モブ令嬢として生きるはずが、うっかり伝説の聖剣を引き抜いて王太子に求婚される
「……よし、これで完璧ね」
鏡の中に映る自分を見て、私は満足げに頷いた。
緩く波打つ栗色の髪は、あえて艶を抑えるように雑にまとめ、顔には目立たない程度のソバカスをメイクで描き足す。
ドレスは流行から二周まわり回って一周遅れたような、地味なモスグリーンの外出着だ。どこからどう見ても、人並みのモブである。
(完璧……完璧すぎる。これなら通行人Aとして景色に溶け込める。誰の視界にも止まらず、誰の記憶にも残らない。これぞ社畜が夢見た究極のステルス性能!)
私の名前は、フィラフィネ・フォン・ベルシュ。ベルシュ男爵家の長女。
そして中身は、前世で二十七歳・独身・社畜の三拍子を揃え、横断歩道でトラックに轢かれそうになった幼女を助けて命を落とした、前岡穂乃果である。
今でも思い出す。あの、有給休暇すら消化できずに消えていった無念の社畜魂を。
(あの時、私の脳裏をよぎったのは走馬灯じゃなかった。『あ、明日締め切りの修正依頼、誰がやるんだろう』っていう絶望だったのよね……。あんな人生、二度と御免だわ)
神様の慈悲か、あるいは手違いか。気がつけば私は、生前徹夜明けの癒やしとして睡眠時間を削ってプレイしていた乙女ゲーム【聖乙女の恋歌】の世界に、男爵令嬢として転生していた。
転生したと気づいた瞬間、私は自分のスペックを確認した。
聖女のように、全属性の魔法が使えて誰からも愛される、神の愛し子ではない。
かといって、悪役令嬢のように、高慢な態度でヒロインをいじめて最後に断罪・処刑される、破滅フラグの女王でもない。
ゲームの全ルートを合わせても、名前すら一度も呼ばれたことがないような、ダンスパーティーの背景で小刻みに動いているだけのモブ男爵令嬢。それが私だ。
「最高じゃない……!」
転生を自覚した時、私はベッドの上でガッツポーズをした。
ヒロインのような波乱万丈な恋も、命を狙われるドロドロの愛憎劇もいらない。
悪役令嬢のように、血の滲むような淑女教育や権力闘争に明け暮れる必要もない。
前世で、朝から晩まで鳴り止まない電話応対と、終わりの見えない書類作成に追われ、パワハラ上司の顔色を窺い、死んだ魚のような目で満員電車に揺られてきた私にとって、適度な資産があって身分も低すぎないモブという立場は、まさに楽園、いや、神様がくれた超長期休暇──退職金付き──だった。
(もう、ノルマに追われることもない。お局様に嫌味を言われることもない。お給料日のために心を削る必要もない! 私はこの世界で、ただの石ころとして、穏やかに、健やかに、そして誰よりも平凡に一生を終えてみせる!)
そんな私の、今日という日の予定は決まっている。
「お父様、お母様。今日は王都の『伝説の広場』で開催される収穫祭に行ってきますわ」
食堂へ向かうと、そこには朝から優雅にスコーンを頬張る両親がいた。
「ああ、気をつけてな。フィラフィネ、迷子にならないようにね。王都は人が多いから」
「そうね。変な悪い男の人に声をかけられたら、すぐに衛兵さんのところへ行くのよ?」
(お父様、お母様……安心してください。この地味な外見と、前世で培った気配を殺す技術があれば、悪い男どころか衛兵さんの視界にすら入りませんから)
私はニコリと微笑み、呑気な両親に見送られて馬車に揺られた。
今日はゲームの超重要序盤イベント『聖剣選定の儀』が行われる日なのだ。
ゲームのシナリオ通りなら、今日、この広場で物語の幕が開く。
伝説によれば、この国の建国始祖が残した伝説の剣は、三百年もの間、王都の中央広場にある聖域に刺さったまま、誰も引き抜くことができなかった。
そこに、平民出身でありながら聖女の力を持つヒロインが偶然通りかかり、ふと剣に触れる。すると、まばゆい光が天に昇り、彼女が「運命の聖女」であることが証明されるのだ。
そして、その奇跡を目の当たりにした第一王太子・アルフレート様が彼女の手を取り、運命の恋が始まる……という、まさに物語の起点。
(ああ、楽しみ……。ゲームのあの名シーンを、課金なしで、しかも特等席(ただし人混みの隅っこ)で見られるなんて、最高の贅沢!)
前世での唯一の趣味がゲームだった私にとって、これは聖地巡礼に他ならない。
(まあ、私には一切関係ない話だけどね。聖女様が光るのを遠くから眺めて、『うわあ、本物のイケメン王太子だー!』って心の中で叫んだら、あとは美味しい屋台の串焼きとハチミツ酒でも買って、のんびり帰ろう)」
馬車を降り、私は深くフードを被った。あくまで「景色の一部」に徹し、物語の邪魔をせず、ただひたすらに平凡を享受する。それが、私のささやかな推し活を兼ねた、究極の休暇の予定だった。
この時の私は、まだ知らない。運命の神様が、退屈のあまり私をメインステージに放り込もうと、手ぐすね引いて待っていたことを──。
◇ ◇ ◇
王都の広場は、熱狂を通り越して一種の狂気に包まれていた。
広場の中央、一段高くなった石畳の上。そこには、数多の英雄や猛者が挑み、そして敗れ去っていった、古びた、しかし神々しいオーラを放つ一振りの剣が突き刺さっている。
周囲を鋼の鎧に身を包んだ騎士たちが厳重に警備し、きらびやかな貴族たちが特等席で遠巻きにそれを見守っている。
人混みの隙間から見えたのは、陽光を反射して煌めく金髪をなびかせた超絶美形──この国の第一王子、アルフレート様だ。
彫刻のように整った横顔、そして冷徹と謳われる鋭い青い瞳が、選定の儀を厳かに見つめている。
(うわあ、実物はゲームの百倍イケメン……。眼福、眼福。あれが画面越しの推しじゃなくて現世の王子様か。あの鼻筋で滑り台したい女子が後を絶たないのも頷ける。さて、メインディッシュである聖女様登場の前に、屋台が混む前に離脱して串焼きを確保しようかな)
私は十分に満足して、人混みを逆流しようと踵を返した。
その時だった──。
「押すな!」
「前が見えないぞ!」
ドォォッ! と背後から巨大な質量に突き飛ばされた。どうやら、聖剣を一目見ようと後方から押し寄せた民衆の波が、一気に限界を迎えたらしい。
前世、満員電車の揺れに耐え抜いた社畜譲りの「おっとっと!」という絶妙な足捌きで、なんとか踏ん張ろうとした。しかし、運悪く足元が石畳の小さな窪みにハマる。
(ちょっ、まっ、やめてええええ! 待って、そっちは入っちゃダメな結界のなかぁぁぁっ!? 不法侵入! 不法侵入になっちゃうからぁぁ!)
「危ない!」という誰かの鋭い声が、スローモーションのように遠くに聞こえた。
私は派手に体勢を崩し、あろうことか、高名な魔術師たちが幾重にも張り巡らせたはずの聖域の結界を、文字通り物理で突き破って段上に転がり込んでしまったのだ。
「えっ!? ちょっ……痛っ……」
視界が回転し、止まった先。目の前には、石に深く突き刺さった『伝説の剣』の柄があった。
地面に顔面から激突するのを防ごうと、私は反射的に、しがみつくような勢いでその取っ手を両手でガシッと掴んだ。
——ズガガガガガッ!
腹の底に響くような地響きが鳴った。
(嘘っ!? なんか手にすごい抜ける感触が伝わってきてるんだけど!? これ抜いちゃダメなやつ! これヒロイン専用のイベントアイテム! ねえ、誰か止めて! 私の腕、ここでフリーズしてぇぇぇっ!)
え? と思う暇もなかった。
抵抗は、ゼロ。まるで、よく手入れされた室温のバターに熱いナイフを入れるような、あるいは引き抜かれるのを三百年もの間、今か今かと待ちわびていたかのような、驚くほど軽い手応え。
「…………あ?」
私の手には、周囲の太陽光をすべて吸い込んで増幅させたような、まばゆい黄金の光を放つ長剣が握られていた。
三百年、最強の騎士も歴代の王も、指一本動かすことすらできなかったという、あの『伝説の剣』が──。
静寂──。
広場を埋め尽くす数千、数万の民衆が、まるで魔法で時を止められたかのように静まり返った。
風の音すら聞こえない。私は、地面に尻もちをついた無様な格好のまま、光り輝く剣を持って呆然としている。
目の前には、本来ここで剣を引き抜いて喝采を浴びるはずだったゲームのヒロインが、ハンカチを握りしめたまま、口をあんぐりと開けて立ち尽くしていた。
(終わった。完全に終わった。なにこれ? ドッキリ? 隠しカメラどこ!? 全自動の仕掛けか何か!? 聖女様の立場は!? 私の静かなモブ人生は!? 誰か「冗談だよ」って笑ってよ。ねえ、今すぐこれをアロンアルファで石に戻したい!!! 接着剤! 誰か瞬間接着剤を持ってきてえええ!!!)
カツン、カツンと静寂を切り裂くように、硬い軍靴の音が、私の方へ真っ直ぐ近づいてくる。
「……信じられん。まさか、このようなことが」
低い、しかし理性を揺さぶるような艶のある声。恐る恐る見上げれば、そこにはアルフレート王太子が立っていた。
彼の青い瞳が、今は冷徹さなど微塵も残さず、驚愕と、それから──獲物を見つけた猛獣のような、何か熱を帯びた射抜くような光で私を捉えている。
「あ、あの……殿下、これ、たまたま手が滑って、というか。その、勢いでポロッと取れちゃっただけで……。すぐに、元に戻しておきますね!?」
私は顔を引き攣らせながら、必死に剣を石の穴に突き刺し戻そうとした。しかし、剣はまるで磁石のように私の手に吸い付いて離れず、石の穴はなぜかふさがったように刃を拒絶する。
(やだ離れない! この剣、私に懐くな! 空気を読め伝説の剣! お前の主人はあっちの可愛いヒロインちゃんだよ!? この、しがみつき現象、何!? 呪い!? 高機能なストーカー!?)
「いいや、戻す必要はない。聖剣が自ら選んだのだ。……三百年、私たちが待ち望んだ主として。……貴女を」
アルフレート様が、衆人環視の中で、私の前にうやうやしく跪いた。そして、逃げようとする私の、泥と砂にまみれた右手を強引に奪い去り、その甲に深く、熱いキスを落とした。
「伝説の守護騎士の末裔、アルフレート・フォン・アステリアの名において誓う。聖剣に選ばれし乙女よ。私の生涯をかけて、貴女を愛し、守り抜こう」
(ぎゃああああああああ! なんか一生モノの重たい誓いを聞いちゃった! イケメンの顔が近すぎて毛穴が見えそう! 無理無理無理! 私、前世でもこんな至近距離で男の人と話したことないんだから! しかもこれ、口約束じゃなくて国家レベルの契約じゃん! 神様、クーリングオフできないの!? このイベント、キャンセルボタンはどこ!?)
「あの、あの、恐れながら! 私、ただの男爵令嬢で、その他大勢のモブなんですけど……」
「いいや。身分など関係ない。今日この時から、貴女は私の、そしてこの国の妃となる婚約者だ。……異論は、死んでも認めない」
最後の一言、目が笑っていなかった。直後、周囲から鼓膜を揺らすほどの地鳴りのような歓声と拍手が巻き起こる。
「聖女様万歳!」
「王太子妃殿下万歳!」
人々の熱狂的なコールを聞きながら、私は確信した。私の穏やかなモブ人生計画という名の平穏な退職生活は、一瞬にして、文字通り跡形もなく崩れ去ったのである。
◇ ◇ ◇
翌日から、ベルシュ男爵家は文字通り、天と地がひっくり返ったような大騒ぎになった。
夜が明けるか明けないかのうちに、我が家の質素な門前には黄金の輝きを放つ王家の紋章が入った豪華な馬車が何台も列をなし、近隣住民が「何事だ」と窓から身を乗り出している。
玄関を開ければ、そこには溢れんばかりの薔薇の花束、見たこともない最高級の絹織物、そして「殿下からの誠意です」と差し出された山のような宝飾品の数々。
さらに、一糸乱れぬ動きの二十人の精鋭侍女たちが、「今日からフィラフィネ様の身の回りのお世話をさせていただきます」と有無を言わさぬ笑顔で屋敷に上がり込んできた。
「フィ、フィラフィネ……お前、いつの間にあんな神がかり的な剣術を習っていたんだ? 剣の重圧で広場の石畳が割れたと聞いたぞ……」
「お父様、あれは剣術とかじゃなくて、ただの物理的な遠心力と、あと前世……じゃなくて、昨日たまたま食べたお肉の栄養による運でして……」
私は家の応接室にある、バネの少しへたった使い古しのソファで、幽霊のように白くなってぐったりと項垂れていた。
そして、その信じられない光景の元凶は、私のすぐ目の前にいた。この国の至宝、アルフレート王太子殿下が、我が家の安物のティーカップを驚くほど優雅な所作で扱い、香りの高い最高級の紅茶を嗜んでいる。
(なんで!? なんでこの人、貴族名簿の端っこに載ってるレベルの弱小男爵家の、カビ臭い……じゃなくて、狭くて庶民的な応接間にこんなに馴染んでるの!? 完璧すぎる王子オーラが部屋の隅々のホコリまで照らし出していて、申し訳なさで死にそうなんだけど! ていうか、その百億ボルトのキラキラした笑顔を、耐性のない一般人に向けないで! 網膜が焼ける! 物理的に目が潰れる! 誰か、誰か一刻も早く彼を王宮の安全な場所に連れ戻してぇぇぇっ!)
「改めて挨拶をさせてほしい、フィラフィネ。昨日はあまりの混乱に、名も聞けず失礼した。……改めて、私と結婚してほしい」
アルフレート様は紅茶を置くと、一点の曇りもない真摯な瞳で私を見つめた。
「殿下、恐れながら申し上げます。私は地味ですし、特技もありません。茶道もダンスも平均以下、聖女様のような奇跡の治癒の力もありませんし、このソバカスだってメイクで……あ、いえ、とにかく王太子妃なんて到底務まりませんわ!」
「剣を引き抜いた。それだけで、貴女がこの国の運命を背負う資格がある証だ。それに……」
アルフレート様が不意に椅子から立ち上がり、テーブルを挟んでぐいっと身を乗り出した。私の顔を覗き込むように、その端正な顔が近づいてくる。
近すぎる。吐息がかかりそうな距離だ。
その整いすぎた造形が視界を占拠した瞬間、私の心臓は、社畜時代の、『プレゼン直前に重要データが消えたことに気づいた瞬間』並みの、激しい警鐘のような速さで鼓動し始めた。
(ひえっ……! 美形の圧力が強すぎて窒息する! これ以上近づいたら物理的なショックで心停止案件ですよ! 殿下、ソーシャルディスタンスを思い出して! 私、前世も今世もただの善良な一市民なんです! こんな寿命を削るような心臓に悪いイベント、私の初期設定のライフじゃ一秒だって耐えきれません!)
「貴女は、自分のことを『地味』だと言ったが。私の顔をこれほど間近で見て、なお媚びず、欲に染まらず、ただ純粋に困り果てているその瞳……。今まで、私の地位や外見だけを求めて群がってきたどの令嬢よりも、興味深い」
(出たーーーっ! 乙女ゲーム名物、不朽の名セリフ『おもしれー女』発言の派生バージョン! いや違うんです! 違うんですよ殿下! 媚びてないんじゃなくて、殿下のお顔が眩しすぎて、顔の筋肉が固着して引き攣ってるだけなんです! 興味なんて一ミリも持たなくていいんです! むしろ石ころを見るような冷ややかな無関心に戻ってください!? そして、今すぐ私を視界からログアウトさせて!?)
「殿下、どうかご理解を。私は、目立たず、騒がれず、ただ静かにひっそりと、平穏に暮らしたいだけなんです」
私は最後の抵抗として、切実な願いを口にした。すると、アルフレート様は美しく長い指先で私の顎をそっと掬い上げ、極上の微笑みを浮かべた。
「ならば、私の城の最も静かな離宮を貴女に与えよう。周囲には何重もの結界を張り、庭園を巡らせ、誰にも貴女を邪魔させない。……私以外にはな」
(それ『静か』って言わない! 独占欲全開の、実質的な永久監禁宣告じゃないですか!? 逃げ道が、網の目のように全部塞がれていく……。王族の権力、そして本気のイケメンの執着、強すぎる……!)
微笑む彼の背後に、ゲームの設定資料集には一行も書かれていなかったはずの、どろりと濃い漆黒のオーラ─罫線異常なまでの執着心──が渦巻いて見えるのは、果たして気のせいだろうか。
ゲームの中のアルフレート様は、もっとこう、冬の氷山のようにクールで、女性にすら興味を示さない淡白なキャラだったはずだ。それが今、目の前にいる男は、獲物を絶対に逃さないと決めた肉食獣の目をしている。
(どうしてこうなった……。どこでボタンを掛け違えたの。私の思い描いていた『悠々自適なモブ生活』というゴールテープが、火炎放射器で焼き払われていく音が聞こえる……)
私は、自らの運命が完結ではなく強制連載開始へと舵を切られたことを、嫌というほど悟らされたのだった。
◇ ◇ ◇
数日後。ついに避けては通れない年貢の納め時がやってきた。
王太子の婚約者候補として王宮に招かれた私は、豪華絢爛な応接間で、一人の少女と対面することになった。
そこにいたのは、ゲーム通りのふわふわとした綿菓子のような金髪に、潤んだ大きな瞳、そして見ているだけで心が洗われるような清廉な雰囲気を纏った美少女──本作の正ヒロイン、聖女候補のマリアだった。
本来なら、彼女こそがアルフレート様の手を取り、聖剣を掲げ、この国の希望として崇め奉られるべき存在だ。
(来た、来たわ……! 真打登場! 待ってました! さあマリアちゃん、今こそ乙女ゲームの王道を突き進むのよ! 目の前の地味な泥棒猫に向かって、『私の役目と殿下を奪った卑怯な女!』って絶叫していいから! 罵倒も、冷や水も、手袋を投げつける決闘の申し込みも全部受け止める! それでこの無茶苦茶な婚約を白紙に戻して! 私は全力で平謝りして、田舎のさらに奥地に引っ込む準備はできてるから!)
私は心の中で、応援上映さながらの熱量で彼女を鼓舞した。マリアは、少し震える手で自身の胸元を押さえ、ゆっくりと私に歩み寄ってくる。
「フィラフィネ様……。あの、三百年誰も動かせなかった伝説の聖剣を引き抜いたのは……本当に、貴女なのですね?」
鈴の鳴るような、儚くも美しい声。私はこれ以上ないほど申し訳なさそうな顔──社畜時代、取引先に無理難題を押し返された時の謝罪顔──を作って応えた。
「ええ、まあ……本当に、なんと言いましょうか、重力と事故と私の不徳が招いた最悪のタイミングと言いますか……。不本意ながらそうなってしまっただけで、本来なら貴女のような高潔な方が手にすべきものだったんです。本当ですよ!?」
私は必死に「私は聖剣にも殿下にもふさわしくありません」というオーラを全身から放ち、全力でマリアに、ヒロインの座をパスしようとした。
ところが──。
「凄いです……! 本当に、本当にかっこいいです! あの伝説の剣を、あんなに無造作に抜いてしまうなんて! 私、広場で見ていて、あまりの神々しさに感動して震えちゃいました! ぜひ、私とお友達になってくださいませんか!?」
「……え?」
(えええええええええ!? なんで!? なんでそんなダイヤモンドより輝くようなキラキラした目で私の手を握ってるの!? ここは嫉妬に狂ったビンタとか、蔑むような冷たい視線で私を射抜くターンだよね!? なにこの聖母のような包容力! ヒロインが文字通り聖女──性格的な意味で──すぎて、私の退路がコンクリートで固められて塞がれたんだけど!?)
マリアは、私の節くれだった手を両手で包み込み、頬を上気させた。そこには憎しみも嫉妬も欠片もなく、あるのは純粋な、アイドルを目の当たりにしたファンさながらの敬意だった。
彼女は、あまりにも重すぎた聖女としての重圧から救い出してくれた私を、本気で英雄視していたのだ。
「私、実はずっと怖くてたまらなかったんです。もし私が聖剣を抜けなかったら、国のみんなを失望させてしまうんじゃないかって。毎日夜も眠れないほど不安で……。でも、フィラフィネ様が颯爽と現れて、ガシッと剣を抜いてくれたおかげで、私は一気に肩の荷が下りたんです! これからは、フィラフィネ様を支える『予備の聖女』として、気楽な気持ちで魔法の修行に専念できます!」
(予備!? ヒロインが、世界の中心で愛を叫ぶ立場からベンチ入りメンバーへの降格を、自分から喜んで受け入れちゃってる!? ちょっ、待って! ヒロインのやる気スイッチどこに行ったの!? 聖女修行に専念って、それじゃあアルフレート様の愛を勝ち取るイベントが丸ごと消滅しちゃうよ!)
マリアは私の困惑を謙遜と受け止めたのか、さらに身を乗り出して熱弁を振るう。
「フィラフィネ様のような、地味……いえ、質実剛健で飾らない強さを持った方こそ、今のこの国には必要なんです! 殿下もお目が高いですわ! 私、全力で応援しますね!」
(なんてこった、この世界の登場人物、王太子からヒロインに至るまで、みんなやる気が斜め上すぎる……! 頼みの綱のマリアちゃんまで味方についちゃったら、もう誰が私をこの『求婚地獄』から救い出してくれるの!?)
私は、キラキラと輝く聖女のスマイルという名の強力な魔法に当てられ、白目を剥きそうになりながら、ただただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
◇ ◇ ◇
それから、私の生活は一変どころか、天変地異が起きたかのように激変した。
もはや景色の一部だったはずのモブ男爵令嬢の面影はどこへやら。
私は国中の崇拝の対象である『聖剣の乙女』として祭り上げられ、毎朝目覚めるたびに、見覚えのない豪華な天蓋付きベッドの上で「あ、これ夢じゃないんだ……」と絶望……もとい、現実を噛み締める毎日だ。
そして何より手に負えないのが、アルフレート様からの猛烈すぎるアプローチである。
(ちょっと待って、この人、公務とかないの!? いや、あるはずなのに、なぜか隙あらば私の部屋に現れるんだけど! もしかして、仕事効率化の鬼なの!? 前世の私の職場に、その有能すぎるタイムマネジメント能力を分けてほしかった!)
最初は、隙を見ては「やっぱり人違いでした!」と叫んで辺境へ逃亡する計画を立てていた。
けれど、彼は私の「本当はモブらしく目立たず生きたい」という、貴族にあるまじき魂の叫びを──なぜか非常に肯定的に──尊重してくれた。
王宮の、窒息しそうなほど堅苦しい儀礼や退屈な夜会。私が少しでも限界社畜のような顔をすれば、彼はそっと背後に現れ、魔法のように私を秘密の隠し通路から連れ出してくれる。
月の光が差し込む庭園で、前世の安物のコンビニスイーツとは比較にならないほど繊細で甘い、王宮秘伝のコンフィチュールが乗ったお菓子を、あろうことか「あーん」という所作で自ら私の口へと運んでくれるのだ。
「フィラフィネ。明日は北方の領地の視察だが、ついてきてくれるか? 美しい湖があるんだ。君に見せたい」
「殿下、滅相もございません。私はただの、その他大勢の同行者として、目立たないよう馬車の隅っこで丸まっていればよろしいでしょうか……?」
私がなおもモブとしての矜持を守ろうと食い下がると、アルフレート様は困ったような、それでいて甘やかすような笑みを浮かべて私の手を取った。
「ああ、わかっている。君が目立つことを嫌うのは。だが、私の隣には……聖剣の持ち主としてではなく、フィラフィネという一人の女性が必要なんだ。これは義務ではない。私の心が、そう言っているんだ」
(……ずるい。ずるすぎる。その超低音の極上ボイスで、そんな少女漫画の最終回みたいな殺し文句を平然と言い放つなんて、反則どころかレッドカード退場ものです! 私の心臓、さっきからバックバクで壊れそうなんですけど! 前世で培った『どんなクレームにも動じない鉄のポーカーフェイス』を必死に維持してるけど、精神の中身は今、火山噴火と巨大津波が同時に来たみたいな大パニックなんですよ!?)
そんなふうに、熱を孕んだ瞳で真っ直ぐに見つめられたら、前世の二十七年間を仕事だけに捧げ、恋愛という二文字を脳内のシュレッダーにかけていた干物女の魂が、耐えられるはずもなかった。
運命が決した、ある夜。王宮のバルコニーで、星空の下、私たちは二人きりになった。夜風が私の髪を揺らし、心地よい静寂が二人を包む。
不意に、アルフレート様が私の腰を抱き寄せ、その長い指先が私の頬をなぞった。
そして、甘く熱い吐息と共に、耳元で低く囁いた。
「フィラフィネ。もう諦めて、私に溺愛されてはくれないか?」
(あ、あきらめ……!? 何をですか? モブとしての誇り!? それとも私が必死に死守している最後の理性!? ていうか、近い近い近い! 殿下の体温が服越しに伝わってきて、私の心拍数が限界突破して、耳の奥で太鼓の達人のフルコンボ動画みたいにドコドコ鳴り響いてるんですけどぉぉぉっ!)
その声には、かつて『氷の王太子』と恐れられた冷徹な面影など微塵もなく、ただ一人の、愛おしい女性を前にした熱情溢れる男の響きがあった。
私はもう、逃げ場所がないことを知った。あるいは、最初から逃げる気なんて失っていたのかもしれない。
私は観念して、真っ赤になっているであろう顔を隠すように、彼の広く暖かい胸の中に顔を埋めた。
「……伝説の剣より、殿下のその逃がしてくれない執念の方が、ずっと手ごわいですね……」
「私にとっては、最高の褒め言葉だ」
彼は嬉しそうに声を弾ませ、私の頭を優しく、愛おしそうに撫でた。
(ああもう、どうにでもなれ! 前世であんなにサービス残業して、休日出勤して、最後は人助けまでして頑張ったんだから。今世くらい、こんな自分勝手で過剰なまでのハッピーエンドに流されても……バチは当たらないよね?)
幸せそうに、慈しむように笑う彼を見て、私は思う。前世で他人のために命を落とした、神様からの特別ボーナスがこれなのだとしたら──。
景色として生きるよりも、彼のたった一人の特別として生きる異世界も、案外、悪くないのかもしれない。
翌朝、目が覚めるや否や届けられた新聞の第一面に、【速報! 聖剣の乙女、王太子殿下と婚約内定!】という巨大な見出しと共に、髪を振り乱してあくびをしている私の寝ぼけ眼の顔写真──肖像画──がデカデカと載っているのを見た時は、やっぱり絶叫したけれど。
(ぎゃああああ! 肖像権の侵害! 誰よこれ描いたの!? 穴があったら入りたい! そのまま化石になって三億年後くらいに発掘されたい……!)
悶絶する私を、朝から部屋にやってきたアルフレート様が「いい顔だ、可愛いよ」と抱きしめてくる。
その左手の薬指には、聖剣の輝きすら霞んで見えるほど、まばゆい光を放つ特大のダイヤモンドが、しっかりと嵌められていた。
それは、私が二度とモブには戻れないことを告げる、甘くて重い、幸福の鎖だった。
おしまい
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