120.[s]AINT
120話目です。
よろしくお願いします。
「むぅ~……」
一枚の羊皮紙を見て、アリッサは唸っていた。
彼女のために設えられた天幕の中。ブーツを脱いで素足になり、重ねた毛布の上に寝転がっている姿は、幼く見える容姿とも相まって、とても一軍を率いる立場の者には見えない。
「一二三さん、帰ってきたのかぁ」
書かれていたのは、フォカロルから馬を乗り継いだ伝令が持ってきた一二三帰還の報だった。
「まだ、なんにもお仕事してないんだけれど」
実際、国境近くの平原に陣を敷いて一週間ほどになるが、何体かの魔物を集団で袋叩きにした以外は、ヴィシーの使者を追い返した以外に何もしていなかった。
毎日、交代で訓練と休暇と警戒をローテーションし、アリッサは時々訓練や警戒任務に顔を出す程度だった。
家に帰れないこと以外はフォカロルでやっていることと何ら変わりなく、兵たちも緊張した様子は無く、和気藹々と遠征を楽しんでいた。
「どうかされましたか?」
ミュカレが外でおこした焚き火でお湯を沸かして入って来た。
慣れた手つきでお茶を入れるミュカレを見て、ぴょこんと身体を起こしたアリッサが手に持った紙をひらひらと揺らす。
「一二三さんがフォカロルに戻って来たらしいよ」
「あら。今度はどこで暴れて来たんでしょうね。また余計なお金がかからなければ良いのですけれど。それよりも、新しい住人や奴隷でも連れてきてるのではないでしょうね。これ以上人が増えたら、パリュが大変です」
冗談交じりではあるが、実際領主自らが招いた住人となると、賓客扱いになるので必然的に外からの人物に対応する役にあるパリュの仕事が急激に増えることになる。
実際は、一二三は一人でぶらりと帰って来たので、パリュはこっそり胸を撫で下ろしていたのだが。
「僕たちも帰った方がいいのかな、と思ってるんだけど」
「そうですね……」
お茶の入ったカップをアリッサに手渡したミュカレは、自分の分のカップを両手に持ち、手を温める。木の優しい手触りを通して、熱が伝わってきた。
「きっと領主様は、どちらを選ばれても“ああ、そう”で終わりですよ。アリッサ様の良いようにされるのが一番ですよ」
「あははっ、言いそう、言いそう」
ぷぅぷぅと口を尖らせてお茶を冷まし、それでもまだ熱いお茶を少しずつ飲みながら、アリッサは笑う。
「じゃあ、一度帰ろうか。みんなも家に帰りたいだろうし、僕も一二三さんに会いたい」
アリッサの決定に、ミュカレは複雑な笑みを浮かべて了承した。
「かしこまりました。早速、全員に伝えます」
「明日の早朝に出発しようか。道中はゆっくり進んで魔物を掃討しながらってことで」
おや、とミュカレは首を傾げた。
「それでは、フォカロルへの帰還が大分先になってしまいますよ?」
「いいよ、ゆっくりで」
中々減らないお茶を見ながら、また息を吹きかける。
「オリガさんより先に一二三さんに会うのは、ちょっと危ない気がするし」
「ああ……」
納得はできたが、それが良いことかどうかは、ミュカレにはわからなかった。
だが、アリッサとの時間が長くなることに否やは無い。
(ピクニックは、帰りも楽しまないとね)
天幕を出て行くミュカレは、ニコニコと楽しそうだった。
☺☻☺
アリッサと同様の報告は、さらに一週間ほど遅れてオリガの元へと届いていた。
もはや宿としてくつろいでいた城内の一室に、フォカロルから連れてきていた女性兵士が入り、オリガの前で背筋を伸ばして報告です、と凛々しい声で伝えた。
「奥様。領地より急ぎの書簡が届いております」
「急ぎですか。何かあったのですか?」
執務室で書物をしていたオリガは、珍しいですね、とペンを置いた。
「領主様が帰還なされたとの……」
言いかけたところで、いきなり目の前に文字通り飛んできたオリガに紙をひったくられた。
「……」
目を見開いて、破れんばかりに力を入れて報告書を握り締めるオリガを見て、女性兵士は心の中で溜息を吐いた。
(これさえ無ければ、可愛らしい奥様なのに……)
そんな事を考えているうちに、オリガの目の端に大粒の涙が浮かぶ。
「ああ、一二三様……よくぞご無事で……」
はらはらと雫を零し、報告を胸に強く抱きしめる。
もちろん、オリガにしてもアリッサ同様一二三が無事であること自体に不安は抱いていなかった。それよりも、異世界から呼び出された彼が、自分の知らないうちに何かの拍子で元の世界へ戻ったり、この国よりも居心地の良い場所を見つけて帰らない事の方が不安だった。
一二三にとって、領地も爵位も“なんとなく”貰っただけで、彼にとってそれほど執着するものではない事は、オリガも知っているのだ。
「こうしてはいられません!」
いそいそと紙を折りたたみ、懐へと収めたオリガは、呆然と立っていた女性兵士に視線を戻した。
「すぐにフォカロルへ帰還します」
「い、今からですか?」
「ええ、今から女王陛下にご挨拶をしてきますから、その間に馬車の準備を。街道を極力中継無しで走破しますから、食料も軽く大量につめる保存食中心で用意してください」
「は、はい!」
真っ直ぐに目を見ながら指示される内容を、女性兵士は目を白黒させながらも頭に叩き込み、走って部屋を後にした。
「では、私も用意を」
「その前に、ちょっとお話をいいかな?」
兵士が開けたままにしていた扉から顔を覗かせたのは、近衛騎士隊長のサブナクだった。
「ノックもせずに女性の部屋を覗き込むのは、マナー違反ですよ?」
「いやいや、ドア開いてたし、それくらいは大目に見て欲しいんだけど……」
「私は構いませんけれど」
頬に手を当てて、オリガは首を横に振る。
「奥様のシビュラさんに、サブナク様に部屋を覗かれたと伝え……」
「申し訳ありませんでした!」
上半身が床と水平になるまで勢いよく頭を下げたサブナクに、オリガはコロコロと笑った。
「冗談です。でも、奥様とは時々お茶をご一緒させていただいているのですよ。それだけの地位なのですから、お気を付けいただかないと奥様もご心配されていますよ」
「肝に銘じますよ」
「それで、何の用ですか?」
「……一二三さんが、荒野から生還したと聞いたのだけれど」
「あら、流石に王都の情報は早いですね」
フォカロルの精鋭には負けるよ、とサブナクは頭を掻いた。
「一二三さん、今度は一体何をやらかして来たんだろうか。オリガさんはそれを知っているかと思ってね」
サブナクはオリガに促されてソファへ座ると、用意された紅茶に口をつけた。
正面にそっと腰掛けたオリガを見る。
始めて出会った時に比べると、大分大人びて見えるようになった、とサブナクは思った。何年も経ったというわけでもないのに、と人の妻になるというのはそんなに女性を変えるものかと思う。
「残念ですが」
オリガは膝の上で重ねた両手に視線を落とした。
「そこまでの情報は入っておりません。ですが、夫が何を成したかは重要ではありません。家に帰って来てくださった事が大切なのです。またお会いできる事が、何より重要なのです」
その微笑みに、サブナクは思わず視線を惹かれた。
鼓動を押しはやめるような危うい美しさを感じる。
「そ、そんなものなのか……」
「そんなものです。シビュラさんも、サブナク様が派手な武勲を立てられるよりも、ご無事に帰宅される事の方がずっと喜ばれますよ」
そんなふうに明るい笑顔を見せるオリガを、サブナクは何も言えずに見ていた。
「どうかされましたか?」
「い、いや。初めて会った時に比べると、大分明るくなったと思ってね」
「そうですか? ……そう、かもしれません」
オリガは自分のカップを手にとり、紅茶が揺れるのを見ていた。
「ご存知の通り、私は奴隷でした。自由な冒険者から奴隷になって、知らないどころかこの世界の人でも無い、王を殺した危険な男性に買われたのです。訓練を受け、復讐を果たしたとはいえ、それから先については不安はまだまだありました」
ですが、と顔を上げる。
「一二三様との交流を進めるうちに、どんどんその在り方に惹かれ、結婚という奴隷になった時には諦めた幸福も得られました。離れ離れになっているのは寂しいですけれど、またお会いした時には、その分甘えてみようかと思います」
頬を染めて、照れながら惚気けてみせたオリガを前にして、サブナクは苦笑いを浮かべた。
「いやいや、参ったね。やはり一二三さんはすごい人だね。……それで、ぼくには一つ疑問があるんだけれど」
「なんでしょう?」
「……一二三さんは、何を目指しているんだろう? この国だけではなく、ヴィシーやホーラントにも技術指導をしているし、そのヴィシーやホーラント相手に戦った時も、結局は国を滅ぼすまではしなかった。その実力があるのに」
彼が単なる破壊者じゃないことは知っている、とサブナクは真剣な眼差しを向けた。
「戦闘が好きでも、破壊が目的ではない。かと言って、誰かを助けるというわけじゃない。利益も地位も求めず……」
そこまで言ったところで、サブナクはオリガの視線に含まれる感情が変化している事に気づいた。
それは微笑みと言うには暖かく、まるで子供を見守るかのような優しさが、オリガの翠の瞳に表れていた。
「……今はまだ、教えるわけにはまいりません。ですが、それを知った時にはきっと、サブナク様も、女王陛下も喜びを感じることでしょう」
「喜び……?」
「ええ、何しろ一二三様は女王陛下が異世界より呼び出された勇者様なのですから」
サブナクにとって、女性の穏やかな笑顔を心底怖いと思ったのは、これが初めてだった。
☺☻☺
領主館の中庭には、共同の井戸がある。
滑車にぶら下がった釣瓶を落として水を汲む、ごくごく簡単な構造の縦井戸で、館の下働きの者たちが水を汲んだり、洗い物をしている場所でもある。
だが、今はそこには日常の穏やかな空気は存在せず、誰もが押し黙ったままで、いつもは居ない一人の男にチラチラと視線を送っている。
「いてて……まさか自分の手を削るなんて経験をする時が来るとは」
面白いもんだ、とつぶやいているのは、井戸の横でしゃがみこんでいる一二三だ。
長い眠りから目覚めた彼は、用意された食事をモリモリと腹に押し込むと、変質して硬い樹のようになった左手をコツコツと刀の柄頭に当てながら、この場所へとやって来た。
突然やって来た雲の上の人物に、下働きの者たちは慌てて跪いたのだが、「気にするな」と右手をひらひらと揺らすと、近くに置いてあった桶を取り、井戸から水をたっぷりと汲み上げた。
それからは、他の者たちに背を向けて座り込んで作業を始めた。
木製の義手のようになった手を、小刀で削り始めたのだ。
最初こそ、「完全に木彫りの感触だな」などと言いながら親指の外側を、まるで野菜の皮でも剥くかのように削っていたのだが、ほんの1センチ程彫ったあたりから痛みを感じるようになった。
小刀を桶の水で乱暴に洗いながら、削り取った場所を見ていると、削った部分の中は白い粘液状の膜があり、その下から血が滲んでくる
「指先はほとんど駄目だな。手のひらあたりは骨周りは無事、か」
指を削ると手の甲や手のひらを削り、挙句手首あたりも際どいところまで刃を滑らせる。
「エルフの連中と同じか。いや、進行速度が段違いで早いというのは理由がわからんが」
最初は粘液はピンク色かと思ったが、桶に手を突っ込んで洗うと、真っ白になる。
皮も肉も骨も血液も、粘液に置き換わっていずれは固まって行くのか。
ならば、と一二三は前腕の一部を斬りつけた。
「ここは大丈夫なんだな」
細く赤い線は、やがてぷっくりと血を浮き立たせ、一筋の赤い流れになる。
変質しているのが手首から先だと確認すると、一二三は小刀を置いてじっと左手を見つめた。
「斬り落としても良いんだが……あの薬だと穴は塞がっても欠損は治らないんだよな」
まだ数本残っている回復用の魔法薬だが、傷を塞ぐ効果はあっても、無くなった物が生えてくるわけではない。
エルフの森に行かない限りは進行しないだろうし、木製のままでもいいかな、などと一二三はとろりと樹液のように滴る白い粘液を右手で掬う。
「それにしても、こりゃ一体何なんだ?」
白い粘液が乗った右手をぐっと握ると、わずかだが液体以外の感触がした。
何かに気づいた一二三が、勢いよく振り返ると、たまたま視線を向けていた数名の肩が跳ね上がった。
「ちょっと、火を貸してくれ」
「ど、どうぞ!」
湯を沸かすために用意された火に向かい、一二三は左手をかざした。
「俺の思った通りなら……」
パチパチと音を立てて薪から爆ぜる音を聞きながら、炙られて黒ずむ左手を注視する。
「ああ、そういうことか……」
切り裂かれた傷口から見えていた白い粘液は、炎に触れる前に水分を失い、真っ白な姿はそのままで、サラサラと砂のように一二三の右手へと落ちた。
その白い砂は、魔人族の前王アガチオンの身体を構成していたそれと瓜二つだ。
思わず、一二三の口の端が吊り上がった。
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