彼岸
空海は、現代日本で何をする?
彼岸
平成二十六年(2014)三月二十一日。
バイトが終わって部屋へ帰ると、空海は既に帰って来ていた。空海も昨日今日と須〇寺でバイトだったのだ。
空海は、ちゃぶ台の前で足を飛げ出して座っている。
「お、お疲れさんやな」
俺は笑いながら言うと、ちゃぶ台の上にもらって来た惣菜を置いた。
「おお、弘史、お疲れ」空海の声はかすれていた。「昨日もそやったけど、今日もお参り多かったで、須〇寺。声枯れたわ」
「天気も良かったしな」
「絶好のお参り日和やったな」
「『SE〇YU』も忙しかったわ。ぼた餅めっちゃ売れとったで」
「最近は、あんまり家で作らへんねんな」
「まあ買った方が安いしな」
「流石は彼岸の中日や。須〇寺あなどれんわ」
空海は大きくひとつ息を吐いた。
「お腹空いたな。ご飯食べよか」
俺がそう言うと、空海がよっこいしょと立ち上がった。
「空海おっさんやん」
「俺見た目よりおっさんやで」
空海はそう言いつつ台所へ行くと、ラップをかけたアルミのボウルを持って来た。
「何やこれ?」
俺はラップの上から覗き込んだ。
「須〇寺で貰った『ヘビ』で作ったひつまぶしや」
空海が茶椀と汁椀をちゃぶ台に置きながら答えた。
「ヘビ?ああ、うなぎな」
「汁はア〇ノフーズでええな」
「問題なしや」
俺と空海は、少々遅めの晩ご飯を食べ始めた。
「ところで空海」俺はふと箸を止めた。「もの凄く基本的な事、聞いてもええか?」
「何や?」
「そもそも、『お彼岸』って何なんや?」
「ホンマに基本的な質問やな」
「すまんな」
「知らない事を認めて、学ぼうとするのは尊い事やで」
空海は笑顔で言うと、お茶をひと口飲んだ。
「そもそも『彼岸』いうのは、俺達のいるこの世界、即ち『此岸』と対になる言葉で、仏の世界を指すんや」
「あの世って事か?」
「そうとも言えるし、ちゃうとも言える」
「どゆこと?」
「彼岸いうのは『涅槃』を意味するんやが、涅槃を死後の世界と考えると、彼岸はあの世やな」
「ほかの意味もあるんか?」
「むしろこっちが正解なんやけどな、涅槃いうのは『心の動揺の無い、静かな境地』つまり悟りを表わす言葉なんや」
「へえ」
「まあ確かに死んだら何の動揺もなくなるし、涅槃と言えなくは無いけどな」
「で、『お彼岸』はどないなったん?」
「そこやがな」空海は人差指を立てた。「悟りの境地、つまりは仏道の修行をするのが、『お彼岸』なんや」
「そうなん?」
「在家、つまり一般の人は、勉強や仕事や家事で、仏教の勉強や実践はなかなか出来んやろ?ほんなら、せめてこの一週間だけでも、仏の教えに触れる機会を持とうやないか、という事や」
「でも、何でこの日なんや?」
俺は首をかしげた。
「彼岸て、年に二回あるやろ?」
「そやな」
「何でや思う?」
「一回やと忘れてまうからかな?」
「おもろい見解やけど、ちゃうな」
空海は笑った。
「なら何でなん?」
「カレンダー見てみ。一週間ある彼岸の真ん中、今年は三月二十一日やけど、何て書いたある?」
「彼岸の中日って…」
それを読んですぐ、俺は空海の意図が判った。
「あ、春分の日や」
「そうや。春分と秋分は、昼と夜の長さが同じになる訳や。これを仏教の説く所の『中道』、両極端に偏らないという教えになぞらえて、仏教に触れ合う日にしよう、とした訳や」
「けっこう日本人的発想やな」
「そやで。日本発祥の風習や。他の仏教国ではやってへんで」
「へえ、そうなんや」
「あと、春分秋分は太陽が真東から昇って真西に沈むやろ?西には何がある?」
「天竺か?」
俺のボケに、空海は素で返して来た。
「惜しい。かすったけどハズレや。西は、阿弥陀如来の西方極楽浄土があるんや。阿弥陀信仰な、唐の時代に流行っとったんや」
「と言う事は、今度は死んだ人の事やな」
「そう言う事になるな。つまりは、彼岸は悟り(自分磨き)と、供養(他人への思いやり)、自利利他の実践をするのに相応しい日や、という訳や」
「へえー。何の気なしに過ごしとったけど、お彼岸って奥が深いねんな」
俺は大いに感心して言った。
「そうやで。仏教の教えや修行には、色んな意味が込められとるんやで」
空海は微笑みながら言うと、俺が貰って来たポテトサラダを口にした。
「ほんなら、何で『ぼた餅』と『おはぎ』て、呼び方が違うん?どっちも同じやと思うんやけど」
俺はもう一つ疑問に思っていた事を尋ねてみた。
「そうやな。どっちも餡ころ餅やもんな。まあ、春が『ぼた餅』、秋が『おはぎ』ってのが定番やな」
「何で?」
「春には牡丹が咲いて、秋には萩が咲くから、それぞれの季節の花に例えた、ていうのが定説やな」
「ヘえー」
空海の明解な答えに、俺はさっきから「ヘえー」しか言っていない気がする。
20190924
※ 諸説あります。




