第六話
今回は話があまり動きません。あと微妙にシリアスっぽいです。
「お二人とも準備が整いました」
使い魔の女性に呼ばれて掘っ立て小屋の中に入るとそこには魔法陣が描かれていた。彼女の準備ができるまで俺とイーリスは他の家畜に餌をやり、卵を回収、乳を搾っていた。というか危うく自分がただの農家のお手伝いと錯覚してしまいそうなほど真面目に働いてしまっていた。
「では魔方陣に入りましょう」
イーリスは小さなかごを片手に俺と一緒に移動する。服は汚れてしまったので気持ちを新たに二人ともおそろいの農民服に着替えた。あれっ。魔族の格好しなくていいんだろうか。俺は首を傾げたがイーリスに取り合ってもらえなかった。
まあチャンスがあればこれ幸いと新品のボンテージ衣装をせっせと渡してくる使い魔通称家畜の豚さんのおかげで深く考える暇がなかったという側面もあったんだけれど。
うん。特殊なだけで趣味が悪いわけじゃないんだよ。でも大事な部分がまな板のイーリスにはちょっと酷かもしれないと思ったり。もちろん見たくないといったら嘘になるけど。
「下僕さん今失礼なこと考えていませんでしたか」
ギロリと睨まれ俺は身を竦ませる。なんだ。俺の考えが読まれていたのか。とりあえずそんなことはないと笑ってごまかしておいたがイーリスは不審そうな目でこちらを見ている。ゴメン、視線が痛いです。
「ふふっ、仲睦まじくて何よりです。ついでにさらに親睦を深めてもらって旅の途中でゴールインされてもよろしくってよ。おほほ」
「やめてください。彼はただの下僕です」
「何をおっしゃいますか。身分違いのすれ違いも、それを乗り越えての下克上も、妄想、いえ想像のしがいがありますわ。主人に使われることしか能のない卑しい男に奪われる私のイーリス様、というシチュエーションも最高に盛り上がります」
「気持ち悪いです。あと私はあなたのものではありません」
イーリスは冷たく言い放つが使い魔は気にした風もなくからからと笑う。本当にこの人の気が知れない。あと俺をさりげなく貶めるのはやめていただけないだろうか。
「まあ冗談はさておき一日くらいは帰ってこなくても大丈夫ですよ」
長旅になりそうですしね、と使い魔は付け足す。
「セシル様をさらった勇者ハロルドは強敵です。念のため下僕22号も連れて行ってください」
ワンと足元で犬が吠える。どうやらこいつもついてくるつもりらしい。
「わかりました。では移動魔法の詠唱を始めてください」
イーリスの合図とともに使い魔が詩を諳んじる。レベルの低い俺でも難しいとわかる高度な魔術だった。
「それ……風の歌と共に……をさすらい」
周囲に特殊な文様が浮かび上がる。俺たち三人を遠くに転移させるための古代魔法だ。
「天空の……姫を求め……に捧ぐ」
詠唱と同時に前が見えないくらいまばゆい光に包まれて俺は思わず目を閉じる。
「…汝進めよ」
そして最後に使い魔の低い声が耳をついたのだった。
目の前に広がる雄大な景色。青々とした空に村一面の麦畑。ぽつぽつと民家が並び、遠くにはいくつか風車が聳え立っていた。どうやら俺たちは移動に成功したようだ。
「ワン」
足元で犬が嬉しそうに駆け回る。時折近くに蝶がひらひらと飛んでいて、興味津々といった風に追いかけては戻ってくるさまがなんというか。ただの犬だ。
「下僕さんここにいたんですか」
背後から声がする。イーリスだ。
「ああ、俺はここだ。で、これからどこに向かうんだ」
「あそこの一番奥にある塔が見えますか。勇者ハロルドの住処です」
「魔王の弟をさらったやつのことか」
「はい、セシル様はあそこにいらっしゃいます。ですので私たちは魔術を使わずにあそこに向かわなければなりません」
「どうして」
「ここには強力な魔法がかけられています。特に魔族には有害な」
イーリスは翡翠色の瞳を眇めて俺を見やる。
「下僕のあなたは魔王さまから魔力を補給しているので特に影響が強いはずです」
彼女が俺の左手を握る。
「あなたの手の甲にあるベルゼブブ家の文様が薄れかかっています」
左手に複雑に組み込まれた模様からうっすらと光が放たれていた。これが魔族と契約した印か。彼女に言われるまで気がつかなかったが俺は本当に魔族の一員となっていたようだ。
そして契約の証とでもいうべき存在を見せ付けられ一瞬気分が沈む。そうか。俺はもう普通の人間ではないのか。
「ですから早く城に参りましょう。あとこれを巻いてください」
イーリスは籠からハンカチを取り出し手早く俺の左手に巻きつけていく。これで一応契約の印は隠れたということだ。
「あのさ、イーリス」
「なんでしょう」
彼女は静謐さを称えた瞳で俺のほうを見る。同時に風がそよぎ、つややかな黒髪をたなびかせる。
「俺は使い魔としてこれから先もあの主人に仕えていくことになるのか」
それはシンプルだけど複雑な問題だった。これから先のこと。不安定で先が見えないからこそ知りたい。そう思ったのだ。
「……私の口からは答えようがありません。帰ったら魔王様に聞いてください」
わかってはいたが素っ気のない返事だった。イーリスは無表情で遠くに視線を向ける。
「そう、だよな。お前に聞く質問じゃなかったな」
俺は適当に笑ってごまかす。別にいつもやってきたことだ。何を今更動揺しているんだろう。望んだ答えが得られなかっただろうか。
「悪かったイーリス。変なこと聞いたな。今のは忘れ――」
「でもあなたがずっとここに縛られる必要はありません」
ぽつりとイーリスは一言付け足す。どうしてか彼女の方が寂しそうな顔をしていた。彼女の胸のうちにも誰にも見せない本音があるんだろうか。ふとそう思った。
縛られる必要はない、か。
「だったら、いいかな」
俺は左手に巻かれたハンカチに触れて答える。それが自分の答えのような気がした。
「じゃあさっさと勇者ハロルドを倒しに行きましょうか」
力こぶしを作って俺はにっと笑う。そうするとイーリスはいつものふくれっつらで幾ばくか逡巡した後、俺の手を引いてきた。
「私の足を引っ張らないでくださいね」
そういう彼女の声は心なしか先ほどより明るい気がした。
ワン、と先を進んでいた犬が振り返って吠える。どうやらこれからが本番のようだ。
「そういえばさ、家畜小屋で倒れたときイーリスは何してたの?」
「う…」
何とはなしに尋ねてみると彼女は言葉に詰まったようだった。俺が追求するか迷っているとしばらくしてイーリスは俯きがちに答えた。
「そこの下僕22号の身体を洗おうとしていたら追いかけっこになって」
そのまま転んでしまったらしい。あれっ。この子やっぱりあれなんじゃないか。
「イーリスってさ」
ドジッ子なんじゃないかという言葉はなんとか飲み込んだのであった。