女性(にょしょう) 前編
空海は、現代日本で何をする?
女性 前編
平成二十六年(2014)五月の終わり。
巷は既に真夏のような暑さにうんざりの態だ。今年の夏も猛暑かと思うと、今から先が思いやられる。
五月最後の金曜日、明日は『SE〇YU』の棚卸しという事で、バイト係の小林さんがバイト達を集めて食事に行こう、と言い出した。この棚卸しが結構大変な作業なので、皆で頑張って乗り切ろうという、小林さんの言葉を借りれば『決起集会』である。
アキちゃんや俺を含めて十名くらいの大所帯の中に、何故か空海も入っていた。小林さんが、どうしても会いたい、と言って呼び出したのだ。
力を付けよう、との小林さんの提案で、兵〇区東〇池にある焼肉『〇車』に押し掛けた。ただ単に小林さんが肉を食べたいだけだと思うのだが。
店主のおばちゃんがやたらと焼き方に口を突っ込んで来て少々面倒臭いのだが、肉は間違いなく旨い。
しっかり飲み食いして、若い子達は満足して家路についた。
「ほななー」
帰って行くバイト達を見送って振り向いた小林さんの前には、アキちゃんと空海と俺が残っていた。特に示し合わせた訳ではないのだが、このメンバーが残った。
「なんや、やっぱり自分らも呑み足りへんのやろ?」
そう言って笑う小林さんに、俺達は大きく頷いた。
「やろな?それに空海くん、今日折角来てくれたのに、あんまり話してへんもんな」
小林さんは笑いながら空海の背中を軽く叩いた。
「そうですね。もっとお近付きになれれば、と思います」
空海も笑って答えた。
小林さんは国道に出ると、タクシーを捕まえて〇宮へ向かった。
タクシーを〇野坂の入口あたり、バッ〇スビル前に停めると、山〇幹線を南に渡って露地に入り込んだ。〇宮有数の"夜の繁華街"である「〇門街」のメインストリートから一本東で、マンションや商業ビルの谷間だが、やはり数多くの呑み屋や食事処がある。
小林さんはその薄暗い露地を迷いなく歩き、更に細い露地に入った。五階建てのマンションビルの一階に、ライトアップが無ければ見過ごしてしまいそうな扉があり、小林さんはその前で立ち止まった。
「ここや」
小林さんは何だかドヤ顔である。
「どこです?」
「ここが俺の最近のお気に入りのワインバー『カ〇ン・セギュ〇ル』や」
「ワインバーですか?」
「何やその意外そうな口振りは?」
「いや、表からやと全然判らヘんやないですか」
俺は笑いながら言った。屋号らしい小さな看板以外、ここがワインバーだと示す物はない。
「小林さん、別に『小林さんがワインバーなんて、柄やないなあ』なんて思てる訳ちゃうよ」
アキちゃんも笑って言った。
「何でもええわ。入るで」
小林さんは堂々とした態度で、扉を引き開けた。カランとドアベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
バーテンダーの落ち着いた声に迎えられた。ワインバーだからソムリエと言った方が良いのか?
「こんばんは、マスター。また来たで」
小林さんは気さくに声を掛けつつ、さっさとカウンターに着いた。
マスターに促されて、俺達も席に着いた。小林さんが一番奥で、空海、アキちゃん、俺が並んだ。カウンター奥の二席が空いている。
一人づつに丁寧におしぼりを手渡しながら、マスターが言った。
「"カウンターの君"は、まだですよ」
「ほうか」
小林さんは気のない振りをした。
「えっ?なになに?"カウンターの君"って?小林さんのマドンナ?」
アキちゃんが身を乗り出して小林さんの顔を覗き込んだ。
「マドンナって、アキちゃん古い言い回し知ったあるなあ」
俺は思わず笑ってしまったが、アキちゃんのみならず小林さんにまで睨まれたので、笑いを引っ込めた。
「マスター、余計な事言わんでええねん。それより、俺の職場の後輩達に、何かええワイン選んだって」
小林さんがそう言うと、マスターは彼の背後にあるガラス扉を開けた。カウンター背面はワインセラーになっていたが、扉のある部分は明らかに他より高級そうな物が入れてあるようだ。
マスターはどこからともなく取り出したソムリエナイフで鮮やかにコルクを抜くと、小林さんの前に置いた。小林さんはそのコルクを取り上げ、匂いを嗅いだ。
「ん、ええ感じや」
「判るんですか?」
「雰囲気やないかい」
俺の無垢な質問に、小林さんは眉をしかめながら答えた。
「こちらは本日のお薦め、ボルドー、メドック格付け第3級のシャトー・カロン・セギュールです。ニコラ=アレクサンドル・ド・セギュール侯爵が『われラフィットをつくりしが、わが心カロンにあり』と言われた事で有名な逸品です。『サン・テステフにおけるシャトー・マルゴー』と称される、 しなやかで優美な中に芯の強さを秘めたワインで、うちの店の名前の由来でもあります」
マスターの立て板に水の説明を聞きながら、ワインボトルを見る。ハートがあしらわれたラベルである。
「ラベル、何かカワイイ」
アキちゃんが微笑みながら言った。
四人でワイングラスをチンと当てて、注がれた紅色の液体を呑んだ。良く判らないが、何だが美味しい気がする。
「結構熟成されてんねんな。重みがあって美味いわ」
空海が溜め息をつきながら言った。
その時、ドアベルがカランと鳴った。
ふと小林さんを見ると、グラスを掲げたまま凍りついている。
そんな小林さんの二つ隣り、カウンターの一番奥の席に、一人の女性が座った。
ふんわりした襟と袖のついたオープンショルダーの黒いブラウスで、同じく黒いレースの短いスカートはキャバ嬢っぽい出て立ちなのだが、そう見えないのは彼女の美しい顔立ちとその落ち着いた雰囲気からか。何よりもそのプラチナ色の髪の美しさが黒一色のファッションに映えていた。
マスターの目配せを見るまでもなく、"カウンターの君"である事はひと目で判った。小林さんは誰にでもフランクに付き合う事が出来るのだが、気がある女性には意識してしまい、挙動不審になってしまうからだ。
そんな小林さんに、彼女は微笑みかけた。
「今晩は、小林さん。今日もお会い出来て嬉しいわ」
二十歳ぐらいの見た目より、ずっと大人びた声の調子で彼女は言った。
「ど、どうも、アヤさん。き、今日はいい夜ですね」
小林さんはしどろもどろで何とか言葉を吐き出した。名前はアヤさんというらしい。
「今日はお連れがいらっしゃるのね」
「し、しょ、職場のバイトの子達でね」
小林さんにそう言われて、アキちゃんがちょこんと頭を下げた。俺も軽く頭を下げた。ところが空海に動きがない。良く見ると、今度は空海が固まっていた。後ろから覗き込んでみると、驚きの表情で止まっている。空海が感情を露にするのは珍しい。
アヤさんは、そんな空海の様子を首を傾げて見ていたが、やがて静かに口を開いた。
「もしかして、無空さん?」
そのアヤさんの言葉に、空海は肩をビクリと震わせた。
「ま、まさか…」
空海がかすれた声で言った。アキちゃんと俺は思わず顔を見合わせた。空海がこんなにも動揺する所など、見た事がなかったからだ。
「空海、アヤさんと知り合いなんか?」
俺の問いに、空海は小さく頷いた。
「えー、空海さん、いつの間にこんな美人さんと?」
アキちゃんが空海の背中を指で突つきながら言うのヘ、空海は唾をゴクリと飲み込んで答えた。
「随分昔の事や」
"昔"というのは、若い頃という事なのか?しかし、空海の若い頃というのは…。
「そうや。今は『空海さん』やったね」アヤさんはそう言って艶然と微笑んだ。「あの頃は、十八歳やったかしら?」
「十九歳です。あの時はお世話になりました」
空海は照れたように笑って頭を下げた。ようやく落ち着いて来たようである。
「こんな所で再会出来るやなんて、不思議な廻り合わせやね」
「また会えるなんて、思てもみなかったですよ、綾さん」
アヤさんと空海に狭まれた小林さんは、しばらく黙ったまま二人のやり取りを聞いていたが、意を決して口を開いた。
「ごめんな空海くん、自分はアヤさんとはどないな知り合いなんや?」
「そうですね」空海は目を伏せて言葉を探した。「俺に、女性とは何なのかを教えてくれた恩人ってところですか」
「恩人だなんて大袈裟やね」アヤさんはくすくすと笑った。「一ヶ月半くらい?一緒に暮らしただけやない」
「一緒にって、同棲って事?」
小林さんの声が裏返っている。
「うーん、同棲ってのともちょっと違う感じなんやけど」
アヤさんは小首をかしげた。
「でも俺、身も心も女性を愛したのって、あの時が最初で最後やと思います」
空海はそんな事を真顔で言う。
「まあ、光栄やね」
「み、身も心もって」
小林さんの狼狽振りは、端で見ていて気の毒な程だ。
「空海さん、んーん、あの頃は私度僧になったばかりで、無空さんて名乗ってはったんやけど、何か凄い思い詰めた感じやったから、家に泊めてあげて、お話を聞いてあげただけなんやけどね」
アヤさんは懐かしむような口調で言った。
「俺は仏教を志して都を出た」空海も追憶の表情だ。「ただ、俺は経典を読んだ知識しかなかったし、仏の教えが何を説こうとしているのか、さっぱり判らんまま旅に出たもんやから、毎日考えても考えても、結局判らんままやったんや。特に煩悩には手を焼いてな」
「煩悩言うたらやっぱり異性の事か?」
俺の問いは、アキちゃんやアヤさんに忖度した歯切れの悪い言葉になった。
「そうや。俺は仏教という『清らかなモノ』に憧れつつ、性欲いう『汚れたモノ』の横溢に困り尽てていたんや」
空海はズバリと言った。
「そうよね、十九歳いうたらお盛んなお年頃やもんね」
アキちゃんの言葉に、俺は目が覚める思いがした。皆大人なんだよなあ。
「俺は平城の都を出て、山岳修行者達と共に吉野から紀伊の山々を歩きながら、仏教の何たるかを思索したんや。しかし、釈迦のように魔羅、つまり煩悩を押さえる事は出来へんかった。そして、悶々とそんな事を考えながら大坂から淡路を経て、阿波に入ったんや」
空海はそこまで言うと、ワインを呑み干した。そのグラスにマスターがすかさずワインを注いだ。空海はそれも半分ほど呑んだ。
「住之江に来たとき、無空さん凄い恐かったんやから」アヤさんは笑いながら言った。「何日も眠らずに歩いて、食事もろくに取らずに、薄汚れて、頬がこけて、髭生やして、眼だけギラギラしてて。一緒に居た雲童 達、みんな逃げ出したもん」
「うなこって何?」
アキちゃんが尋ねた。
「今風に言えば、海女かな?素潜りで貝とか海藻を獲ってたの」
アヤさんは律儀に答えてから、話を続けた。
「でもね、この人砂浜でバッタリ倒れて、動かんようになってん。近付いて確認してみたら、まだ息があったから、放っとけへんかって、家まで連れて帰ったんや」
「あの時は、かなり自棄になってましたからね」
空海は肩をすくめた。
「ところで皆さん、私のこんな昔話聞いてて、お時間大丈夫?」
「全っ然大丈夫」
すかさずアキちゃんが答えた。
「アヤさんが良ければ、是非続きを聞かせて下さい」
俺も笑顔で答えた。ちらっと小林さんを見ると、空海が中心の話なので面白くなさそうな、でもアヤさんの身の上話が聞けるので満更でもなさそうな様子である。
すみません小林さん。最早"カウンターの君"なんかどうでも良い感じです。
俺は、空海の知られざる青春のひとコマに興味津々であった。
つづく
20200701




