終末世界の渡り人
――世界は終わった。けれど、人間は生きていた。
ただただ広がる無尽の荒野。地平線で断ち切られたコバルトブルー。
燦々と、すべてを焼き尽くすかのように、太陽は天の頂から地上を睨みつけている。
その中を砂埃を上げながら走る、一台の単車、モーターサイクルがあった。
傷だらけの車体は銀色で、さながら照り付ける太陽に抗議するかのようにその光を返している。
半ば砂に埋もれた道で、ぎこちないサスペンションが時折、車体を跳ね上げていた。
それに跨った騎手は、空と同じ青い目で地平線をじっと眺めている。
ところどころ解れの目立つ黄土色のジャンパーと同色のトラウザー。口元を青い布で覆い、肌の出ているところは一つもない。
ハーフキャップとゴーグルの中で、その目だけが輝いていた。
聞こえるのは風と、単気筒の奏でる鼓動の音。そして時折、荷物がぶつかるがちゃがちゃとした音だけ。
いつまでも続くような地平線だったが、やがて、小さく何かが見えてくる。
それほどの速さは出ていなかったはずだが、それでも段々と近づいてくるそれは、どうやら井戸のようだった。
騎手はそれに目を止めると、緩やかにハンドルを切って単車を止めた。ボロボロの乗車を気遣ったようでもあった。
「まったく。この道はどれだけ続くのかしら」
原動機も止まり、ただ風が砂を巻き上げる音だけの静寂に響いたのは、澄んだ声音だった。
口元を覆っていた布と、革の半帽子を脱いでしまえば、そこから覗いたのはまだ幼さを残す少女の顔。
ぺったりとくっついた髪に手櫛を通しながら、彼女は溜息を吐いた。
少女の名をアニスという。今は見ることのない、白い花の名前だった。
アニスは、渡りの者、あるいはただワタリと呼ばれる者の一人だ。
人々の集落から集落へ、時には品物を、時には手紙を届ける運送人のようなものである。
けれど、ワタリを運送人や商人と呼ばないのには理由がある。
彼ら/彼女らにとっては、物を運ぶのは手段であって目的ではないのだ。
つまり、移動するのが目的であって、物を運ぶのはそのついで。彼ら/彼女らは旅人なのだ。
「このポンコツ、またお漏らししてるじゃない」
アニスは、自らの喉を潤すということも脇に置いて、単車に向き合っていた。
単純な作りのそれだったが、その気化器からはぽたぽたと燃料がこぼれている。
燃料の一滴は血の一滴。昔、どこかの国で唱えられていたお題目だったが、今やその言葉を知らない者はいない。
華々しい文明社会が散って、人々が肩を寄せ合うように小さな集落で暮らし始めて長く経つ。
それらが緩やかにつながりあい、足りないものを分け合い、僅かな娯楽を手に入れるのに、道を行くものたちは文字通り生命線だった。
彼らを動かす燃料は、まさに血と同等の価値を持ち、それを生産するコミュニティは今も文明を保っているとのことだ。
もちろん、それに不平を持つ人間も居るのだろうが、それよりは憧れの方が強い。
アニスらのような、文明の崩壊した後の閉ざされたコミュニティしか知らない者にとっては、夜にも明るく、人々が本を読み学問に励み、組織化された軍隊を持つというそこはまさにおとぎの国だ。
「よっ……と。これでいいかな?」
車体を手持ちのハンマーで叩くと、彼女はようやく肩にかけた筒を下ろして、井戸に向かった。
こうした井戸は、荒野の中にも点々とあった。そのほとんどは、道に沿っている。
過去にここを通った者たちが整備したもので、その感謝として代表者の名前を付けてそれらは呼ばれている。
例えばここは『チャーリー・ウェル』という真鍮製の銘板が着けられていた。
アニスは井戸から水を引き上げると、そこでようやく腰に提げた金属製の水筒に口をつけた。
口の端から水をこぼす勢いで飲み干していく。荒野は、暑い。肌を晒さないのは、強すぎる日光から身を守るためでもある。
長く風や日に晒されて、彼女の髪は白んでいた。
「っ! 誰!?」
ふと、何者かの足音が聞こえた。
それを聞いたアニスは、弾かれたように傍らに置いていた筒から中身を取り出して、井戸の裏に隠れた。
筒から出てきたのは、木と鉄の塊……小銃だった。ボルト・アクションのそれは、単純な機構が好まれて広く浸透しているものだ。
油断なく視線を向けた先には、しかし誰もいない。単車を止めた時に周囲を軽く見た限りでは、確かに人は居なかったように思う。
しかし、井戸に、水に気を取られたのは失敗だったかもしれない。
いつだって人間の中にははぐれ者がいる。それはアニスら渡りの者も同じだったが、その中には良からぬ者もいるものだ。
つまるところ、盗賊やその類の者。生活が出来ないから盗賊になるのか、始めから盗賊なのか、そんなことは被害者には関係ない。
自衛のために銃の一丁も持たないワタリは居ない。拳をかざす者に対話など意味はないのだ。
初弾を薬室に送る金属音が響く。油を差した遊底は、刃物が断ち切るような音を立てた。
「……なーんだ」
それに驚いたものか、飛び出してきたのは四本足の動物だった。
危険ではないとは言わないものの、誰とも知れない二本足よりはよっぽど安心できる。
逃げ去っていくそれを目で追って、弾を薬室から抜いてまた弾倉に押し込む。
日焼けで熱くなった顔を軽く水で洗ったら、また出発だ。括り付けた荷物が動いていないかを軽く確認する。
焼けた機械油の香りをさせる鉄の塊に跨り、何度か足を空振りさせながらエンジンに火を入れた。どうやら、愛馬の機嫌は悪くない。
軽快な音を響かせながら、彼女はまた風を切って走り出した。
荒野は変わらず、どこまで続くようだった――。
バイクに乗った少女が荒野を旅して――あっ、これ「〇〇の〇」だ。
と、気づいてしまったので続きません。