第四話
教室に入った瞬間、きゃはは、という甲高い笑い声が鼓膜に触れ、無数の香水やボディークリームが入り交じったような甘い匂いに包まれる。むせ返りそうになるのを必死に抑えながら、黒板に張り出された座席表に目をやった。すると、教室の後ろの方から「小夜ー理沙ー、こっちこっち」と手を振ってくる女の子がいた。絵里奈だった。
絵里奈とはこの高校に入ってから仲良くなった友達で、私はいつも理沙や絵里奈たちと行動することが多かった。絵里奈は底抜けに明るい性格をしており、どちらかと言えば控えめで友達も少ない私とは反して友達も多い。理沙はちょうど私と絵里奈の中間くらいの明るさで、スタイルも良くモデルのようにはっきりとした綺麗な顔をしているのにいつも人の目ばかりを気にしている。
高校というものは、ちいさな水槽のようなものだと思う。社会に出ていく前の、そこに順応させる為の最後のユートピア。全ての環境が整えられたその中から透明なガラス窓を通して大人というものを、この外にある広い世界には何があるのかを、三年という時をかけて知っていく。
だが、それはあくまで大人側の目線で、そのちいさな水槽の中で生きる私達には、私達なりの世界があってルールがある。誰と誰が仲が良いか、反対に誰と誰が仲悪いのか、発言権を持っているのは誰なのか、スクールカーストというもの、日ごとに変化していく環境の変化に常に目を向けながら、それも自然に目を向けながら、私達は生きている。スクールカーストだけで考えるなら私達が友達になる可能性は少なかったと思う。けれど、私と理沙は中学校からの同級生で、人付き合いの上手い理沙のおかけで、絵里奈とも友達になれた。いつも五、六人で行動している絵里奈のグループにいる子たちは私以外が全員が目鼻立ちが整っており、そのうえ学校に来るだけだというのにばっちりメイクまでしてきている為に、教室の窓際にはフランス人形たちが座っているみたいだった。底抜けに明るく、誰であろうと物怖じせずはっきりと物を言う絵里奈がいるグループが、スクールカーストでいうとこのクラスのトップだ。
促されるままに教室の奥へと足を進めていくと、何人もの女の子たちから「おはよー」と声をかけられた。その度に笑みを作り挨拶を返していた時だった。ちょうど教室の中央の位置にある、まだ椅子を引かれていない机が目に止まった。その机の上には透明の花瓶が置かれており、ラナンキュラスが活けられていた。
「ねぇ、あれ」
すぐに後ろを歩いていた理沙に声を落として話しかけると、理沙は一度ちいさく頷き「うん。とりあえず、今はもういこ」と呟いた。私は歩きながらもう一度目をやった。ふんわりと丸みを帯びた薄橙色の花弁が幾重にも折り重なっているラナンキュラスは、この教室にいる誰よりも美しく咲き誇ろうと、花弁を開いているみたいだった。
「理沙が私の前の席で、その前が小夜ね」
絵里奈がそれに指を指しながら教えてくれる。私達が席につくなり、「二人とも今年もよろしく」とふわりと笑みを浮かべたが、「って言っても今年って感じしないけど」と付け足された。
「今年上に上がったのって誰だっけ」
鞄から取り出した教材を、乱雑に机の引き出しに放り込みながら理沙がぽつりと呟くと、すぐに「亜里沙と由佳だよ」と絵里奈が言った。
「で、下にいったのが美月か」
「うん」
「寂しいね」
私は二人のやり取りを黙って聞いていた。このクラスから離れていってしまった人のことを、今さらどうこう言ったところで無駄だと思ったからだ。
「で、落ちてきたのは誰?」
「あの一番前の席に座ってる大橋って子と、涼葉っていう可愛い子。ほら、バスケ部の練習試合をさ暇つぶしにみにいった時、理沙もあの子可愛いって言ってたじゃん」
「あー、理解」
花梨女子高等学校は、一学年ごとに成績順で六つのクラスに分かれている。そして、毎年学年が変わる度にクラスの上位五名と下位五名は、選抜テストと呼ばれるものを受けなければならず、そのテストの結果が自分よりも上のクラスの人より上回った場合、あるいは自分より下のクラスの人より下回ってしまった場合は、クラスの入れ替えが行われるのだ。私達が今いるクラスは上から二つ目で、上に行くことも出来れば、反対に下に行くことが出来る位置にいる。
「ねぇ小夜」
鞄から取り出した教材を引き出しに直していると、後ろから肩を叩かれた。振り返ると、「ちょっとこっちきて」と理沙は声を落としたまま私の耳元に顔を寄せてきた。
「なに?」
「ニ年間約束守ってくれてありがとね。これで高校最後まで同じクラスでいれるじゃん。今年もよろしく」
目の前でふわりと笑みが咲いた。私はそれにぎこちなく笑みを返した。その時の私は、鏡をみた訳ではないから自分の顔がどんな表情だったのかは分からない。けれど、雪原に咲くひまわりのように歪なものだったのではないだろうか。
笑みを浮かべながらも、私はスカートの上で手を握りしめていた。爪の間にぎりぎりと手のひらの肉がくい込んでいく。これでは痛みが足りない。そう思い、舌を噛んだ。いつからだろう。ふと思う。いつから私は、嘘つきになってしまったのだろう。他人にではなく自分に。いつもいつも嘘をついている。心のなかで黒い靄のようなものが生まれそうな時、胸の内から湧き上がろうとしてくる本心を抑え込もうとする時、私はいつからか痛みを求めるようになってしまった。




