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片翼の蝶 ―江口桜次郎と消えない教え子―  作者: 綾見 恋太郎


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第一章 雨の夜、少年は先生の部屋へ来た

 雨は、夜になってから強くなった。

 四月の終わりだった。

 京東大学の敷地は、昼間こそ新歓の学生で騒がしいが、夜になると別の顔を見せる。研究棟の窓だけがぽつぽつと白く浮かび、濡れたアスファルトが街灯を鈍く反射する。人の声は消え、代わりに換気設備の低い唸りだけが残る。

 その夜、江口桜次郎は、大学敷地の外れにある古い温室の前に立っていた。

 片手には、コンビニの袋を提げている。

 中身は、冷めたおにぎり二つと、明日の一時間目に使うはずだったプリントの束だった。夜食を買いに出た帰り、学校へ置き忘れた小テストの採点を思い出し、ついでに教材研究でもしようと思っていた。

 そういう生活を、江口はもう何年も続けている。

 生徒には、早く寝なさい、朝食を抜くな、体調が悪いなら保健室へ行きなさいと言う。だが、自分は夜中まで仕事をし、コンビニ飯で済ませ、眠気を缶コーヒーで誤魔化す。

 教師という仕事は、他人にだけ正論を配るのがうまくなる。

 江口はそう思うたびに、少しだけ嫌な気分になった。

 スマートフォンの画面には、十分前に届いた短いメッセージが表示されている。

『先生。来られますか』

 送信者は、榛名蛍。

 江口は画面を見下ろしたまま、小さく息を吐いた。

 ――来られますか、じゃないでしょう。

 普通なら事情を書く。少なくとも場所くらいは説明する。だが蛍は昔からそうだった。必要最低限の言葉しか使わない。説明を削りすぎる癖がある。

 それでも江口は来た。

 七年も付き合っていると、文章の短さだけで異常事態だとわかるようになる。

 温室のガラス屋根を、雨粒が絶え間なく叩いていた。

 京東大学植物生理学研究棟付属温室。

 古びた金属板に、そう書かれている。一般学生は立ち入らない場所だ。夜間は施錠されているはずだった。

 だが、引き戸はわずかに開いていた。

 隙間から、湿った熱気が漏れている。

 江口は眉をひそめた。

 四月の夜だというのに、その空気は妙に重かった。濡れた植物の匂いに混じって、甘ったるい匂いがする。花の香りにも似ている。けれど、どこか薬品臭い。

 江口は入口の引き戸を開けた。

 湿った熱気と、濃い植物の匂いが流れ出てくる。

 土。

 水。

 青臭い葉。

 少し甘い花の匂い。

 その奥に、消毒液に似た鋭い匂いが混じっていた。

 夜の温室というのは、生き物の内臓みたいだと江口は思う。

 照明は半分しか点いていなかった。

 奥の通路に、人影が立っている。

 白いシャツ。

 細い肩。

 濡れた黒髪。

 榛名蛍だった。

 二十歳になった今でも、蛍はどこか高校生の頃の面影を残している。線が細いせいかもしれないし、感情を表に出さないせいかもしれない。

 けれど、十三歳の頃に比べればずいぶん背が伸びた。江口より少し低い程度まできている。

「……先生」

 蛍が言った。

「こんばんは」

「こんばんはじゃないですよ。夜中の一時です」

 江口は腕時計を見た。

 正確には一時二十七分だった。

「で、何ですか。こんな時間に」

 蛍は少し黙った。

 その沈黙で、江口は嫌な予感を覚えた。

 蛍は昔から、自分にとって都合の悪いことを話す前に、ほんの少しだけ間を空ける。

 そしてたいてい、その予感は当たる。

「人が死にました」

 江口は瞬きをした。

 蛍は、まるで天気の話でもするみたいな声だった。

「……は?」

「研究室の院生です」

「ちょっと待ってください」

 江口は額を押さえた。

「それ、最初に言う話でしょう」

「最初に言ったら、先生、電話切るかと思って」

「切りませんよ」

「でも来る前に警察へ連絡しろとは言ったでしょう」

「それは今でも言います」

「だから、先に来てもらいました」

 江口は頭痛を覚えた。

 昔からだ。

 榛名蛍という人間は、なぜか江口にだけ妙な信頼を置いている。そしてその信頼の置き方が、だいたい面倒くさい。

「……警察には?」

「もう通報しました」

「ならいいです」

 江口はそこでようやく気づいた。

 蛍の白いシャツの袖口が、うっすら赤黒く汚れている。

 血だ。

「榛名くん」

「はい」

「怪我しました?」

「してません」

「じゃあそれ何です」

「血です」

「見ればわかります」

 江口は苛立ち混じりに言った。

「誰の血ですか」

 蛍は答えなかった。

 代わりに、ゆっくり振り返る。

 温室の奥。

 熱帯植物が並ぶ暗い区画。

 そこに、人が倒れていた。

 白衣姿の男だった。

 床に横向きに崩れている。

 その周囲に、黒い土が散乱していた。

 倒れた鉢。

 割れたガラス片。

 濡れた床。

 そして、床の一部だけが妙に乾いていた。

 江口は数秒、動けなかった。

 教師をしていると、事故や怪我を見ることはある。部活動で骨折した生徒も見た。階段から落ちて額を切った生徒も見た。過呼吸で保健室に運ばれた生徒の手を握ったこともある。

 だが死体には慣れない。

 慣れたくもない。

「……死んでるんですか」

「たぶん」

「たぶんって」

「呼吸はありませんでした」

 江口は喉を鳴らした。

 蛍は死体から少し距離を取って立っている。

 その距離感が妙に気になった。

 近づきすぎない。

 でも目を逸らさない。

 蛍は昔からそうだった。

 壊れたものを見る時だけ、異様に静かになる。

 江口は恐る恐る近づいた。

 男は三十前後に見えた。

 顔色は灰色に近い。

 口元に泡が滲んでいる。

 首元には、小さな赤い点があった。

 虫刺されにも、針の跡にも見える。

 だが、ただの虫刺されにしては赤みが狭すぎた。中心だけが妙に濃く、周囲の皮膚はほとんど腫れていない。まるで、そこだけ何かで押し込まれたようだった。

 江口は反射的に顔をしかめた。

 その右手のそばに、小さな標本ケースが落ちていた。

 透明なアクリル製のケースだった。

 掌に乗るほどの大きさで、縁は銀色の金属で補強されている。中には、黒と青の翅を持つ蝶が留められていた。

 ただし、片羽だけだった。

 左の翅がない。

 右の翅だけが、細いピンで固定されている。

 江口は眉をひそめる。

「……何ですかこれ」

「わかりません」

 蛍の声がした。

「でも、その蝶」

 江口は振り返る。

 蛍は、死体ではなく蝶を見ていた。

 その横顔が、ひどく白かった。

「見覚えがあります」

 江口は返事をしようとして、やめた。

 ケースの内側が曇っていることに気づいたからだ。

 温室だから湿気で曇るのは当然だ。

 だが、その曇り方が妙だった。

 内側の一部だけ、線のように水滴が浮いている。まるで、誰かが細い筆でなぞった跡のように。

 江口は顔を近づけかけた。

「触らないでください」

 蛍が言った。

「わかってます」

 江口は言い返す。

 けれど、言われなければ触っていたかもしれない。

 ケースの奥。片羽の蝶の下。白い台紙の端に、ごく小さな文字があった。

 いや、文字に見えただけかもしれない。

 湿気で浮き上がった薄い線。

 雨音。

 換気扇の唸り。

 床を流れる水の音。

 江口はその時、もう一つの違和感に気づいた。

 温室の床には水が流れている。自動灌水装置が作動した後なのだろう。死体の周囲も濡れている。

 だが、男の白衣の背中だけは乾いていた。

 まるで、濡れた床に倒れたのではなく、乾いた場所で死んだ後、そこへ置かれたみたいに。

 江口は息を止めた。

 その瞬間、温室の奥で電子音が鳴った。

 短く、三回。

 ピ、ピ、ピ。

 壁際の制御盤に、小さな赤いランプが点滅している。

 蛍がそちらを見た。

「灌水装置です」

「何ですか、それ」

「温室の植物に自動で水を撒く機械です。さっきも動いていました」

「さっき?」

「僕が来た時には、床はもっと乾いていました」

 江口はもう一度死体を見た。

 濡れた床。

 乾いた白衣。

 片羽の蝶。

 曇った標本ケース。

 首元の赤い点。

 何一つ理解できないのに、何かが噛み合っていないことだけはわかった。

 教師の勘ではない。

 ただの大人の嫌な予感だった。

 その時、温室の出入口近くで何かが光った。

 床に落ちていた透明なカードホルダーだった。雨水と灌水の水で半分濡れている。江口は触れないように身をかがめ、表面だけを見た。

 来訪者用の名札らしい。

 文字は水で滲んでいた。

 だが、かろうじて一部だけ読める。

 ――水原。

 その下に、企業名らしき横文字が印刷されていた。

 江口が眉を寄せた瞬間、蛍が低く言った。

「それも触らないでください」

「触りませんよ」

「女性の人が来ていたそうです」

「女性?」

「警備員さんが、夕方に見たと」

 蛍は床のカードホルダーを見ていた。

「でも、研究室の人は誰も知らないと言ってました」

 温室のガラスを、強い雨が叩いた。

 その音が、急に大きく聞こえた。

     ◆

 十分後。

 大学の警備員が駆け込んできて、さらにその十五分後には警察車両の赤色灯が窓ガラスを染めていた。

 事情聴取が始まり、江口はようやく温室の外へ出られた。

 雨はまだ降っている。

 夜風は冷たかった。

 温室の中の湿気を吸った服が、外気に触れて急に重くなる。

 江口は自動販売機で缶コーヒーを買い、研究棟の軒下で立ったまま飲んだ。胃に悪い味がした。だが、今はその苦味がありがたかった。

 そこへ、蛍が来た。

 事情聴取を受けていたはずだが、思ったより早い。

「終わったんですか」

「一応」

 蛍は壁にもたれた。

 濡れた髪が頬に張り付いている。

「先生」

「何です」

「怒ってます?」

「そりゃ怒りますよ」

 江口は即答した。

「夜中に呼び出されて、温室行ったら死体があるとか、教師人生でもなかなかありません」

「教師人生では?」

「普通の人生でもです」

 蛍は少しだけ口元を緩めた。

 笑った、というほどではない。

 けれど江口にはわかる。

 蛍は昔から、本当に少しだけ笑う。

 それを見た瞬間だけ、年相応に見える。

「先生、変わりませんね」

「変わってますよ。歳取りました」

「そういう意味じゃなくて」

 蛍は視線を落とした。

「……先生、昔から、人が死んだ話を聞くと、先に怒るんですよね」

 江口は答えなかった。

 図星だった。

 悲しいより先に、怒ってしまう。

 何でそんなことになったんだ、と思う。

 教師という仕事を始めてから、特にそうなった。

 生徒が怪我をした時も、いじめの話を聞いた時も、最初に出る感情は怒りだった。

 たぶん、それは無力感に近い。

「榛名くん」

「はい」

「あの蝶、何なんです」

 蛍はしばらく黙った。

 その沈黙が長すぎて、江口はもう一度呼ぼうかと思った頃、ようやく蛍が口を開く。

「先生、“片翼の蝶”って聞いたことありますか」

「ありません」

「僕はあります」

 蛍は雨を見ていた。

「十三年前の事件で」

 江口の手が止まる。

 蛍の“一家惨殺事件”。

 その言葉を、蛍自身が口にすることは滅多にない。

 十三年前。

 榛名蛍、七歳。

 父母と姉が殺害され、自宅は放火された。

 生き残ったのは蛍だけ。

 全国ニュースにもなった事件だった。

 江口が初めて蛍の名前を知ったのも、その事件の資料を見せられた時だ。

 新任教師になったばかりの二十二歳の春。

 職員室で、先輩教師が困ったように言った。

『榛名蛍くんには、少し配慮してあげてね』

 江口はその時、“配慮”という言葉が嫌いだった。

 どう接すれば正解なのかわからないからだ。

 かわいそうな子として扱えばいいのか。

 普通の子として扱えばいいのか。

 正解がわからない。

 だから結局、江口は何もしなかった。

 何もしないまま、最初の数か月が過ぎた。

 榛名蛍は学校へ来なかった。

 夜しか外に出られないらしい。

 人混みが駄目らしい。

 フラッシュバックがあるらしい。

 教師たちは、らしい、ばかり口にしていた。

 誰も本人の前では話さないくせに。

 だがある夜、江口は偶然、学校近くの歩道で蛍を見かけた。

 街灯の下で、しゃがみ込んでいた。

 小さな背中だった。

 何を見ているのかと思ったら、地面に落ちた蛾だった。

 雨上がりのアスファルトに、羽を濡らした蛾が落ちていた。

『……何してるんですか』

 声をかけると、蛍は振り返った。

 白い顔だった。

 子どもなのに、妙に静かな目をしていた。

『蛍って、明るいところだと見えないんです』

 最初の言葉が、それだった。

 江口には意味がわからなかった。

『は?』

『暗い場所じゃないと、光ってるかわからないから』

 蛍は蛾を見ていた。

『人間も同じかもしれません』

 十三歳の子どもが言う言葉じゃない、と江口は思った。

 けれど、その時の江口はまだ若かった。

 何を返せばいいかわからず、結局、

『夜更かしすると体に悪いですよ』

 とだけ言った。

 蛍はその時、少しだけ笑った。

 今思えば、あれが最初だった。

 榛名蛍が、江口桜次郎に少しだけ気を許した瞬間。

     ◆

「先生」

 現在へ戻る。

 蛍がこちらを見ていた。

「聞いてます?」

「聞いてます」

「嘘です」

「教師は嘘が下手なんですよ」

「知ってます」

 蛍はそう言って、少しだけ目を細めた。

 江口は缶コーヒーを飲み干した。

「で、“片翼の蝶”が何なんです」

「……昔、事件の現場にあったんです」

「一家惨殺事件の?」

「はい」

 江口は眉を寄せる。

「でも当時、そんな話……」

「公表されてません」

 蛍の声は静かだった。

「警察も、ほとんど知らないと思います。たぶん、現場にいた人間しか知らない」

「じゃあ何で君が」

「見たからです」

 雨が強くなる。

 蛍は少し肩を竦めた。

「僕、見ちゃったんですよ。火事になる前」

 江口は何も言えなかった。

 蛍が過去の事件を話す時、無理に口を挟まない方がいい。

 それを知るまでに、江口は何年もかかった。

「片羽だけの蝶が、床に落ちてました」

 蛍は続ける。

「透明な箱に入っていました。今日のものより古くて、縁が銀色で」

 江口は思わず温室の方を見た。

 標本ケース。

 縁の銀色。

 湿気で曇った内側。

「同じケースだったんですか」

「似ていました」

「似ていた、じゃなくて」

「同じだと言うには、記憶が古すぎます」

 蛍はそう言った。

 十三年前の記憶を、古すぎる、と言う声はあまりにも平坦だった。

「でも」

 蛍は指先を見た。

 その袖口には、まだ血が残っている。

「ケースの隅に、小さな傷がありました。今日のケースにもありました」

「傷?」

「右上の角。爪で引っかいたような傷です」

 江口は思い出そうとした。

 確かに、標本ケースの縁に細い傷があった気がする。いや、気がするだけかもしれない。あの時は死体と、片羽の蝶に気を取られていた。

「それを警察に言いました?」

「言いました」

「ならいいです」

「でも、刑事さんはあまり信じていない顔をしていました」

「そりゃ、十三年前の記憶ですからね」

「先生も信じてません?」

「信じたいかどうかと、信じていいかどうかは別です」

 蛍は黙った。

 江口は少し強く言いすぎたと思った。

 だが、こういう時に優しい言葉だけを渡すのは違う。

 蛍は昔から、優しい嘘に敏感だった。

「だから、今日あれを見た時」

 そこで一度、蛍の言葉が止まった。

 珍しく、声が少しだけ揺れた。

「……また始まったんだと思いました」

 江口は息を吐いた。

 そして、ゆっくり言う。

「始まってませんよ」

 蛍が顔を上げる。

「先生?」

「始まってないし、終わってもいません」

 江口は壁にもたれた。

「まだ何もわかってないでしょう。警察だってこれからです。勝手に十三年前と繋げないでください」

「でも」

「でもじゃない」

 少し強い口調になった。

 蛍は黙る。

 江口は、自分がまた怒っていることに気づく。

 そうだ。

 結局、自分はいつも怒ってしまう。

 理不尽に。

 死人に。

 事件に。

 そして、目の前の、生き残った人間が自分を責め始めることに。

「……榛名くん」

「はい」

「君、また、自分のせいだと思ってるでしょう」

 蛍は答えなかった。

 その沈黙が答えだった。

 江口は小さく笑う。

「変わりませんね」

「先生も」

「お互い様です」

 その時、温室の方から刑事の声が聞こえた。

「来訪者リストに水原佳乃という名前があります。所属はミズハラ・バイオテック。研究室側で確認を」

 江口は顔を上げた。

 水原。

 さっき床に落ちていたカードホルダーの文字だ。

 蛍もそちらを見ていた。

「知ってる名前ですか」

 江口が訊くと、蛍は首を横に振った。

「いいえ」

 だが、その声はわずかに硬かった。

「でも、父の研究に関係していた会社の名前に似ています」

「お父さんの?」

「たぶん」

 蛍は曖昧に言った。

 それ以上言葉を続けなかった。

 パトカーの赤色灯が、雨の中でぼやけていた。

 その光を見ながら、江口はふと思い出す。

 七年前。

 十六歳の榛名蛍が、自分のアパートへ来た夜。

 雨だった。

 あの夜も、こんなふうに寒かった。

 インターホンが鳴って、ドアを開けた瞬間、江口は言葉を失った。

 濡れた高校生が立っていたからだ。

 白いパーカー。

 震える指先。

 そして、泣きもしない顔。

『……先生』

 あの夜。

 江口桜次郎は、人生で一番長い数秒を経験した。

 この子を部屋へ入れるべきか。

 教師として。

 大人として。

 人間として。

 正しいのはどれなのか。

 今でも、答えはわからない。

 ただ一つだけ覚えている。

 あの時、蛍はこう言った。

『成人したら、先生と対等になれますか』

 そして江口は、笑って誤魔化した。

 ――対等になったら、僕の黒歴史を聞く権利くらいはあげます。

 あの時の蛍は、どんな顔をしていただろう。

 思い出そうとした瞬間、温室の方から警察官の声が飛んだ。

「榛名さん!」

 蛍が振り返る。

「もう一度、お話いいですか!」

「はい」

 蛍は返事をして、少しだけ江口を見た。

 その視線の意味を、江口は知っている。

 ――行かないでください。

 言葉にはしない。

 でも、昔からそうだった。

 江口はため息をつく。

「帰りませんよ」

 蛍はわずかに目を細めた。

 それはたぶん、安心した時の顔だった。

 十三歳の頃から、少しも変わらない。

 警察官に連れられて温室へ戻っていく蛍の背中を見送りながら、江口はふと、自分の手元を見た。

 缶コーヒーの底に、温室の湿気で濡れた指紋が残っている。

 指でなぞると、すぐに消えた。

 さっき標本ケースの内側に浮かんでいた、あの薄い線を思い出す。

 湿気で現れて、乾けば消えるもの。

 そこに何が書かれていたのか。

 水原佳乃という名前が、なぜこの雨の夜に落ちていたのか。

 首元の赤い点が、何を意味しているのか。

 江口にはまだ、何一つわからなかった。

 ただ、そのわからなさが、雨音に混じっていつまでも耳に残った。


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