風呂
空海は、現代日本で何をする?
風呂
平成二十五年五月の始め。
ゴールデンウィークも終わり、世の中「五月病」などと言いながらアンニュイに過ごすこの時期。
「なあ、空海、お風呂屋さんに行かへんか?」
俺は、布団の上であぐら(結跏趺坐)をかいている空海に声を掛けた。
「お風呂屋さん?」
空海は首をかしげた。
「そや。お風呂屋さん」
「お風呂なら、ここにも立派な風呂があるやないか、弘史」空海は不審げに言った。「自分の家に風呂があるだけでも贅沢やのに、わざわざどこかへ行くんか?」
空海が俺の部屋に転がり込んでから、一ヶ月と少しが経った。もの凄い勢いで現代に順応しているが、まだまだ知らない事も多い。
「俺の時代、自宅で湯に浸かるなんて考えられへんで。なのに、どこかへ行くて。湯治場か?」
「山奥とか行かへんで。地下鉄ですぐやで」
「地下鉄て、あの地面の下のゴーッて走るやつやな」
「そうそう」
「この部屋の風呂にある、桶やら石けんやら持って行くんか?」
「貸してくれるから、手ぶらで大丈夫や」
地下鉄〇岸線の駒〇林駅で降りると、目の前に「アグ〇ガーデン」、そして同じ敷地内に「あ〇ろの湯」がある。目標はその「あ〇ろの湯」である。
中に入ると、まずロッカータイプの下足箱があり、靴を入れてプレート型のカギを抜く。
「凄いな、履き物一個づつ入れるんや。上手い事出来たあるわ。間違い無くてええなあ」
空海はそんな所から感心している。
フロントで、タオルとバスタオル貸し出し込みで1,100円を支払い、ロッカーキーを受け取って中へ入った。
「へえ、明るいし、広いんやな」空海は周りを見回しながら言った。「めっちゃキレイな湯治場やな」
「多分、湯治場より気安くて楽チンやと思うで」
「そうかな?」
「別に病気な訳でもなし。純粋にお湯に浸るのを楽しむだけやからな」
「なるほど」
二人して脱衣所に入り、キーのナンバーと同じロッカーに服を放り込むと、湯船のスペースへと突入した。
「おおー、こりゃ凄い」空海は感嘆の声を上げた。「なんやこれ。湯船、石で出来てるやん。それに、いくつもあるし。体洗う場所まであるんか」
もう大騒ぎである。
「自分、何ヶ所も温泉当ててるやん」
俺は笑いながら言った。
「あれは、涌いてる湯が熱すぎるのを、上手く冷ます方法を考えたのがほとんどやで。それに、半分以上は弟子の仕事や」
「そうなんか?」
「さすがに一人であそこまで行き切れんわ。今みたいに地下鉄とか無いしな」
「そらそやな」俺は納得した。「言ってみれば『チーム空海』やな」
「チームって何や?」
「同じ目的で集まった集団ってとこか」
「僧伽の事か?」
「ごめん、それ判らへん」
そんな事を話している間に、空海がそのまま湯船に入ろうとしたので、俺は慌てて止めた。
「待った待った、空海」
「何や?弘史」
「掛け湯せんと」
「掛け湯?」
「みんなで入る湯船や。まずはお湯を掛けて、汚れを落とさな。それに、掛け湯する事でヒートショックの予防にもなるんやて」
「ヒートショックが判らんけど、汚れを落とすいうのは納得や」
空海と俺は、掛け湯をしてから、広い湯船に肩まで浸った。
「ぷわー、気持ちいいなあ」
思わず声が出る。
「これは確かに気持ちいいわ」空海も手足を伸ばして溜め息をついた。「普段は蒸し風呂やからなあ。温泉地にでも行かんと、こんなまとまった湯は無いで」
「あっち行ったら、露天風呂あるで」
俺は大きなガラス窓の向こうを指差した。こちらと別棟に囲まれた箱庭で、数種類の露天風呂がある。
「面白そうやな、行ってみよか」
空海は、目を輝かせながら露天風呂に移動して行った。空海は、壺型の一人用風呂が気に入ったようで、随分長い事壺に浸っていた。
ちょっとのぼせて来た俺は、壺にハマっている空海の耳元でボソッと呟いた。
「あっちにサウナあるで」
「何やサウナて?」
「蒸し風呂や」
「蒸し風呂かあ」
「めっちゃ熱いで」
「何やそれ?」
空海はまた目を輝かせた。
20190319
※ 僧伽 仏教修行者の集団を指す言葉