老いと仕事
空海は、現代日本で何をする?
老いと仕事
平成二十六年(2014)の五月も中ば。
〇甲の山々も緑が朋えて、木々の若葉が瑞々しい。
気温は二十度超えの日が続き、今年の夏も思いやられる今日この頃である。
ある日の夜中、俺は消防車のサイレンで目を覚ました。時計を見ると、午前二時を過ぎた頃だった。丁度眠りの浅い時だったのだろう。遠く運河の向こうから聞こえていたそのサイレンはどんどん近付いて来ると、金〇町の交差点を曲がって、俺達のマンションの前で止まった。
「近くで火事のようやな」
既に起き上がっていた空海が、ジャージに腕を通しながら言った。表通り側は公共の通路なので、室内から出ないと外の様子は判らないが、消防車が何台もやって来て、窓の外は赤い回転灯の光が幾つもチカチカとまたたいていた。
部屋から出て通路の窓から下を見ると、消防車やパトカーがたくさん詰め掛けているのが見えた。
その中心は、どうやら『お好み焼き まっちゃん』らしかった。良く耳を澄ましてみると、何かのアラーム音も聞こえる。
階下に降りて道を渡ると、防護服を着た消防隊員達が、はしご車で二階の窓から中を伺っている隊員の様子を見上げている。
「火の気は確認出来ず。アラーム音鳴ってる」
「少しにおいするな」
「開けて入ろか?」
などと話しているのが聞こえて来る。
俺は店のすぐ下あたりにいる知り合いを見つけた。俺の二階上で同棲している柏木くんと織田さんだ。二人は『まっちゃん』の常連でもある。
「柏木くん、今晩は。どおしたんこれ?何か知ってる?」
俺は彼らに近付いて声を掛けた。
「ああ、立花さん、空海さん、今晩は」柏木くんはペコリと頭を下げた。「いや、俺達ついさっき帰って来たとこやったんですけど、何か『まっちゃん』からアラーム聞こえてて。こいつがガス漏れちゃうか、て」
こいつと言われた織田さんが、小さく頷いた。
「で、119番したんです。火ィ出てもアレやし」
柏木くんはそう言って店を見上げた。
「おばあちゃんは?」
空海が尋ねた。
「私がさっき電話しました。もう来る思います」
織田さんがそれに答えた。
現場では、消防隊員が階段を上がって、店の入口前に立っていた。
「結構においするし、開けるで」
隊員はそう言うと、難無く鍵を開けて、店内に入って行った。後に三人ほど他の隊員達が続いた。
しばらく中で懐中電灯の明かりが動いているのが窓から見えていたが、やがてその窓が開き、隊員の一人が頭を出した。
「鉄板の所のガス栓が少し開いてた。もう閉めたんで大丈夫や。しばらく換気するんで電気類は触らんで」
それを聞いて、他の消防隊員達がほっと一息ついた。
そこへ、起き抜け顔のおばあちゃんが髪を振り乱してやって来た。寝起きでとりあえずかき集めたらしく、服も上下バラバラである。
「何やこれ、えらいこっちゃな!」
おばあちゃんは、周りの消防車やパトカーを見回しながら言った。ちょっと他人事な感じである。
「ホンマやで。お店結構ガスくさいで。大丈夫か?」
柏木くんがおばあちゃんに近寄って心配げに声を掛けた。
「ああ、カズちゃん、電話ありがとな。今日は普通に営業してたし、いつも通り片付けしたさかい、ちゃんと栓閉めた思たんやけどなぁ」
おばあちゃんはしきりに首をひねった。
「しっかり閉まってなかったみたいやで。まあ大事にならんで良かったわ」
空海が落ち着かなげなおばあちゃんの背中に軽く触れながら言った。
俺は周りを見渡した。大勢の消防隊員や警察官が実況検分をしている。結構 大事やと思うけどな、とは言わずにおいた。
「ゴメンやで迷惑掛けて。ありがとな」
おばあちゃんはオロオロしながらも俺達にそう言った。
そこへ、点検を終えた消防隊員の一人がやって来た。
「ああ、おばあちゃん、お店の人?ちょっとお話聞いてもええかな?」
おばあちゃんは隊員の質問にしどろもどろに答え始めた。柏木くん達がおばあちゃんについてくれたので、空海と俺は現場から少し離れた。
「火が出んで良かったな」
店を見上げながら、空海が言った。
「上も下も塾で、夜の間は火の気が無いからな。助かったわ」
俺も店を見上げて言った。
「火事は恐いからな」
「火ィ出てもおたら、周りにも被害出るしな」
「燃えてもうたら、全部無うなってまうからな。やっぱりあれがツライわ」
「燃えてもおた事あるんか?」
「高野山でな」
「なるほど」
「夜や冬は寒いから火を使う。住坊はあばら家同然やから火を断やされへん。で周りには経典や墨書などの紙類が多い。これがよお燃えんねん」
「そんな感じするわ」
「あと雷もよお落ちたしな」
「結構恐いトコやねんな高野山」
「自然と一体になれる、ええトコなんやけどな」
二人でそんな事を話していると、とても疲れた顔をしたおばあちゃんが、柏木くん達と一緒に歩いて来た。
「おばあちゃん、大変やったなあ」
俺がそう言うと、おばあちゃんは力無く笑った。
「もう潮時なんやろな」
「どしたんおばあちゃん」
「うちな、お店閉めよ思て」
「え、お好み焼き屋辞めはんの?」
「前から考えてたんやけど」おばあちゃんはしみじみと言った。「お父ちゃんが死んでから、常連さんの居場所を無くしたらあかん思て、お店続けて来たんやけど、やっぱりもおあかんなあ。体もエライし」
「そりゃあ、無理してもアカンしなあ」
「震災からこっちまあまあ頑張って来たし、もうゆっくりさせて貰おかな」
そう言うと、おばあちゃんは大きくひとつ息をついた。
おばあちゃんは、五月一杯でお店を畳んだ。
その後、散歩しているおばあちゃんに逢ったのだが、彼女は、
「仕事辞めたらな、朝早起きせんでも良うなって、メッチャ楽になったわ」
と、元気そうに笑っていた。
20200217




