言葉
空海は、現代日本で何をする?
言葉
平成二十五年の夏の終わり頃。
まだ全然暑さは治まる気配は無い。
俺は空海と一緒に、兵〇区水〇通にあるホームセンターダ〇キに向かっていた。俺の住んでいる金〇町からは、第三セクターであるJR和〇岬線でJR兵〇駅まで出ると、歩いて五六分ほどである。ただ、和〇岬線は、朝と夕方の通称「〇菱ラッシュ」時以外は一時間に一本しか無いので、便利か不便か何とも言い難い。
駅から出ると、焼けたアスファルトの熱気が全身に襲い掛かって来て、つかの間の電車内のクーラーの冷気があっけなく吹っ飛ぶ。
一気に吹き出した汗をタオルで拭いながら空海を見ると、涼しい顔をしている。
「暑くないんか?空海」
「暑いで。目眩しそうや」
「全然そうは見えへんで」
「実は耐えとるんや」
「ガマンで何とかなるモンちゃうやろ」
「そう言えば弘史」
「何や?」
「『我慢』って元々仏教の言葉やで」
「そうなん?」
「慢っていうのは、他人と比較して自分が勝れていると思い上がる心で、まあ煩悩の一つや。それを七つに分類して、"七慢"言うんやけど、その中の『俺が俺がと執着して驕り高ぶる』ってのが我慢言うんや」
「我慢って、エエ意味ちゃうんや。むしろ上から目線の、イヤな感じやな。て言うか、この暑いのに理屈っぽいのシンドイわ」
ダ〇キに入ると、エアコンは弱冷だったが、外が暑すぎるので十分涼しさを感じた。しかし、体の中まで熱がこもっているので、扇風機の前でしばらく風を浴びた。
今日はトイレットペーパーと、この暑さで減り方が半端ないシャンプー及びボディソープ、液体洗剤と洗い替えのTシャツを買いに来たのだ。空海は初ホームセンターである。
「でっかい市場やな」
空海は周りを見渡しながら言った。
「市場…。まあそんなようなもんか」
俺はガラガラ(カート)を押しながら答えた。
俺がいつも使っているのは、ペ〇ギンコアレスという芯無しのトイレットペーパーなのだが、今日は棚が空っぽだった。係の人に尋ねてみたが、在庫も無いらしい。
「まあそういう事もあるわいや」俺は言いつつ、別のペーパーを取った。「諸行無常や。しゃーないわ」
「諸行無常は、一切の現象は常に移り変わる事を言い表した仏教の言葉やけど、そんな使い方すんねんな」
「また仏教用語か。色々あるんやな」
「間違った使われ方してる言葉もあるけどな」
そう言った空海のすぐ横で、チンピラ風の兄ちゃんが喚き出した。
「こないだまであったやん、バーべキュー用のおっきなコンロ。あれが欲しいねんけど」
「申し訳ありませんが、商品の入れ換えで、もうなくなってしまったんです」
従業員が頭を下げるが、兄ちゃんは聞き入れない。
「前からあれに目ェ付けてたんやって。出してくれえや」
「ですから、もう無いんです」
「無いんやったら、どっかから仕入れてこんかいや?」
兄ちゃんは無茶振りまで始めた。店の「上の人」らしき人が出て来たが、兄ちゃんは食い下がって引く様子が無い。最後には別の商品を安くしろ、とか言い出した。
面倒やなあ、と思っていた俺の横から、空海が兄ちゃんに近付いた。
「すいません。無いものは無いんですから、あまりお店の人に無理を言ってはいけませんよ」
「何じゃワレ?」
兄ちゃんは凄い目付きで振り返った。
「見るに見かねまして。他のお客さんも驚いてますから」
「うっさいんじゃコラ。おんどれには関係ないやろが。何インネンつけてきよおねん」
「因縁というのは、全ての事象には起こる為の原因がある、という仏教の言葉ですが、その意味で言うなら、原因を作ったのはあなたの方ですよ」
「何ワケ判らん事言っとんねん」
「欲しい物が無いのなら、代用出来る物を入手するか、きっぱりと諦めるか、どちらかにしなさい。周りに迷惑をかけるような事ではない」
「ええ加減にせえよこのガキ」
兄ちゃんは空海の襟元を左手で掴むと、右の拳を固めた。
空海は、そのままで兄ちゃんの目を覗き込んだ。
「お前は本当にこれで良いと思っているのか?自分が他人に迷惑を掛けている事に対して、申し訳ないと思わないのか?」
兄ちゃんは、空海から目を離せなくなった。
「お前も、自分の仲間達と楽しくやる為に行動しているのだろう?ならば、その楽しさを他人に分けてやるくらいの度量を持ったらどうだ?」
空海の言葉を聞くうちに、兄ちゃんの表情から険しさが抜けていった。
「ホンマやな。お前さんが正しいわ。ありがとな。申し訳ない」
兄ちゃんは空海に、次いで店の従業員に頭を下げた。そして、別のバーベキューコンロを買って帰って行った。
「空海、良くあの兄ちゃんを説得出来たなぁ」
そう言った俺に、空海はあっさりと答えた。
「あの兄ちゃんかて悪い奴やないねん。ただちょっといきがってただけや。私が本当の事を言ったから、落ち着いたんや」
「そういうもんか」
「そうや。言葉には力がある。それを聞く相手に機根があれば、ちゃんと通じるもんや」
「目力も凄かったけどな」
「やっぱり相手の目を見て話しせなな」
俺達はしきりに頭を下げる従業員達を振り切り、ようやく自分の買い物を済ませると、再び暑い通りへと出て来た。
「あの兄ちゃん、ガキ言うてたけどな」
「何や?」
「餓鬼いうのも仏教の言葉やな。薜茘多いうて、餓鬼道に堕ちた亡者を指すんや」
「また仏教用語やな」
「私利私欲に走って、貪りの人生を送ると、餓鬼道に輪廻する、と言われてる」
「『言われてる』か。空海でも、断言出来る訳やないんや」
「そらそうや。生まれる前も死んだ後も、何処から来て何処へ行くのかなんて、人間には解りようも無いわ。『生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し』や」
「それもお経の文句か?」
「俺の書いた『秘蔵宝鑰』って本からや」
「自分発信かいな」
「そうや。生死不可得なるが故に、今を大事に生きなあかんねん」
「何か難しい事言うたな。じゃあ、とりあえずサ店でかき氷でも食うかい?こう暑いと往生するわ」
「ええな、かき氷」空海は笑った。「氷が真夏に手に入るなんて、素晴らしいな。ところで『往生』て…」
「仏教用語はもおエエで」
俺は思わず突っ込みを入れた。
20190206
註 : 今回のお話は、ある方から頂いた感想からインスパイアされたものです。