第八話
「皆さん、顔を上げてみて下さい」
白いワンピースを身に纏う透花先生が、雪が舞い落ちる中、空へと向けて指を指した。それに引き寄せられるように全員が顔をあげた。
「雪です。今からチャイムが鳴るまで、皆さんにはこの空から舞い落ちる雪を数えて頂きます。まずは輪になって下さい」
透花先生が言うように、白くちいさな塊が空から舞い落ちていた。スカートの先から出た足から、突き刺すような寒さが這い上がってくる。身体が微かに震え始めていた。
──めちゃくちゃ寒いんだけど。
──ねぇ、透花っち、こんな事して何の意味があるの?
制服の袖を伸ばし、身体を縮こませながら皆が口々に言った。だが、透花先生は表情を一切変えることなく「早くして下さい」とぽつりと言った。白い肌に、白いワンピース。それらを身に纏う透花先生は雪に同化しており、まるでその化身をみているかのようだった。一体、この人は誰なのだろう。その疑問を拭い去ることができなかった。
「小夜が真ん中に入って」
私は絵里奈と理沙と手を繋ぎ、ちょうど真ん中の位置に入った。その頃には、二人の片手はそれぞれが別の女の子と結ばれていた。運動場の中央に三十五人の女の子で作られた輪が生まれる。透花先生はそれをみて「では、始めて下さい。雪を数えながら、あなた方で作った輪をくるくると動かして下さい。時計周りでも反時計周りでも、それは構いませんから」と言って、ポケットからストップウォッチを取り出した。乾いた電子音が鼓膜に触れた時、輪が時計回りに動き始めた。
「いーち、にー、さーん」
「いち、に、さん、よん、じゅう、じゅうさん、はち、あれどこまで数えたっけ」
「十七、二十二、三十」
「ちょっともう少し声落としてよ。つられるんだけど」
頭を真上に向けながらも、輪の流れに沿って身体は動かし続けなければならない。足がもつれそうになった。今年で十八歳。その年を迎えようとしている女の子たちが運動場の中央で手を繋いで輪を作り、くるくると回りながらも雪を数えている。なにこれ。私達何してんの? と、その異様な光景に笑い声をあげる子もいた。
「これ、動きながらだと数えにくいわ。止まってるならまだやりやすいのに」
理沙の苛立ちが、繋いでいる手から伝わってきた。微かに力が込められている気がする。四十五、五十、五十五。私はそれを感じながらも声にださず、胸の中だけで雪を数えていた。私たちが輪を作りながら動いているのも理由の一つだが、少しでも風が吹いただけで空から舞い落ちる雪は動きを変える。とてもじゃないが一つずつを目で追いかけ続けることは出来なかった。だから、八十五、九十、九十五、と雪を一纏めにし、五の倍数で私は数えることにしていた。
五分、いや十分が経った頃かもしれない。三百七十五、三百八十と私が胸の中で雪の数を呟いていた時、輪が動きを止めた。
「あーもう絵里奈無理。やめる。寒いし、疲れた」
絵里奈の手が私の手からふっと離れ、輪から抜けた。その姿をみて、絵里奈のグループにいる美咲と莉子、それから数人の女の子たちがぞろぞろと輪から離れた。瞬間、透花先生はタイマーを止め、ポケットから携帯を取り出し指を滑らせる。何かを打ち込んだのか、すぐに携帯を再びポケットへと仕舞った。グループの子たちを引き連れた絵里奈は、真っ直ぐに透花先生の元へと向かった。
「透花っちの事は好きだけどさ、さすがにこれは意味が分かんないわ。せめて雪を数える意味を教えてよ」
苛立ちを孕んだ声が、運動場に転がる。
「ちょっと、どこ見てんの」
絵里奈の言うように、透花先生は絵里奈の顔をみる素振りすらみせていなかった。ぼんやりと空を見上げている。「ねぇ」と肩に手を置かれ、ようやく微かに赤く薄い唇がゆっくりとひらいた。
「まだ、雪は降っていますよ」
「はあ?」
「雪はまだ、降っています」
「なんなの? 透花っち、まじでどうしちゃった? 頭おかしいんじゃない?」
風邪引くの嫌だしさすがに付き合いきれないわ、と吐き捨てるようにそう言って、こちらに顔を向けてくる。
「小夜ー理沙、もうやめようよ。一緒に行かないの?」
問われ、理沙と目があった。どうするべきか。私が答えをあぐねていると、「あともう少しだけやっていくよ」と代わりに理沙が答えてくれた。
絵里奈たちは「あっそ」と校舎の中へと消えていった。私達がその背をぼんやりと見続けていると、透花先生は「雪」とただ一言だけ呟いて、空に向けて指を指した。その声に私を含めた片腕が寂しく空いた子たちが、同じ境遇に置かれている子へと手を差し伸べた。ゴムが収縮していくみたいだった。絵里奈たちがいなくなって一度はかたちを失った輪は、すぐにかたちを取り戻した。
九百、九百五、千。再び雪を数え始めていた時、私は胸の中で呟きながら何かがおかしいと感じた。絵里奈たちが抜けてからというもの、輪の回るスピードが早くなったのだ。まるで生み出された遠心力によって更なる脱落者を生み出そうとするみたいに。
「せん、にひゃくさんじゅう、はち」
理沙の息が上がっている。もう、輪のスピードについていくのがやっとで、雪を数えるどころではないようだった。それから三十分が経った頃には、輪は私を含めた六人の女の子で形成されていた。輪から外れた生徒たちは、校舎に入る手前の階段に腰を下ろし、身体を寄せ合っているようだった。私も、もう随分前から手の感覚が無かった。繋いでいるはずだけれど、寒さと疲労からそこに意識を向ける余裕が無かった。
なんで。なんで、私はこんな事に必死に取り組んでいるのだろう。頭の中でちいさな芽が芽生えた時には、すぐに答えを導きだしていた。私は、透花先生に認められたい。特別な存在であり続けたい。その一心だったのだ。
千六百三十五、千六百四十、千六百四十五。雪を数えながら、私の頭の中では透花先生の可憐な笑みが咲いていた。それをみて、鼓膜まで轟いていた私の心音までもが、どく、どくん、と頭の中で鳴りはじめる。
夏を迎えた頃には、私も皆と同じように透花先生と親しくなっていた。ただ、一つ違っていたのは、その年のひぐらしが鳴き始めた頃には、私は透花先生に「小夜」と下の名前で呼ばれていたことだ。そんな風に呼ばれているのは、クラスで私だけだった。
その日の私は掃除当番で、いつも一緒に帰る理沙はバイトがあるからと先に帰り、絵里奈たちは男子校の子たちと遊びに行くからと、掃除を終え一人で帰ろうとした時だった。窓が締め切られた教室の中で、ふわりと甘さを孕んだ春の風が吹いた気がした。振り返ると、透花先生が立っていた。
「古宮さん、今日は一人で帰るの?」
「はい。絵里奈も理沙も今日は用事があるみたいで」
鞄を手にしたまま笑みを浮かべた。透花先生は「そう」と言って、私の目の前の椅子に腰をおろした。
「ちょっと話さない? 私、古宮さんと一度ゆっくりと話してみたかったの」
ふわりと咲いた笑みに、私の心臓が微かに音を立てた。透花先生と出会って数ヶ月も立つ頃には、さすがにその美しい笑顔に耐性が出来たと思っていたのだが、さすがに二人きりとなると私の身体はまだ対処しきれないみたいだった。促されるまま、私は透花先生の隣の机の椅子を引いた。
「もう二学期に入っちゃったけどさ、どう? 学校は楽しい?」
問いかけられ、一度舌を噛んだ。すぐに笑みを作り「はい、楽しいです」と言った。けれど、そんな表面上だけ取り繕ったものなんて、透花先生には無意味なようだった。
「古宮さん」
「はい」
「いつもは賑やかなこの教室だけど、今は私とあなたしかいない。だから、無理しないで」
スカートの上に整列させていた手に爪を立てた。
「古宮さん、時々物凄く悲しい顔をしてるってこと自分で気付いてる?」
「……してません」
舌を噛んだ。
「してるわよ。もし、あなたが自分に嘘をついているんじゃないとしたら、それはあなた自身がそれにに気付いていないだけ。授業中も、友達と笑顔で話している時も、ご飯を食べてる時だって、私がみた時はそんな顔してるわよ」
透花先生の穏やかな声が私の胸の中へと降りてきて、何かが溢れそうだった。頭の奥底で水の揺らぐ音が聴こえた。
「だから、話してみて。私なんかが力になれるかどうかは分からないけどね、話すだけでも心が軽くなる事ってあるものなの」
持ち上げられた右手が、私の頬へと添えられた。透花先生の肌は滑らかで引き寄せられるように私の肌が吸い付いていく。肉体は既に引き寄せられていたが、心までもがその手のひらへと引き寄せられていくかのようだった。ずっと胸の奥底へと仕舞い込んでいたものが、少しずつ湧き上がってくる。ああ、と思った。もう、話したい。話てしまおう。私の胸にあるもの全てをいっそのこと、とゆっくりと口を開いた。
「先生は、自分の生きるこの世界が、水槽みたいだって感じた事は、ありますか」
私がそう呟いたその瞬間、透花先生は大きく目を見開き「……水槽」とちいさく呟いた。私の頬に添えられていた手がふっと離れる。すれ違いざまに、私の頬を透明な液体が伝った。
「私が幸せである為の、いや皆が幸せである為の、それに必要な事は全てこの世界に揃っています。狭くて、暗いうえに、ちいさなこの世界ですけどちゃんとあるんです。でも、私にはそれが作り物みたいに思えるんです。皆が幸せであろうとする為に本心を隠し、無理に笑顔を作って、その世界に備え付けられている設備や物を使って、少しでも自分がいいように取り繕ってるって言うのかな」
「……それを、みるのが嫌って事?」
「はい。いや、違いますね。何故なら、この私が一番嘘をつき、皆にいい顔をして取り繕ってるから。先生、私ね嘘つきなんです」
「嘘?」
「はい。この高校だって、本当は来たくなかった。いや、今は透花先生と出会えて心から良かったと思います。でも、最初は違った。私は別の高校が良かったけど、友達にここに行こうと言われて本心を隠した。テストの点だって、皆が使っているメイク道具や服、それから携帯のアプリ、休み時間に話す内容まで全部そう。私が心から求めて、やりたいように出来ていることなんて何一つないんです」
感情が爆発したみたいだった。気付いた時には嗚咽を漏らしていた。息を吸い込むと、ひっ、と上擦った声が漏れた。古宮さん、と透花先生が背中を擦ってくれる。私の心が落ち着くようにと、宥めてくれる。でも、止まらなかった。
「男の子の話だってそうです。皆が多感な時期で、男の子に興味が湧くって事は分かります。アイドルや他校の男の子、誰と誰が付き合った、前日にやり取りした男の子とのトーク履歴。皆が話す事ってそんな話ばかりで、そんな時私はいつもえー羨ましいとか、私も彼氏欲しい、とか思ってもいない事をわさわざ声を高くして話して……もう、ほんとに、馬鹿みたい。興味なんかないんです。男の子がどうとか、どうでもいいです。だって……私が好きなのは、女の子だから」
泣き叫ぶようにそう口にした瞬間、やってしまった、と思った。理沙にも、絵里奈にも、親にすら言わず、ずっと胸に仕舞い込んでいた事を口にしてしまったのだ。鞄を手にし、教室から飛び出すようにして走り去った。
翌日の学校は、本当に憂鬱だった。どんな顔をして透花先生に会えばいいのだ。でも、私が好きだと言ったのはあくまで女の子で、透花先生だとは言ってないからきっと大丈夫だ。でも、透花先生は私の秘密を誰かに話したりしないだろうか。そんな事ばかりが頭に浮かびながらも教室に入ると、すでに透花先生がいて、「あっ古宮さん。おはよう」といつもと変わらぬ笑顔で迎えてくれたので、私は胸を撫で下ろした。
その日の最後の授業が終わり、帰ろうとすると「ちょっと時間ある?」と透花先生に呼び止められた。皆が教室からいなくなったタイミングで、先生は私の隣に腰をおろした。すぐに目を見て言った。
「あの」
昨日のことは忘れて下さい。そう言おうと思っていた。
「言わないわよ。昨日、古宮さんから聞いた事は誰にも言わない」
「えっ、あっ、ありがとうございます」
ちいさく頭を下げ、再び顔をあげると目の前に眩い笑顔が咲いていた。
「それにね、昨日は嬉しかったの。やっと古宮さんの中がみえた気がして」
「中?」
「うん。私は人の内面をみたり、考えを読むことが得意なの。でも、古宮さんだけはそれが見えなかった。いつも砂嵐みたいなものがその前にかかってて心がぼやけてみえたって言うのかな。昨日は、それがみえて嬉しかった」
「……ありがとうございます」
無意識にお礼を言っていた。何に対してかは自分でも分からなかった。
「私で良かったらまたいつでも聞くからさ、胸にもやもやがあるなら話してみて。あなたが、私に話したいことってまだ他にもあるんじゃない?」
問いかけられ、目があった。均整のとれた二重幅の中心に居座る綺麗で澄んだ瞳。それは、私の目ではなく、もっと奥底にある何かをみているかのようだった。結びつけられた視線を無理に引き剥がし、ありません、と言った。
「そう。じゃあ、今日はもう帰っていいわ。帰り、気を付けてね」
「はい」
鞄を手に取り、席を立った。頭を下げ踵を返す。そのまま教室の扉に手をかけた時だった。古宮さん、と呼び止められ、振り返った。
「私も」
窓から差し込む橙色のひかりが、教室の中で濁流のように溢れていた。そのひかりに包まれる透花先生の顔には微かに影がかかっていた。
「私もね、古宮さんとずっと同じことを思ってたの」
「えっ?」
「水槽の中で生きてるみたい。私も、ずっとそう思って生きてきた。そう感じた理由は古宮さんとは違うけどね、同じ考えを持ってた。私たちって似てると思う」
私と、透花先生が似てる。そう言われて嬉しくない訳では無かったが、言葉に詰まった。そんな私をみながら、透花先生は言った。
「だから──ねぇ、古宮さん。あなたの事をこれから下の名前で呼んでもいい? 小夜って、そう呼んでもいい?」
窓から差し込む夕日のひかり。夏の暮れた空。目の前に美しいものは沢山あったが、何よりもそう感じたのは、目の前に咲いた透花先生の笑顔だった。
空から舞い落ちる雪を数えながら、私はあの日のことを思い浮かべていた。小夜。そう言われたことが、笑みを向けてくれたことが、どれ程嬉しかっただろう。もう随分前から息は上がっていたが鼓動が更に早くなる。チャイムが鳴った。少し遅れて、透花先生の「終わりにしましょう」という声が鼓膜に触れる。
その声に私達は足を止め、輪はかたちを失った。背中で息を荒く吐き出しながらも、私はすぐに透花先生に目を向けた。ストップウォッチのタイマーを手にしたまま、氷のような冷たい眼差しを向けてくる透花先生は姿形は同じだが、私の知る人では無かった。




