第十三話
月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり。
松尾芭蕉は人生を旅に喩えたそうです。
おくのほそ道面白いよね。俺も高校の授業でちょっと習った程度だけど。
そうなんです。かつて俺は桃青こと松尾芭蕉に深い感銘を受けていたのです。
まあ前の世界でお散歩していたときに深川の資料館にふらっと入った程度のつきあいではありますが。
で、思い出したわけです。今の俺の心境にぴったりの句があったことに。
そう、あれです。かの地にてあまりのすばらしさに俳聖としての矜持も忘れ、ただ心の赴くままに読み上げた一句がありましたよね。
「ランジェリー、ああランジェリー、ランジェリー」
いやあ、芭蕉さんも俺のためにこんな句を読んでくれてただなんて。四百年以上の月日を経てなお残るこのインパクト。昔の人には敵いませんなぁ。
「あの、現実逃避がしたいからって偉人の言葉を悪用するのやめてもらえませんか」
「ハイ、すみません」
イーリスの冷たい一言で現実に戻る。
「だってさ、ここって初心者が入っていいような場所じゃなくない? しかも俺男だし」
さてさて俺とイーリスは魔王様のお使いにのためにランジェリーショップの門前で二の足を踏み続けていたのであった。
「まずさ、セシル様の下着をどうして本人不在で買いにいかなければいけないかって思わない?」
俺はもっともな疑問を口にする。これは買出しの前から何度も思っていたことだ。
「それはご本人に帰ってからいってください。大体そもそも論って言ったところで基本無意味ですし、それで現実の人間は動きませんよ」
珍しくイーリスさんの投げやりな一言。どうやら生真面目な彼女にも思うところがあるようだ。
「だよな。はあ、どうしよう」
「どうしましょうね」
目が合い、お互い同時にため息をつく。
「もういっそのことさ、通販で済ませない?」
「……そうですよね」
「だって羞恥心とか世間体を守るためならこれが一番誰も傷つかないっていうか」
「……ですよね」
二人して現実逃避を始める。
「よし、じゃあ今すぐググるか」
「スマホがありません」
「じゃあカタログ取り寄せる?」
「予算がありません。あと魔王様にばれたら叱られます」
「じゃあ訪問販売か」
「それはお家にいないと来ません」
再び顔を見合わせ二人してため息をつく。
「ははっ。これじゃ夢も希望もありませんってなりそうだな」
「……なりそうですよね」
イーリスさん今日はめちゃくちゃテンションが低いです。俺たち二人こんなんで大丈夫なのかな。
「よし、じゃあいっせいのせっ、で足を踏み出そうか」
こうなったら気合に頼るしかない。俺も根性論は好きじゃないけどさ。
「行くぞ!いっせいのっ」
そして一歩前に踏み出そうと掛け声をあげる。旗から見たら怪しい人間だけど今のところは気にしないことにする。
「せっ!」
沈黙が走る。周囲の人間が胡乱げな目で見つめてくるのがとてもつらい。
「……」
「……」
「お互い一歩も踏み出せてないよね」
「そうですね」
はあと今日何度目かのため息。
「じゃあ、とりあえず準備確認するか」
「……しますか」
明らかに順序が逆だけど二人して見ない振りをする。
「まずは財布!」
懐加減を確認する。ちょっと寒いけどこれは我慢。
「次に買い物リスト!」
そこには下着の一文字のみ。
「次に街の地図!」
今目的地の門前だけど。
「次は……って何もねええええええ」
ぜえはあ。ぜえはあ。こういうときは深呼吸だ。
「息を吸って」
スーッ
「吐いて」
ハーッ
「まったく話が進みませんね」
「だよな」
だって現実逃避だもの。目の前の現実から目を背けたいだけだし。
もういっそのこと諦めてしまおうか。だって俺にはとてつもなく難しいことだし。
そんな考えが脳裏をよぎる。
今までの自分だったらそういっていただろう。
だが俺は成長したのだ。というかこれから成長するのだ。
そう。今日で意志の弱い自分とはお別れだ。
「よし、がん…がんば……頑張ろ……ぅ」
……やっぱりお別れできそうにない。
考え方を変えよう。
ここまでしてだめだということは、俺ってピンチになって本領発揮する主人公タイプなのかもしれない。
つまり。さっきとは逆に既成事実を作って自分で逃げ場をなくすことにしよう。
「そうだ!下着を買うんだよな!」
「あんまり大声上げないでください」
「スミマセン」
俺ってもしかして馬鹿なんじゃないのとか嫌な考えが脳裏をよぎったけど気にしない気にしない。
「というかセシルのサイズ俺知らないんだけど大丈夫かな?」
「ああ、それなら私が採寸したので」
小さな紙切れが渡される。そこには90、58、90と記され、脇にカッコつきでGと付け足されていた。
「ねえこれって本当なの?」
「ええ、私もおかしいと思いながら何度も採寸し直しましたが数字に変化はありませんでした」
なぜか苦々しい口調のイーリス。うん、イーリスのはとても慎ましくて謙虚だからね。主張が小さいのは俺も薄々気がついてたけど。
「……気にするなイーリス」
「……気にしてません」
冷たく返された。先ほどまで共同戦線張ってたのに気がつけば仲間割れみたいな雰囲気になっている。
うわあああ。まずい。俺の命が危ない。
「安心しろ、イーリス。お前と俺は一蓮托生だ」
「それっていい意味で使ってませんよね」
とりあえず自分の失敗をごまかすためにイーリスの肩に手を置く。だって怖いし。
「ハッ。ここまできたら道連れだ。さあ一緒に堕ちるところまで堕ちよう!」
「何めちゃくちゃなこと言ってるんですか理人さん!私は…っ嫌です!」
そのまま彼女を引きずるようにして店内に入る。だってこの場に留まっていたら俺、無傷ですまないよ?
「聞こえない、ああ聞こえない、聞こえない。なんつって。ハッハッハ、ハッハッハ、アハハハハハ」
そんなこんなで今日のミッションは半分完了したのであった。