第五話
ということでイーリスの後を追い屋敷を出てしばらくすると、これまた見るからにみそぼらしい掘っ立て小屋があった。
「中に入ります。下僕23号さんは少し外で待っててください」
俺は作業服に着替えて仕事に取り掛かる準備をしたところだった。イーリスも農家の娘さんスタイルで手早く俺に指示して、ついでに自分の分も早々と済ませていた。うん。この人説明してくれるときは丁寧なんだけどそれ以外が雑なんだよね。そこがもったいないというか。
「了解、イーリス。他にすることあったら声をかけてくれ」
「少ししたらあなたの力が必要になります。それまでは待機してください」
イーリスはいつもの淡々とした口調でそう告げる。俺の力が必要?その言葉に少しだけ俺は舞い上がった。だってさ一応俺期待されているってことだよね。そうじゃなかったら結構悲しいけど。とりあえずよっしゃ!と人目につかないところで俺はガッツポーズをとる。
しかしイーリスから待機を命じられたけど結構暇だ。準備はあらかた終わってるし、指示がないと動きようがないし。とそんなときだった。イーリスの小さな悲鳴が小屋から聞こえてきたのは。同時に中で何かが暴れる音がして一瞬で緊張が走る。
「大丈夫か、イーリス!」
「だい…じょうぶ…っです!まだ待機していてください!」
いつもの冷静さを失ったイーリスの声。これは危険が差し迫っているのではないか。俺は中に入ろうと逡巡したがが続けて彼女の指示が飛んできた。
「わたしはっ…今…手が空いていないので…下僕さんは…っバケツを!」
「バケツってこの右にあるやつ?」
ガタガタッ
中で再び何かが暴走し始めたようだ。剣呑な空気に俺は息を呑む。
「右って…っ使えれば…なんでもいいです!」
「わかった今行くぞイーリス!」
切羽詰ったものを感じ俺は突入を決意する。バケツを片手に掘っ立て小屋へと侵入。そして――
ガタッガタッ
ドンガラガッシャーン
足元にあった柵に躓き、俺はつんのめって盛大に転んだ。
「っ痛てて」
慌ててその場に手をつくと、少女の甘い吐息が漏れる。
「ん…」
「ごめん…って、あれ?」
むにゅっとした感触に思わず二度見すると、そこには確かに慎ましいけどやわらかいものがあり…
「どいてください」
「って本当すみません!マジでごめんなさい!」
俺は瞬時にその場を離れて平身低頭、今にも土下座せん勢いで謝罪する。うん。本当にすまない。悪気はなかったんだ。一方のイーリスは綺麗に整えていた黒髪を乱し、翡翠色の目を吊り上げていた。怖い。今確実に怒らせたよね。
「私はバケツを頼んだだけのはずなのですが」
「いや、なんか緊急事態だったから」
冷たい視線を浴びせてくるイーリスさんに無条件降伏を示すように俺は両手を挙げる。
「緊急事態かどうかを判断するのは私です」
俺の手をまるで親の敵のように睨みあげ彼女は冷たく言い放った。
「悪かった」
「もういいです」
ぷりぷりと怒るイーリスに俺はなすすべもなかった。だって怖いし。でも魔族と契約したとき(第三話)彼女は俺の全身をまさぐってたんだからお互い様じゃないか。そう言いたくなったが命が惜しいので口にはしなかった。
「まあまあお二人さん、いったん落ち着きましょう」
「うるさいです、家畜の豚さん」
どこからか知らない女性の声がした。
「そんなことおっしゃらずに。彼も困ってるじゃありませんか」
「私の知ったことではありません。そんなのこの男の勝手です。自業自得ですから」
あれ俺今何も言ってないんだけどな。どうしてイーリスに暴言はかれてるんだろ。疑問に重い首をかしげていると誰かがくすりと笑った。
「自己紹介がまだだったかしら。私はこの家畜小屋に暮らしている使い魔の一人よ。以後良しなに。イーリス様この少年は?」
「新しく入った下僕の一人です。もういいですか」
小屋の奥からボンデージ姿の美女が現れる。黒いレザーで瑞々しく肉付きのよい身体を締め付けているのは見ていてドキドキ、むき出しになった太ももとかも結構ギリギリで。うん。でもなんだろう。この複雑な心境は。色々おかしすぎて俺は言葉を失う。目の前にいる美女とそれに対する扱いの冷たさ。この人ドSなの?ドMなの?っていうか俺はどこから突っ込めばいいんだ。
「まあイーリス様相変わらず冷たいですこと。でもその冷たく蔑むような視線もお美しくてかえって燃え上がります」
「やめてください。褒めても何も出ません」
「ご謙遜をなさらず。あなたの美貌を前にしたら私などただの豚です。いえ家畜以下の存在です。さあ思うさま罵ってください」
「いやです。ただの家畜ならもっと大人しくしてください」
「そんな滅相な。あなたの言葉一つ一つが私の胸を騒がせるのですよ」
「でしたら心の声は胸のうちにとどめてください」
「それができたら苦労しません。あなたの美しさは本当に罪ですこと。おほほ」
会話がまったくかみ合わないまま話が進んでいく。相手のキャラが強烈過ぎて口を挟む隙もない。ぼんやり二人のやりとりを眺めていると足元にふわふわしたものがやってきた。
「ワン」
はっはっと息をしながら犬が俺の周辺をうろうろしていた。見た目はコーギーっぽい。そいつが困ったように俺を見上げる。要は仲裁しろってことなのか。
「おい二人ともそろそろ落ち着いたら…」
「あなたには関係ありません」
顔を真っ赤にしたイーリスはぷいと顔を横に向ける。なんだろう。俺余計に怒らせてしまったのか。
「ふふっ怒ったイーリス様もまた格別に美しい」
「これ以上言ったら容赦しません」
「まあ怖い」
通称家畜の豚さんはご満悦な様子で収拾をつける気はなさそうだ。うん。この人いろいろひどい。
「あの本当にそろそろやめにしたほうが……」
「下僕さんは黙っててください。今私は取り込み中です」
「そうです。イーリス様は家畜の相手に忙しいのです、そこの下僕君」
あんたはどっちの味方だよと突っ込みたいのを必死にこらえる。なんだろう。この人相手に怒ったら負けな気がした。
「ワン」
俺の気持ちに応えたのか犬が通称家畜の豚さんの足元に駆け寄る。
「まあ、新しい同僚が増えて嬉しいのね下僕22号」
女性がしゃがみこみ犬の頭をなでる。今更知りたくない事実を知ってしまった。俺の先輩ってこの犬かよ。
「ワン、ワン」
俺の気持ちを知ってか知らずか下僕22号は嬉しそうにふるふると尻尾を振っていた。うん。俺はお前の仲間になれるかはまだわからないんだけどな。犬は涎までたらして全身で俺を歓迎していたが、そろそろ尻尾が千切れるんじゃないかなというところでイーリスがため息をついた。
「すみません下僕さん。本来なら色々説明しておくべきでしたが」
静かに俺の顔を見据えて話を続ける。
「こちらが我がベルゼブブ家の家畜小屋兼使い魔の控え室です。別室に家畜もいますがまずはこちらの案内を先にと急いだためこのような事態に。申し訳ありません」
うん。大体雰囲気は掴めた。とりあえずこの中でイーリスが比較的まともな人種であるということもわかった。
「魔王様の弟のもとに行くため彼らの力を借りる算段だったのですが」
「まあ、ついにセシル様を取り戻すのですね」
女性が意味ありげな表情で笑う。
「ええ。ですのであなたはその準備に取り掛かってください」
「了解しました。イーリス様の仰せのままに」
そうして女性はふふっと笑い奥のほうへと去っていった。
というか俺が来るまでの大騒ぎはなんだったんだろう。内心疑問に思いながらもそれをイーリスの前で口にするのは憚られるのであった。