お寺の朝
お腹が重い。
目を覚ますと、小夜子は下腹部辺りが妙に重く感じた。何でこんなも重いのか小夜子はよくわからなかった。よく見るとお腹が少し膨らんでいるように見える。
とりあえずトイレに向かうが何も出なかった。
廊下を歩いているといい香りがしてきた。
「美智子おば様?」
小夜子はキッチンを覗くとすでに割烹着を着た女性の後ろ姿が見えた。女性は声に反応してこちらを振り向いて微笑を浮かべた。
「あら、小夜子さんおはよう。起きるの早いわね」
「おはようございます。っておば様の方が早いですよ。今日は私がご飯作る日じゃないですか」
「そうだったかしら? でもいいじゃない今日は始業式でしょ。今日くらいゆっくりしてもいいんじゃないかしら」
「そんなわけにはいかないですよ。せめて私も手伝います」
小夜子は急いで手と顔を洗い、ピンクのエプロンを腰に巻いた。美智子はその様子に笑窪を浮かべる。
二人でテーブルにごはんを並べていく。しっかり煮込んだ大根が入った味噌汁、暖かいご飯、昨日の残り物の濃い味付けした野菜炒め等々、別段豪華ではなくごくごくありきたりな物ばかりだったが、テーブルに綺麗に並べられればそれなりによく映える。
そうこうしてるうちに頭がつるりとした細めの男性がやって来た。美智子の旦那でありお寺の住職でもある雄一郎だった
「おはよう。今日は二人で朝食を作ってるのかい。仲が良いね」
「雄一郎おじ様おはようございます。もう朝の瞑想は終わったんですか?」
「ええ、ええ。どうも早起きしすぎたみたいでして朝早くから始めたんですよ」
雄一郎は頭の頂点を撫でながら少し照れ臭そうであった。
小夜子は夫婦揃って早起きしてることが可笑しくてクスクス笑ってしまう。本当に仲が良い夫婦なんだと羨ましく思った。
三人は席について頂きますと手を合わせた。
「それにしてももう一年になるんですねぇ」
雄一郎は炒めたニンジンとキャベツをお茶で流し込んだ後、しみじみと呟いた。小夜子はなんのことなのか分からなくて首を捻る。しかし奥さんである美智子は分かっているようでうんうんと頷いていた。自分だけが分かっていない状況に、小夜子はちょっと寂しさを感じてしまう。その様子に気づいたら雄一郎は、壁に張ってあるカレンダーを指差して、答えを告げた。
「小夜子さんがこの寺に来て一年がたったということですよ」
そう言われて小夜子はようやく合点がいった。そうかもう一年になるのかと、時間の流れる速さに驚いてしまった。
小夜子がこの寺にお世話になったのはちょうど一年前の入学式だ。雄一郎は小夜子の母の兄で、つまりは叔父にあたる人である。夫婦二人暮らしで慎ましく生活しているところを小夜子は居候という形で住まわせていただくことになった。理由は高校に通うためである。本当は一人暮らしをするつもりであったが、せめて住むなら信頼できる人と一緒でということになり、それならば叔父さんが適任ということになったのである。
「小夜子さんから高校に通うために居候させてほしいとお願いされたときはね、僕はとっても嬉しかったですよ。可愛い姪と暮らせるんですから。断る理由はなかったよね美智子さん」
「ええ。私たち子供がいないから小夜子さんみたいないい子が来てくれて嬉しかったわ。本当に娘ができたみたいで」
二人仲良く頷き合う様子に小夜子は心嬉しく思うと同時に、少し心苦しいものも感じていた。決して悪意があるわけではないが、なぜ実家を出てまで遠くの高校に通おうとしたのか、小夜子はその理由を全て話してはいなかった。その理由を話してしまうことで、この心優しき夫婦を巻き込んでしまうのが嫌だったからだ。
「お二人がここに住むことを了承してくれて本当にありがとうございます。おかげで行きたかった高校に行くことができました」
これは半分本当で半分は嘘である。小夜子からすれば実家から出ることができればどこでも良かった。最初は寮のある学校を選んだのだが、父は学校という一種の隔離された場所に行かせることで、監視の目が届きにくくなることを恐れたため反対されてしまった。その後、それでも出たいと言って、一人暮らしをすること駄目元でお願いしだが、一人暮らしなどなおさらよくないと却下されてしまった。
小夜子は実家を出ていくことが困難であることは覚悟していた。それでも実家を出ていかなければいけない理由があった。
小夜子は何度も何度も頭を下げた。何度も怒鳴られても、物を投げつけらても諦めることはなかった。やがて父は折れてくれて、条件付きで許してくれたのである。
「源蔵からもよく電話がくるよ。小夜子さんの様子はどうだ、勉強しているのか、ご飯はちゃんと食べているのかとかね。あいつがこんなにも心配性だったなんて知らなかったよ」
雄一郎と小夜子の父である源蔵は幼馴染らしく、お互いに仲が良く、こうして小夜子を預けてくれたのも、ひとえに雄一郎を信用してくれたからである。
「源蔵とは色々あったけどね、一番驚いたのは人の妹と結婚して義弟になったことだよ。ある日突然きっちりとした礼装を着込んで訪れてきたと思えば、いきなり妹を俺に譲ってくれと土下座してきたのだから度肝を抜かれてしまったよ」
雄一郎は懐かしそうにその思い出を語る。小夜子としては、自分の父が土下座している姿なんて全く想像もできなかった。小夜子の父である源蔵は、人ひとり殺しているんじゃないかと思うほど厳つい顔をしており、言動もそれに合わせたように厳しく、ひとたび怒れば嵐のごとく、といった感じの人であるからだ。
ふと、小夜子はお腹を撫でる。どうにも今日はお腹が重く感じる。まるでお腹の中に赤ん坊がいるみたいだった。いや、小夜子は妊娠などしたことはないので、あくまでも妊娠したらという想像であるのだが。だが確かにお腹に手を当ててると、なんとなくだが手のひらを通じて鼓動が感じるような気がした。
「小夜子さん、お腹をしきりに触ってるけどどうしたの? お腹が痛いのかしら?」
美智子が心配そうにお腹を覗きこんできたので、小夜子は慌てて否定した。
「いえ、大丈夫です! あ、もうこんな時間だ、美智子おば様ごめなさい、自分のだけは片付けてから行きますから、洗い物はお願いしてもいいですか?」
「大丈夫よ、行ってらいしゃい」
「ありがとうございます」
小夜子はお礼言ってささっと片付けを済ませると、逃げ出すようその場を後にした。あまり不審に思われ追及されたくなかったのだ。
玄関で靴を履いて、ドアを開ける。春になってから少し暖かくなった空気が家の中に入ってきた。エナメルバックを肩に掛けて小夜子は外に出ようとして、ふと足を止めた。そのままくるりと反転して、まだ食事中であろう二人に向けて声を出した。
「美智子おば様、雄一郎おじ様、私も二人と暮らせて嬉しいです! 今年もお願いします! それじゃあ行ってきます!」
どんな事情や理由があろうと、小夜子はこの一年間の暮らしがとても楽しかったのは事実だ。それだけはちゃんと伝えておきたかったのだ。