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片翼の蝶 ―江口桜次郎と消えない教え子―  作者: 綾見 恋太郎


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第九章 夜明けの温室

 玄関のチャイムが、三度鳴った。

 榛名家の和室は、ひどく静かだった。

 仏壇の前に、焦げた木箱が置かれている。

 その中には、片羽だけ残った蝶の標本と、小さな記録媒体があった。

 榛名律が残した研究データ。

 榛名灯里が守ろうとしたもの。

 そして、榛名蛍が十三年前の夜に抱えていたはずのもの。

 蛍は、それを両腕で抱きしめるようにしていた。

 白い顔。

 乾いた唇。

 それでも目は逸らさない。

「先生」

 蛍は、玄関の方を見たまま言った。

「俺、思い出しました」

 江口桜次郎は答えなかった。

 答えるより先に、玄関の向こうから女の声がした。

「榛名さん。開けてください」

 水原佳乃。

 十三年前、榛名律の研究データをめぐって接触していた企業側の元担当者。

 相沢遼介が死の直前に会っていた可能性が高い女。

 そして、蛍が煙の向こうに見た“女の人”。

 江口はスマートフォンを握っていた。

 二階堂からのメッセージには、こうあった。

『真壁が近くにいる。絶対に出ないで』

 出るつもりはなかった。

 だが、向こうは帰るつもりもないらしい。

 再びチャイムが鳴る。

 美佐枝は青ざめていた。

「どうして……今さら」

 その声には怯えが混じっていた。

 江口は美佐枝を見た。

「知っていたんですね。水原佳乃を」

「……名前だけは」

「十三年前にも会っていますか」

 美佐枝は答えなかった。

 蛍が代わりに口を開く。

「叔母さんは、俺を守っていたんじゃなくて、水原から隠していたんですね」

「蛍」

「でも、そのために俺から全部隠した」

 美佐枝は泣きそうな顔をした。

「あなたに言えるわけがなかった。あの人は、あなたの家族が死んだ夜に関わっていたかもしれない人なのよ」

 蛍は木箱を抱える手に力を込めた。

「俺は、知らないままの方が幸せでしたか」

 美佐枝は答えられなかった。

 江口は立ち上がった。

 廊下の方を見る。

 玄関の曇りガラスの向こうに、人影があった。

 細い女の影。

 傘を畳む音。

 そして、濡れた靴がタイルを擦る音。

「榛名さん」

 水原の声は穏やかだった。

「私は争いに来たわけではありません」

 江口は玄関へ向かった。

「先生」

 蛍が呼ぶ。

「開けません」

「でも」

「会話はします」

 江口は玄関扉の少し手前で立ち止まった。

 チェーンをかけたまま、ドアを数センチだけ開ける。

 外の冷たい空気が流れ込んだ。

 その隙間に、女の顔が見えた。

 五十代半ば。

 整った化粧。

 濡れても崩れない髪。

 黒いコート。

 穏やかな目。

 だが、江口はその目を見た瞬間、嫌なものを感じた。

 蛍を見る時の大人の目ではない。

 標本を見る目だった。

「江口先生、ですね」

 水原は言った。

「私のことを?」

「調べました」

「警察でもないのに」

「よく言われます」

 水原の目が、江口の背後へ動く。

「蛍くんは?」

「会わせません」

「私は彼に話があります」

「こちらにはありません」

「大事なことです。お父様の研究について」

 江口の背後で、蛍の呼吸がわずかに乱れた。

 水原はそれを聞いたのか、うっすら微笑んだ。

「いるのね」

 江口はドアの隙間から彼女を見た。

「水原さん。相沢遼介さんと会いましたね」

 水原の表情は変わらなかった。

「どなたですか」

「京東大学の院生です。昨日、温室で亡くなった」

「ニュースで見ました。お気の毒に」

「あなたはその人と、事件当日に会っている」

「証拠は?」

「防犯カメラに映っています」

「顔は映っていないでしょう」

 江口は、その反応を見た。

 否定が遅い。

 それだけで十分だった。

「蛍くん」

 水原は急に声を柔らかくした。

「あなたは混乱しているの。七歳の時の記憶なんて、当てにならないわ」

「そうですね」

 蛍は和室の入口から答えた。

「でも、声は覚えています」

「声?」

「“余計なものを持って行くな”」

 水原の顔色が変わった。

「姉は、俺に箱を渡しました。あなたは、それを取り返そうとした」

「違う」

「だから、姉は俺をクローゼットに入れた」

「違う!」

 水原の声が鋭くなった。

「私は殺していない!」

 江口は静かに言った。

「“殺していない”んですね。まだ誰も殺人の話はしていません」

 水原が江口を睨む。

「あなた、誰」

「江口です」

「警察?」

「教師です」

「関係ないじゃない」

「よく言われます」

 江口はドアの隙間から水原を見た。

「十三年前の榛名家事件には、誰が関わったんですか」

「知らない」

「相沢遼介さんを殺したのは?」

「知らない」

「では、なぜここへ?」

 水原は答えない。

 江口は続けた。

「研究データが欲しかったからですか」

 水原の目が揺れた。

「相沢さんは、あなたに連絡した。榛名忠さんの研究データと、片羽の蝶の標本箱にたどり着いたから」

「知らない」

「相沢さんは温室で死んだ。床は濡れていた。毒性植物の葉が落ちていた。片羽の蝶の標本ケースがあった」

 水原の呼吸がわずかに荒くなる。

 江口はそこで、二階堂から聞いた情報を思い出す。

 自動灌水装置。

 湿度。

 キョウチクトウに似た強心配糖体。

 標本ケースの内側に浮かんだ線。

 それは単なる演出ではない。

 水原にとって、温室は「再現」の場所だったのだ。

 榛名律の研究を象徴する閉鎖環境。

 湿度によって変化する植物毒性。

 そして、湿気によって浮かぶ隠し文字。

「あなたは、相沢さんにデータの所在を知られた」

 江口は言った。

「でも、データそのものは手に入らなかった。だから相沢さんを黙らせる必要があった」

「違う」

「毒草の葉を置いたのは、榛名くんを疑わせるためですね。植物毒に詳しい。第一発見者。相沢さんと口論していた。条件が揃いすぎている」

「違うと言っているでしょう」

「でも、片羽の蝶を置いたのは失敗でした」

 水原の目が細くなる。

「どういう意味」

「あれは、榛名くんを黙らせるための脅しだった。でも逆に、記憶を戻した」

 蛍が、江口の後ろで小さく息を呑んだ。

「あなたは、片羽の蝶をただの証拠品だと思っていた。研究データの隠し場所だと思っていた。でも違う」

 江口は続けた。

「あれは、榛名灯里さんが弟に残した標識だった」

「標識?」

「湿気で浮かぶ文字です」

 水原の目が止まった。

 江口は畳の上の木箱を振り返る。

「標本ケースの内側に、透明な筆圧のような跡があった。温室の湿度で、それが一瞬だけ浮いた。相沢さんはそれに気づいた。だからファイル名に“Lepidoptera_OneWing”を残した」

「それが何だと言うの」

「隠し場所を示していたんです。蝶の片羽の下。焦げた台紙の裏。灯里さんは、弟に渡す箱の中に、父親の研究データを隠した」

 蛍が木箱を見る。

 美佐枝も。

 水原は黙った。

「相沢さんはそれを知った。あなたに連絡した。あなたは温室に呼び出した」

「私は呼び出していない」

「では、なぜ彼は温室で死んだんですか」

「知らない」

「温室でなければならなかった理由があります」

 江口の声は静かだった。

「相沢さんの死を、榛名忠さんの研究と重ねるためです。閉鎖環境。湿度。植物毒。灌水装置。片羽の蝶。全部が、十三年前の研究の再現だった」

 水原の唇がわずかに震えた。

「あなたは、相沢さんに毒を飲ませたんじゃない。首元に、微量を直接入れた」

「何を馬鹿な」

「虫刺されに見せかけた赤い点です。温室には虫もいる。植物もある。警察が最初に見れば、虫刺されか、植物によるかぶれに見える」

 江口は続けた。

「でも灌水装置が動けば、床の痕跡は流れる。手元の薬剤も薄まる。毒草の葉を置けば、視線はそちらへ向く。しかも、榛名くんは毒性植物に詳しい」

「推測ばかりね」

「はい」

 江口は頷いた。

「僕は刑事ではないので」

 その時、外から別の声がした。

「その先は、こちらで聞きます」

 水原の背後で、男の影が動いた。

 真壁彰だった。

 その隣に二階堂がいる。

 水原の顔が硬直した。

 真壁は静かに警察手帳を見せた。

「水原佳乃さん。相沢遼介さんの死亡事件について、お話を伺います」

「私は何も」

「任意です。ただし、逃げることはおすすめしません」

 二階堂が微笑んだ。

「玄関先での会話、録音されています」

 水原が江口を睨んだ。

 江口は肩をすくめた。

「教師なので、証拠は残します」

「教師はそんなことしない」

「最近の教師はいろいろやるんです」

 水原は唇を噛んだ。

 だが、すぐに表情を戻した。

「私は殺していない」

「相沢さんは?」

 真壁が訊く。

「知らない」

「榛名忠さんは?」

 水原は黙った。

 その沈黙は長かった。

「十三年前、私はあの家に行った」

 やがて水原は言った。

「でも、殺していない」

 蛍が和室の入口で息を止めた。

「研究データを回収するように言われただけだった。忠さんは契約違反をしていた。企業の成果を持ち出そうとしていた」

「父は、悪用を止めようとしていたんです」

 蛍の声がした。

 水原はそちらを見た。

「子どもに何がわかるの」

「今は子どもじゃありません」

 蛍は木箱を抱えたまま立っていた。

「父が何を守ろうとしたのか、姉が何を隠したのか。俺は知ります」

「知ってどうするの」

「なかったことにしません」

 その言葉に、江口は胸を突かれた。

 蛍が社会科の答案に書いた言葉。

 歴史を学ぶ意味。

 いなくなった人を、いなかったことにしないため。

 水原は笑った。

「きれいごとね」

「はい」

 蛍は頷いた。

「でも、先生の授業では、そう教わりました」

 江口は目を閉じたくなった。

 こんな場面で授業を持ち出すな、と思う。

 だが同時に、少しだけ泣きそうになった。

     ◆

 水原はその場で連れて行かれた。

 逮捕ではない。

 少なくともその時点では、任意同行だった。

 だが、彼女がもう自由に動けないことは明らかだった。

 玄関の外が静かになると、榛名家の中には、別の沈黙が残った。

 蛍は木箱を抱えたまま座り込んだ。

 美佐枝は泣いていた。

 江口は、何も言わなかった。

 言葉を出せば、どちらかを裁いてしまいそうだった。

 美佐枝は蛍を守ろうとした。

 だが、隠した。

 蛍は守られた。

 だが、閉じ込められた。

 どちらも本当だった。

「蛍」

 美佐枝が小さく呼んだ。

「ごめんなさい」

 蛍はすぐには答えなかった。

 長い沈黙のあと、言った。

「今は、許せません」

 美佐枝の肩が震える。

「でも」

 蛍は続けた。

「感謝していることも、なくなりません」

 美佐枝は顔を覆った。

 江口は畳の目を見ていた。

 その二つを同時に持つのは、どれほど苦しいだろう。

 許せない。

 感謝している。

 恨んでいる。

 守られていた。

 奪われていた。

 生きていた。

 生き残ってしまった。

 榛名蛍という人間は、その矛盾を抱えたまま、ここまで来た。

「先生」

 蛍が呼んだ。

「はい」

「温室へ行きたいです」

 江口は顔を上げた。

「今から?」

「はい」

「夜明け前ですよ」

「だからです」

 蛍は木箱を見る。

「湿気で浮く文字を、もう一度見たい」

     ◆

 夜明け前の京東大学は、まだ眠っていた。

 空は薄く青み始めている。

 雨は止んでいたが、地面は濡れている。

 温室のガラスには、細かな水滴が残っていた。

 真壁と二階堂が同行した。

 鑑識作業は終わっていたが、現場はまだ封鎖されている。

 蛍は許可を得て、入口近くまで進んだ。

 中には入らない。

 ただ、ガラス越しに温室を見つめた。

 夜の温室。

 生き物の内臓のような場所。

 相沢遼介が死んだ場所。

 片羽の蝶が置かれていた場所。

 十三年前の記憶が戻った場所。

 江口は隣に立った。

「寒くないですか」

「寒いです」

「珍しく正直ですね」

「疲れたので」

「それも正直です」

 蛍は小さく笑った。

 二階堂が、鑑識から戻された標本ケースの写真をタブレットに表示した。

 そこには、温室で撮影された片羽の蝶が映っている。

 ケースの内側。

 湿気で浮いた薄い線。

 拡大された画像には、かろうじて文字が読めた。

『under wing』

 翼の下。

 江口は息を吐いた。

「やっぱり、場所を示していたんですね」

 二階堂が頷く。

「灯里さんが書いたのか、忠さんが指示したのかはまだわからない。でも、標本箱に隠した記録媒体の位置を示していた」

「湿気でしか見えないように」

「たぶん、普通に見れば何もない。火事の熱や煙、消火の水、温室の湿気。どこかで浮かぶ可能性を考えていたのかもしれない」

 蛍はタブレットを見ていた。

「姉は、俺にわかると思ったんでしょうか」

「わからない」

 江口は言った。

「でも、残そうとしたんだと思います」

「何を」

「君に、ではなく、未来に」

 蛍は黙った。

 その横顔は、夜明けの薄い光に照らされている。

 白い。

 でも、昨夜より少しだけ血が戻っていた。

 真壁が低く言った。

「相沢遼介の死因について、速報が出ました」

 全員がそちらを見る。

「首元の針孔から、強心配糖体に似た成分が検出されました。ただし、現場に落ちていたキョウチクトウの葉とは成分比が一致しない」

 二階堂が続ける。

「榛名忠の研究データに出てきた、環境条件で変性した成分比に近い。つまり、あの葉はミスリード。本命は別に精製または抽出された毒性成分」

「灌水装置は?」

 江口が訊いた。

「床に残った微量成分を流すため。それと、標本ケースの文字を浮かばせるためだった可能性がある」

「犯人が、文字のことを知っていた?」

「知っていた、あるいは相沢から聞いた」

 二階堂は言った。

「でも皮肉だね。証拠を消すために湿度を上げたことで、隠し文字が浮いた。犯人が隠そうとしたものが、逆に出てきた」

 江口は温室のガラスを見た。

 湿ったものは、隠れていた線を浮かばせる。

 紙も。

 標本ケースも。

 記憶も。

 蛍は木箱を抱えた。

「先生」

「はい」

「俺、姉の声は思い出せません」

 江口は蛍を見る。

「でも、手の感触は思い出しました」

「手?」

「クローゼットに押し込まれる時、姉が俺に箱を抱かせました」

 蛍の声は震えていた。

「熱かった。煙で目が痛かった。姉は咳をしていました。それでも、俺の手を箱に押しつけた」

 誰も口を挟まなかった。

「姉は言いました。持ってて。絶対に離さないで」

 蛍は目を閉じた。

「俺は離さなかった。でも、事件の後、叔母さんに渡した。たぶん、何もわからないまま」

「それでいいんです」

 江口は言った。

「君は七歳でした」

「でも、姉は十二歳でした」

「十二歳でも子どもです」

「でも、姉は守った」

「はい」

「俺は、守られた」

「はい」

 蛍は少しだけ唇を噛んだ。

「それを、ずっと罪だと思っていました」

 江口は何も言えなかった。

 蛍は温室を見た。

「でも、違うんですね」

「違います」

「俺は、姉の失敗じゃない」

「違います」

「父の研究を奪われたせいで残った、余りでもない」

「違います」

「生き残ったことは、勝ちでも負けでもない」

 江口は息を呑んだ。

 それは、十三歳の蛍がプリントに書いた言葉だった。

 生き残った人間は、勝っても負けてもいない場所に置かれる。

「そうです」

 江口は言った。

「君はそこから、歩いていい」

 蛍はしばらく黙っていた。

 やがて、小さく頷いた。

     ◆

 夜が明けた。

 温室のガラスに朝日が当たる。

 水滴が光る。

 片羽の蝶は、証拠品として警察に保管されることになった。

 焦げた木箱も、マイクロSDカードも。

 榛名律の研究データは、もう一度調べられる。

 十三年前の事件も、再捜査されるだろう。

 水原佳乃がどこまで関与していたのか。

 榛名家を襲った実行犯が誰だったのか。

 企業がどこまで隠蔽したのか。

 まだすべては終わっていない。

 むしろ、本当に始まるのはここからなのかもしれない。

 だが、蛍の中で一つだけ終わったものがあった。

 自分が何もできなかった子どもだったという罪。

 自分だけが生き残ったという罰。

 片羽の蝶を見るたび、自分の背中の火傷を思い出す夜。

 それらが消えたわけではない。

 消えるはずもない。

 けれど、名前が変わった。

 罪ではなく、記憶。

 罰ではなく、傷。

 そして傷は、隠すだけのものではない。

 生きている場所を示すものでもある。

「先生」

 蛍が言った。

「黒歴史、聞きました」

「え、今ですか」

「先生は、逃げたかった人でした」

「そうまとめられると嫌ですね」

「でも、逃げなかった」

「今回は、です」

「今回だけでも、いいです」

 蛍は温室を見たまま言った。

「俺も、今回だけは逃げませんでした」

 江口は少し笑った。

「よくできました」

「子ども扱いですか」

「元生徒なので」

「便利ですね」

「教師なので」

 蛍は小さく笑った。

 その笑顔は、朝の光の中で、ほんの少しだけ年相応に見えた。

     ◆

 数日後。

 江口は学校で授業をしていた。

 中学二年の社会科。

 黒板には、江戸時代の改革、と書かれている。

「改革というのは、正しいことをするという意味ではありません」

 生徒たちが顔を上げる。

「困ったことが起きた時に、何かを変えようとすることです。うまくいく場合もあれば、もっと悪くなる場合もあります」

「先生、今日まじめですね」

 男子生徒が言った。

「いつもまじめです」

「嘘だ」

「教師は嘘が下手なんです」

 教室に笑いが起きた。

 江口はプリントを配りながら、ふと思う。

 世界は何も変わっていない。

 小テストは溜まる。

 コピー機は詰まる。

 生徒は提出物を忘れる。

 それでも、どこかで確かに変わったものがある。

 授業の終わり、江口は職員室へ戻った。

 スマートフォンにメッセージが届いていた。

 榛名蛍からだった。

『先生。片羽でも、曲がりながらなら飛べました』

 江口はしばらく画面を見つめた。

 十三歳の蛍が紙飛行機に書いた言葉。

 二十歳の蛍が、もう一度送ってきた言葉。

 江口は返信を打つ。

『飛べたなら、次は着地の練習です』

 すぐに既読がついた。

 しばらくして、返事が来る。

『先生らしいです』

 江口は少しだけ笑った。

 窓の外では、雨上がりの空に薄い光が差している。

 片翼の蝶は、まっすぐには飛べない。

 それでも、曲がりながらなら進める。

 たぶん、人間も同じだ。

 完全な形でなくても。

 片方を失っていても。

 誰かの記録に残らなかったものを抱えていても。

 それでも、飛び方は一つではない。

 江口桜次郎は、採点途中の小テストを開いた。

 答案用紙の端に、誰かが小さく落書きをしていた。

 羽の片方だけ大きい、下手な蝶。

 江口は赤ペンで、その横に小さく丸をつけた。

 そして、誰にも聞こえない声で言った。

「よくできました」



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