蕎麦
空海なら、現代日本で何をする?
蕎麦
今日は、俺はバイトが休みだった。なので、朝から二度寝としゃれ込んだ。
「ダメ人間に、俺はなる!」
俺はどこかの海賊のように宣言すると、布団に寝転んだ。その横では、相変わらず空海があぐら(結跏趺坐)で座っている。
次に目を醒ました時には、時計は十一時近くを指していた。
俺は思わず腹をさすった。腹が空っている。
「なあ空海、メシ食いに行かヘんか?」
「ええけど、何食べるん?」
「そうやな、そばでも行こか?」
「そば?」
「だいぶ前に小林さんから教えてもろて。あの人、外食に人生捧げてはるからな。それ以来、けっこう通ってんで」
「そばって、そばむぎの事か?美味い食ベ方ってあるんか?」
「まあとりあえず、行ってみよや」
俺は、首をひねっている空海を連れ出すと、兵〇区下〇通にある「一〇庵」にやって来た。やたらガタガタとうるさい自動ドアが開くと、中のおばちゃんに声を掛けられた。
「あらヒロシくん、いらっしゃい。久し振りちゃう?」
「バイト先、ジョ〇プラから変わったやろ。切り替えで結構手間取ったんや」
「ホンマ?大変やったんやね」
「まあ、大変やったのは小林さんやけどね」
俺は笑いながら言うと、空海を促して"いつもの席"に着いた。
席に着いた空海は、周りをキョロキョロと見回している。
「どしたん、空海」
俺が尋ねると、空海は薄く笑って答えた。
「何かな、いつも行くような食べ物屋とちゃうなあ思て」
「そうやな。古くさい感じか?」
「俺にとっては十分目新しいで。まあ何や、ギラギラしてへん、落ち着いた感じやな」
「なるほどな」
「ヒロシくん、今日はどないする?」
おばちゃんが、伝票を片手に注文を取りに来た。
「俺はいつもの。こっちには天ざる」
「あいよ。天ぷらそばと、天ざる、十割で」
おばちゃんはそう言いつつ厨房に消えて行った。
「『天ざる』て何や?」
空海は首をひねった。
「天ぷら付きのざるそばや」
「『天ぷら』?『ざるそば』?」
「判らんかったら、待ってたらええねん」
俺は笑いながら言った。
やがて、そばが出て来た。
「はい、こっちが『いつもの』。で、こっちが『天ざる』ね」
おばちゃんがテーブルに置いたものを見て、空海は大きく頷いた。
「ああ、『天ぷら』て、揚げ物の事か。それに、ざるにそばが乗ったある。でも細いな」
「今は、そば言うたらこれや」
俺は、いつもの『天ぷらそば』である。
「長安で面は良く食べたけどな。あれは小麦粉やった」
「要は『うどん』やろ?」俺はそばに七味をかけながら言った。「讃岐では、うどんは空海が持って帰って来た事になってんで」
「まあ、似たようなモンや」
空海は意味深な返事をすると、そばを箸で取り上げた。つゆに浸けて、すいとすする。
「お、美味い」空海は笑顔になった。「そばて、モソモソした渋い食い物やと思とったけど、これは美味いわ。出汁もええなあ。食欲をそそるわ」
「気に入って貰えて良かったわ」
俺も自分のそばに取り掛かった。十割そばの、野趣のある香ばしさがのどを通る。
空海は、大ぶりのエビ天にかぶりついて、熱い熱いと目を白黒させている。
そばを食ベ終えて、勘定を済ませて表へ出ると、空海は店に目を向けながら言った。
「弘史、ありがとな。美味かったわ、そば」
「そら良かった」
「それにしても」空海は少し口調を改めた。「凄いな、この時代。何でもあるんやな」
「空海の時代よりは、色々あるかもな」
俺は笑って答えた。
「こんなんやって判ってたら、死ぬ事も恐わないやろな」
周りを見回しながら、空海は呟いた。
「多分これって、空海が特別やと思うで」
俺は肩をすくめた。
「そやろか」
「知らんけど」
「つれないな」
「俺まだ死んだ事ないし」
「そらそやな」
俺達はそんな事を話しながら、小春日和の中を歩き出した。
20181225
註 : 平安時代には、『天ぷら』の名称はまだありませんでした。そばは、『そばがき』のようなものは一応あったそうです(主に飢饉用非常食)。『そばきり』―所謂普通のお蕎麦は、江戸時代になって庶民に普及しました。