三月二十一日(後編)
空海は、現代日本で何をする?
三月二十一日(後編)
アキちゃん達が来てくれた日から、空海の体調は低い所で落ち着いたかに見えた。しかし、水以外はほとんど食物を口にしなくなってしまい、見るからに痩せて来た。
俺はバイトをなるべくショートのシフトにして貰い、少しでも長く空海のそばにいられるようにした。
「弘史、俺の事は放っといて、仕事行きや」
空海は弱々しい声でそう言った。
「何かな、空海の事が気になって仕事に手ェ付けへんねん」
「それは申し訳ない」
「ところで空海、この間"この体調に覚えがある"言うてたやろ?どういう事なんや?」
「ああ」
空海は返事をしたまま黙り込んだ。少し間が空く。そして小さく笑った。
「どしたん?」
「いやな、今の状態、『天人五衰』って感じかな思て」
「何や『テンニンゴスイ』って?」
「説明メンドーやからググってくれ」
空海にそう言われてググってみると、ウィキで『天人五衰とは、仏教用語で、六道最高位の天界にいる天人が、長寿の末に迎える死の直前に現れる5つの兆しのこと。』と出て来た。
「そうか、ここは天上界なんや…て、おいおい、縁起でもない事言うなや」
「そんなに不思議な事でもないねんで」しんどそうにしながらも、空海は話しを続けた。「俺、承和二年三月二十一日に死んでるんや。西暦で言うなら八三五年四月二十二日や」
「そんな事冷静に言うなや」
「その時の五穀断ちした時の体調と似てるわ」
「めっちゃ死に近いやん」
「弥勒菩薩が下生するまでガンバる言うたけど、今回はちょっとお迎え早すぎちゃうか」
空海の言葉は、段々と独言のようになって来た。
「空海、もおいいで。喋りすぎて疲れたやろ。ゆっくり寝てくれ」
俺が言うまでもなく、空海は何か口を動かしながら眠ってしまった。
「死ぬなんて言わんでくれ空海」
俺は小声で呟いた。いつの間にやら同居して、たった一年で居るのが当たり前のようになってしまっていたが、冷静に考えてみれば、これはかなり異様な話なのである。空海は、元々平安時代に生きた人間である。今ここで俺と一緒にいる事自体が本来あり得ない事なのだ。
「でもな空海、俺はまだまだお前と一緒に色々な事を見てみたい思うで」
俺はそう言って空海の顔を見下ろした。空海は眠り込んだようだ。その顔を見ながら、俺はさっきの空海の言葉を思い出していた。承和二年三月二十一日。西暦八三五年四月二十二日。
何かが引っ掛かるのだが、その何かが解らない。
突然電話が鳴って、俺は飛び上がった。固定電話なんて滅多に鳴らないからだ。
「はいもしもし」
俺は電話に出た。自分からは名乗らないのがマイルールである。
「こんにちは、こちらは須〇寺副住職の〇池と申します。いつもお世話になっております」
電話の主は、空海のバイト先の副住職だった。
「ああどうも。こちらこそ空海がお世話になってます。私は同居人の橘です。本人は生憎不調で伏せっておりまして」
「ああ、ルームシェアしてる方ですね。はい、体調の事は聞いております。今度の二十日と二十一日、お手伝いは難しいですよね」
「お大師さんの縁日ですね。恐らく無理やと思います」
「ですよね。判りました。ごゆっくりお休み下さい、とお伝え下さい。では失礼します」
副住職はそう言って電話を切った。
そうか、縁日のバイトか。
そこで、俺はハタと気付いた。慌ててカレンダーを見る。今日は四月の十五日。横に旧暦三月十六日と書いてある。俺が空海と初めて出会ったのが、一年前の四月三十日。今年のカレンダーの下に掛けたままになっていた去年のカレンダーを見ると、四月三十日は旧暦三月二十一日だった。
もしかして、旧暦三月二十一日に近付くほど衰弱して行くのか?
「じゃあ、四月二十日にはどないなんねん?」
俺はしばし呆然と空海のやつれた寝顔を見つめた。
ネットで調べてみたら、歴史上の空海は承和二年三月二十一日の寅の刻(午前四時頃)に死んだ、となっている。もっとも、真言宗では"死亡"ではなく"入定"と言うらしい。
俺は、二十日と二十一日はバイトを完全に休みにした。不測の事態に備えるためだ。アキちゃん達にもL〇NEを送っておいたので、二十日の午後からは、アキちゃん、泰子ちゃん、美穂さんが空海の枕元に揃った。
空海は、不安げな俺達の顔を見上げて、薄く笑って見せた。
「そんな悲しそうな顔して、どうしたん?」
「空海さんが元気になってくれへんかったら、私らずっとこんな顔のまんまやで」
アキちゃんが涙目で言った。
「ありがとう。人は人に想われるんが一番の幸せです」
「いやや。そんなお別れみたいな言葉聞きたない」
アキちゃんは泣き声で言うと、空海の掌を取った。
「弘史、おるか?」
空海は弱々しいがはっきりとした声で、俺を呼んだ。
「何や。枕元におるで」
「俺な、高〇山で弟子に囲まれて、最後の時間を迎えたんや。でも、今の方が何だか心が休まるな」
「弟子達に怒られんで」
「ただ」空海は少し苦しげに息をついた。「今の方が寂しくもあるな」
「気弱な事言うなや」
「この世界はおもろいな」空海は微笑んだ。「死後の世界がこんなにおもろいて知ってたら、皆死を恐れる事なく、生に向き合えるんやろな」
「あかんでまだ死んだら」
「それが御仏の御意志なら」
「こんな時だけ仏頼みかいな。空海は生きたいんやろ?もっともっと色々見聞きしたいんやろ?やったら早よ元気にならなあかんやろ」
俺は空海を見下ろしながら、努めて淡々と言った。
「そうやな…。もっと生きたいな…」
空海がそう呟いた時、時計が午前四時を指した。
「弘史、俺、まだ道の途中や…」
空海はそう言うと、ゆっくりと眼を閉じた。細く長く息を吐いた。胸が膨らまない。
「えっ?ちょっと!空海さん!あかんで!起きて!」
アキちゃんが握った掌をさすりながら声を上げた。
泰子ちゃんや美穂さんも空海の名前を呼びながら腕や足をさすった。
俺は、沸き上がる感情をぐっと押さえて、空海の顔を覗き込んだ。
「お前、やり残した事があるくせに、女の子を泣かすような真似はするんかい?」
俺は勢一杯の嫌味を込めて言ってやった。
完全に表情を失っていた空海の眉間に、一本の縦皺が寄った。次の瞬間、深い水の底から上がって来たかのように息を大きく吸って、空海はむせながら蘇生した。
空海は、夢から醒めたような顔で、喜びで泣き笑いのアキちゃん達を見た。
「おい、大丈夫か空海」
俺は恐る恐る尋ねた。端から見て、モロに臨死体験した人そのものだったからである。
「俺、彼岸に行ったで」
空海は言った。その顔は笑っていた。
「川渡ったんか」
「おう、渡った。渡ったら、光り輝く存在がおってん」
「仏様か?」
「お前やった」
「えっ?」
「輝いてたの、弘史やった。アキちゃんも泰子ちゃんも美穂さんもおった。みんな輝いてた」
空海は嬉しそうな声で言った。声に少し力が戻って来ていた。
「どうゆう事?」
俺には良く判らなかったが、空海はそのまま続けた。
「輝く弘史がな、『やり残した事を続けろ』って言うてくれたんや。そして光が強なって、目を開けたら皆がおってん」
「もお、ホンマに心配したんやから」
目を腫らしたアキちゃんが泣き顔で笑った。
「俺、皆の顔を見て、再び確信出来たんや」
空海は、今にも飛び起きそうな勢いで言った。
「何を確信したんや?」
俺の問いに空海は腹から声を絞り出した。
「この世が浄土なんや。人の世こそ密厳国土なんやって事や」
その言葉には、さっき一ペン死んだとは思えない程、力が満ちていた。
「まあ、とにかくお帰り、空海」
俺は笑って空海の額をポンポンと叩いた。
20191212




