわけにはいかなかった。自分の力で歩けない状態を堂々としているとは絶対に言えないし、メイドの方も、何やら周囲を気にしている様子だ。
(俺に文字通り肩入れしていることが知れたらマズい、ということか…?)
シンキングタイムは与えられた。メイドの登場により、この状況の推測はつけやすくなっただろう。
(まずは、最初に呼ばれたセリアースとかいう名前が、俺のことを指していることだ)
最初に声を掛けられたとき、彼はセリアースというのは別の誰かのことだと思っていた。自分の名前は城原玲樹なのだから。
だが、このメイドは、明らかに自分に対して「セリアース様」と呼んだ。
(お前の命など100円程度の価値しかない…っていうことじゃないよな。
…そう、今の俺の見た目は如何にもセリアース、っていう感じだ)
金色の長髪、爽やかな風貌。そんな今の彼にとって、セリアースという外国名は相応しいだろう。
だが、ということは。
(このセリアースとかいう奴に、俺の意識が憑依した。これはもう確定だろうな)
到底信じられないし、それを可能にする理屈など一切心当たりがない。だが、そう考えればすべての辻褄が合う。城原はそれを受け入れるしかなかった。
(じゃあそれは解決だ。でも、そのセリアースっていうのは何者なんだ?)
この城の主、というならば、今の警戒を解いてもいいだろう。だが、メイドはセリアースが「ここ」にいることを不思議がるだけでなく、何故か興奮していた。
(この城が自分の住処なら、そんな反応はされないはず。かと言って招かれざる客、というわけでもなさそうだな…)
城原玲樹とセリアースとは、今朝起きるまでは完全な別人だった。なのでこれまでのセリアースの人生とか、今置かれている状況とかを一切知らない。
(そこはこの人に聞いてみればいいか…いや、良くないなこれ)
このメイドさんは、セリアースの中身が城原になったことを知らない。仮に彼女がセリアースに好意的だったとしても、中身が城原になってしまえば心は離れていくかもしれない(というか確実に離れていくと城原本人は見込んでいる)。
そうなったときに、彼は味方を一人失ってしまうことになる。ただでさえ不安だらけの状況で、そんなことは避けたい。
(ていうかそもそも、俺自身よくわかってない状況を、この人にうまく説明できる気がしないんだよ)
今日からセリアースさんの中身をやることになりました、城原玲樹です。
そんな荒唐無稽な説明で信じてもらえるとは到底思えない。
(取り敢えずは黙っておくか…)
作戦を練り上げていると、ゆっくりな歩調でもあっという間に例の部屋に辿り着いた。
セリアースの頭の膨れた部分に、メイドは絆創膏を貼っていく。
先程城原が目覚めたベッドの上である。
(この部屋に戻ってくる=死、みたいな覚悟だったけど、まさか殺されるどころか手当てされているとは…)
脱出そのものには失敗したのだから手放しには喜べないが、なんとかなりそうな気配もしている。絶望の度合いはこの部屋を出たときよりかなり下がっているのだ。
「よし、と!」
メイドさんは立ち上がり、手をパンパンと払う。
頭に貼られた絆創膏と膝に巻かれた包帯のおかげで、痛みはかなり和らいだ。
ケガ人の手当ても、メイドが求められる技量の一つなのだろうか。手際よく対処してくれた。
そして、一仕事終えた彼女は再び城原に話しかける。
「セリアース様がこの部屋を出られたことについては、とても嬉しく思います。が、くれぐれも足元にはお気を付けくださいね。…まあ…私が言えたことでもないですが…」
自爆の結果、またしても赤面するメイドさん。
…だが、この発言の中で城原にとって気にかかったのは、その最後の部分ではなかった。
(部屋を出られたことを、嬉しく思われる…)
そんな境遇、どこかで聞いたことがないか?
それどころか、自分はずっとその地位に甘んじてこなかったか?
もしこの推測が的中していたなら、先程のメイドさんの不自然な盛り上がり方にも合点がいく。
そう、城原の意識が乗り移った先である、この気品に溢れた美男子は、
「もしかして、引きこもりだった…?」
「…え、えっと…確かにセリアース様は、5年もの間ほとんどこの部屋から出てこず…そのことを…ええと、そういう風に呼ぶ心無い人たちもいたのですが…わ、私は違います! セリアース様はきっと、この時間を何か大事を成すための準備期間として設定されていたのだと、ず、ずっと信じていましたから!」
何やら動転したように、今の城原にとって金銀財宝に等しい価値を持つ情報を伝えるメイド。
(まずっ、声が漏れちまった!)
「い、いや何でもない、何でもないから!」
ベッドに腰かけていたところを、尻を起点に右回転し、顔を背ける。
(は、はぁ…さっきのメイドさんの話を聞く限り、やっぱりセリアースは引きこもりだ。キャリアで言うと俺の方が長いがな! って、マウントにならないマウントはどうでもいいんだ。まあ、引きこもりらしい思考や行動は分かるしできるんだから、記憶がないことを隠し通すのには好都合かもしれない…)
セリアースと化してから急増した、一人で考え込む機会。中身チェンジを気取られないための、最適な行動を導こうとしていたのだが…
「セリアース様!」
「おわっとぉ!」
メイドさんが正面に回り込み、セリアースの顔を正面から見つめる。その瞳は真剣そのものの色を示している。
「今日のセリアース様、どこかおかしいです。部屋から出てこられたのはいい変化でしたが、こんなに挙動不審というか、オロオロしている貴方は初めてです!」
ずい、ずいっと。
メイドさんが顔を近づけてくため、後退る城原。ベッドでこの二人の体勢、普段の城原なら鼻の下を長くしそうなシチュエーションなのだが、セリアースとなった彼にそんな余裕はなかった。
「部屋に籠っていらっしゃった貴方は、なんかこう、実家で養ってもらえる青年とは思えないくらい堂々としていらっしゃいました! それなのに、今の貴方は…」
(わかる。申し訳なさを感じなくなったら初心者脱却、って感じがするよな。ここにいるのが当たり前ですが何か?みたいなスタンスが取れるようになったら本物だよ)
「熟成型」としての本分を発揮しかけた城原だが、メイドが続けた言葉によって危機感を取り戻すことになる。
「今の貴方は、まるで人が変わったみたい」
(っ!…ご明察には違いないが…)
あくまで比喩表現に過ぎない、くらいのことはわかっている。
それでも、隠し事を暴かれたように感じるのは無理もないだろう。背中を冷や汗が流れた。
(…いや、もう隠しておく必要はないんじゃないか?
どうやらこの人は、セリアースに対して確かな忠誠心を持っている)
さっきの叫びは、心からのものなのだろう。部屋に閉じこもっていた主人に、元に戻ってほしい。あの訴えには、そんな思いが強く込められていて、とても演技や作り物の感情だとは思えなかった。
(でも、だからこそ。
中身が別人になったセリアースに対して同じように尽くしてくれるかはわからん)
それに、まだこの状況を説明できないのには変わりない。
秘密を秘密のまま隠して、彼女を騙し通すのか。
自分がわかる範囲で今の状況を伝え、協力を要請するのか。
答えを出すことができず、そのもどかしさから頭を掻きむしった。
すると、ふと違和感を感じた。普段の城原のボサボサ髪と、セリアースのサラサラ長髪との違いではない。
(絆創膏…さっき貼ってもらったやつか…)
かなりの勢いで頭を思いっきり打った痛みなど、あの危機的状況の中ではそこまで気にならなかったし、メイドさんの手当てによってその痛みは完全に鳴りを潜めていた。
だが一段落着いた今になって、ズキズキと痛み出した。まさか城原が比喩的に頭を痛めたのと共鳴しているわけではないだろうが、よく考えればたんこぶができるほどのケガで痛まないほうがおかしかった。
(結構なスピードで頭から突入したけど、本当に大丈夫なのか…もともと悪かった頭が一層パーに、とか……ん? 待てよ? 一層パーに?)
実際の城原の脳機能は、何ら異常をきたしていない。だが、よそから見れば、それくらいのアクシデントが起こってもおかしくない、と考えられるだろう。
(よし…こいつを使う!)
「ちょ、ちょっといいかな。言わなくちゃいけないことがあるんだけど」
「は、はい!」
こちら側もメイドさんを見据えて、伝えるべきことを伝える。
「実は俺さ…記憶がないんだ」
メイドさんの動きが、完全に止まる。主人から紡がれた言葉を理解するのに、体のリソースを全て費やしている。
メイドさんの口が微かに動き始めるまで、しばらくの間を必要とした。
「それは…どういう…」
「まあそのまんまだけど…何も覚えていない。自分が誰なのか、どういう人間なのか、何をしてきたのか、君は誰か、ここはどこか。全部知らないんだ」
ここで、できる限りさりげなく頭をさすって見せる。あとは相手が気付き、そこから思考をいい具合に巡らせてくれるかどうか。
「…もしかして、その頭、さっきのケガで…ああ…」
相手はきちんと読み取ったらしい。成功である。
(ふう…これで本当の一段落だな…)
「んでさ、この通り記憶がないから、俺がどういう人間で、どういう風に暮らしてたのかー、とか教えてほしいんだけど…ってあれ? もしもし?」
相手は蹲ったままで、反応がない。
やがて、聞き取れるか聞き取れないかくらいの声が漏れ出してきた。
「ひっく…やっと…やっとセリアース様が部屋から出られて…魔術の再興を成し遂げようとなされていたところをこのような…私が、私が後ろから呼びかけたせいで…こうなったら…死んでお詫び申し上げますぅぅぅぅぅ!」
「ちょっとごめん待って早まるなぁ!」
どこから取り出してきたのか、ナイフを喉元に宛がわんとするメイドさんを必死で取り押さえる。力づくで凶器を奪い、刑事ドラマで見たように地面を滑らせた。
メイドさんは観念したのか、それとも自責の念に耐えかねて全てを放り出したのか。今度はベッドに顔をうずめて泣き出した。
「なぜ、なぜ、どうして…再びあのセリアース様の…『魔導の血の寵児』と呼ばれたあのころの雄姿を再び拝めるはずだったのに…私は、私は何ということを…」
そのとき、城原の胸に、彼がしばらく味わうことのなかった感情が溢れてきた。
(なんだろうこの…自分がついた嘘で人を泣かせて…この人のセリアースに対する忠誠も裏切ってしまったみたいで…いくらセリアースなのは外身だけとはいえ…なんというか、とても申し訳ない…これが、罪悪感…⁉)
彼の言葉を借りるなら、「本物」になった時を境にして、一切感じなくなった感情。だが、
(まあでも…実際セリアースとしての記憶がないってのは事実だから嘘はついてない。それよりもこの人からセリアースについて色々聞き出すほうが先決だ)
数少ない特技である言い訳(その対象は自他どちらもである)を使い、彼はいつものように責任から逃げ出そうとする。
「えっと、じゃあそのさっき言ったことを色々と教えてほしいんだけど…」
…返事はない。
「ほ、ほら、もう記憶がなくなったことは覆せないんだし、前を向いて行こうよ!
教えてくれないと、俺が俺として振る舞えないからさ、お願い!」
…返事はない。
この呼びかけの主目的は、もちろんメイドさんから、セリアースという人間のことや現在地について教えてもらうことだ。
だが、城原とて鬼ではない。彼女の沈んだ気分を、自分が前向きな姿を見せることによって少しでもいい方向に持っていく…というのも狙いだ。
それが、自分のついた嘘で辛い思いをさせたことに対する城原の申し訳程度の償いであったし、もしその責任が自分になかったとしても、目の前で女の子が嗚咽を漏らしている姿はとても見ていられなかった。
だがこういった、人の心に直接関係してくる問題は、これまでにどれだけの人と携わってきたかの経験がものを言う。
一週間に一度、家族との接触があるかないかの城原には荷が重かった。
泣き続けるメイドさんを慰め続けること15分。彼女はやっと重い口を開いてくれた。
「セリアース様…サーズド・エル・セリアース様は、この地を統べるホルディグス王家のご親類で、かつては『建国以来の天才魔術師』として、国内外にそのお名前が知れ渡っていました…」